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氷の獣に気をつけろ

 グルーシャはアオイを自身のホームグラウンドであるナッペ山のジムに連れてきた。移動する間二人はずっと無言だったが、手は握られたままだった。握られたまま、と言うよりグルーシャが離そうとしなかった、と言うのが正しいか。アオイはグルーシャの手を握り返していなかったので。
 グルーシャはアオイを誰もいないジムの応接室に通し──壁に彼女の体を押し付けた。

「ぐ、グルーシャさ──」
「ふざけんなよ」
「え……?」

 壁とグルーシャに挟まれ、俗に言う壁ドン状態になったアオイだが、少しもときめかなかった。何せ自分を見下ろすグルーシャの瞳に、怒りの炎が立ち上っているのが見えたからである。

「ぼくが誰にでも優しい?そんなわけないだろ、ぼくが優しいのはあんただけだ。こっちはなけなしの理性かき集めて怖がられないよう必死に優しい男を演じてたってのに。それがあんたにはちっとも伝わってなかったんだな」
「あの、グルーシャさ──」
「黙って」

 グルーシャはアオイの小さな唇に、自身のそれを重ね合わせた。すぐ彼の唇はアオイから離れたが、アオイの顔を真っ赤に染めるには十分だった。

「こういうことしたいって思うのもあんただけ。これ以上だってやりたいけど我慢してるんだよ。わかった?」
「…………」
「アオイ?」

 次の瞬間、アオイの瞳からぼろっと大粒の涙が流れた。これに慌てたのはもちろんグルーシャだ。そして自分のしたことを思い返して顔が青ざめていく。

「ご、ごめん!!」

 先程の怒りに燃えたグルーシャはどこへ行ったのやら。いつだって男は好きな子の涙に弱いのである。グルーシャは慌てて給湯室に引っ込みアオイの好きなホットココアにマシュマロを浮かべ、彼女をソファに座らせるとマグカップを差し出した。

(やってしまった……)

 グルーシャはうつむきながらココアを口にするアオイと向かい合いながら、己の軽率な行動を反省した。これでは今までの行動がすべて水の泡ではないか。己のうちでとぐろを巻く、目の前の小さな少女へぶつけるには重すぎる感情。これを感づかれないよう今まで紳士的に振舞ってきたというのに。

『アオイ、あなたのこと誰にでも優しい軽薄な男だと思ってるみたいですよ』

 あのアオイとともにいた少女が見せたこの文で、重すぎるこの感情を繋ぎとめていた理性の糸がぷつんと切れてしまったのだ。

──そんなわけがあるか。ぼくがこんな想いを抱くのは後にも先にも君だけだ。

 しかしそれを上手く伝えられず暴走してしまったのは事実で。グルーシャは己を恥じた。

「その、本当にごめん」
「……」
「怖がらせて本当にごめん。でも、あんたに誤解されたままは嫌だったんだ。……ぼく、あんたのことが好きだから」
「……」
「ぼくを変えたのはまぎれもなくあんたで……だから、その、えっと。ぼくが嫌いになったなら、もう会わなくて良いから──」
「そ、それは違います」

 アオイは震えた声でグルーシャの発言を否定した。

「わ、わたしはグルーシャさんのこと、嫌いにならないです」
「でも、泣いてた」
「さっきのは、驚いただけで。……わたし、グルーシャさんが優しくしてくれるのはみんなそうなんだって思うことで、自分を守ろうとしてたんです。思い上がっちゃ駄目だって言い聞かせて、いざわたし以外の人と結ばれた時に備えてたんです。そっちの方が傷つかないから。だから……き、キスされた時、す、すごく、嬉しかった……です……」

 顔を赤らめ、困り眉でへにゃっと笑ったアオイを見てグルーシャは天を仰いだ。

──なんだこの可愛い生き物。

 いや、それよりも。

「それってつまり……アオイもぼくのことが好きってこと?」
「は、はい」

 グルーシャは長い安堵のため息を吐いた。

「ぐ、グルーシャさん?」
「近づかないで。抱きしめるよ」

 よくわからない脅し文句を放ちつつも、グルーシャの頬は緩みっぱなしだった。こんな顔を見られるわけにはいかない。一応クールキャラで売ってるので。

「じゃ、じゃあ──」

 えい、とアオイからグルーシャに抱き着いてきた。え、と呆気にとられつつアオイの顔を見ると、彼女はまた照れくさそうに笑った。

「わたしから抱きしめたら……駄目ですか?」
「…………」

 グルーシャは駄目なわけあるか、と叫びそうになった。しかしこれもこらえ、彼女を抱きしめ返すことで返事にした。
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