Op.6.5: 北へ北へ
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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汽車が規則正しくレールを打ち続け、夕日も山の向こうに沈みきった頃。
列車は一般の旅客線を大きく外れていく。
山間部に差し掛かるとカーブも増えて車輪の音も重くなり、車内へ伝わる振動が増した。
外はすでに、一面の雪だった。
岩肌と針葉樹の黒だけが、雲間から差す月明かりの下で白い山肌を切り分けている。
「起きろ」
頭上から降ってきたオリヴィエの声に、セシリアは目を覚ました。
「……ん……」
セシリアは慌てて身体を起こした。
オリヴィエは、慌てるセシリアを咎めるでもからかうでもなく、その視線を暗く沈んだ車窓の向こうへ向けていた。
つられるように、セシリアも外を見る。
そこに広がっていたのは、秋という言葉がひどく遠く思える景色だった。
山肌も、線路脇の岩肌も、木々も、すでに白く覆われている。
夜だというのに、雲の切れ間から差した月光が積もった雪に反射し、山々の輪郭を淡い銀色に浮かび上がらせて明るい。
冷たく、静かで、どこまでも澄んだ景色に、思わず「綺麗…」と小さく声が零れた。
セシリアは窓の向こうを見つめながら、ようやく実感した。
本当に北へ来たのだ。
その美しさに目を奪われたまま、列車はさらに山深くへ進んでいく。
やがて、銀色の雪原の向こうに、それまでの景色とはあまりにも異質な、山肌へ食い込むように築かれた巨大な影が姿を現した。
月明かりを受けてもなおずっしりと硬く、雪景色の中にただ一つ、夜そのものを切り取ったように聳えている。
セシリアの目から、先ほどまでの静かな感嘆が少しずつ消えていった。
「あれが……」
ブリッグズ要塞だった。

セシリアが要塞の全体像を捉える前に、列車は地下に潜っていき、やがて重い音を立てて停車する。
乗降口の向こうで、分厚い扉が開かれた瞬間だった。
「……っ!?」
完全な屋外へ出てもいない。
それなのに流れ込んできた空気は、頬へ刃を押し当てられたようだった。
寒さというより、正確には痛みだった。
鼻の奥が痛む。吸い込んだだけで肺の内側まで冷やされて痛む。
未知の感覚に、セシリアは反射的に外套の前を重ね合わせた。
つい先ほどまで鼻を満たしていたオリヴィエの香りなど、一瞬で意識から消えた。
これが、最北。
オリヴィエとマイルズは何事もないように列車を降りていった。
セシリアも慌ててカバンを片手にその後を追った。
軍用ホームから要塞入口までは、ほんのわずかな距離しかない。
それでも歩くたび、靴底から冷気が這い上がってきた。
分厚い鉄扉をくぐったところで、オリヴィエの手がセシリアの肩へ伸びた。
「っ…」
列車の中から借りていた外套が、片手で鮮やかに取り払われる。急に身体が軽くなると同時に、厚い布へ籠もっていた温もりも、鼻先に残っていた淡い彼女の香りも遠ざかった。
壁の奥では巨大な機械音が絶え間なく唸り、剥き出しの配管が低く震えていた。
「エアハート。己の体調管理も公務のうちだ。自分を使い潰す人間は、ここでは戦力とは呼ばん」
オリヴィエは返された外套を肩に掛けながら、震えるセシリアに告げた。
「は、はい」
寒さで上擦って、うまく声を出せない。
どんなに厳しい環境下でもいつも通り動ける状態を保て。それもまた、ここで求められる力の1つなのだろう。
「マイルズ、部屋までエアハートを連れて行ったら貴様も休め。明朝から予定通りな」
「ハッ」
それだけ言い残し、オリヴィエはほどなく灰色の薄暗い通路の奥へ溶けていった。
背後では、鉄扉が重々しい音を立てて閉まり始めていた。
細く残った隙間から最後の冷気が白く舞い込み、床を這う。やがて鉄と鉄が噛み合う鈍い響きとともに、セントラルへ続いていた外の世界は完全に断たれた。
ここには、これまで自分を守ってくれた家も、祖父の研究室も、見慣れたセントラルの煉瓦造りの街並みもない。
この鉄と油のにおいのする巨大な要塞を一歩北に出れば、敵勢力が国を狙っている。
怖くないと言えば嘘になる。
「行くぞ、ドクター」
それでも、セシリアは白い息の名残を飲み込み、選んだ要塞 へ踏み出した。
この日、アメストリス最北端の鋼鉄の砦へ、一人の新米軍医が入った。
まだ、誰も知らない。
この場所がやがて彼女にとって、帰ると誓うほど大切な場所になることも。
この先彼女を待つのが、白衣1枚ではどうにもならない寒さと、容赦なく人を試す者たちと、そして幾度となく目前を行き来する生と死であることも。
信じて受け継いできた祖父の研究さえ、いつかは別の顔を見せることも。
災禍の渦中へ放り込まれることも。
そして、あの夜自分の手を取り、その手で北へ導いた人が、いつか自分の人生そのものに、消せない熱を刻むことも。
まだ知らない。
列車は一般の旅客線を大きく外れていく。
山間部に差し掛かるとカーブも増えて車輪の音も重くなり、車内へ伝わる振動が増した。
外はすでに、一面の雪だった。
岩肌と針葉樹の黒だけが、雲間から差す月明かりの下で白い山肌を切り分けている。
「起きろ」
頭上から降ってきたオリヴィエの声に、セシリアは目を覚ました。
「……ん……」
セシリアは慌てて身体を起こした。
オリヴィエは、慌てるセシリアを咎めるでもからかうでもなく、その視線を暗く沈んだ車窓の向こうへ向けていた。
つられるように、セシリアも外を見る。
そこに広がっていたのは、秋という言葉がひどく遠く思える景色だった。
山肌も、線路脇の岩肌も、木々も、すでに白く覆われている。
夜だというのに、雲の切れ間から差した月光が積もった雪に反射し、山々の輪郭を淡い銀色に浮かび上がらせて明るい。
冷たく、静かで、どこまでも澄んだ景色に、思わず「綺麗…」と小さく声が零れた。
セシリアは窓の向こうを見つめながら、ようやく実感した。
本当に北へ来たのだ。
その美しさに目を奪われたまま、列車はさらに山深くへ進んでいく。
やがて、銀色の雪原の向こうに、それまでの景色とはあまりにも異質な、山肌へ食い込むように築かれた巨大な影が姿を現した。
月明かりを受けてもなおずっしりと硬く、雪景色の中にただ一つ、夜そのものを切り取ったように聳えている。
セシリアの目から、先ほどまでの静かな感嘆が少しずつ消えていった。
「あれが……」
ブリッグズ要塞だった。

セシリアが要塞の全体像を捉える前に、列車は地下に潜っていき、やがて重い音を立てて停車する。
乗降口の向こうで、分厚い扉が開かれた瞬間だった。
「……っ!?」
完全な屋外へ出てもいない。
それなのに流れ込んできた空気は、頬へ刃を押し当てられたようだった。
寒さというより、正確には痛みだった。
鼻の奥が痛む。吸い込んだだけで肺の内側まで冷やされて痛む。
未知の感覚に、セシリアは反射的に外套の前を重ね合わせた。
つい先ほどまで鼻を満たしていたオリヴィエの香りなど、一瞬で意識から消えた。
これが、最北。
オリヴィエとマイルズは何事もないように列車を降りていった。
セシリアも慌ててカバンを片手にその後を追った。
軍用ホームから要塞入口までは、ほんのわずかな距離しかない。
それでも歩くたび、靴底から冷気が這い上がってきた。
分厚い鉄扉をくぐったところで、オリヴィエの手がセシリアの肩へ伸びた。
「っ…」
列車の中から借りていた外套が、片手で鮮やかに取り払われる。急に身体が軽くなると同時に、厚い布へ籠もっていた温もりも、鼻先に残っていた淡い彼女の香りも遠ざかった。
壁の奥では巨大な機械音が絶え間なく唸り、剥き出しの配管が低く震えていた。
「エアハート。己の体調管理も公務のうちだ。自分を使い潰す人間は、ここでは戦力とは呼ばん」
オリヴィエは返された外套を肩に掛けながら、震えるセシリアに告げた。
「は、はい」
寒さで上擦って、うまく声を出せない。
どんなに厳しい環境下でもいつも通り動ける状態を保て。それもまた、ここで求められる力の1つなのだろう。
「マイルズ、部屋までエアハートを連れて行ったら貴様も休め。明朝から予定通りな」
「ハッ」
それだけ言い残し、オリヴィエはほどなく灰色の薄暗い通路の奥へ溶けていった。
背後では、鉄扉が重々しい音を立てて閉まり始めていた。
細く残った隙間から最後の冷気が白く舞い込み、床を這う。やがて鉄と鉄が噛み合う鈍い響きとともに、セントラルへ続いていた外の世界は完全に断たれた。
ここには、これまで自分を守ってくれた家も、祖父の研究室も、見慣れたセントラルの煉瓦造りの街並みもない。
この鉄と油のにおいのする巨大な要塞を一歩北に出れば、敵勢力が国を狙っている。
怖くないと言えば嘘になる。
「行くぞ、ドクター」
それでも、セシリアは白い息の名残を飲み込み、選んだ
この日、アメストリス最北端の鋼鉄の砦へ、一人の新米軍医が入った。
まだ、誰も知らない。
この場所がやがて彼女にとって、帰ると誓うほど大切な場所になることも。
この先彼女を待つのが、白衣1枚ではどうにもならない寒さと、容赦なく人を試す者たちと、そして幾度となく目前を行き来する生と死であることも。
信じて受け継いできた祖父の研究さえ、いつかは別の顔を見せることも。
災禍の渦中へ放り込まれることも。
そして、あの夜自分の手を取り、その手で北へ導いた人が、いつか自分の人生そのものに、消せない熱を刻むことも。
まだ知らない。
