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昨日


少年には名前が無かった。
「隣、いいですか」
態々尋ねる声に無言でこく、と頷く。
痩せ気味のそのひとは、白い本を手に脚を組んだ。僕は傍目でその長い脚が鈍角の弧を描くのを、まるで草原に風が去りゆく光景を見るように記憶していた。
「このソファもそろそろ替え時かな」
本から目を離さずにそのひとは言い、一方僕は、どう決定を下すのだろうと興味を以って横顔を見つめる。
それに気付いたのか軽く頸をまわし
「狭くないですか」
と質問が投げられた。
「狭いですか」
首を傾げる。
「いや、広くはないなと思ってね」
…広いと狭いは対立しないらしい。
ならば
「まだこのままでいいか」
無音の侭の問いに直ぐさま解は返される。
顔面の角度も目線のさきも定位置に戻っている。
特に疑問も浮かばず、部屋も静かなのでソファに凭れて目を閉じた。

  計算機のおとがする。
珍しい。むかし、そのひとが、アナログ派なのだと笑っていたときをふと思い出す。紙の、えんぴつの、コルクのような手触りが、重さが好きなのだと。計算も設計も文章も、だからコンピュータはなかなか使わない、強いて言うならば人間に到底描けないグラフとか、数値を導くだとかかな、と冗談味にカシカシと教えてくれたけれど、そういえばどんなものなのだろう。後で聞こうかな。と内に留めて、僕はソファを降りる。
丁度夕食の頃だ。とびらを開けてキッチンに立つ。時計を見た。ちょっと余裕があるから、普段に一手間加えられる。試してみたい一手間が積もり貯まっているので選択肢を生み出す手順は要らない。ひとつだけ小さなホワイトボードが貼られた冷蔵庫は中身も同じく殺伐としているが、ちょうど今日の分の食料とは別に庭で採れたらしい香草が置かれていた、それを使おう。

やがて材料はきっちり二人前の料理となった。ふたつの皿に盛って両手に持って机の上に置く。既に銀色のスプーン、フォーク、それから透明な硝子のコップは配置が終わっているようだ。だから椅子に座って手を合わせて、ジュースがそのひとに注がれるのを観ていた。小さな気泡が現れて一瞬沈んだと思えばくるくると上り外気に形を晦ます。目線の先も程々に、水面の上昇は止む。まもなく向かいの椅子が引かれて「いただきます」と各々手を合わせ、銀食器に手を伸ばした。
料理はよい出来だった。

ふうっと間を空けてそのひとは発言した、
「もうすぐなんだ」
なにがだろう。
「今までのもの全てを駆使したよ、あと少しで完成しそうなんだ」
完成したらきっと
「早く見て貰いたいよ」
それは僕まで楽しみになる。そのひとの持つスプーンが細やかに震えて微かにコップを鳴らした。
僕はジュースを飲み干して、食器をさげて、洗いに行く。戻るとそのひとは居なくて、食器だけが残されている。その食器を片付けようと手を伸ばす。ふだん食べ方が綺麗だから油断していた、コップに付いていたホワイトソースが指に付く。皿と一緒に洗えばいいよね。とその侭他の食器を持って、またキッチンに行って、グレープフルーツの香りのする洗剤で洗った。
ついでなので、食器用スポンジも新しいものに替えておく。僕は自室に戻ることにした。

眠って、起きて、リビングへ行って、然しそのひとはまだ起きていないようだった。キッチンへ行って、特にいつも通りの食事を用意して、それでもまだそのひとは来ない。僕のぶんの食器だけ片付けて、こんどは自室ではなくて、ソファに向かう。
からっぽのソファの端に座る。
落ち着かなくて、偶々横に有った本を手にした。表題は記されていない。何と無く表紙ばかり見つめていた。
脚を組んだ。
蹴れるのは空気ばかりだった。
狭くは無いな。
ふと昨日に答えを返していた。
僕は自室に戻ることにした。