Op.6 : 熾天使のカラー
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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そこまで聞いてセシリアは自分が北へ赴いた場合をほんの少し想像した。
止まらない血に冷えた四肢。運び込まれる負傷兵。設備の整った大病院へ送り出せるまで持たせればいいのではなく、そこで治療を始めなければ間に合わない。
生活も、“寒い“という言葉だけでは到底足りないのだろう。
冬の朝、暖炉へ薪をくべる生活も、窓の向こうの天気を見て傘を選ぶような日常も、そこにはない。
そんなところに、自分が?
怖くない、と言えば嘘になる。
それでも、不思議なことに「自分にできるのだろうか」という疑念より、そこで私は何をしなければならないのだろう、という方へ意識が引かれていた。
「貴様がビル氏の研究を引き継ぐよう軍から命じられていることも承知している。研究継続が異動の条件の1つだ」
「条件の一つ…と言うことは、他にも条件があるのですね?」
「赴任期間は最長4年、がもう一つの条件だ。細かい要項はそれを見て確認しておけ」
「……4年」
数字だけを口の中でなぞってみても、まだ長いとも短いとも実感が湧かなかった。
今朝までは、明日も明後日もこの病院と第三研究所を往復するものだと思っていた。その先へ突然、北へ向かう道を差し出されて、4年という赴任期間まで一度に思い描けるはずもない。
「最初に言った通り、軍事施設に属する以上、軍医として登用することになる。国家錬金術師で貴様は“少佐“相当の階級と言えるが、私の城では階級も軍歴は大した意味は持たん」
セシリアは耳を疑った。
階級至上の軍閥国家で高位につく将軍自ら、階級がほとんど無意味と言い放ったのだから。
「性別も生まれも、経歴も名声も無関係だ。我が国きっての過酷極めし辺境の地では、“強さを持てる者“だけが生き残る」
「私は…兵士としての従軍歴がなく非力も同然です」
バツが悪そうに言うセシリアをオリヴィエが苦笑した。
「私が貴様に
「う…」
「杞憂だ。要塞内で完結するシステム上、非戦闘員は貴様だけではない。貴様には最終的に、砦の“医療そのもの“を強化してもらうのが目的だ」
医者として怪我人を託すだけではなく、そこの医療チームや、その先に運び込まれてくる人々まで支える仕組みを良くしていけという。
「…ひとつ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「なぜ私なのでしょう?お医者様なら、ほかにも大勢いらっしゃいます。私よりずっと経験のある方も、腕のある方も……」
少なくとも、今聞かされた仕事は、新米の医師一人に任せる話には聞こえなかった。
重傷者を治療し、医療班と働き、やがては砦そのものの医療を良くしていく。それも、国の要衝で。
そんな大役を、なぜ自分に任せようとしているのか。
「貴様の実力と命への獰猛なまでの執念深さを、この目で見たからだ」
オリヴィエの返答は単純明快だった。
「加え、
「………」
自分では欠点ばかりが目につく。知識も経験も、祖父にはまだ遠く及ばないと感じる。
けれどオリヴィエが見ていたのは、新聞に飾られた肩書きでも、軍から一方的に与えられた資格でもなかった。
自分自身では価値を量れずにいた所へ、初めて他人の手で確かな評価を与えられたような気がした。
「来るか」
「え?」
てっきり、異動を宣告されたものだと思っていたセシリアは素っ頓狂な声が漏れた。
「これは…異動命令ではないのですか?」
「軍属の貴様相手に命じることは容易いが、こことは比にならん険路を強いることになるからな。貴様にとっての唯一の利点は、“医者として“取り立てる準備があること、くらいだ」
「………」
——帰還してからの日々は、どこか空虚だった。
資格も、〝東の
真実を知らない世間から受ける称賛より、同業者たちから投げかけられる心ない言葉より、“ありたい自分“でいられないことが何より辛かった。
けれど、この人は違う。
「私は5日後、ブリッグズへ戻る。それ以降の返答になるなら司令部を通せ」
オリヴィエは組んでいた脚を解くと、傍らに立て掛けていたサーベルを手に取り立ち上がった。
そのまま出口へ向かう気配を感じながらも、セシリアは卓上には、先ほどオリヴィエが示した書類から目が離せなかった。
オリヴィエの手で綴られた上申書の中に、自分の名がある。
つい先ほどまで想像すらしていなかった道が、紙の上ではもう現実として用意されていた。
正式に医師資格を得てから、まだそれほど長くもない自分に、ここまでの期待を寄せてくれている。
自分はそれに応えられるだろうか?
あれこれ考えようとすればするほど、不思議なくらい答えは一つの場所へ戻ってくる。
“命を救うことを諦めない“。
民間医であろうと、軍医であろうと、それが自分にとっての、あるべき医師としての姿だ。
「——行かせてください」
ドアノブに手を掛けていたオリヴィエの手が止まり、振り返った。
その青い瞳がわずかに見開き、きつく結ばれている唇にも、ほんの僅かな隙が生まれていた。
それも気のせいと見紛うほどすぐ、精悍な顔つきに戻り、扉から手を離した。
コツ、コツ、コツと。
硬い軍靴がタイルを打つ音が規則的に響き、やがてセシリアのすぐ傍らで止まる。
オリヴィエは自分を見上げるセシリアを正面から捉えた。
「後悔しないな?」
事故現場を自分に託した時と同じ、一切、情も隙も見せない軍人としての厳格な表情だった。
あの時、自分は自分らしくあれた。医者であれた。この人がいてくれたお陰だ。
命令することは簡単なのに、最終的な意思決定を自分に委ねてくれた。
今もこうして、決意表明を取り下げる余地を与えてくれている。
帰ってから、軍医としてのお務めや寒冷地の医療について調べることもできる。軍官の父に相談することだってできる。
何日か考えて、それから返事をしても遅くはないのだろう。
それでも、躊躇いはなかった。
「——はい。後悔しません」
「………」
セシリアの誓いを見つめるオリヴィエの瞳は、張りつめたものが静かに解け、どこか温もりが宿っていた。
いや。
長く秋雨に鎖ざされていた窓辺から差し込み始めた光のせいで、そう見えただけなのかもしれない。
それは窓硝子を伝う雨粒を透かし、氷の女王を清冽に照らした。
オリヴィエの大きな手が、セシリアの前へ差し出される。

「来い、ドクター・エアハート」
□蒼い鳥/C.Kisaragi
