Op:7 氷城の舟
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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着任から3ヶ月ほどした頃。
セシリアにもようやく、予定らしい予定のない非番が巡ってきた。
当然、これまでにも休みはあったものの、最初の頃は横になればそのまま眠ってしまうほど身体が疲れていた。
少し余力がついてからは、要塞内を歩いて構造を覚えたり、過去数年分の診療記録を読んで、浮かび上がる問題をまとめているうちに一日が暮れた。
だが苦ではなかった。医者としてここに立つために知りたいことは、いくらでもあったからだ。
その日は珍しく午前のうちに掃除を片づけ、南部にいる父への手紙も書き終えた。
いつもの癖で読みかけの論文を開いてみたものの、同じ行を三度ほど追ったところで、そこに書かれている文字よりも紙を捲る自分の指の方が気になり始めた。
「………」
何かをしなければならないわけではない午後を前にすると、かえって何をしたらいいのか分からなかった。
本を閉じると、自室を出て、行き先も決めないまま廊下を歩いた。
初めはどれも同じに見えた石壁にも段々と見分けがつくようになっていた。
見慣れ始めた要塞の中を歩いているうち、以前マイルズに案内された娯楽室の前まで来ていた。
扉を開けると、休日の昼らしい静けさがあった。
壁際には使い込まれたソファとカード用の小卓、ビリヤード台が並び、窓のない室内を淡い電灯だけが照らしている。
普段なら兵士たちの声で賑わうのだろうが、昼食に出ているのか今は誰もおらず、温水の通る暖房管が時折かすかに鳴るほかは静かなものだった。
その奥に、蓄音機と棚、そして黒いアップライトピアノが置かれていた。
セシリアは吸い寄せられるように近づき、そっと指を滑らせた。研究室で一日中触れているガラスや金属とは違い、冷たいだろうと思っていた蓋には室内の暖気がほのかに移り、掌に馴染むような温度があった。
蓋を開いてスツールへ腰掛けると、灯りの下へ並んだ象牙色の鍵盤を前に、指先の置き場所を探し始める。
何を弾こうと思ったのも束の間、最初の音が静かな部屋へ落ち、次の音へ指を移した時には、もう曲を選ぶ必要はなかった。
♪ TAP / Mendelssohn : Op.9 No.1
弾き始めてから、どうしてこの曲だったのだろうと思ったものの、旋律を追ううちに、その疑問も紛れていった。
昔馴染みの旋律を辿っていると、長いこと触れていなかった引き出しを一つずつ開けるように、遠く離れた情景が浮かび始めた。
幼い頃、学校から帰れば、玄関まで迎えに出て優しく抱きしめてくれた母。
今日何があったか尋ねられれば、テストの結果も、クラスメイトとうまく話せなかったことも、帰り道で見かけた花のことまで話した。
モーリーは話を急かすことも、結論を求めることもなく、娘の話があちらこちらへ寄り道するのを楽しむように、嫋やかな笑みを浮かべて最後まで聞いていた。
仕事から帰ったヴィンセントが、一曲弾き終えると嬉しそうに拍手をして「今日のチップはこれ」と、土産の菓子を口へ放ってくれる。
もう一口食べたい私が「もう一曲弾いてもいい?」と訊けば、母さんには内緒だぞと笑い、新しく覚えた曲を聴いてくれた。
語学の宿題を広げていた午後には、祖母アイミーが香りのよい茶を淹れて、宿題を一緒に見てくれた。
紅茶とは違う、花そのものを湯に浮かべたような香りが紙とインクの匂いへ混じり、勉強机の周りまで柔らかく満たしていた。
シンの言葉で問われ、シンの言葉で答えれば、祖母がわざとドラクマなど他の言語を混ぜる。
通りかかった母も知っている限りのアエルゴの言葉でセシリアを褒める。セシリアがつられて勉強したての言語で返せば、今度は発音を直される。
意味も響きも違う言葉がいくつも飛び交うのに、それを難しいと思った記憶はなく、二人を真似て正しい音を探すこと自体が遊びのようだった。
宿題が終わったら、まっすぐ祖父のところへ行った。
母が痺れを切らして部屋に迎えに来るまで、医学と錬金術について教えてもらった。
ビルの机にはいつも本が積み上がり、開かれた頁の文字と図の隙間には、幼いセシリアがまだ知らないことがいくらでも待っていて、それをいつか全部理解できるようになりたいと思った。
あの家では、いつも誰かが自分を見守ってくれていた。
「………」
鍵盤を押す指先へ、木と象牙の硬さが返ってくる。
今いる場所とは、あまりにも違う。
そこで初めてセシリアは、自分が少しだけ家を恋しがっていたらしいことを知った。
ブリッグズでの生活は楽といえば嘘になるが、知らないことを吸収する面白さはあの頃と変わらない。
旋律が次のフレーズへ移ったところで、今度は別の景色が流れ込む。
祖父が行方不明になり、数ヶ月経って、将来のためになるだろうと父が連れ出してくれたあの日。
場違いな自分を持て余していたあの夜会で、金色の髪の女性将校に手を引かれて踊った。
好きな作曲家がメンデルスゾーンと言い当てられたことを、今でもよく覚えている。
自分がこの曲を今選んだ理由に気づき、セシリアの指が
「!」
行き先を失った旋律が途切れた。
「あ……少将…」
振り返ると、扉のそばにオリヴィエが立っていた。
いつからいたのだろう。
聞こうとしたセシリアより先に、オリヴィエの視線が鍵盤へ移った。
「どうした」
「…え?」
「弾かんのか?」
「はっ、はい…!」
慌てて鍵盤へ向き直り、途切れた少し前から旋律を拾い直す。
背後にオリヴィエがいると思うだけで、先ほどまでは見なくても動いていた指の位置を妙に確かめたくなった。
