Op.6.5: 北へ北へ
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
残りのセントラルでの5日間は、瞬く間に過ぎた。
昨夜、南部の父へ、北への赴任の報告を電話で入れた。
事情を聞き終えたヴィンセントから返ってきたのは、『自分で決めたのなら、やっておいで』と背中を押す言葉だった。
第三研究所から持ち出す資料を選び、祖父の羊皮紙と研究記録をまとめ、関連書物と筆記具を鞄へ収める。
銀の懐中時計も、好きで持つものではないが、国家錬金術師としての身分を証明する以上、置いていくわけにはいかない。
最後に、本棚の隅に置かれた白いナースキャップを手に取った。
「………」
それ自体に罪があるわけではない。
この帽子を誇りとして戴いてきた人々に失礼になる、と捨てられなかった。
セシリアはせめて埃を被らないようにと薄紙に包み、静かに空き箱の中に入れて蓋をした。
北へ持っていく荷物にそれを加えない代わりに、今度こそ返そうと手に取ったのは白いレースのハンカチだった。
これを貸してくれた人の元で、これから自分は尽くすのだ。
医師として。
そう思うと、鞄に入れる手つきがやけに慎重になった。
出立の前日には、ヒューズとグレイシアの家へも顔を出した。
突然の北行きを惜しみながら、グレイシアは「次にセントラルへ戻る時は、必ず知らせてくださいね。今度こそアップルパイを作って待っていますから」と笑って、ブリッグズへ手紙も送りたいと言ってくれた。
ヒューズには、結婚式まで逃げるなよ!と念を押された。
医者として赴任すると聞いた2人は、最後にあたたかい声援を送ってくれた。
そして出発当日の早朝。
大きな荷物は軍が後送してくれるため、手元にあるのは当面必要なものだけを詰めた鞄ひとつだった。
生まれ育った家を離れることにそれほど寂しさを覚えなかったのは、友人たちの後押しが頼もしかったことと、セシリアを送り出す家族が、もうここにはいないからなのだろう。
軍用列車に近づくにつれ、胸の内側へ不思議な緊張が走る。
車両の傍に、二つの軍服姿が見える。
セシリアは鞄を持ち直し、二人のもとへ歩いていった。
やがて発車を告げる汽笛と共に噴き上げた蒸気が、秋風に乗って空高く立ち昇った。
挨拶を交わして車両の中に入る。
軍用列車とはいえ、通されたのは一般兵用の簡素な客車ではなかった。壁沿いの長椅子には厚手の布が張られ、読書灯まで備えられている。将官や高級将校の長距離移動に使われる車両なのだろう。
初めて乗る将校用の車両のどこに座ればいいか迷っていると、オリヴィエがそっとセシリアの背中を押して片側中央付近まで促し、その隣に彼女も座った。
通路を挟んだ向かい側、端に近い席では、マイルズが腰掛けるなり膝と座席の上へ書類を広げていた。
やがて、車輪が軋みながらゆっくり回り始める。
窓の向こうで、セントラルの駅舎がゆっくりと後ろへ流れていく。
レンガ道、連なる家々……見慣れていた光景が一つずつ遠ざかっていく。
セシリアは膝の上に揃えた両手へ視線を落としてから、ふと思い出して鞄を開いた。
「あ、あの、少将」
ためらいがちな呼びかけに、オリヴィエは顔を向ける代わりに、隣へ目だけを寄越した。
「遅くなってしまい、すみません。これ、お返しします」
借りていたハンカチをセシリアが差し出すと、オリヴィエは受け取らず、その白布の前へ組んだ腕の片手を立てた。
「持っていろ」
「え……?」
「軍からの支給品で十分だ。あの日は、別件があったので持っていたに過ぎん」
返すつもりで持ってきた白布と、拒むように立てられた手を見比べる。
それはつまり。
くださる、ということなのだろうか?
問い返すべきか迷っていると、それ以上説明する気もないらしく、オリヴィエは再び車窓の向こうへ目を戻していた。
「あ……ありがとうございます」
そう言っていいのかも分からないまま、セシリアはレースをもう一度きちんと畳み、今度はコートのポケットへ収めた。
借り物だから傷めてはいけないと思っていた時よりも、なぜか少しだけ慎重に。
列車が北へ進むにつれ、窓の外から秋が消えていった。
黄金色を残していた平地の草木は徐々に痩せた森へ変わり、山裾へ入る頃には枝先に白いものが見え始める。
最初は陽の当たりにくい窪みに残る程度だった雪が、幾つかの駅を通過する頃には地面そのものを覆い始めた。
暦の上ではまだ秋だが、車窓の向こうだけが、ひと足もふた足も先へ季節を進めている。
車体の窓枠から忍び込む空気も、時間とともに冷たさを増していった。
セシリアは事前に言われた通り厚手の服を重ねてきたものの、袖口へ入り込む細い隙間風までは防げない。無意識に手を擦り合わせた。
列車での長い移動も不慣れだった。一定の揺れと車輪の響きを聞いているうち、何度か瞬きをした瞼が次第に重くなる。
初めは寒さもあり抗うことができていたが、やがてセシリアの頭は舟を漕ぎ始めた。
昨夜、南部の父へ、北への赴任の報告を電話で入れた。
事情を聞き終えたヴィンセントから返ってきたのは、『自分で決めたのなら、やっておいで』と背中を押す言葉だった。
第三研究所から持ち出す資料を選び、祖父の羊皮紙と研究記録をまとめ、関連書物と筆記具を鞄へ収める。
銀の懐中時計も、好きで持つものではないが、国家錬金術師としての身分を証明する以上、置いていくわけにはいかない。
最後に、本棚の隅に置かれた白いナースキャップを手に取った。
「………」
それ自体に罪があるわけではない。
この帽子を誇りとして戴いてきた人々に失礼になる、と捨てられなかった。
セシリアはせめて埃を被らないようにと薄紙に包み、静かに空き箱の中に入れて蓋をした。
北へ持っていく荷物にそれを加えない代わりに、今度こそ返そうと手に取ったのは白いレースのハンカチだった。
これを貸してくれた人の元で、これから自分は尽くすのだ。
医師として。
そう思うと、鞄に入れる手つきがやけに慎重になった。
出立の前日には、ヒューズとグレイシアの家へも顔を出した。
突然の北行きを惜しみながら、グレイシアは「次にセントラルへ戻る時は、必ず知らせてくださいね。今度こそアップルパイを作って待っていますから」と笑って、ブリッグズへ手紙も送りたいと言ってくれた。
ヒューズには、結婚式まで逃げるなよ!と念を押された。
医者として赴任すると聞いた2人は、最後にあたたかい声援を送ってくれた。
そして出発当日の早朝。
大きな荷物は軍が後送してくれるため、手元にあるのは当面必要なものだけを詰めた鞄ひとつだった。
生まれ育った家を離れることにそれほど寂しさを覚えなかったのは、友人たちの後押しが頼もしかったことと、セシリアを送り出す家族が、もうここにはいないからなのだろう。
軍用列車に近づくにつれ、胸の内側へ不思議な緊張が走る。
車両の傍に、二つの軍服姿が見える。
セシリアは鞄を持ち直し、二人のもとへ歩いていった。
やがて発車を告げる汽笛と共に噴き上げた蒸気が、秋風に乗って空高く立ち昇った。
挨拶を交わして車両の中に入る。
軍用列車とはいえ、通されたのは一般兵用の簡素な客車ではなかった。壁沿いの長椅子には厚手の布が張られ、読書灯まで備えられている。将官や高級将校の長距離移動に使われる車両なのだろう。
初めて乗る将校用の車両のどこに座ればいいか迷っていると、オリヴィエがそっとセシリアの背中を押して片側中央付近まで促し、その隣に彼女も座った。
通路を挟んだ向かい側、端に近い席では、マイルズが腰掛けるなり膝と座席の上へ書類を広げていた。
やがて、車輪が軋みながらゆっくり回り始める。
窓の向こうで、セントラルの駅舎がゆっくりと後ろへ流れていく。
レンガ道、連なる家々……見慣れていた光景が一つずつ遠ざかっていく。
セシリアは膝の上に揃えた両手へ視線を落としてから、ふと思い出して鞄を開いた。
「あ、あの、少将」
ためらいがちな呼びかけに、オリヴィエは顔を向ける代わりに、隣へ目だけを寄越した。
「遅くなってしまい、すみません。これ、お返しします」
借りていたハンカチをセシリアが差し出すと、オリヴィエは受け取らず、その白布の前へ組んだ腕の片手を立てた。
「持っていろ」
「え……?」
「軍からの支給品で十分だ。あの日は、別件があったので持っていたに過ぎん」
返すつもりで持ってきた白布と、拒むように立てられた手を見比べる。
それはつまり。
くださる、ということなのだろうか?
問い返すべきか迷っていると、それ以上説明する気もないらしく、オリヴィエは再び車窓の向こうへ目を戻していた。
「あ……ありがとうございます」
そう言っていいのかも分からないまま、セシリアはレースをもう一度きちんと畳み、今度はコートのポケットへ収めた。
借り物だから傷めてはいけないと思っていた時よりも、なぜか少しだけ慎重に。
列車が北へ進むにつれ、窓の外から秋が消えていった。
黄金色を残していた平地の草木は徐々に痩せた森へ変わり、山裾へ入る頃には枝先に白いものが見え始める。
最初は陽の当たりにくい窪みに残る程度だった雪が、幾つかの駅を通過する頃には地面そのものを覆い始めた。
暦の上ではまだ秋だが、車窓の向こうだけが、ひと足もふた足も先へ季節を進めている。
車体の窓枠から忍び込む空気も、時間とともに冷たさを増していった。
セシリアは事前に言われた通り厚手の服を重ねてきたものの、袖口へ入り込む細い隙間風までは防げない。無意識に手を擦り合わせた。
列車での長い移動も不慣れだった。一定の揺れと車輪の響きを聞いているうち、何度か瞬きをした瞼が次第に重くなる。
初めは寒さもあり抗うことができていたが、やがてセシリアの頭は舟を漕ぎ始めた。
