Op:7 氷城の舟
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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着任してから数週間は、セシリアにとって、医務室の扉を開けることそのものが小さな試験のようだった。
ダンカンは相変わらず無愛想だった。
軽症の診察や処置はセシリアへ振る一方、担架で運び込まれた患者を一目見て表情を変えるような重症例では「すっこんでろ!」と怒鳴られた。
言葉だけを聞けば突き放されているようだが、処置室から出ていけとは言わない。セシリアは壁際へ一歩退き、ダンカンの肩越しにその手技を追った。
彼は普段の荒っぽい物言いとは裏腹に、患者へ触れる手には無駄がなかった。冷えきった指先の色を確かめる時も、骨折部位を固定する時も、余計な痛みを与えないよう手の角度がわずかに変わる。
あらゆるバイタルサインを拾い、短い言葉で次々と衛生医たちに指示を飛ばしていく。
怖い人、という第一印象はそのままだったが、セシリアは少しずつ、ダンカンのやり方を見て学ぼうと食らいついた。
だが初めて器械出しへ入った時、早速躓くことになる。
「チビ」
「え?」
術野から目を離さないまま伸ばされたダンカンの手を見て、セシリアの指が器械台の上で止まる。鉗子、鑷子、持針器。
どの器械にもそんな名前を付けられたものはない。戸惑った数秒がひどく長く感じられた。
「テメェのことじゃねぇぞ、その小っせー鉗子だ!」
「あ、はいっ……!」
慌てて渡した鉗子を受け取るなり、ダンカンはもう次の操作へ移っていた。
(ちびって、モスキート鉗子のことなのね……)
その日の夜、セシリアは器具の正式名称の横へ、小さく“ちび“と手帳に書き加えた。
ダンカンの手技や理念を知る前に、独特な器材や薬剤の呼び方をまず覚えるところから始めた方がよさそうだった。
医務室へ通う一方、要塞の一角ではもう一つの仕事場も少しずつ整えられていった。
研究用に宛がわれたのは、使われていない配管と古い棚だけが残る小部屋だった。
「少将閣下から、ドクターの望むように整えてやれと言われてます」
工兵の言葉に、セシリアは部屋を見回した。
「少将が……」
要塞へ来てから、オリヴィエとはほとんど言葉を交わせていない。それでも、自分がここで困らないよう手を回してくれていたらしい。
そのことが嬉しくて、セシリアは少しだけ頬を綻ばせた。
当面必要なものだけを伝えると、それだけでいいんですか?と工兵には驚かれたものの、ひと月もしないうちに、小部屋には作業台や器材棚が入り、研究室らしい姿になった。
中央へ申請していた器材もほどなく届いた。持ちきれなかった衣類や日用品はまだ輸送を待っているというのに、指定研究関係だけは妙に話が早かった。
同封された研究に関する指令書と試料を確認し、セシリアはそれらを新しい棚やデスクの引き出しへ収めた。
日々少しずつ、ダンカンが訓練の同行で不在の日は、診察室そのものを任されるようにもなった。
その日セシリアの前へ座った兵士は、右肩から上腕にかけて派手な青痣を作っていた。
「……ずいぶん強く打ったみたいですけど、どうされたんですか?」
「訓練でちょっと」
「転倒ですか?」
「いや。少将に投げられて」
「投げっ…………少将に?」
2メートルある大柄な男性を?と軟膏を用意するセシリアの手が止まる。
「狭い塹壕での敵兵との鉢合わせを想定した訓練です。急所を突かれそうになって身構えた隙に、軽々と投げ飛ばされました」
兵士は大したことでもないようにロープクライミングに段差昇降、障害走etc…をし、隊列を崩した者は追加で走らされ、最後にオリヴィエ自ら兵たちを相手したことを笑って話した。
「容赦ないけど、今日かまだ軽い方ですって」
「…軽い……?これで……?」
薬を塗るセシリアの顔から血の気が引いていく。
“少将が氷の女王?“と首を傾げる自分にマイルズが口の端を上げながら言った言葉が、今さら鮮明に蘇った。
――今にわかる。
(……分かりました……)
朝は医務室へ入り、診療や処置の合間にはニールの工房を覗いたり、要塞の中を歩いて道を覚える。
夕方には研究室へ寄り、夜になれば借りた診療記録や中央から取り寄せた論文を自室へ持ち帰った。
そうして過ごすうち、見知らぬ場所だったブリッグズにも、少しずつ一日中のリズムができていった。
ただし…。
「先生、それだけで足りるんですか?」
食事のたびに尋ねられ、セシリアは皿を見下ろしながら困ったように眉を下げた。
「これだけ食べる習慣がなくて……」
寒冷地らしい脂の多いスープや塩気の強い肉は、食の細いセシリアにはちょっとした試練で、兵士たちの4分の1も食べられればいい方だった。
そうして、医務室でも食堂でも、顔を覚えた兵士は少しずつ増えていったが、北へ来るまで一番近くにいた人とは、ほとんど言葉を交わせていない。
訓練の同行や、廊下を歩いているときに見かけることもあった。
けれど彼女は止まらない。
目が合ったと思っても、次の瞬間にはもう通り過ぎている。
そこにいるのは、要塞司令官と新任軍医だった。
マイルズや他の士官から報告を受けながら歩くオリヴィエの姿が目に入ると、まだ知らないものばかりの要塞の中で、そこだけが見慣れた景色のように思えた。
