Op.5: 白銀の標
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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最後の重傷者が担架へ乗せられた頃には、駅構内の騒ぎもようやく形を変え始めていた。
オリヴィエの指示で憲兵と中央司令部の兵が動き、全乗客の救出もひと段落ついていた。
セシリアはそれを確認して、ようやく手袋を外した。
「……終わった……」
立ち上がろうとした瞬間、視界が白く霞み、踏ん張る間もなく再び地面へ膝をついた。
「……っ」
疲労と空腹だった。
イシュヴァールから戻って以来、一度に食べられる量が明らかに減っていた。戦地では食事をゆっくり摂ることなど当然なく、手が空いた時に少し口へ入れ、また動くの繰り返し。満腹になるためではなく、次に働くための燃料だった。
長くそれを繰り返したせいか、セントラルへ戻ってからも昔のようには食べられない。徴用される前の生活リズムが戻らず不眠気味でもあった。
「ふぅ……よし。大丈夫」
膝をついたまま息を整え、もう一度立とうとした。
けれど今度は、足が酷く震えて倒れた。
そう思った時、ふと記憶にある夜の花の香りに包まれた。
「っ……?」
逞しい片腕が背から肩へ回り、倒れかけたセシリアの身体をしっかり抱き留めていた。
セシリアが驚いて顔を上げると、すぐ傍に青い瞳があった。
「ア、アームストロング准将……!」
近い。
数年前の夜会でも、手を取られ、踊るために身体を寄せたはずだった。
それなのに、今はまるで違う。
あの時は着慣れないドレスの裾や、どこへ置けばいいのか分からない自分の視線が気になって仕方なかった。
今は血と煤にまみれ、髪も乱れ、ステップを合わせるどころではない。
どちらにしても、この女性の前で自分はひどく格好がつかないらしいと思うと頬が熱くなった。
「す、すみません…!少し、立ちくらみが——」
申し訳なさに離れようとしたが、肩へ回された腕には力が込められビクともしない。
代わりに、オリヴィエのもう片方の手が軍服の胸元へ伸びた。
「動くな」
その声に身体が凍る。
取り出されたのは、レースのあしらわれた白いハンカチだった。
何をするのだろうと思う間もなく、柔らかな布が、右の頬へ触れた。
煤に混じった血が、白い布へ薄く移る。
「ん……っ?」
セシリアは目を瞬いた。
オリヴィエの指先が、ハンカチ越しに頬から顎の辺りへ移っていく。
こびりついた煤を、無造作なようでいて丁寧に拭っていた。
自分の血ではないから治療でも処置でもないはずなのに、そこだけ妙に意識が集まる。
ハンカチ。自分へ伸びる手。
不意に、遠いところで華やかなワルツの旋律が一節だけ鳴った気がした。
「……あれ……?」
「どうした」
「い、いえ……何でもありません」
久しぶりに鼻腔を満たすオリヴィエの香りにあの夜の記憶が蘇ったのか。
こんな時になぜ今そんなものを思い出したのか、自分でも分からない。
セシリアが小さく首を傾げている間にも、オリヴィエは顎の煤を拭う。
さすがに居たたまれなくなり、セシリアはおずおずと手を伸ばす。
「あ、あの。自分で……」
「動くなと言っている。…余計に伸びる」
「……はい」
行き場を失った両手が、所在なく宙を彷徨う。
ほんの数秒だったはずなのに、ひどく長く感じられた。
やがてオリヴィエはセシリアを解放し、近くのベンチに座らせた。
「あ……ありがとうございます、准将」
「少将だ」
「えっ」
間の抜けた声が出た。
慌てて肩章 へ目を向け、そこでようやく気づく。
“少将殿“、“少将閣下“
そういえば、混乱の最中、兵たちもそう呼んでいた。
「ぁ……も、申し訳ありません…!ご昇進、おめでとうございます」
「ああ」
興味ないと言わんばかりに返事は素っ気ないものだった。
セシリアはその肩章から目を逸らした。
あの夜会で会った時、オリヴィエは准将だった。
自分がイシュヴァールへ送られていた間に、この人は北で役目を果たし、少将になったのだろう。
自分の鞄には銀時計がある。
医師免許も、少佐相当官という地位もある。
どれも、ある日まとめて軍から"差し出されたもの"。
その違いが、胸のどこかへ小さく引っ掛かった。
けれど今は、それよりも気になることがある。
「……あの、少将は、どうしてセントラルに?」
オリヴィエと踊ったあの夜、ヴィンセントは帰り道で彼女について説明してくれた。唯一の女性の将官で、北の国境要塞のトップなのだ、と。
「軍務だ。北にいるからといって、一生北から出んわけではない」
「そ、そうですよね……」
あまりにも当然の返答に、セシリアは恥ずかしくなって視線を落とした。
「貴様こそ、セントラル病院勤務ではなかったか」
その質問ができるということは、粗方の情報は知られてしまっているということなのだろう。
「はい…」
彼女には“医者になる“と宣言したのに、結局自力でなれなかった。その事実に後ろめたさを覚えた。
「非番か?」
「病院から頼まれた書類を、届けに行く途中で。司令部に…事故の音を聞いて、いてもたってもいられず……」
そこまで言って、ふと思い出す。
病院へ戻れば、また勝手なことをした、と叱責されるのだろう。
あの指導医の顔が浮かぶ。
「その書類はまだ届けていないのだな」
「はい。これから届けに」
「寄越せ」
「え?」
「こちらも事故の報告で司令部へ戻る。ついでだ」
「そ、そんな。少将にそんなことを頼むなんて」
「いいから誰に渡すものなのか言え」
有無を言わせない声だった。
「え……あ…ガードナー准将に」
セシリアは鞄の中から封筒を取り出した。
「こちらです」
オリヴィエは無言で受け取ると、血と煤で汚れた白いハンカチを空いた片手で折り畳み、セシリアへ差し出した。
「持っておけ」
「え……でも」
手を離され、落としそうになった布を慌てて両手で受け止める。
「まともに歩けるようになるまでは動くなよ。病院には部下から事情を伝えさせる。」
「え?」
そこまでしてもらう理由が分からない。
けれどオリヴィエは、説明する気などないらしく、それだけを告げ、踵を返した。
その髪から、ふわりと、またあの香りが立ち、思わず呼び止めた。
「あっ…!アームストロング少将」
オリヴィエが僅かに振り返った。
セシリアは両手の中のハンカチを見て、それから彼女を真っ直ぐ見つめた。
「……ありがとうございました」
オリヴィエはほんの僅かに目を細めただけで、そのまま駅を去っていった。
残されたセシリアは、しばらく白いハンカチを見つめてから、大事にポケットに仕舞った。

オリヴィエの指示で憲兵と中央司令部の兵が動き、全乗客の救出もひと段落ついていた。
セシリアはそれを確認して、ようやく手袋を外した。
「……終わった……」
立ち上がろうとした瞬間、視界が白く霞み、踏ん張る間もなく再び地面へ膝をついた。
「……っ」
疲労と空腹だった。
イシュヴァールから戻って以来、一度に食べられる量が明らかに減っていた。戦地では食事をゆっくり摂ることなど当然なく、手が空いた時に少し口へ入れ、また動くの繰り返し。満腹になるためではなく、次に働くための燃料だった。
長くそれを繰り返したせいか、セントラルへ戻ってからも昔のようには食べられない。徴用される前の生活リズムが戻らず不眠気味でもあった。
「ふぅ……よし。大丈夫」
膝をついたまま息を整え、もう一度立とうとした。
けれど今度は、足が酷く震えて倒れた。
そう思った時、ふと記憶にある夜の花の香りに包まれた。
「っ……?」
逞しい片腕が背から肩へ回り、倒れかけたセシリアの身体をしっかり抱き留めていた。
セシリアが驚いて顔を上げると、すぐ傍に青い瞳があった。
「ア、アームストロング准将……!」
近い。
数年前の夜会でも、手を取られ、踊るために身体を寄せたはずだった。
それなのに、今はまるで違う。
あの時は着慣れないドレスの裾や、どこへ置けばいいのか分からない自分の視線が気になって仕方なかった。
今は血と煤にまみれ、髪も乱れ、ステップを合わせるどころではない。
どちらにしても、この女性の前で自分はひどく格好がつかないらしいと思うと頬が熱くなった。
「す、すみません…!少し、立ちくらみが——」
申し訳なさに離れようとしたが、肩へ回された腕には力が込められビクともしない。
代わりに、オリヴィエのもう片方の手が軍服の胸元へ伸びた。
「動くな」
その声に身体が凍る。
取り出されたのは、レースのあしらわれた白いハンカチだった。
何をするのだろうと思う間もなく、柔らかな布が、右の頬へ触れた。
煤に混じった血が、白い布へ薄く移る。
「ん……っ?」
セシリアは目を瞬いた。
オリヴィエの指先が、ハンカチ越しに頬から顎の辺りへ移っていく。
こびりついた煤を、無造作なようでいて丁寧に拭っていた。
自分の血ではないから治療でも処置でもないはずなのに、そこだけ妙に意識が集まる。
ハンカチ。自分へ伸びる手。
不意に、遠いところで華やかなワルツの旋律が一節だけ鳴った気がした。
「……あれ……?」
「どうした」
「い、いえ……何でもありません」
久しぶりに鼻腔を満たすオリヴィエの香りにあの夜の記憶が蘇ったのか。
こんな時になぜ今そんなものを思い出したのか、自分でも分からない。
セシリアが小さく首を傾げている間にも、オリヴィエは顎の煤を拭う。
さすがに居たたまれなくなり、セシリアはおずおずと手を伸ばす。
「あ、あの。自分で……」
「動くなと言っている。…余計に伸びる」
「……はい」
行き場を失った両手が、所在なく宙を彷徨う。
ほんの数秒だったはずなのに、ひどく長く感じられた。
やがてオリヴィエはセシリアを解放し、近くのベンチに座らせた。
「あ……ありがとうございます、准将」
「少将だ」
「えっ」
間の抜けた声が出た。
慌てて
“少将殿“、“少将閣下“
そういえば、混乱の最中、兵たちもそう呼んでいた。
「ぁ……も、申し訳ありません…!ご昇進、おめでとうございます」
「ああ」
興味ないと言わんばかりに返事は素っ気ないものだった。
セシリアはその肩章から目を逸らした。
あの夜会で会った時、オリヴィエは准将だった。
自分がイシュヴァールへ送られていた間に、この人は北で役目を果たし、少将になったのだろう。
自分の鞄には銀時計がある。
医師免許も、少佐相当官という地位もある。
どれも、ある日まとめて軍から"差し出されたもの"。
その違いが、胸のどこかへ小さく引っ掛かった。
けれど今は、それよりも気になることがある。
「……あの、少将は、どうしてセントラルに?」
オリヴィエと踊ったあの夜、ヴィンセントは帰り道で彼女について説明してくれた。唯一の女性の将官で、北の国境要塞のトップなのだ、と。
「軍務だ。北にいるからといって、一生北から出んわけではない」
「そ、そうですよね……」
あまりにも当然の返答に、セシリアは恥ずかしくなって視線を落とした。
「貴様こそ、セントラル病院勤務ではなかったか」
その質問ができるということは、粗方の情報は知られてしまっているということなのだろう。
「はい…」
彼女には“医者になる“と宣言したのに、結局自力でなれなかった。その事実に後ろめたさを覚えた。
「非番か?」
「病院から頼まれた書類を、届けに行く途中で。司令部に…事故の音を聞いて、いてもたってもいられず……」
そこまで言って、ふと思い出す。
病院へ戻れば、また勝手なことをした、と叱責されるのだろう。
あの指導医の顔が浮かぶ。
「その書類はまだ届けていないのだな」
「はい。これから届けに」
「寄越せ」
「え?」
「こちらも事故の報告で司令部へ戻る。ついでだ」
「そ、そんな。少将にそんなことを頼むなんて」
「いいから誰に渡すものなのか言え」
有無を言わせない声だった。
「え……あ…ガードナー准将に」
セシリアは鞄の中から封筒を取り出した。
「こちらです」
オリヴィエは無言で受け取ると、血と煤で汚れた白いハンカチを空いた片手で折り畳み、セシリアへ差し出した。
「持っておけ」
「え……でも」
手を離され、落としそうになった布を慌てて両手で受け止める。
「まともに歩けるようになるまでは動くなよ。病院には部下から事情を伝えさせる。」
「え?」
そこまでしてもらう理由が分からない。
けれどオリヴィエは、説明する気などないらしく、それだけを告げ、踵を返した。
その髪から、ふわりと、またあの香りが立ち、思わず呼び止めた。
「あっ…!アームストロング少将」
オリヴィエが僅かに振り返った。
セシリアは両手の中のハンカチを見て、それから彼女を真っ直ぐ見つめた。
「……ありがとうございました」
オリヴィエはほんの僅かに目を細めただけで、そのまま駅を去っていった。
残されたセシリアは、しばらく白いハンカチを見つめてから、大事にポケットに仕舞った。

