Op.3: ヒヤシンスの君
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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♪ TAP/ Dance: Dolores
扉を開けば、光と熱気と音楽が一斉に戻ってくる。
女の身体と表情が目に見えて強張った。
軍服姿のオリヴィエと、鮮やかなドレスを纏った若い令嬢。
二人が並んで現れただけで、会場のそこかしこから視線が集まる。
「エアハート准将の娘では?」
「というと……バーク=フロスト家の末裔か?」
聞こえてきた名に、オリヴィエは僅かに視線を動かした。
なるほど。あの男が以前やたら口にしていた溺愛する一人娘とはこの女のことだったか。
ヴィンセント・エアハート准将。
そしてバーク=フロストといえば、医学と錬金術の双方で名を知られた家系だったはずだ。母方の姓か?
それならば、あの羊皮紙も多少は筋が通る。
隣では、当の本人が周囲の囁きに気圧されていた。
先ほどまでより呼吸が浅い。これだけ露骨なら、見落とす方が難しい。
オリヴィエは彼女の耳元にそっと耳打ちする。
「そう身構えるな。私に委ねていればいい」
「!……はい」
その距離まで近づいて、フランキンセンスを思わせる匂いが、彼女の髪や肌の近くに薄く漂っていることに気がつく。
会場中に満ちたむせかえる女たちの香水のどれよりも控えめな、香水なのか自身の香りなのかもわからないそれはオリヴィエの鼻腔を穏やかに満たした。
厳粛な序奏を合図に、
細い。
ウジウジした人間は男でも女でも好かない。だが華奢で自信なさげに見えた女はいざ構えると姿勢は悪くなかった。
足の置き方もマナーブックの手本のように忠実だ。
音が変わり、哀愁漂う第一ワルツの拍頭を拾い、オリヴィエはそのまま滑り出した。
最初の数歩で、女の顔に驚きが浮かぶ。
歩幅を合わせているつもりだったが、合わなかったか?
そんな懸念も次の拍の時には不要だった。手の圧と身体の向き、重心を次のステップへ先回りさせれば、女は自然についてきた。
なるほど、ダンスは好きだというのは本当らしい。
オリヴィエが導くたび、フクシア色の裾が大きく広がる。
中庭ではヒヤシンスに紛れていた色が、今度はシャンデリアの下で鮮やかに咲いた。
先ほどまで俯いてばかりいた女も、いつしかこちらを視線だけで見上げている。
随分と熱心な視線だった。
「まだ、緊張しておられるな。私のステップが強引だったか?」
「め、滅相もありません……! 頼もしいステップに驚いているだけです……!」
褒め返すと、ありがとうございます……と消え入りそうな声が胸元に落ちた。そこで終わればいいものを、何か返さなければと思ったらしく、ハッと顔を上げる。
「……ぁ! いえ、その……閣下のエスコートのおかげです」
オリヴィエは少し目を細めた。
必死だ。褒められれば褒め返す。話しかけられれば何か気の利いたことを言おうとする。
どうやら一応、教わったことを実践しようとはしているらしい。
もっとも、慣れていないことは丸分かりだった。
「それはなにより」
「……っ……ぁ、ええと……」
今度は会話を探し始めた。物腰は淑やかだが、口を開くと見ているだけでも忙しい娘で、社交界の道は険しいであろうことは容易に想像がつく。
この曲は好きかと尋ねてみると、スケーターズワルツよりは好きだと答えた。
有り得んが、私がスケーターズを好む人間だった時、この女はさぞ狼狽するに違いない。
「フッ」
オリヴィエが一拍遅れて、堪えきれず息を漏らすと、女がびくりとする。おそらく、また失言したとでも考えているのだろう。
年頃になれば、もう少し器用に言葉を飾るものだと思っていたが、そう簡単にはいかないらしい。
「定番が好かんのは同意だ。この14曲目が青く美しきドナウでなくてよかった、といったところか?」
「あ……で、でもシュトラウスも好きです……! 彼の、その……当時のルールを、信じた音楽で塗り替える大胆さも含めて……」
「全くだ。」
今度は先ほどまでとは打って変わって、言葉が滑らかに出てくる。好きなものについてなら話せるらしい。
それも、作品そのものに加え、作曲家の生き方への興味が向いているようだ。北に着任して以来、音楽に触れる機会はめっきり減ったが…存外嗜好が合う部分もあるらしい。
「だが野生の反逆児に惹かれたならなおのこと、ワルトが一番でもなさそうだ」
「そうですね……でも、今夜のドローレスは特別に聞こえます」
「というと?」
「厳格でもの悲しげですのに、第2ワルツから華やかになっていって……その、か、閣下に、お似合いだと思いますわ……」
「私に?」
「はい。あ……いえ、物悲しいという意味ではなくて……!」
また慌てている様を見て、オリヴィエは口元を緩めた。
「フッ、面白い評だ」
この手の場で交わされる褒め言葉など、大抵は誰にでも使えるよう磨き上げられたものだ。
だが彼女のそれは、相手に合わせて選んだ磨く前の石をそのまま差し出してくる。
形はいびつでも、手垢のついた常套句より余程耳に心地よかった。
「抒情詩的な曲となると、まさかチャイコフスキーか?」
女の呼吸が乱れないよう、少し拍数を置いてから探ってみる。
「えぇと……彼の曲は……あまり聞き馴染みがなく……」
好きではないらしい。かなり慎重に言葉を選ぶことはできていた。
もっとも、その顔では半分ほど台無しだが、とオリヴィエはまたほんの小さく笑みが溢れた。
「同じロマン派でしたら、サロンで静かに流れるピアノ曲が、好き……です」
メンデルスゾーンあたりか、とほぼ確信を持って問いかけると、今度こそ、勢いよく顔が上がった。
「好きです……! どうして分かったのですか?」
「……」
刹那、そのまっすぐな好きに、面食らった。
だが、やはりな。
「さぁ? なぜでしょうな」
「…………」
オリヴィエはその納得していない様子を見下ろした。
それが妙に可笑しくて、口元に笑みが残った。
「では、こちらからも一つ訊くとしよう」
「え?」
「あなたが目指すのは、国家錬金術師か?」
「いいえ」
それまでの頼りない受け答えが嘘のように、ふわりとした声に芯が感じられた。
「医師になります」
「ほぅ?」
なりたいでも目指しているでもなく、「なる」と言い切るとは意外だった。
「錬金術は、医学に使えるようになりたくて、祖父のように……だから……」
「なるほど」
人前に立つことにはあれほど怯えるくせに、目標は到達する前提で即座に答える。煮え切らん態度のくせに建前や嘘は苦手で実直…奇妙な娘だった。
音楽が第3ワルツへ移り、旋律が華やかさを増す。
オリヴィエが手を送ると、彼女は一回転し、フクシアのトレーンが大きな円を描いた。
戻ってきた手を取る。
「父君から貰った機会を活かしたいと言っていましたな」
「はい」
「なら、顔を上げられよ」
「……え?」
「ヒヤシンスは陽地に咲くもの。“壁”や“月下”にいては咲き時を失う」
目をぱちくりと瞬かせている。
やがて意味を考えるように、ほんの少し眉尻が下がった。
しばらくして、彼女はおずおずと顔を上げた。
最初はオリヴィエだけを見ていた視線が、その肩越しへ動く。
自分たちを見ている人間に気づき、また怯えたように揺れた。
それでも、今度は俯かなかった。
一度こちらを見てから、小さく息を吸う。
そして背筋を伸ばした。
「…………」
先ほど庭で見た時とは、随分印象が違う。
「そうだ。それでいい」
「!」
彼女の表情が、ほんの少し明るくさせ、照れているような、笑っているような困っているような…形容し難い表情になるものだから、気を抜けば口元が緩みかねなかった。
こうして胸を張り、真正面から彼女を見ると、感嘆を誘う。
(随分と………)
そんな言葉が不意に頭へ浮かび、オリヴィエは僅かに目を細めた。
なるほど、碌に社交界に顔を出していなかったせいで認知度は低いが、物陰に隠れるように佇み、いざ話せば社交辞令も拙いと言うのにカルネを埋めるだけのことはある。
数少ない女将校と踊った令嬢など、目に留まらぬはずがない。
数分後、この女がフロアでどんな扱いを受けるかと思うとある意味同情する。
ふと、女は何かに気づいたようにこちらを見た。
「私、セシリアと申します。セシリア・エアハートです」
「…………」
一瞬、オリヴィエは名乗る前に彼女をじっと見つめた。先ほど耳へ入った囁きと同じ某将官の姓だが…。
(…似とらんな)
それから何事もなかったように答える。
「オリヴィエ・ミラ・アームストロングだ」
「オリヴィエ、様……」
てっきり姓に驚くか身構えるかすると思ったが、女は私の名前を反芻した。
やがて曲が終わりへ向かう。
オリヴィエには一曲が一曲分の長さでしかなかったが、向かいの娘はそうでもないらしい。組んだ手に、ほんの僅かに力が込められた。
「…」
思わず、握り返しそうになった時、最後の力強い終止音が響いた。
