Op.6.5: 北へ北へ
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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オリヴィエの手を取った翌日から、セシリアを取り巻くものは驚くほど速く動き始めた。
所属変更に必要な書類はすでに病院長の手元へ揃えられ、第三研究所にも研究継続を前提とした異動の通達が届いていた。
セシリアが求められたのは、数枚の書類へ署名し、病院からの貸与品を返却し、研究資料の移送について確認することくらいだった。
本来ならひと月はかかるはずの手続きも、指揮官であるオリヴィエ本人がセントラルに滞在していたこともあり、ほとんどが片付いてしまった。
本人の意思がなければ進められないところだけを残して、返事さえあればすぐ北へ送り出せるよう、あらかじめ道を整えてあったらしい。
応接室で初めて聞かされた話だったのに、オリヴィエはそれよりずっと前から、自分を迎える準備をしていたのだ。
その事実がようやく現実味を帯びた頃には、病院で済ませるべきことの大半が終わっていた。
エントランスを出ると、秋雨の名残を含んだ風が頬を撫でた。
石段を下りかけたところで、こちらへ向かってくる一人の軍人が目に入る。
「え……まっ、マスタングさん?」
「!」
呼ばれた男も足を止めた。驚きに見開かれた黒い瞳が、すぐに懐かしさを帯びる。
「やあ、セシリア」
「お、お久しぶりです。……」
友人と呼べる数少ない存在。数年ぶりの再会というのに、いざ真正面から向き合うと、何から話せばいいのか分からなくなってしまう。
セシリアは一度だけマスタングの顔を見上げたものの、目が合いそうになるとすぐに視線を襟元へ落とした。身体の前で重ねた両手も、久しぶりの距離感を測りかねるように、無意識に指先だけがそわそわと動く。
そんな昔と変わらないいじらしさを見て、マスタングの胸は、懐かしさだけでは収まらない柔らかな喜びに満たされた。
生きて還ってきて、こうしてまた、自分の名前を呼んでくれた。
けれど、その喜びのすぐ隣へ別の感情が差し込む。
ヒューズから少し痩せたとも聞いていた。けれど、実際に目の前にすると、その言葉では足りない気がした。
コートを羽織る肩は以前よりひと回りほど小さく見え、北の寒さへ送り出すにはあまりにも華奢に思えた。
「パレードの日も、ほとんど会えなかったからね。君が無事還ってこれて、安心した」
「私もです……あ、今日はどうされたんですか?」
再会を喜んでいるのに、話の継ぎ方がぎこちなくなる。
少し早口になった自分を誤魔化すように、セシリアの目が小さく泳ぐ。
「軍議の付き添いでね。もう東へ戻らないといけないんだが…どうしても、君に会っておきたくて」
「それでわざわざ……ありがとうございます。その…私も、お会いしたかったです」
最後の一言だけは、迷いなく出たものの、言ってから少し照れたように口をつぐむ。
「っ……ほ、本当かい?」
その表情を見た瞬間、マスタングは期待するなと自分へ言い聞かせながらも、胸の鼓動が一つ大きくなるのを止められなかった。
「はい。ヒューズさんのお宅で食事をご馳走になった時、何度もマスタングさんの話になったんですよ?」
「あっははは……どんな話題で、かは聞かないでおくよ」
「ふふっ、昔話をしていただけですよ。ヒューズさんったら、グレイシアさんを笑わせようと、マスタングさんとの思い出を面白おかしく話して」
「それは、あいつを問い正さんといかんな」
そのマスタングの反応が輪をかけ、思い出し笑いが溢れたセシリア。ころころと楽しげに笑うその顔を見れば、気恥ずかしささえ愛おしく思えるのに、自分の知らぬところで随分と愉快な話の種にされていたらしいことには、ヒューズへ文句の一つも言いたくなった。
「まったく、こんな気恥ずかしくなるくらいなら、その食事に私も混ざりたかったよ」
「はい。いつか皆さんで食卓を囲めたら素敵ですね」
そこでセシリアは伝えるべきことを思い出し、少しだけ居住まいを正した。
「…実は、つい先ほど決まったばかりなのですけれど…私、北の要塞に軍医として赴任することになったんです」
「ああ。君のことも協議で上がったから、知っているよ」
マスタングの視線が、セシリアの背後へ向いた。
つられて振り返れば、つい先ほどまで自分が籍を置いていた真っ白い建造物がそこにある。
「……ブリッグズは、死と隣り合わせの過酷な場所だ。……心配だが今の君には、きっとここよりずっと、合っているのかもしれないな」
「?」
意図を掴みきれず振り返る。
マスタングは、少し困ったような、苦みの混じる笑みを浮かべていた。
「……君のことは、ヒューズから聞いているよ」
「ヒューズさんが……」
セシリアのその反応を見た途端、マスタングの眉が僅かに寄る。
ヒューズが軽々しく人の秘密を話したように受け取られることの方が気になった。
「ああ、いや。あいつは人の事情を気安く触れ回るような男じゃない。だから……」
「分かっていますよ」
セシリアはすぐに微笑んだ。
「むしろ、ヒューズさんが話しておいてくれてよかった……です。久しぶりに会えたという時に、イシュヴァ ールのことを私から話して…思い出させたくなかったですから」
「…全く…君は、自分だってこれから大変という時にも、人のことを気にするんだな」
「そんな……」
セシリアは困ったように目を伏せた。
「私、ずっと自分のことで一杯一杯でした。心配に思いながら、ちっともマスタングさんに…お声掛けできなくて……」
その言葉に、マスタングの胸が痛んだ。
所属変更に必要な書類はすでに病院長の手元へ揃えられ、第三研究所にも研究継続を前提とした異動の通達が届いていた。
セシリアが求められたのは、数枚の書類へ署名し、病院からの貸与品を返却し、研究資料の移送について確認することくらいだった。
本来ならひと月はかかるはずの手続きも、指揮官であるオリヴィエ本人がセントラルに滞在していたこともあり、ほとんどが片付いてしまった。
本人の意思がなければ進められないところだけを残して、返事さえあればすぐ北へ送り出せるよう、あらかじめ道を整えてあったらしい。
応接室で初めて聞かされた話だったのに、オリヴィエはそれよりずっと前から、自分を迎える準備をしていたのだ。
その事実がようやく現実味を帯びた頃には、病院で済ませるべきことの大半が終わっていた。
エントランスを出ると、秋雨の名残を含んだ風が頬を撫でた。
石段を下りかけたところで、こちらへ向かってくる一人の軍人が目に入る。
「え……まっ、マスタングさん?」
「!」
呼ばれた男も足を止めた。驚きに見開かれた黒い瞳が、すぐに懐かしさを帯びる。
「やあ、セシリア」
「お、お久しぶりです。……」
友人と呼べる数少ない存在。数年ぶりの再会というのに、いざ真正面から向き合うと、何から話せばいいのか分からなくなってしまう。
セシリアは一度だけマスタングの顔を見上げたものの、目が合いそうになるとすぐに視線を襟元へ落とした。身体の前で重ねた両手も、久しぶりの距離感を測りかねるように、無意識に指先だけがそわそわと動く。
そんな昔と変わらないいじらしさを見て、マスタングの胸は、懐かしさだけでは収まらない柔らかな喜びに満たされた。
生きて還ってきて、こうしてまた、自分の名前を呼んでくれた。
けれど、その喜びのすぐ隣へ別の感情が差し込む。
ヒューズから少し痩せたとも聞いていた。けれど、実際に目の前にすると、その言葉では足りない気がした。
コートを羽織る肩は以前よりひと回りほど小さく見え、北の寒さへ送り出すにはあまりにも華奢に思えた。
「パレードの日も、ほとんど会えなかったからね。君が無事還ってこれて、安心した」
「私もです……あ、今日はどうされたんですか?」
再会を喜んでいるのに、話の継ぎ方がぎこちなくなる。
少し早口になった自分を誤魔化すように、セシリアの目が小さく泳ぐ。
「軍議の付き添いでね。もう東へ戻らないといけないんだが…どうしても、君に会っておきたくて」
「それでわざわざ……ありがとうございます。その…私も、お会いしたかったです」
最後の一言だけは、迷いなく出たものの、言ってから少し照れたように口をつぐむ。
「っ……ほ、本当かい?」
その表情を見た瞬間、マスタングは期待するなと自分へ言い聞かせながらも、胸の鼓動が一つ大きくなるのを止められなかった。
「はい。ヒューズさんのお宅で食事をご馳走になった時、何度もマスタングさんの話になったんですよ?」
「あっははは……どんな話題で、かは聞かないでおくよ」
「ふふっ、昔話をしていただけですよ。ヒューズさんったら、グレイシアさんを笑わせようと、マスタングさんとの思い出を面白おかしく話して」
「それは、あいつを問い正さんといかんな」
そのマスタングの反応が輪をかけ、思い出し笑いが溢れたセシリア。ころころと楽しげに笑うその顔を見れば、気恥ずかしささえ愛おしく思えるのに、自分の知らぬところで随分と愉快な話の種にされていたらしいことには、ヒューズへ文句の一つも言いたくなった。
「まったく、こんな気恥ずかしくなるくらいなら、その食事に私も混ざりたかったよ」
「はい。いつか皆さんで食卓を囲めたら素敵ですね」
そこでセシリアは伝えるべきことを思い出し、少しだけ居住まいを正した。
「…実は、つい先ほど決まったばかりなのですけれど…私、北の要塞に軍医として赴任することになったんです」
「ああ。君のことも協議で上がったから、知っているよ」
マスタングの視線が、セシリアの背後へ向いた。
つられて振り返れば、つい先ほどまで自分が籍を置いていた真っ白い建造物がそこにある。
「……ブリッグズは、死と隣り合わせの過酷な場所だ。……心配だが今の君には、きっとここよりずっと、合っているのかもしれないな」
「?」
意図を掴みきれず振り返る。
マスタングは、少し困ったような、苦みの混じる笑みを浮かべていた。
「……君のことは、ヒューズから聞いているよ」
「ヒューズさんが……」
セシリアのその反応を見た途端、マスタングの眉が僅かに寄る。
ヒューズが軽々しく人の秘密を話したように受け取られることの方が気になった。
「ああ、いや。あいつは人の事情を気安く触れ回るような男じゃない。だから……」
「分かっていますよ」
セシリアはすぐに微笑んだ。
「むしろ、ヒューズさんが話しておいてくれてよかった……です。久しぶりに会えたという時に、イ
「…全く…君は、自分だってこれから大変という時にも、人のことを気にするんだな」
「そんな……」
セシリアは困ったように目を伏せた。
「私、ずっと自分のことで一杯一杯でした。心配に思いながら、ちっともマスタングさんに…お声掛けできなくて……」
その言葉に、マスタングの胸が痛んだ。
