Op.6 : 熾天使のカラー
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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脱線事故から数ヶ月が過ぎても、セントラル病院は何ひとつ変わらなかった。
長い廊下には石炭酸の匂いが薄く漂い、磨き上げられた床を看護師たちの靴音が忙しなく行き交っている。診察室の前には今日も患者が並び、手術室の向こうでは次の患者を迎える準備が進んでいた。
その慌ただしさが、セシリアのいる医局のデスクからは遠かった。
デスクの端には、カルテよりも嵩張る紙束が置かれている。
外商から届いた医療機器のカタログ、試供品、試験導入予定の物品の取扱説明書、新薬の紹介、新たに発表された論文をまとめた冊子。そのほか、細々とした書類がいくつも。
用途ごとに分け、必要なものには担当部署の名を書き添え、順番に整理していく。
傍から見れば、医師でなくともできる仕事も多い。
それでもセシリアは一冊目のカタログを開いた。
以前、急患が運び込まれたときには、考えるより先に走り出していた。けれど、自己判断を許された野戦病院とここでは事情が違う。
ならば、自分が今すべきことはこれなのだろう。
「……こっちは、中材かな」
胸の奥で燻る使命感を押し込めるように漏れた独り言は、紙の擦れる音に紛れて消えた。
窓の外では、いつの間にか細い雨が街を染め始めていた。
硝子を叩く小さな雨音へ耳を預けた瞬間、指先から体温が抜けたような感覚を覚える。
煤と血の臭い、呻き、泣き叫ぶ声、崩れた車体の軋み。助けを求めて伸ばされた幾つもの手。
そして、その混乱のただ中に立っていた、ひとりの女性将校。
「……」
論文の冊子を開きかけていた手が止まる。
セシリアは、自分の指をしばらく見つめた。
あの日から、病院での自分は何も変わっていない。
事故現場から戻った翌朝も、その次の日も、勤務中に勝手に現場へ飛び込んだことを咎められなかった代わりに、相変わらず患者を任されることもなかった。
それがあまりに変わらないものだから、あの日だけが少しずつ日常から切り離されていく。
『医者です!』
そう名乗った自分の声すら、もう別の誰かの記憶のように思えた。
『貴様にかかっているぞ、ドクター』
それから、あの人の声も。
本当に、あれらは自分の身に起きたことだったのだろうか。
そんな考えが浮かんだ自分に呆れ、セシリアは小さく息を吐いて、引き出しを開ける。
中には白い布が一枚、丁寧に畳まれていた。
あの日、オリヴィエから渡されたハンカチだ。
薬剤を使い分けて丁寧に洗ったその布には、もう煤も血も残っていない。細い糸で編まれた縁のレースまで、最初から何事もなかったように白かった。
返さなくては、とは思っている。
けれど北方の司令官であるオリヴィエと、そう簡単に会えるはずもない。司令部づてに届けようにも、地方の将校の私物を「駅で顔を拭いていただいたもので」と差し出すのは、どうにも妙な気がした。
結局、返す機会を失ったまま、こうして引き出しの中にいる。
セシリアはそっとハンカチを手に取った。
柔らかな布が指へ触れる。
その感触を辿るようにして、記憶が鮮明さを取り戻した。
力の抜けた身体を支えてくれた腕。
煤と血で汚れた頬へ触れた白い布。
間近にあった、冬の空のような青い瞳。
厳しい顔でこちらを見ていたはずなのに、今になって思い返せば、あの瞳にはほんの僅かに別の色が混じっていた気がする。
そう考えた途端、妙に指先が落ち着かなくなった。
セシリアは心の波を誤魔化すようにレースの縁をなぞる。
柔らかな糸の感触を追ううち、胸の奥へ小さな熱が灯った。
あの場所では、誰も資格証を見せろとは言わなかった。
目の前に怪我人がいて、自分には出来ることがあった。
そして彼女は、自分を医者として扱ってくれた。
ただそれだけのことが、数ヶ月の時間を経て、思いのほか深く心へ残っていたのだと気付く。
普段ならすぐに浮かぶはずの「でも、私はまだまだだ」という言葉が、今日は出てこなかった。
ほんの少しだけ祖父のような医者へ近づけた。
そう思っても、罰は当たらないのかもしれない。
「……夢じゃ、なかったんだよね」
白い布は何も答えない。
それでも、手の中に確かな重みがあった。
セシリアはしばらくそれを見つめてから、皺がつかないよう丁寧に畳み直した。
次にお会いしたら、ちゃんとお返ししなくちゃ。
いつになるかも分からないその「次」を、ほんの少し待っている自分がいる。
セシリアはまだ、そのことには気づかないまま引き出しを閉じた。
