不器用な男達
私は西部高校の養護教諭。わかりやすく言うと保健室の先生だ。
「先生、かくまって!」
放課後、見慣れたカウボーイハットを持ち保健室へ走り込んできた彼は椅子に座っていた私を押し退け机の下へと入り込んだ。
「あなた、何をしたの?」
「俺は何もしてないよ、勝手に目をつけられただけ。ここは避難所なんでしょ?助けてよ、先生」
苦笑いを浮かべる彼はキッド君。やけに大人びており自分よりも落ち着いた雰囲気の彼は、養護対象であり私が見なければならない生徒の一人。
初めて顔を合わせた時は、こちらが心配になるほど弱々しく目も合わせてくれなかった彼。どうにかして元気になってほしいと思い、私はこう言った。
「ここは避難所です」
「…避難所?」
「そう、困った時や辛い時はここに逃げておいで?キッド君が理由を話したくなければ私は無理に聞かないし、調べる事もしない。私はあなたが嫌がる事はしない」
驚いて目を丸くしているキッド君と初めて目が合った。
「ただここで身体を休めるだけでもいいの。私はあなたの味方だからね」
彼が卒業するまでの間、少しでも気持ちが安らげる場所を作ってあげる事が私の役目だと思った。
「そういう意味の避難所じゃないのよ〜?」
「しーっ。ね?お願い」
口元に指を立て、机の下に身を隠した彼を見てため息をついた。仕方なく普段通りに日誌を書いていると、ノックもせずに数学を担当している橋本先生が入ってきた。
「橋本先生、せめてノックぐらいは…」
「武者小路はここに来てませんか?」
こちらの話を無視するほどお怒りのようで、ため息をついた。
「見てませんが、どうかされましたか?」
「…見てないのならいいです。まったく、あのふざけたカウボーイかぶれは…どうにかならないんですかね」
「授業態度は問題ないと聞いています。それに成績は良い方ですよ?」
「そういう問題ではないんですよ…失礼します」
探していた人物がいなかったからか、苛立った様子で早々と保健室を出ていった。少し時間をあけて、そっと戸を開け姿が見えない事を確認する。
「いやぁ〜ほんと困った先生だよねぇ」
「わっ!」
いつのまにか背後に立たれており、驚いて保健室から飛び出てしまう。
「あ、先生。見つかっちゃうじゃない」
「あなたが驚かすからいけないの!」
ドアに手をかけ笑うキッド君を保健室へと押し込みながら、自分も入る。
「先生聞いてよ。俺が問題の答えが間違ってるって言ったら、あの先生その後俺に全部当ててきたんだよ。しまいには、いちゃもんつけられて追いかけられるし…はぁ〜」
「橋本先生はプライドが高い人だから、指摘されて嫌だったんでしょうね」
「俺に言われたもんだから余計にね」
「どうして?」
「あの先生、俺の事嫌いみたいなんだ。この飄々とした態度が気に入らないんだってさ」
「そんな事言われたの?」
「別に構わないよ。興味ないからねぇ」
キッド君は呑気にくるくると帽子を回していた。
「今よりもっと面倒な目に遭いたくなければ、あの先生と距離を置く事ね。あの先生、ストレス溜まると愚痴っぽくなるから」
「あれ、先生もあの人苦手なんだ」
「苦手というか…あの人、自分が暇になるとここに来て何時間も愚痴や自慢話していくのよ。教師のメンタルケアも大事だけど、私が参っちゃいそう…」
「へぇ、そうなんだ」
「あ、今のナイショよ?」
「心配しなくても、話す事なんてないよ。先生も大変だねぇ…あ、また隠れるよ。俺はいないって言って」
「え?今度は誰に探されてるの?」
そう言ってキッド君がまた机の下に隠れる。そしてすぐに強めのノックが聞こえ、勢いよく保健室のドアが開いた。
「一年の甲斐谷です!先生、キッドさん見てないですか!?」
「どうしたの?」
「〜っ!先生、聞いてくださいよ!大会が近いっていうのにキッドさんいっつも練習に遅れてくるんです!だから今日こそ最初から出てもらおうと探してて…先輩達に聞いたら、ここにいるだろうって」
甲斐谷君が少し怒っているように捲し立てる後ろから、ひょっこりと鉄馬君も顔を覗かせた。二人して彼を探していたのだと、おかしくて笑ってしまう。
「先生!笑い事じゃないですよ!俺達、今年は絶対勝ちたいんですから!」
「ご、ごめんね!じゃあ、キッド君はここにいるから連れて行って?」
「えぇ?バラしちゃうの?」
ひょっこりと机の下から顔を出すキッド君。
「さっきと今とは理由が違うからね。ほら、後輩がやる気なのに先輩がそんなんじゃダメでしょう」
「キッドさん!行きますよ!」
「陸、頑張りすぎるのも良くないって言うじゃない」
「あと一週間しかないんすよ!」
「鉄馬君、引きずってもいいから連れて行ってあげて」
「はい」
立ち上がらないキッド君を鉄馬君が抱えあげた。
「え〜鉄馬も先生の味方なのか」
「先生の味方というか、あなたと練習がしたいだけよ。キッド君がいないとパス練習ができないものね」
私の言葉に鉄馬君が強く頷いた。
「…やれやれ、今日は真面目に行こうかな」
「いつも真面目に来て下さい!」
「大会前に怪我しないように、頑張ってね」
「はい!失礼しました」
「じゃあね先生」
「失礼しました」
保健室から三人を見送り、先ほどまで書いていた日誌の続きに取り掛かった。少しするとアメフト部が練習を始めたようで、保健室までキッド君が指示をする声が聞こえてきた。
「他の人と同じくらい本気なのに、変な保険かけちゃって」
少し後ろ向きな彼の言動は、子供の頃の経験と環境がそうさせたのだろう。一応彼のこれまでについて簡単な情報は共有されているが、私が言及する事はないと思っている。
「いいチームメイトがいるんだから、自分で気づいてね。キッド君」
言われて気づくよりも、彼らと過ごす中で気づいてくれた方がきっと良い経験となるはずだと思った。自分の立場としては情けない限りだが、私はキッド君と彼らを見守ることにした。
「あ、今何時!?」
来月の授業の準備をしていたらかなり時間が経っており、あたりは暗くなっていた。外に目を向ければ、一部分だけグラウンドが照らされており、アメフト部がまだ残って練習している。
「あんなに乗り気じゃなかったのに、まだ練習してるじゃない」
遅くまで頑張っている彼らを見て、今年の大会にかける思いが伝わってくる。
「頑張ってね」
聞こえないだろう声援を送り帰り支度をしようとした時だった。誰かが保健室のドアをノックした。
「…?どうぞ」
声をかければ、入ってきたのはあの橋本先生だった。
「橋本先生?どうされました?」
「保健室の明かりがついていたので、気になって見に来ました」
「あぁ、ごめんなさい。来月の授業の準備をしていたら遅くなってしまって…もう帰ります」
「そうですか、ちょうど良い。どうです?この後どこか食事でも」
「え?」
机の上を片付けていた手が止まる。
(どうしよう…行くのは良いけど、どうせ愚痴と自慢話のオンパレードだろうなぁ…)
ここ最近の彼の言動を思い返して、返事に詰まる。
「何か用事でもあるんですか?」
「いや、えっと…明日ちょっと早いので…」
「そんなに遅くまで付き合わせる気はないですよ。〇〇先生はまだ若いんだから、俺が色々教えてあげられる良い機会だと思いますよ」
やはり自慢話ルートは確実であると、さらに気分が沈む。嫌な予感がしてどうにかして断らなければと理由を考えていると、橋本先生が急に距離を詰めてきた。
「そうだ、連絡先を交換しておきましょう。俺がやりますから、〇〇先生は帰り支度をして下さい」
そう言って、机に置いてある私のスマホに手を伸ばす。
「え、あ、待って…」
橋本先生の手が私のスマホに触れそうになった直前、何かが勢いよく飛び込んできた。
「うわっ!?」
机に当たって跳ねたそれは、本棚に当たって床へと転がった。
「…アメフトのボール?」
「こらぁ!キッドぉ!!どこにボール投げてんだ!」
「すみませ〜ん、照明が眩しくて…」
外からそんな会話が聞こえてきて、足音が近づいてきた。
「ごめん先生。ボール飛んできたでしょ、大丈夫?怪我してない?」
保健室からグラウンドに直接出入りできるようになっている引き戸を開けて、キッド君が顔を覗かせた。
「武者小路!気をつけろ!」
「あぁ、橋本先生もいたんだ。すみません」
私はボールを拾ってキッド君の所へと近づいた。
「はい、ボール。窓や人に当たらなかったから良かったけど、気をつけてね」
「うん、ごめんね。先生」
いまいち反省の色が見えない返事に苦笑いを浮かべながらボールを差し出す。しかし、彼は受け取らない。
「キッド君?」
「先生、今日この後の約束覚えてます?」
「…約束?」
何か約束をしただろうか、全く思い当たる節がなく首を傾げた。
「え〜ひどいなぁ。みんなと約束したのに…まぁ、先月の話だから忘れててもしょうがないか。じゃあ、この後のお楽しみって事で。もう少しで練習終わるから部室の前に来てね、先生」
「え、キッド君!」
私が問い直す前に、ボールを取り走ってグラウンドへ戻ってしまう。先月と言っていたので、もしかしたら本当に忘れてしまっているのかもしれない。どちらにせよ、これで断る理由ができた。
「…あの、すみません。先約があったようで…」
「…仕方ないですね。じゃあまたの機会にしましょう」
できれば来ないで欲しいと思いながら、『そうですね』と相槌をうっておいた。少し不機嫌な橋本先生を見送り、自分も保健室を出る準備をする。開けていた窓を閉めている中で、ふと気づいた。
「さっきのボール…この隙間を飛んで入ってきたんだ」
よく見ればアメフトボールが通るギリギリの幅しか窓は開いてなかった。
「ほんと、運が良かったのね」
ほっと息をつき、窓を閉めて鍵をかけた。
帰り支度を済ませキッド君に言われた通りにアメフト部の部室の前で待っていると、生徒達がぞろぞろと戻って来た。
「あれ?〇〇先生だ」
私に気づいた生徒が囲むように集まってくる。
「みんな部活お疲れ様。遅くまで頑張ってるね」
「そりゃ大会が近いからね!」
「それより先生、ここで何してるんですか?」
「えっと、それがね。私みんなとこれから何かする約束してたみたいなんだけど…覚えてなくて…」
私が申し訳なさそうに伝えると、みんな首を傾げたり隣の人と顔を見合わせたりしている。
「なんか言ってたっけ?」
「知らねぇ。先生、またキッドに揶揄われたんだろ。おい、キッド!お前、何言ったんだよ。先生困ってんじゃねぇか」
牛島君が遅れて戻ってきたキッド君に向かって叫んだ。
「んー?あ、先生。着替えてくるから、もう少し待っててよ」
ひらひらとこちらに手を振って、部室の中に入っていくキッド君。
「お、先生。もしかしてデートか?」
「そんなわけないでしょう。ほら、もう遅いんだからみんな着替えて早く帰らなきゃ」
自分を囲んでいた生徒達が、楽しそうに部室へと入っていくのを微笑ましく見送る。少しして、着替えたキッド君達が出て来た。
「よし、じゃあ帰ろうか。車まで見送るよ、せんせ」
「え!?あなたが言ってた約束って言うのは?」
「え?約束なんてしてないよ。先生が面倒な人にからまれてたから、嘘ついたんだ」
キッド君はそう言いながら私の背中に軽く手を添え歩き出す。
「先生、橋本に絡まれてたんだって?嫌な時は嫌だって言った方がいいぜ」
「先生を呼び捨てにするのはやめなさい。聞かれたらどうするの」
「あの先生、この前の授業自分の自慢話で終わったんすよ。俺、あいつ嫌いです」
「あいつもダメ。みんな困ってるのね」
牛島君と甲斐谷君が渋い顔をして文句を言うのに対して、他の生徒達もうなづいている。
ここまで生徒達から言われているのであれば、何か考えなければならないと思わずにはいられない。新たな悩みのタネが現れ、小さくため息をついた。
「…あ、ちょっと待って」
駐車場へと向かう途中、突然キッド君が立ち止まり私を後ろへと隠した。
「…やれやれ、諦めが悪いねぇ」
「どうしたの?」
「んーいや、先生もうちょっと俺らとお喋りしようよ」
「ダメよ。帰らなきゃ」
「明日休みだから、少しくらいいいでしょ」
「じゃあ、花火やろうぜ花火!俺、花火していい場所知ってるぜ?」
「今から!?」
「やりたいヤツはついて来いよ。あ、でも花火買って来ねぇとな」
「じゃあ、俺達が買ってきますよ。先生の車で」
「あ、勝手に…」
「おう!じゃあ場所、後で送っとくから待ってるぜ!」
牛島君を先頭に、わらわらと生徒達がついて行く。
「先生。とりあえず、近くのスーパーにでも行こうか」
「行こうか、じゃなくて…」
「みんなやる気になっちゃってるし…ね?」
「…もう。大会前にボヤ騒ぎ起こして出場できなくなっても知らないよ?」
「先生はそんな事起こさせるような人じゃないって、信じてるから」
「なんて人任せ…」
仕方なく一時間だけという約束のもと、彼らに付き合う事にした。
「甲斐谷君、牛島君に電話して何人いるか数えてもらって?」
「わかりました」
スーパーに着いて私がそうお願いすると、甲斐谷君がすぐに連絡を取ってくれた。
「どうしたの?」
「飲み物くらい買っておかないと…あなた達、練習した後で汗かいてるのに水分ちゃんと取ってるか心配だもの」
「そんなに気を使わなくてもいいのに…でも流石、保健室の先生」
「あなた達の身体と心の健康を守るのが私の仕事だからね」
「俺、先生のそういう所好きだよ」
「ありがとう」
生徒達と信頼関係を築いてこそ悩みを解決する大事な事だと思っているので、好かれる事は素直に嬉しい。
「…ん〜まぁいっか」
「どうしたの?」
帽子で少し目元を隠したキッド君を不思議そうに見つめる。
「いやね、大きな花火は危ないかなと思って。ほら、鉄馬が持ってるやつとか」
「え?」
彼が指差した方を見れば、打ち上げ花火であろう太い筒状の物をいくつも持っている鉄馬君がいた。
「先生、向こう十人いるって…うわ、鉄馬さんそれ全部買うんすか?」
「派手な方が良いと思って」
「危ないからせめて一つにしとこうか」
「待って、大きいのは先生が見て選ぶわ」
あの鉄馬君が意外とノリ気なのは喜ばしい事なのだが、安全面を考えると良しとは言えない。打ち上げ花火を一つと手持ちの花火をいくつか、そして人数分のスポーツドリンクを買い、教えられた場所へと向かった。
「お!来た来た!」
「はい、みんな。先生から飲み物の差し入れだよ」
「ありがとせんせー!」
「どういたしまして。消化用の水とかは大丈夫なの?」
「家近い奴がバケツ持って来てくれたから大丈夫!」
「良かった。ゴミは先生が持って帰るから、ちゃんとまとめるのよ?」
「「はーい!」」
返事をしたと同時に花火に群がる生徒達。付属のロウソクから花火に火をつけ、あちこちで色とりどりの火花が広がる。その光景を見ながら、座れそうな場所に腰をかけた。
「先生はやらないの?」
キッド君がみんなの輪から離れて、こちらへと歩いて来た。
「先生は見張り役だから」
「いいじゃない。はい、持って来たよ」
差し出された花火をお礼を言って受け取る。
「先生」
いつの間にか鉄馬君がライターを持ち、目の前で待機していた。
「ありがとう鉄馬君。でも正面は危ないからね」
自分が横に移動して花火に火をつけてもらう。少しして、先端から赤色の火花が出始めた。
「鉄馬ー!火が消えたから来てくれー!」
「む」
呼ばれた鉄馬君はすぐさま駆け出して行った。
「鉄馬君はライターを持って走り回ってるけど、花火してるのかしら?」
「あれはあれで楽しいらしいよ」
「そうなの?」
「うん、本人が楽しいって言ってたからね。先生、火ちょうだいよ」
「はいはい」
赤色だった火花がオレンジ色に変わっていた。その先端に、キッド君が持った花火が近づく。
「先生、明日から俺あんまり保健室行けないかも」
「真面目に練習する気になった?」
「陸が怖いんだよね」
「あなたが真面目にしないから、甲斐谷君が怒るのよ。今年の西部は戦力が揃ってるって言われてるみたいじゃない。十分優勝を狙えるからみんなやる気なのよ」
キッド君が持っている花火から、緑色の火花が出始めた。
「みんなの調子も良さそうだし、きっと勝ち進めるわ」
私のオレンジ色の火花とキッド君の緑色の火花が交差する。
「…そんなのわかんないよ。あんまり期待しない方がいい」
「え?」
どこか冷めたような声に、思わずキッド君の方へと顔を向けた。すると私のオレンジ色の火花が消えキッド君の花火だけが残る。緑色の火花がどこか遠くを見つめたキッド君の顔を照らしていた。
「…キッド君?」
「キッドー!先生ー!打ち上げ花火やるぜー!」
「鉄馬が火着けるって!」
「おっと先生。ちゃんと見てあげないと、鉄馬変な所に火つけちゃうかもしんないよ?」
「え…あ、そうね。ちゃんと、見てあげないと…」
こちらを見たキッド君の表情はいつもと変わらず、さっきの言葉は空耳だったのかと思ってしまう。
(キッド君…)
仲間達の輪に戻って行くキッド君の背中に、少しだけ不安を感じたのだった。
「くっそぉ〜!惜しかったんだぜ?せんせぇ!!」
「うんうん、そうね。みんな良く頑張ったわ。でも、本番はこれからでしょう?気持ちを切り替えて、この前の大会で不安な部分を改善していきましょう?」
放課後、王城高校にもう少しの所で負けてしまったアメフト部の生徒達が保健室に集まっていた。
「先生、ウチの監督より監督みたいな事言ってるよ」
「さ、ほら練習練習!あれ監督さんじゃない?怒られるわよ〜?」
グラウンドにわかりやすい人の姿が見え、生徒達もそちらに目を向けた。
「あ、ホントだ。仕方ねぇ行くか」
「もうちょっとのんびりしたいんだけどなぁ…」
「行きますよ、キッドさん!」
「わかった、わかったから…もう」
ぞろぞろと生徒達がグラウンドへと向かって歩いて行く中、最後に出ようとしていたキッド君が入口の前で止まった。
「キッド君、甲斐谷君に怒られるわよ?」
「…先生、俺達が負けてガッカリした?」
キッド君はこちらを見ずに、私が答えるのを待つ。
「…してないよ、だってまた次があるもの。それに、見ているだけの先生にあなた達に苦言を言える権利はないわ」
止まったままの背中に優しく手を添える。
「勝負の世界だから勝ち負けが一番だろうけど、先生はあなた達が後悔しない試合ができたらそれでいいと思ってる」
軽く背中を押してあげれば、すんなりと前へと進んだ。
「チームメイトを信じて、キッド君の全力のプレーを見せてね。きっとみんなもあなたに応えてくれるから」
「…うん」
振り返った彼の表情はまだ少し不安が残るが、仲間の元に走って行く足取りはしっかりとしていた。
(みんなと一緒に前へ進めれば、もっと強くなれるはずだから)
彼を縛り付けているものが早くなくなってくれますようにと、沈みかけた夕日を見ながら願った。
それから大会が始まり、順調に勝ち上がっている西部高校。今日は白愁高校と対戦するそうで、ちょうど近くで講習会があったので見に行くことにした。
「あぁ、もう!こんな時に電話なんてして来なくていいのに!」
講習会は時間通りに終わり、余裕で試合開始時刻に間に合うと思っていたのに例の橋本先生が緊急でもない連絡をしてきたせいで遅くなってしまった。
「一試合って何分なのかしら…調べておけば良かったわ」
走って会場へと入り、観客席へと出ればやけに静まり返っている。
「え、もしかして終わっちゃってる?」
間に合わなかったのかと周囲を見渡せば、見慣れたユニフォームが何やら一箇所に集まっている。
「作戦会議中なのかしら?」
もっとよく見ようと近づけば、円陣の中心で誰かが倒れているのが見えた。
「…え」
嫌な予感がしてさらに足を早める。そして見えたのは、ぐったりと横になっているキッド君だった。
「…キッド君!?」
私の声が聞こえたのか、他の生徒達がこちらを向いた。
「せ、先生!!…早くこっちに来てくれ!」
「すみません!西部高校の保健医です!通してください!」
緊急事態に許可など取っている暇はない。入れそうな場所を見つけ、すぐさま泣きそうな顔している生徒達の元へと駆け出した。
「先生、キッドが…!」
「落ち着いて!まだ試合中でしょ、気をしっかり待って!キッド君は先生がついてるから」
そう言ったものの、自分も落ち着いているとは言い難かった。慌ただしく動く心臓に邪魔されて声が震えてしまっている。
「この子は私が見ます。監督さんは試合を」
「…お、お願いします」
「みんな深呼吸して、大丈夫だから」
青ざめている何人かの生徒の背中をさすってあげる。
「先生、キッドさんの事お願いします」
早くに立ち直った甲斐谷君がヘルメットを被りながらそう言った。
「うん、わかったよ。先生に任せて」
担架に乗せられたキッド君と一緒に移動する。
「…う」
移動している途中でキッド君が声を上げた、
「キッド君大丈夫!?先生の事わかる?」
虚ろな目がこちらを見つめ、私の姿を確認するとキッド君が顔を背けた。
「…なん…で、先生がいるの…嫌だ、こんな…情けない姿、見ないで…」
「情けなくなんかないよ。今は喋らないで、口の中を切ってるから痛いでしょう」
「…」
キッド君は顔を背けたまま、何も言わなかった。そのまま病院へと連れて行き、診察を受けた。
「…腕の骨にヒビと打撲。他は特に問題なさそうね」
地面に強く打ち付けられたと聞いて、頭など神経系に影響していたらどうしようかと思っていたがひとまず安心した。
「…どうしようか、みんなの所に戻る?」
「…どの顔さげて戻ればいいのさ。俺のせいできっと負けてる…」
「まだわからないじゃない…とりあえず、今日は家に帰りましょうか。監督さんとみんなには大丈夫だったって伝えておくからね」
「…」
彼は俯いたまま何も言わなかった。タクシーを呼んで家まで送る間、いくら声をかけてもずっと下を向いたまま彼は一度も口を開く事はなかった。
それから一週間、あんなに頻繁に保健室へ出入りしていた彼は一度も顔を出さなかった。学校には来ているようであったが、避けられているようで校内を歩いていても顔を見る事はなかった。自分から出向く事もできたが、それはしてはいけないような気がしてやめた。彼の気持ちが落ち着くまで、私はただひたすら待つしかできなかった。
しかし、彼がどんなに会いたくなくても月に一度は顔を合わせないといけないのが私の仕事上の決まり。
(とは言っても、絶対ってわけじゃないから来ないかもしれないな…)
そんな事をぼんやりと思っていると、控えめにドアがノックされる。もしかしてとわずかな期待を込めて返事をすれば、少し開いた間から俯いたキッド君の姿が見えた。
「…来てくれてありがとう。でも無理しなくていいよ、あなたがちゃんと学校に来てるってわかっただけで十分だから」
「…」
そのまま帰ってしまうかと思ったが、キッド君は中に入りソファーへと座った。
「…ココアでも飲む?今ならマシュマロ付きよ〜」
返事はなかったが、少しだけ頭が動いたのを見逃さなかった。準備をしてテーブルに置いてあげる。俯いていて表情はわからなかったが、良くない状態である事はわかった。
「…先生…俺のせいで、負けたよ」
キッド君が病院へと行った後、一人立ち向かった鉄馬君も倒れ甲斐谷君も最後まで頑張ってみんなを引っ張ったが勝つ事はできなかった。
「キッド君のせいじゃないよ」
「いいや、俺のせいだよ。俺が油断したから…俺が…望んだから…!」
悲痛な声を上げ頭を抱えた彼の手に、自分の手を重ねる。
「先生、聞いたよ?キッド君のポジションが一番危ない所だったって…一人でプレッシャーを背負って、危険な役目を受け持って怖かったでしょう…よく頑張ったね」
「……せん、せ」
こぼれ落ちる雫をハンカチで拭いてあげる。少しだけ顔を上げた彼は、出会った時のようにまた少しやつれていた。
「大丈夫。それにね?本当に負けたのがキッド君のせいって言うなら、彼らがあなたを心配してここまで追いかけてきたりしないはずよ?」
「…え?」
「ほら、あそこ見てごらん?さぁ、誰の足でしょう?」
私が指差したのは、部屋の下側に風を通すためについている窓。そこから何人かしゃがみ込んでいる姿が丸見えである。
「頭隠して尻隠さずってこの事ね」
ハンカチをキッド君に渡し、ゆっくりと保健室の入口へと向かう。ドアを勢いよく開けて廊下を見れば、鉄馬君を始め甲斐谷君や牛島君などアメフト部のメンバーが驚いて自分を見上げていた。
「下から見えてるからね。言いたい事があるなら、入っておいで?」
各々気まずそうに顔を見合わせると立ち上がり、緊張した顔で保健室の中へ入って行く。
「…」
「…みんな、俺のせいでごめ…」
「キッドさんすみません!勝てませんでした!」
キッド君の言葉を遮って甲斐谷君が大きな声を出し頭を下げた。
「なんとか追いつこうとしたんですけど、力不足で…でも、次は負けません。もっと練習して、強くなって今度は絶対勝ちましょう」
そう言って、甲斐谷君は顔を上げた。
「キッド、お前のせいじゃねぇよ。あいつにビビっちまった俺も悪いしな…あー!ちくしょう!卒業じゃなかったら、アイツにもう一回リベンジしたかったぜ!」
「勝てんのかアイツに?」
「まずあれぐらいデカくなんねぇと無理じゃね?」
「そこはお前らが自分で考えろ。練習なら俺が付き合ってやるからよぉ」
「えぇ〜牛島さんでも俺らキツいのに〜?」
牛島君と他のメンバーがふざけ合う。彼らはもう次を見据えて進もうとしているが、肝心のキッド君はまだ不安そうな顔をしている。すると、鉄馬君がキッド君の近くへと進んだ。
「…俺はまたキッドと一緒にアメフトがしたい」
「…鉄馬」
「キッドは嫌か?」
「……ううん、俺も鉄馬と一緒にアメフトやりたいよ」
そう笑って答えたキッド君を見て、自分も他の生徒達も安堵のため息をついた。
「よし!じゃあ、やろうぜアメフト!身体が鈍って仕方ねぇんだよ!」
「監督に練習は休みだって言われたじゃないですか」
「でもよぉ…」
「流石に監督さんも休みって言っておいて、わざわざここまで確認しに来ないわよ。軽い練習くらいならしてもいいんじゃないかしら」
「先生がいいって言うなら、やりましょう」
「陸、実はお前も練習やりたかったんだろ」
「当たり前でしょ、次は絶対勝つんすから。俺、先に行きますよ」
甲斐谷君は一礼して早々と保健室を後にした。
「やべぇぞ、キッド。陸が前よりも本気だぜ?こりゃ大変になるな〜」
「困ったねぇ…こんな早くから焚きつけてちゃ、大会前に燃え尽きちゃうよ」
「よっしゃ、俺達も行こうぜ!キッド、腕治ったらお前も早く来いよ!」
「…うん、わかったよ」
次々と生徒達が保健室を後にし、最後に残った鉄馬君が入口まで来て振り返る。
「待ってる」
「うん、すぐ戻るよ」
その返事に満足そうな顔をした鉄馬君は私に一礼してドアを閉めると、バタバタと廊下を走り去っていった。
「廊下は走らないで欲しいんだけどな…」
「…先生、ありがとう…俺、また頑張ってみようと思う」
私の渡したハンカチを見つめながら、キッド君がそう言った。
「良かった…じゃあまずは、しっかりご飯食べてよく寝る事ね。腕も治さないといけないから、栄養あるものを食べないと…何かあったかな…」
お腹が空いた時のために入れておいたお菓子があったはずだと、自分の鞄の中を探す。
「あ、ほら。大福があった!」
「でもそれ先生のでしょ」
「先生はまた買えばいいの。それより、あなたの細すぎる身体の方が心配!スポーツするなら、特に食事と身体作りは大切よ?」
「保健室の先生が言うと説得力があるねぇ」
差し出した大福を受け取り、大人しく食べ始めたキッド君を見て微笑む。外に目を向ければ、練習を始めたアメフト部の生徒達の姿が見えた。
「早くみんなの所に戻りましょうね」
「…うん」
大福を食べ終わったキッド君は窓に近づき、みんなの練習を見ていた。それを眺めながら、日誌を書こうとペンを持つ。するとドアがノックされ、返事をする前に誰かが入って来た。
「〇〇先生、今少し…おい、こんな所で何してる武者小路…」
橋本先生はキッド君の姿を見つけると、鋭く睨みつけた。慌てて彼と先生の間に入った。
「今日彼の面談の日だったんです。今からやろうと思ってまして」
「はぁ…そうですか。武者小路、お前試合で腕を怪我したそうじゃないか。まったく、ここで呑気にしてる間に練習くらいできただろう?そんなのだから相手にやられるんだ」
「やめて下さい橋本先生」
静止をかけても、ヒートアップしたこの人の暴言は止まらなかった。
「これ以上人に迷惑をかけるな。お前は〇〇先生にもチームにもいい迷惑だ」
「…っ!!」
保健室にばちんと大きな音が響いた。じんじんと痺れる手のひらを握りしめ、驚いてこちらを見ている男を睨みつけた。
「やめて下さいと言っているでしょう!それに、腕を怪我して一番悔しいのは彼です!負けて一番悔しいのは彼らです!結果しか知らない…彼らの努力を知らないあなたが、彼らに文句を言う資格はありません!」
この学校に来て初めてこんなに大きな声を出しただろう。ばくばくと心臓が動いているのがわかる。私に頬を叩かれた彼は状況を理解すると、顔を赤くして私を睨み手を振り上げた。
「この…新人が調子に乗るな!!」
「先生!」
「あーーっ!橋本先生が〇〇先生を殴ろうとしてるーっ!!」
外から大きな声が響く。声のした方を見れば、アメフト部の生徒達がこちらを見て指を差している。すでに異変を感じた甲斐谷君と鉄馬君が走ってきており、他の生徒達もそれに続いた。
「〇〇先生に何するつもりだったんですか、橋本先生」
一番に着いた甲斐谷君が、外から保健室に入ってきた。
「…そ、それは」
わらわらとアメフト部以外の生徒まで集まり始め、橋本先生の顔が青ざめ始める。
「…む、虫だ!〇〇先生に虫がついていて追い払おうとしただけだ!もういなくなったから俺は帰るぞ!」
生徒達に睨まれ、慌てて保健室から橋本先生が出ていった。
「…はぁ、よくやったよ陸」
「どうも。てか先生、本当の事言えば良かったのに」
「でも、私の方が先に手を出したから…」
「どうせろくでもないこと言って、先生怒らせたんだろ?自業自得じゃねぇか」
「それにアイツ、女性に叩かれました〜なんて恥ずかしくて言えないっすよ」
「う〜ん、まぁ穏便に済むなら黙っててもいいかなって…」
「先生は優しいねぇ…でも、良かった。先生が叩かれなくて」
「…あのキッドさん」
「ん?」
「先生に近いっす」
甲斐谷君の言葉に、初めて今の自分の状況を見た。叩かれそうになった瞬間、キッド君に手を引かれ抱き寄せられてからそのままだった。
「あっ!ご、ごめんね!先生もびっくりしちゃって!」
慌てて距離を取れば、どこか少し残念そうに笑う彼と目が合う。
「陸〜邪魔すんなよ、お前」
「え!俺が悪いんすか!?」
「よーし、めんどくさい奴も追い払ったし続きしようぜ〜」
納得がいかないといった顔の甲斐谷君を引き連れ、グラウンドへと戻っていく彼ら姿を見送る。
「俺も行こうかな」
「え!?」
「いや、練習には参加しないよ?もっと近くで見たいんだ」
「…それなら問題ないよ、行っておいで」
「うん、そうする」
キッド君は荷物を持つとドアの前まで行き、こちらを振り返った。
「先生ありがとう。俺達の事守ってくれて…俺、先生の事好きだよ」
「それは良かったわ。こちらこそ叩かれそうな所を助けてくれてありがとう」
「…うん、じゃあ行ってくるね」
「いってらっしゃい」
まだ何か言いたそうだった彼は、帽子を被り直して保健室を出ていった。
「…ふぅー!とりあえず、一件落着…はぁ、叩かれると思った時はびっくりした…」
先ほどの一連を思い出しながら、ココアを入れゆっくりと椅子へ座った。
「…これで思いっきりアメフトができるわね。キッド君…」
外から聞こえる声が一層賑やかになる。きっと彼が合流したのだろう。私はそれを聞きながら、途中で止まっていた日誌の続きを書く事にした。
季節は冬。外は寒々としているのに、保健室の中は人口密度が高いおかげで暖かく感じる。
「せんせぇ〜チョコくれ、チョコ〜!」
「冷蔵庫に入ってるよ〜一人三つずつね」
「わぁー事務的ー」
本日はバレンタイン。どうしてもチョコが欲しい男子達が保健室へと群がってくる。毎年思うが、なんとも罪深いイベントである。
「失礼します…って、何この人だかり…」
保健室に新しく顔を覗かせたキッド君は、冷蔵庫に群がる男子生徒達を見て驚いていた。
「み〜んな、先生のチョコをもらいにきてるの。キッド君も持っていっていいわよ」
「俺は先生から日頃色々もらってるから、今日はみんなに譲ろうかな」
「うるせぇぞキッド!お前はどうなんだよ〜!」
「俺はバレンタインに興味ないからさ」
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「俺がここに来る理由は、先生に会うためだよ」
同級生を軽くかわし、私の側に来ると小さな箱を取り出した。
「はい、先生。この前のお礼と借りてたハンカチ」
「お礼とハンカチ?」
「そう。ハンカチ、貸してもらったでしょ?あれ、俺使っちゃったからさ。新しいのも買ってきたんだ」
彼に貸したハンカチの事を思い出し、ポンと手をついた。あの時は色々ありすぎて、頭から抜け落ちていた。
「そう言えば…洗って返してくれるだけで良かったのに…わざわざ新しいのまで…」
「ちょうどいいのがあったんだ。この時期は贈り物の種類が豊富で助かるよ」
「すげーキッド、逆チョコじゃん!」
「しかも先生に!」
「こらこら、からかわないの!お礼だって言ってるでしょう?」
チョコを口に入れたまま集まってきたギャラリーを追い払う。
「ありがとうキッド君。大切にするね」
「うん、そうしてもらえると俺も嬉しいよ」
お礼を言って微笑めば、柔らかい笑みを返してくれる。元気を取り戻してくれた彼に、心から嬉しいと思った。
さらに時は過ぎ、この学校で二度目となる生徒達の門出を祝ってきた。
「…さて、今日で面談も最後ね。キッド君が無事に卒業を迎えられて先生嬉しいよ」
キッド君からもらったハンカチを手に、まだ少し潤んでいる目元を拭った。しかし卒業式を終えた彼はいつもと変わらず、ゆったりとソファーに座りくつろいでいた。
「卒業しても、暇があったら来るよ?」
「暇つぶしに来るのはダメ。ここは休憩所じゃなくて…」
「避難所だったね」
私の言葉を遮ってキッド君はそう答え、用意していたココアを飲んだ。
「そう避難所。何か困ったりしたら来てもいいよ。ちょっとだけなら協力してあげる」
「経過報告だけじゃダメ?」
「ん〜まぁ、それなら…」
私はたくさんの本などが並べられている棚から、一冊のノートを取り出してキッド君の前へと座る。
「さぁ、最後の面談…と言っても三年も話してたら聞く事もなくなるわね。ほとんど聞いちゃったし」
「…本当に?まだ、あるんじゃないの?聞きたい事とか、言いたい事とか…さ」
そう言いながら、キッド君は目線を逸らし指を擦り合わせる。
「…そうね。じゃあ一つだけ」
びくりとキッド君が肩を揺らし、擦り合わせていた指をぎゅっと組んだ。
「毎日、朝昼晩ちゃんとご飯を食べる事かな?」
「…え、それだけ?」
「それだけって…一番大切な事よ?あ、でも睡眠も大事ね。じゃあ、規則正しい生活を心がける事、かな」
キッド君は驚いた顔をした後、気の抜けたようにソファーにもたれかかった。
「…先生は最後まで俺の味方なんだね」
「そうよ。これからもずっと、先生はキッド君の味方だから」
私は机に置いたノートをキッド君に差し出した。キッド君は目を丸くして不思議そうにノートと私の顔を交互に見た。
「これはこの三年間、あなたと話した事、学校であった事を先生なりにまとめたもの。言ったらアルバムみたいなものね!いい事も悪い事も書いてあるけど、全部あなたの大切な日々よ」
キッド君はノートを受け取り、中身を確認する。
「これをキッド君にあげるわ。楽しかった事は活力に、失敗した事は繰り返さないように。このノートを見返して、これからも頑張ってね」
キッド君は一通りノートに目を通すと、それを閉じ俯いた。
「…すごいな、先生は。俺の欲しかったもの、全部くれるんだから…」
「そうかな…あなたの頑張りじゃない?」
「それでも、俺は先生に色々もらったよ。ありがとう先生」
「うん、卒業しても元気な姿を見せに来てね」
すると、バタバタと廊下から誰かが走ってくる足音がする。
「おい待てって陸!もうちょっと待てねぇのかよ!」
「だって予約してる時間に間に合わなくなりますよ!?」
「後輩君がお迎えに来たみたいね〜」
「やれやれ、落ち着きがないねぇ。これから先が不安だよ」
彼と顔を見合わせて笑っていると、ドアをノックする音がした。
「キッドさん!予約した時間になりますよ!」
開いたドアから甲斐谷君が顔を出して叫び、キッド君が立ち上がる。
「わかったよ、すぐ行くから。みんなと待ってて」
「ほんとにすぐ来てくださいよ!」
「はいはい…もう」
甲斐谷君は走って来た道を走って戻っていく。
「もー廊下は走らないっていつも言ってるのに…」
「はぁ…最後くらいここでゆっくりしてたかったんだけどねぇ」
「仕方ないわね、見送ってもらうんだから。主役がいないと始まらないもの」
キッド君は荷物を持って入口の前に立ち、こちらを振り返った。
「先生」
「ん?どうしたの?」
「…俺、先生の事好きだよ」
多分今まで見てきた中で、一番の笑顔だったと思う。
「ありがとう。生徒にそう言ってもらえる事は先生にとって一番嬉しい事だわ!」
初めて出会った時は警戒されていた自分が、ここまで彼の心を開くことができこんなに嬉しい事はない。私は満面の笑顔で彼を見送ったのだった。
「先生!かくまって!」
放課後、突然飛び込んできた生徒は私を押し退けて机の下に隠れた。
「はぁ…まったく!アメフト部のキャプテンは、毎年誰かに追われる運命なのかしら」
「しっ!いいから助けて下さいよ!」
「はいはい…」
仕方なく普段通りに仕事をしていると、廊下から女子生徒の話し声が聞こえた。コンコンとドアがノックされ、返事をすれば女子生徒達が顔を覗かせた。
「〇〇先生、甲斐谷君こっち来てないですか?」
「ここには来てないけど、保健室の前を走り過ぎて行ったのは見たかな〜」
「ほんと?ありがとう先生〜!」
女子達は嬉しそうに話しながら去って行った。
「…はぁ、ありがと先生」
「別にそこまで逃げなくてもいいじゃない。女の子に追いかけられるなんて、他の男子達が聞いたら羨ましがられるわね」
「だったら変わって欲しいくらいですよ。俺は練習に行きたいのに、よくわかんない話で足止めされて…」
「アメフト一番ね」
「そりゃそうっすよ。はぁ、部室前にもいるんだろうな…先生、ここで着替えて行っていいですか?」
「いいよ」
甲斐谷君が保健室で着替え始め、私はいつものように日誌をまとめる。
「あ、先生。キッドさん最近会いに来てます?」
「うん?アメフトの練習を見に来るついでに、こっちにも顔を覗かせてくれるよ」
キッド君は卒業してからも、月に一回。アメフト部の様子を見にくるついでに、保健室へ顔を出してくれる。特に変わりなく、元気そうで安心している。
「…あの人、まだ言ってないのか…」
ぼそりと甲斐谷君が何か言ったがよく聞こえなかった。
「先生、もしかして彼氏とかできた?」
「えぇ〜?なんでそんな事聞くの?」
「なんとなく。で、どうなんですか?」
「そんな人いたら遅くまで残って、あなた達の花火の監視役なんてしてません」
皮肉混じりにそう言うと、甲斐谷君はなぜか顔をしかめた。
「あぁ〜もう、じれったいな!」
「なんで甲斐谷君が怒ってるの…」
甲斐谷君は着替え終わりシューズを履いて、外へと出た。そして荷物を持ち、私をじとりと見る。
「…先生、そろそろ覚悟しといた方がいいっすよ」
「え、覚悟って何を?」
甲斐谷君はそれ以上何も言わず、グラウンドに走って行ってしまった。
「…え、もしかしてこのままだと独り身ですよって事かな…」
自分は今が楽しいので気にしてはいなかったが、まさか生徒に心配されるとは思ってもいなかった。しかし、生憎今は相手を作る気はない。それに以前叩かれそうになった経験もあり、男性というのに若干抵抗ができてしまった。
「まぁ、私は別にねぇ…」
独り身でも学校にくれば生徒達がいる。それだけで十分だとこれ以上考えるのはやめた。
今日も保健室で日誌をまとめる。外からは部活に励む生徒達の声と吹奏楽部の演奏練習が聞こえてくる。
「今日もみんな元気と…」
すると外からコンコンと窓を叩く音が聞こえた。そちらに顔を向ければ、カウボーイハットを被った人物がひらひらと手を振っている。
「…キッド君」
近づいて窓を開ければ、少し冷たい風が入ってきた。
「先生、久しぶり。会いに来たよ」
「久しぶりって…先月も会ったでしょう?」
彼は変わらず、一ヶ月に一回必ずここへ顔を覗かせる。
「そうだっけ?俺はすごく久しぶりに感じたよ」
今日の彼は少しだけ、テンションが高いような気がした。何かいい事があったのかもしれない。
「どうしたの?今日はやけにご機嫌ね」
「ん?まぁね、やっと本気を出せるから嬉しいんだよ」
「?」
キッド君の言っている事が分からず首を傾げると、彼は頬杖をついて上目遣いで私を見た。
「せんせ、今年で俺はいくつになったと思う?」
「え?えーと、去年甲斐谷君が卒業したから…今年で二十歳ね!とうとうキッド君も大人の仲間入りかぁ〜!」
嬉しさに手を叩き祝えば、彼はにっこりと笑った。
「そ。で、タイミングの良いことに俺今日誕生日なんだよねぇ」
「え!?あ、そういえばそうね!あぁ〜来るって言ってくれれば、何か用意してたのに!何かないかしら…」
キョロキョロと保健室を見渡すが、治療道具と医療関係の本しか見当たらない。いつも持ち歩いているお菓子も、さっき食べてしまった。
「いいよ先生。お祝いなんて」
「ダメよ!成人になったお祝いを何か…」
「じゃあ俺のお願い聞いてよ」
「お願い?」
「うん、そう」
「お願いって何?」
「俺の恋人になって」
キッド君はにこにこと笑顔のままそう言った。
「こ、恋人?先生と?」
「他に誰がいるの…はぁ…先生ってばひどいよねぇ。俺がずっと好きだって言ってるのに、さらりと流すんだから…」
確かに好きだと言われた事はあったが、あれは教師としての好きだとずっと思っていた。
「まぁ…教師と生徒だなんて世間体がうるさいと思ってたから、曖昧にしてた俺もいけないんだけど」
もたれかかっていた窓から離れ、彼は服装を正した。
「今は元生徒と教師だ。それに俺も二十歳で子供じゃないから、本気で口説いても何も問題ないよね」
そう言って、彼は小さな花束を取り出し私へと差し出した。
「好きだよ先生。一年の時からずっとね」
甲斐谷君が覚悟をしておけ、と言ったのはこの事だったのか。それにしても予想の斜め上の出来事に、みっともなくおろおろするしかなかった。
「…ちょ、ちょっと待って!恋人になるっていうのは早いというか、なんというか…」
とにかく少し考える時間が欲しい。こんな告白された事ないし、元教え子というのもあって軽率に返事はできない。
「先生今すごく混乱してるから…えぇと、今日は誕生日のお祝いにご飯を食べに行くだけじゃダメ…かな?」
キッド君は少し考え、笑って頷いた。
「うん、今日はそれでもいいよ」
『今日は』という事は、これ以降もこのようなアプローチが続くのか。自分の心臓が保つかどうか心配になる。とにかく冷静になれる時間を確保する事ができたと、ほっと息をついた。
しかし、安心したのは束の間。一緒に食事に行ったが最後、彼の紳士的な振舞いと熱烈なアプローチの連続に私の心臓は耐えられず早々に白旗をあげる事になるのだった。
「先生、かくまって!」
放課後、見慣れたカウボーイハットを持ち保健室へ走り込んできた彼は椅子に座っていた私を押し退け机の下へと入り込んだ。
「あなた、何をしたの?」
「俺は何もしてないよ、勝手に目をつけられただけ。ここは避難所なんでしょ?助けてよ、先生」
苦笑いを浮かべる彼はキッド君。やけに大人びており自分よりも落ち着いた雰囲気の彼は、養護対象であり私が見なければならない生徒の一人。
初めて顔を合わせた時は、こちらが心配になるほど弱々しく目も合わせてくれなかった彼。どうにかして元気になってほしいと思い、私はこう言った。
「ここは避難所です」
「…避難所?」
「そう、困った時や辛い時はここに逃げておいで?キッド君が理由を話したくなければ私は無理に聞かないし、調べる事もしない。私はあなたが嫌がる事はしない」
驚いて目を丸くしているキッド君と初めて目が合った。
「ただここで身体を休めるだけでもいいの。私はあなたの味方だからね」
彼が卒業するまでの間、少しでも気持ちが安らげる場所を作ってあげる事が私の役目だと思った。
「そういう意味の避難所じゃないのよ〜?」
「しーっ。ね?お願い」
口元に指を立て、机の下に身を隠した彼を見てため息をついた。仕方なく普段通りに日誌を書いていると、ノックもせずに数学を担当している橋本先生が入ってきた。
「橋本先生、せめてノックぐらいは…」
「武者小路はここに来てませんか?」
こちらの話を無視するほどお怒りのようで、ため息をついた。
「見てませんが、どうかされましたか?」
「…見てないのならいいです。まったく、あのふざけたカウボーイかぶれは…どうにかならないんですかね」
「授業態度は問題ないと聞いています。それに成績は良い方ですよ?」
「そういう問題ではないんですよ…失礼します」
探していた人物がいなかったからか、苛立った様子で早々と保健室を出ていった。少し時間をあけて、そっと戸を開け姿が見えない事を確認する。
「いやぁ〜ほんと困った先生だよねぇ」
「わっ!」
いつのまにか背後に立たれており、驚いて保健室から飛び出てしまう。
「あ、先生。見つかっちゃうじゃない」
「あなたが驚かすからいけないの!」
ドアに手をかけ笑うキッド君を保健室へと押し込みながら、自分も入る。
「先生聞いてよ。俺が問題の答えが間違ってるって言ったら、あの先生その後俺に全部当ててきたんだよ。しまいには、いちゃもんつけられて追いかけられるし…はぁ〜」
「橋本先生はプライドが高い人だから、指摘されて嫌だったんでしょうね」
「俺に言われたもんだから余計にね」
「どうして?」
「あの先生、俺の事嫌いみたいなんだ。この飄々とした態度が気に入らないんだってさ」
「そんな事言われたの?」
「別に構わないよ。興味ないからねぇ」
キッド君は呑気にくるくると帽子を回していた。
「今よりもっと面倒な目に遭いたくなければ、あの先生と距離を置く事ね。あの先生、ストレス溜まると愚痴っぽくなるから」
「あれ、先生もあの人苦手なんだ」
「苦手というか…あの人、自分が暇になるとここに来て何時間も愚痴や自慢話していくのよ。教師のメンタルケアも大事だけど、私が参っちゃいそう…」
「へぇ、そうなんだ」
「あ、今のナイショよ?」
「心配しなくても、話す事なんてないよ。先生も大変だねぇ…あ、また隠れるよ。俺はいないって言って」
「え?今度は誰に探されてるの?」
そう言ってキッド君がまた机の下に隠れる。そしてすぐに強めのノックが聞こえ、勢いよく保健室のドアが開いた。
「一年の甲斐谷です!先生、キッドさん見てないですか!?」
「どうしたの?」
「〜っ!先生、聞いてくださいよ!大会が近いっていうのにキッドさんいっつも練習に遅れてくるんです!だから今日こそ最初から出てもらおうと探してて…先輩達に聞いたら、ここにいるだろうって」
甲斐谷君が少し怒っているように捲し立てる後ろから、ひょっこりと鉄馬君も顔を覗かせた。二人して彼を探していたのだと、おかしくて笑ってしまう。
「先生!笑い事じゃないですよ!俺達、今年は絶対勝ちたいんですから!」
「ご、ごめんね!じゃあ、キッド君はここにいるから連れて行って?」
「えぇ?バラしちゃうの?」
ひょっこりと机の下から顔を出すキッド君。
「さっきと今とは理由が違うからね。ほら、後輩がやる気なのに先輩がそんなんじゃダメでしょう」
「キッドさん!行きますよ!」
「陸、頑張りすぎるのも良くないって言うじゃない」
「あと一週間しかないんすよ!」
「鉄馬君、引きずってもいいから連れて行ってあげて」
「はい」
立ち上がらないキッド君を鉄馬君が抱えあげた。
「え〜鉄馬も先生の味方なのか」
「先生の味方というか、あなたと練習がしたいだけよ。キッド君がいないとパス練習ができないものね」
私の言葉に鉄馬君が強く頷いた。
「…やれやれ、今日は真面目に行こうかな」
「いつも真面目に来て下さい!」
「大会前に怪我しないように、頑張ってね」
「はい!失礼しました」
「じゃあね先生」
「失礼しました」
保健室から三人を見送り、先ほどまで書いていた日誌の続きに取り掛かった。少しするとアメフト部が練習を始めたようで、保健室までキッド君が指示をする声が聞こえてきた。
「他の人と同じくらい本気なのに、変な保険かけちゃって」
少し後ろ向きな彼の言動は、子供の頃の経験と環境がそうさせたのだろう。一応彼のこれまでについて簡単な情報は共有されているが、私が言及する事はないと思っている。
「いいチームメイトがいるんだから、自分で気づいてね。キッド君」
言われて気づくよりも、彼らと過ごす中で気づいてくれた方がきっと良い経験となるはずだと思った。自分の立場としては情けない限りだが、私はキッド君と彼らを見守ることにした。
「あ、今何時!?」
来月の授業の準備をしていたらかなり時間が経っており、あたりは暗くなっていた。外に目を向ければ、一部分だけグラウンドが照らされており、アメフト部がまだ残って練習している。
「あんなに乗り気じゃなかったのに、まだ練習してるじゃない」
遅くまで頑張っている彼らを見て、今年の大会にかける思いが伝わってくる。
「頑張ってね」
聞こえないだろう声援を送り帰り支度をしようとした時だった。誰かが保健室のドアをノックした。
「…?どうぞ」
声をかければ、入ってきたのはあの橋本先生だった。
「橋本先生?どうされました?」
「保健室の明かりがついていたので、気になって見に来ました」
「あぁ、ごめんなさい。来月の授業の準備をしていたら遅くなってしまって…もう帰ります」
「そうですか、ちょうど良い。どうです?この後どこか食事でも」
「え?」
机の上を片付けていた手が止まる。
(どうしよう…行くのは良いけど、どうせ愚痴と自慢話のオンパレードだろうなぁ…)
ここ最近の彼の言動を思い返して、返事に詰まる。
「何か用事でもあるんですか?」
「いや、えっと…明日ちょっと早いので…」
「そんなに遅くまで付き合わせる気はないですよ。〇〇先生はまだ若いんだから、俺が色々教えてあげられる良い機会だと思いますよ」
やはり自慢話ルートは確実であると、さらに気分が沈む。嫌な予感がしてどうにかして断らなければと理由を考えていると、橋本先生が急に距離を詰めてきた。
「そうだ、連絡先を交換しておきましょう。俺がやりますから、〇〇先生は帰り支度をして下さい」
そう言って、机に置いてある私のスマホに手を伸ばす。
「え、あ、待って…」
橋本先生の手が私のスマホに触れそうになった直前、何かが勢いよく飛び込んできた。
「うわっ!?」
机に当たって跳ねたそれは、本棚に当たって床へと転がった。
「…アメフトのボール?」
「こらぁ!キッドぉ!!どこにボール投げてんだ!」
「すみませ〜ん、照明が眩しくて…」
外からそんな会話が聞こえてきて、足音が近づいてきた。
「ごめん先生。ボール飛んできたでしょ、大丈夫?怪我してない?」
保健室からグラウンドに直接出入りできるようになっている引き戸を開けて、キッド君が顔を覗かせた。
「武者小路!気をつけろ!」
「あぁ、橋本先生もいたんだ。すみません」
私はボールを拾ってキッド君の所へと近づいた。
「はい、ボール。窓や人に当たらなかったから良かったけど、気をつけてね」
「うん、ごめんね。先生」
いまいち反省の色が見えない返事に苦笑いを浮かべながらボールを差し出す。しかし、彼は受け取らない。
「キッド君?」
「先生、今日この後の約束覚えてます?」
「…約束?」
何か約束をしただろうか、全く思い当たる節がなく首を傾げた。
「え〜ひどいなぁ。みんなと約束したのに…まぁ、先月の話だから忘れててもしょうがないか。じゃあ、この後のお楽しみって事で。もう少しで練習終わるから部室の前に来てね、先生」
「え、キッド君!」
私が問い直す前に、ボールを取り走ってグラウンドへ戻ってしまう。先月と言っていたので、もしかしたら本当に忘れてしまっているのかもしれない。どちらにせよ、これで断る理由ができた。
「…あの、すみません。先約があったようで…」
「…仕方ないですね。じゃあまたの機会にしましょう」
できれば来ないで欲しいと思いながら、『そうですね』と相槌をうっておいた。少し不機嫌な橋本先生を見送り、自分も保健室を出る準備をする。開けていた窓を閉めている中で、ふと気づいた。
「さっきのボール…この隙間を飛んで入ってきたんだ」
よく見ればアメフトボールが通るギリギリの幅しか窓は開いてなかった。
「ほんと、運が良かったのね」
ほっと息をつき、窓を閉めて鍵をかけた。
帰り支度を済ませキッド君に言われた通りにアメフト部の部室の前で待っていると、生徒達がぞろぞろと戻って来た。
「あれ?〇〇先生だ」
私に気づいた生徒が囲むように集まってくる。
「みんな部活お疲れ様。遅くまで頑張ってるね」
「そりゃ大会が近いからね!」
「それより先生、ここで何してるんですか?」
「えっと、それがね。私みんなとこれから何かする約束してたみたいなんだけど…覚えてなくて…」
私が申し訳なさそうに伝えると、みんな首を傾げたり隣の人と顔を見合わせたりしている。
「なんか言ってたっけ?」
「知らねぇ。先生、またキッドに揶揄われたんだろ。おい、キッド!お前、何言ったんだよ。先生困ってんじゃねぇか」
牛島君が遅れて戻ってきたキッド君に向かって叫んだ。
「んー?あ、先生。着替えてくるから、もう少し待っててよ」
ひらひらとこちらに手を振って、部室の中に入っていくキッド君。
「お、先生。もしかしてデートか?」
「そんなわけないでしょう。ほら、もう遅いんだからみんな着替えて早く帰らなきゃ」
自分を囲んでいた生徒達が、楽しそうに部室へと入っていくのを微笑ましく見送る。少しして、着替えたキッド君達が出て来た。
「よし、じゃあ帰ろうか。車まで見送るよ、せんせ」
「え!?あなたが言ってた約束って言うのは?」
「え?約束なんてしてないよ。先生が面倒な人にからまれてたから、嘘ついたんだ」
キッド君はそう言いながら私の背中に軽く手を添え歩き出す。
「先生、橋本に絡まれてたんだって?嫌な時は嫌だって言った方がいいぜ」
「先生を呼び捨てにするのはやめなさい。聞かれたらどうするの」
「あの先生、この前の授業自分の自慢話で終わったんすよ。俺、あいつ嫌いです」
「あいつもダメ。みんな困ってるのね」
牛島君と甲斐谷君が渋い顔をして文句を言うのに対して、他の生徒達もうなづいている。
ここまで生徒達から言われているのであれば、何か考えなければならないと思わずにはいられない。新たな悩みのタネが現れ、小さくため息をついた。
「…あ、ちょっと待って」
駐車場へと向かう途中、突然キッド君が立ち止まり私を後ろへと隠した。
「…やれやれ、諦めが悪いねぇ」
「どうしたの?」
「んーいや、先生もうちょっと俺らとお喋りしようよ」
「ダメよ。帰らなきゃ」
「明日休みだから、少しくらいいいでしょ」
「じゃあ、花火やろうぜ花火!俺、花火していい場所知ってるぜ?」
「今から!?」
「やりたいヤツはついて来いよ。あ、でも花火買って来ねぇとな」
「じゃあ、俺達が買ってきますよ。先生の車で」
「あ、勝手に…」
「おう!じゃあ場所、後で送っとくから待ってるぜ!」
牛島君を先頭に、わらわらと生徒達がついて行く。
「先生。とりあえず、近くのスーパーにでも行こうか」
「行こうか、じゃなくて…」
「みんなやる気になっちゃってるし…ね?」
「…もう。大会前にボヤ騒ぎ起こして出場できなくなっても知らないよ?」
「先生はそんな事起こさせるような人じゃないって、信じてるから」
「なんて人任せ…」
仕方なく一時間だけという約束のもと、彼らに付き合う事にした。
「甲斐谷君、牛島君に電話して何人いるか数えてもらって?」
「わかりました」
スーパーに着いて私がそうお願いすると、甲斐谷君がすぐに連絡を取ってくれた。
「どうしたの?」
「飲み物くらい買っておかないと…あなた達、練習した後で汗かいてるのに水分ちゃんと取ってるか心配だもの」
「そんなに気を使わなくてもいいのに…でも流石、保健室の先生」
「あなた達の身体と心の健康を守るのが私の仕事だからね」
「俺、先生のそういう所好きだよ」
「ありがとう」
生徒達と信頼関係を築いてこそ悩みを解決する大事な事だと思っているので、好かれる事は素直に嬉しい。
「…ん〜まぁいっか」
「どうしたの?」
帽子で少し目元を隠したキッド君を不思議そうに見つめる。
「いやね、大きな花火は危ないかなと思って。ほら、鉄馬が持ってるやつとか」
「え?」
彼が指差した方を見れば、打ち上げ花火であろう太い筒状の物をいくつも持っている鉄馬君がいた。
「先生、向こう十人いるって…うわ、鉄馬さんそれ全部買うんすか?」
「派手な方が良いと思って」
「危ないからせめて一つにしとこうか」
「待って、大きいのは先生が見て選ぶわ」
あの鉄馬君が意外とノリ気なのは喜ばしい事なのだが、安全面を考えると良しとは言えない。打ち上げ花火を一つと手持ちの花火をいくつか、そして人数分のスポーツドリンクを買い、教えられた場所へと向かった。
「お!来た来た!」
「はい、みんな。先生から飲み物の差し入れだよ」
「ありがとせんせー!」
「どういたしまして。消化用の水とかは大丈夫なの?」
「家近い奴がバケツ持って来てくれたから大丈夫!」
「良かった。ゴミは先生が持って帰るから、ちゃんとまとめるのよ?」
「「はーい!」」
返事をしたと同時に花火に群がる生徒達。付属のロウソクから花火に火をつけ、あちこちで色とりどりの火花が広がる。その光景を見ながら、座れそうな場所に腰をかけた。
「先生はやらないの?」
キッド君がみんなの輪から離れて、こちらへと歩いて来た。
「先生は見張り役だから」
「いいじゃない。はい、持って来たよ」
差し出された花火をお礼を言って受け取る。
「先生」
いつの間にか鉄馬君がライターを持ち、目の前で待機していた。
「ありがとう鉄馬君。でも正面は危ないからね」
自分が横に移動して花火に火をつけてもらう。少しして、先端から赤色の火花が出始めた。
「鉄馬ー!火が消えたから来てくれー!」
「む」
呼ばれた鉄馬君はすぐさま駆け出して行った。
「鉄馬君はライターを持って走り回ってるけど、花火してるのかしら?」
「あれはあれで楽しいらしいよ」
「そうなの?」
「うん、本人が楽しいって言ってたからね。先生、火ちょうだいよ」
「はいはい」
赤色だった火花がオレンジ色に変わっていた。その先端に、キッド君が持った花火が近づく。
「先生、明日から俺あんまり保健室行けないかも」
「真面目に練習する気になった?」
「陸が怖いんだよね」
「あなたが真面目にしないから、甲斐谷君が怒るのよ。今年の西部は戦力が揃ってるって言われてるみたいじゃない。十分優勝を狙えるからみんなやる気なのよ」
キッド君が持っている花火から、緑色の火花が出始めた。
「みんなの調子も良さそうだし、きっと勝ち進めるわ」
私のオレンジ色の火花とキッド君の緑色の火花が交差する。
「…そんなのわかんないよ。あんまり期待しない方がいい」
「え?」
どこか冷めたような声に、思わずキッド君の方へと顔を向けた。すると私のオレンジ色の火花が消えキッド君の花火だけが残る。緑色の火花がどこか遠くを見つめたキッド君の顔を照らしていた。
「…キッド君?」
「キッドー!先生ー!打ち上げ花火やるぜー!」
「鉄馬が火着けるって!」
「おっと先生。ちゃんと見てあげないと、鉄馬変な所に火つけちゃうかもしんないよ?」
「え…あ、そうね。ちゃんと、見てあげないと…」
こちらを見たキッド君の表情はいつもと変わらず、さっきの言葉は空耳だったのかと思ってしまう。
(キッド君…)
仲間達の輪に戻って行くキッド君の背中に、少しだけ不安を感じたのだった。
「くっそぉ〜!惜しかったんだぜ?せんせぇ!!」
「うんうん、そうね。みんな良く頑張ったわ。でも、本番はこれからでしょう?気持ちを切り替えて、この前の大会で不安な部分を改善していきましょう?」
放課後、王城高校にもう少しの所で負けてしまったアメフト部の生徒達が保健室に集まっていた。
「先生、ウチの監督より監督みたいな事言ってるよ」
「さ、ほら練習練習!あれ監督さんじゃない?怒られるわよ〜?」
グラウンドにわかりやすい人の姿が見え、生徒達もそちらに目を向けた。
「あ、ホントだ。仕方ねぇ行くか」
「もうちょっとのんびりしたいんだけどなぁ…」
「行きますよ、キッドさん!」
「わかった、わかったから…もう」
ぞろぞろと生徒達がグラウンドへと向かって歩いて行く中、最後に出ようとしていたキッド君が入口の前で止まった。
「キッド君、甲斐谷君に怒られるわよ?」
「…先生、俺達が負けてガッカリした?」
キッド君はこちらを見ずに、私が答えるのを待つ。
「…してないよ、だってまた次があるもの。それに、見ているだけの先生にあなた達に苦言を言える権利はないわ」
止まったままの背中に優しく手を添える。
「勝負の世界だから勝ち負けが一番だろうけど、先生はあなた達が後悔しない試合ができたらそれでいいと思ってる」
軽く背中を押してあげれば、すんなりと前へと進んだ。
「チームメイトを信じて、キッド君の全力のプレーを見せてね。きっとみんなもあなたに応えてくれるから」
「…うん」
振り返った彼の表情はまだ少し不安が残るが、仲間の元に走って行く足取りはしっかりとしていた。
(みんなと一緒に前へ進めれば、もっと強くなれるはずだから)
彼を縛り付けているものが早くなくなってくれますようにと、沈みかけた夕日を見ながら願った。
それから大会が始まり、順調に勝ち上がっている西部高校。今日は白愁高校と対戦するそうで、ちょうど近くで講習会があったので見に行くことにした。
「あぁ、もう!こんな時に電話なんてして来なくていいのに!」
講習会は時間通りに終わり、余裕で試合開始時刻に間に合うと思っていたのに例の橋本先生が緊急でもない連絡をしてきたせいで遅くなってしまった。
「一試合って何分なのかしら…調べておけば良かったわ」
走って会場へと入り、観客席へと出ればやけに静まり返っている。
「え、もしかして終わっちゃってる?」
間に合わなかったのかと周囲を見渡せば、見慣れたユニフォームが何やら一箇所に集まっている。
「作戦会議中なのかしら?」
もっとよく見ようと近づけば、円陣の中心で誰かが倒れているのが見えた。
「…え」
嫌な予感がしてさらに足を早める。そして見えたのは、ぐったりと横になっているキッド君だった。
「…キッド君!?」
私の声が聞こえたのか、他の生徒達がこちらを向いた。
「せ、先生!!…早くこっちに来てくれ!」
「すみません!西部高校の保健医です!通してください!」
緊急事態に許可など取っている暇はない。入れそうな場所を見つけ、すぐさま泣きそうな顔している生徒達の元へと駆け出した。
「先生、キッドが…!」
「落ち着いて!まだ試合中でしょ、気をしっかり待って!キッド君は先生がついてるから」
そう言ったものの、自分も落ち着いているとは言い難かった。慌ただしく動く心臓に邪魔されて声が震えてしまっている。
「この子は私が見ます。監督さんは試合を」
「…お、お願いします」
「みんな深呼吸して、大丈夫だから」
青ざめている何人かの生徒の背中をさすってあげる。
「先生、キッドさんの事お願いします」
早くに立ち直った甲斐谷君がヘルメットを被りながらそう言った。
「うん、わかったよ。先生に任せて」
担架に乗せられたキッド君と一緒に移動する。
「…う」
移動している途中でキッド君が声を上げた、
「キッド君大丈夫!?先生の事わかる?」
虚ろな目がこちらを見つめ、私の姿を確認するとキッド君が顔を背けた。
「…なん…で、先生がいるの…嫌だ、こんな…情けない姿、見ないで…」
「情けなくなんかないよ。今は喋らないで、口の中を切ってるから痛いでしょう」
「…」
キッド君は顔を背けたまま、何も言わなかった。そのまま病院へと連れて行き、診察を受けた。
「…腕の骨にヒビと打撲。他は特に問題なさそうね」
地面に強く打ち付けられたと聞いて、頭など神経系に影響していたらどうしようかと思っていたがひとまず安心した。
「…どうしようか、みんなの所に戻る?」
「…どの顔さげて戻ればいいのさ。俺のせいできっと負けてる…」
「まだわからないじゃない…とりあえず、今日は家に帰りましょうか。監督さんとみんなには大丈夫だったって伝えておくからね」
「…」
彼は俯いたまま何も言わなかった。タクシーを呼んで家まで送る間、いくら声をかけてもずっと下を向いたまま彼は一度も口を開く事はなかった。
それから一週間、あんなに頻繁に保健室へ出入りしていた彼は一度も顔を出さなかった。学校には来ているようであったが、避けられているようで校内を歩いていても顔を見る事はなかった。自分から出向く事もできたが、それはしてはいけないような気がしてやめた。彼の気持ちが落ち着くまで、私はただひたすら待つしかできなかった。
しかし、彼がどんなに会いたくなくても月に一度は顔を合わせないといけないのが私の仕事上の決まり。
(とは言っても、絶対ってわけじゃないから来ないかもしれないな…)
そんな事をぼんやりと思っていると、控えめにドアがノックされる。もしかしてとわずかな期待を込めて返事をすれば、少し開いた間から俯いたキッド君の姿が見えた。
「…来てくれてありがとう。でも無理しなくていいよ、あなたがちゃんと学校に来てるってわかっただけで十分だから」
「…」
そのまま帰ってしまうかと思ったが、キッド君は中に入りソファーへと座った。
「…ココアでも飲む?今ならマシュマロ付きよ〜」
返事はなかったが、少しだけ頭が動いたのを見逃さなかった。準備をしてテーブルに置いてあげる。俯いていて表情はわからなかったが、良くない状態である事はわかった。
「…先生…俺のせいで、負けたよ」
キッド君が病院へと行った後、一人立ち向かった鉄馬君も倒れ甲斐谷君も最後まで頑張ってみんなを引っ張ったが勝つ事はできなかった。
「キッド君のせいじゃないよ」
「いいや、俺のせいだよ。俺が油断したから…俺が…望んだから…!」
悲痛な声を上げ頭を抱えた彼の手に、自分の手を重ねる。
「先生、聞いたよ?キッド君のポジションが一番危ない所だったって…一人でプレッシャーを背負って、危険な役目を受け持って怖かったでしょう…よく頑張ったね」
「……せん、せ」
こぼれ落ちる雫をハンカチで拭いてあげる。少しだけ顔を上げた彼は、出会った時のようにまた少しやつれていた。
「大丈夫。それにね?本当に負けたのがキッド君のせいって言うなら、彼らがあなたを心配してここまで追いかけてきたりしないはずよ?」
「…え?」
「ほら、あそこ見てごらん?さぁ、誰の足でしょう?」
私が指差したのは、部屋の下側に風を通すためについている窓。そこから何人かしゃがみ込んでいる姿が丸見えである。
「頭隠して尻隠さずってこの事ね」
ハンカチをキッド君に渡し、ゆっくりと保健室の入口へと向かう。ドアを勢いよく開けて廊下を見れば、鉄馬君を始め甲斐谷君や牛島君などアメフト部のメンバーが驚いて自分を見上げていた。
「下から見えてるからね。言いたい事があるなら、入っておいで?」
各々気まずそうに顔を見合わせると立ち上がり、緊張した顔で保健室の中へ入って行く。
「…」
「…みんな、俺のせいでごめ…」
「キッドさんすみません!勝てませんでした!」
キッド君の言葉を遮って甲斐谷君が大きな声を出し頭を下げた。
「なんとか追いつこうとしたんですけど、力不足で…でも、次は負けません。もっと練習して、強くなって今度は絶対勝ちましょう」
そう言って、甲斐谷君は顔を上げた。
「キッド、お前のせいじゃねぇよ。あいつにビビっちまった俺も悪いしな…あー!ちくしょう!卒業じゃなかったら、アイツにもう一回リベンジしたかったぜ!」
「勝てんのかアイツに?」
「まずあれぐらいデカくなんねぇと無理じゃね?」
「そこはお前らが自分で考えろ。練習なら俺が付き合ってやるからよぉ」
「えぇ〜牛島さんでも俺らキツいのに〜?」
牛島君と他のメンバーがふざけ合う。彼らはもう次を見据えて進もうとしているが、肝心のキッド君はまだ不安そうな顔をしている。すると、鉄馬君がキッド君の近くへと進んだ。
「…俺はまたキッドと一緒にアメフトがしたい」
「…鉄馬」
「キッドは嫌か?」
「……ううん、俺も鉄馬と一緒にアメフトやりたいよ」
そう笑って答えたキッド君を見て、自分も他の生徒達も安堵のため息をついた。
「よし!じゃあ、やろうぜアメフト!身体が鈍って仕方ねぇんだよ!」
「監督に練習は休みだって言われたじゃないですか」
「でもよぉ…」
「流石に監督さんも休みって言っておいて、わざわざここまで確認しに来ないわよ。軽い練習くらいならしてもいいんじゃないかしら」
「先生がいいって言うなら、やりましょう」
「陸、実はお前も練習やりたかったんだろ」
「当たり前でしょ、次は絶対勝つんすから。俺、先に行きますよ」
甲斐谷君は一礼して早々と保健室を後にした。
「やべぇぞ、キッド。陸が前よりも本気だぜ?こりゃ大変になるな〜」
「困ったねぇ…こんな早くから焚きつけてちゃ、大会前に燃え尽きちゃうよ」
「よっしゃ、俺達も行こうぜ!キッド、腕治ったらお前も早く来いよ!」
「…うん、わかったよ」
次々と生徒達が保健室を後にし、最後に残った鉄馬君が入口まで来て振り返る。
「待ってる」
「うん、すぐ戻るよ」
その返事に満足そうな顔をした鉄馬君は私に一礼してドアを閉めると、バタバタと廊下を走り去っていった。
「廊下は走らないで欲しいんだけどな…」
「…先生、ありがとう…俺、また頑張ってみようと思う」
私の渡したハンカチを見つめながら、キッド君がそう言った。
「良かった…じゃあまずは、しっかりご飯食べてよく寝る事ね。腕も治さないといけないから、栄養あるものを食べないと…何かあったかな…」
お腹が空いた時のために入れておいたお菓子があったはずだと、自分の鞄の中を探す。
「あ、ほら。大福があった!」
「でもそれ先生のでしょ」
「先生はまた買えばいいの。それより、あなたの細すぎる身体の方が心配!スポーツするなら、特に食事と身体作りは大切よ?」
「保健室の先生が言うと説得力があるねぇ」
差し出した大福を受け取り、大人しく食べ始めたキッド君を見て微笑む。外に目を向ければ、練習を始めたアメフト部の生徒達の姿が見えた。
「早くみんなの所に戻りましょうね」
「…うん」
大福を食べ終わったキッド君は窓に近づき、みんなの練習を見ていた。それを眺めながら、日誌を書こうとペンを持つ。するとドアがノックされ、返事をする前に誰かが入って来た。
「〇〇先生、今少し…おい、こんな所で何してる武者小路…」
橋本先生はキッド君の姿を見つけると、鋭く睨みつけた。慌てて彼と先生の間に入った。
「今日彼の面談の日だったんです。今からやろうと思ってまして」
「はぁ…そうですか。武者小路、お前試合で腕を怪我したそうじゃないか。まったく、ここで呑気にしてる間に練習くらいできただろう?そんなのだから相手にやられるんだ」
「やめて下さい橋本先生」
静止をかけても、ヒートアップしたこの人の暴言は止まらなかった。
「これ以上人に迷惑をかけるな。お前は〇〇先生にもチームにもいい迷惑だ」
「…っ!!」
保健室にばちんと大きな音が響いた。じんじんと痺れる手のひらを握りしめ、驚いてこちらを見ている男を睨みつけた。
「やめて下さいと言っているでしょう!それに、腕を怪我して一番悔しいのは彼です!負けて一番悔しいのは彼らです!結果しか知らない…彼らの努力を知らないあなたが、彼らに文句を言う資格はありません!」
この学校に来て初めてこんなに大きな声を出しただろう。ばくばくと心臓が動いているのがわかる。私に頬を叩かれた彼は状況を理解すると、顔を赤くして私を睨み手を振り上げた。
「この…新人が調子に乗るな!!」
「先生!」
「あーーっ!橋本先生が〇〇先生を殴ろうとしてるーっ!!」
外から大きな声が響く。声のした方を見れば、アメフト部の生徒達がこちらを見て指を差している。すでに異変を感じた甲斐谷君と鉄馬君が走ってきており、他の生徒達もそれに続いた。
「〇〇先生に何するつもりだったんですか、橋本先生」
一番に着いた甲斐谷君が、外から保健室に入ってきた。
「…そ、それは」
わらわらとアメフト部以外の生徒まで集まり始め、橋本先生の顔が青ざめ始める。
「…む、虫だ!〇〇先生に虫がついていて追い払おうとしただけだ!もういなくなったから俺は帰るぞ!」
生徒達に睨まれ、慌てて保健室から橋本先生が出ていった。
「…はぁ、よくやったよ陸」
「どうも。てか先生、本当の事言えば良かったのに」
「でも、私の方が先に手を出したから…」
「どうせろくでもないこと言って、先生怒らせたんだろ?自業自得じゃねぇか」
「それにアイツ、女性に叩かれました〜なんて恥ずかしくて言えないっすよ」
「う〜ん、まぁ穏便に済むなら黙っててもいいかなって…」
「先生は優しいねぇ…でも、良かった。先生が叩かれなくて」
「…あのキッドさん」
「ん?」
「先生に近いっす」
甲斐谷君の言葉に、初めて今の自分の状況を見た。叩かれそうになった瞬間、キッド君に手を引かれ抱き寄せられてからそのままだった。
「あっ!ご、ごめんね!先生もびっくりしちゃって!」
慌てて距離を取れば、どこか少し残念そうに笑う彼と目が合う。
「陸〜邪魔すんなよ、お前」
「え!俺が悪いんすか!?」
「よーし、めんどくさい奴も追い払ったし続きしようぜ〜」
納得がいかないといった顔の甲斐谷君を引き連れ、グラウンドへと戻っていく彼ら姿を見送る。
「俺も行こうかな」
「え!?」
「いや、練習には参加しないよ?もっと近くで見たいんだ」
「…それなら問題ないよ、行っておいで」
「うん、そうする」
キッド君は荷物を持つとドアの前まで行き、こちらを振り返った。
「先生ありがとう。俺達の事守ってくれて…俺、先生の事好きだよ」
「それは良かったわ。こちらこそ叩かれそうな所を助けてくれてありがとう」
「…うん、じゃあ行ってくるね」
「いってらっしゃい」
まだ何か言いたそうだった彼は、帽子を被り直して保健室を出ていった。
「…ふぅー!とりあえず、一件落着…はぁ、叩かれると思った時はびっくりした…」
先ほどの一連を思い出しながら、ココアを入れゆっくりと椅子へ座った。
「…これで思いっきりアメフトができるわね。キッド君…」
外から聞こえる声が一層賑やかになる。きっと彼が合流したのだろう。私はそれを聞きながら、途中で止まっていた日誌の続きを書く事にした。
季節は冬。外は寒々としているのに、保健室の中は人口密度が高いおかげで暖かく感じる。
「せんせぇ〜チョコくれ、チョコ〜!」
「冷蔵庫に入ってるよ〜一人三つずつね」
「わぁー事務的ー」
本日はバレンタイン。どうしてもチョコが欲しい男子達が保健室へと群がってくる。毎年思うが、なんとも罪深いイベントである。
「失礼します…って、何この人だかり…」
保健室に新しく顔を覗かせたキッド君は、冷蔵庫に群がる男子生徒達を見て驚いていた。
「み〜んな、先生のチョコをもらいにきてるの。キッド君も持っていっていいわよ」
「俺は先生から日頃色々もらってるから、今日はみんなに譲ろうかな」
「うるせぇぞキッド!お前はどうなんだよ〜!」
「俺はバレンタインに興味ないからさ」
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「俺がここに来る理由は、先生に会うためだよ」
同級生を軽くかわし、私の側に来ると小さな箱を取り出した。
「はい、先生。この前のお礼と借りてたハンカチ」
「お礼とハンカチ?」
「そう。ハンカチ、貸してもらったでしょ?あれ、俺使っちゃったからさ。新しいのも買ってきたんだ」
彼に貸したハンカチの事を思い出し、ポンと手をついた。あの時は色々ありすぎて、頭から抜け落ちていた。
「そう言えば…洗って返してくれるだけで良かったのに…わざわざ新しいのまで…」
「ちょうどいいのがあったんだ。この時期は贈り物の種類が豊富で助かるよ」
「すげーキッド、逆チョコじゃん!」
「しかも先生に!」
「こらこら、からかわないの!お礼だって言ってるでしょう?」
チョコを口に入れたまま集まってきたギャラリーを追い払う。
「ありがとうキッド君。大切にするね」
「うん、そうしてもらえると俺も嬉しいよ」
お礼を言って微笑めば、柔らかい笑みを返してくれる。元気を取り戻してくれた彼に、心から嬉しいと思った。
さらに時は過ぎ、この学校で二度目となる生徒達の門出を祝ってきた。
「…さて、今日で面談も最後ね。キッド君が無事に卒業を迎えられて先生嬉しいよ」
キッド君からもらったハンカチを手に、まだ少し潤んでいる目元を拭った。しかし卒業式を終えた彼はいつもと変わらず、ゆったりとソファーに座りくつろいでいた。
「卒業しても、暇があったら来るよ?」
「暇つぶしに来るのはダメ。ここは休憩所じゃなくて…」
「避難所だったね」
私の言葉を遮ってキッド君はそう答え、用意していたココアを飲んだ。
「そう避難所。何か困ったりしたら来てもいいよ。ちょっとだけなら協力してあげる」
「経過報告だけじゃダメ?」
「ん〜まぁ、それなら…」
私はたくさんの本などが並べられている棚から、一冊のノートを取り出してキッド君の前へと座る。
「さぁ、最後の面談…と言っても三年も話してたら聞く事もなくなるわね。ほとんど聞いちゃったし」
「…本当に?まだ、あるんじゃないの?聞きたい事とか、言いたい事とか…さ」
そう言いながら、キッド君は目線を逸らし指を擦り合わせる。
「…そうね。じゃあ一つだけ」
びくりとキッド君が肩を揺らし、擦り合わせていた指をぎゅっと組んだ。
「毎日、朝昼晩ちゃんとご飯を食べる事かな?」
「…え、それだけ?」
「それだけって…一番大切な事よ?あ、でも睡眠も大事ね。じゃあ、規則正しい生活を心がける事、かな」
キッド君は驚いた顔をした後、気の抜けたようにソファーにもたれかかった。
「…先生は最後まで俺の味方なんだね」
「そうよ。これからもずっと、先生はキッド君の味方だから」
私は机に置いたノートをキッド君に差し出した。キッド君は目を丸くして不思議そうにノートと私の顔を交互に見た。
「これはこの三年間、あなたと話した事、学校であった事を先生なりにまとめたもの。言ったらアルバムみたいなものね!いい事も悪い事も書いてあるけど、全部あなたの大切な日々よ」
キッド君はノートを受け取り、中身を確認する。
「これをキッド君にあげるわ。楽しかった事は活力に、失敗した事は繰り返さないように。このノートを見返して、これからも頑張ってね」
キッド君は一通りノートに目を通すと、それを閉じ俯いた。
「…すごいな、先生は。俺の欲しかったもの、全部くれるんだから…」
「そうかな…あなたの頑張りじゃない?」
「それでも、俺は先生に色々もらったよ。ありがとう先生」
「うん、卒業しても元気な姿を見せに来てね」
すると、バタバタと廊下から誰かが走ってくる足音がする。
「おい待てって陸!もうちょっと待てねぇのかよ!」
「だって予約してる時間に間に合わなくなりますよ!?」
「後輩君がお迎えに来たみたいね〜」
「やれやれ、落ち着きがないねぇ。これから先が不安だよ」
彼と顔を見合わせて笑っていると、ドアをノックする音がした。
「キッドさん!予約した時間になりますよ!」
開いたドアから甲斐谷君が顔を出して叫び、キッド君が立ち上がる。
「わかったよ、すぐ行くから。みんなと待ってて」
「ほんとにすぐ来てくださいよ!」
「はいはい…もう」
甲斐谷君は走って来た道を走って戻っていく。
「もー廊下は走らないっていつも言ってるのに…」
「はぁ…最後くらいここでゆっくりしてたかったんだけどねぇ」
「仕方ないわね、見送ってもらうんだから。主役がいないと始まらないもの」
キッド君は荷物を持って入口の前に立ち、こちらを振り返った。
「先生」
「ん?どうしたの?」
「…俺、先生の事好きだよ」
多分今まで見てきた中で、一番の笑顔だったと思う。
「ありがとう。生徒にそう言ってもらえる事は先生にとって一番嬉しい事だわ!」
初めて出会った時は警戒されていた自分が、ここまで彼の心を開くことができこんなに嬉しい事はない。私は満面の笑顔で彼を見送ったのだった。
「先生!かくまって!」
放課後、突然飛び込んできた生徒は私を押し退けて机の下に隠れた。
「はぁ…まったく!アメフト部のキャプテンは、毎年誰かに追われる運命なのかしら」
「しっ!いいから助けて下さいよ!」
「はいはい…」
仕方なく普段通りに仕事をしていると、廊下から女子生徒の話し声が聞こえた。コンコンとドアがノックされ、返事をすれば女子生徒達が顔を覗かせた。
「〇〇先生、甲斐谷君こっち来てないですか?」
「ここには来てないけど、保健室の前を走り過ぎて行ったのは見たかな〜」
「ほんと?ありがとう先生〜!」
女子達は嬉しそうに話しながら去って行った。
「…はぁ、ありがと先生」
「別にそこまで逃げなくてもいいじゃない。女の子に追いかけられるなんて、他の男子達が聞いたら羨ましがられるわね」
「だったら変わって欲しいくらいですよ。俺は練習に行きたいのに、よくわかんない話で足止めされて…」
「アメフト一番ね」
「そりゃそうっすよ。はぁ、部室前にもいるんだろうな…先生、ここで着替えて行っていいですか?」
「いいよ」
甲斐谷君が保健室で着替え始め、私はいつものように日誌をまとめる。
「あ、先生。キッドさん最近会いに来てます?」
「うん?アメフトの練習を見に来るついでに、こっちにも顔を覗かせてくれるよ」
キッド君は卒業してからも、月に一回。アメフト部の様子を見にくるついでに、保健室へ顔を出してくれる。特に変わりなく、元気そうで安心している。
「…あの人、まだ言ってないのか…」
ぼそりと甲斐谷君が何か言ったがよく聞こえなかった。
「先生、もしかして彼氏とかできた?」
「えぇ〜?なんでそんな事聞くの?」
「なんとなく。で、どうなんですか?」
「そんな人いたら遅くまで残って、あなた達の花火の監視役なんてしてません」
皮肉混じりにそう言うと、甲斐谷君はなぜか顔をしかめた。
「あぁ〜もう、じれったいな!」
「なんで甲斐谷君が怒ってるの…」
甲斐谷君は着替え終わりシューズを履いて、外へと出た。そして荷物を持ち、私をじとりと見る。
「…先生、そろそろ覚悟しといた方がいいっすよ」
「え、覚悟って何を?」
甲斐谷君はそれ以上何も言わず、グラウンドに走って行ってしまった。
「…え、もしかしてこのままだと独り身ですよって事かな…」
自分は今が楽しいので気にしてはいなかったが、まさか生徒に心配されるとは思ってもいなかった。しかし、生憎今は相手を作る気はない。それに以前叩かれそうになった経験もあり、男性というのに若干抵抗ができてしまった。
「まぁ、私は別にねぇ…」
独り身でも学校にくれば生徒達がいる。それだけで十分だとこれ以上考えるのはやめた。
今日も保健室で日誌をまとめる。外からは部活に励む生徒達の声と吹奏楽部の演奏練習が聞こえてくる。
「今日もみんな元気と…」
すると外からコンコンと窓を叩く音が聞こえた。そちらに顔を向ければ、カウボーイハットを被った人物がひらひらと手を振っている。
「…キッド君」
近づいて窓を開ければ、少し冷たい風が入ってきた。
「先生、久しぶり。会いに来たよ」
「久しぶりって…先月も会ったでしょう?」
彼は変わらず、一ヶ月に一回必ずここへ顔を覗かせる。
「そうだっけ?俺はすごく久しぶりに感じたよ」
今日の彼は少しだけ、テンションが高いような気がした。何かいい事があったのかもしれない。
「どうしたの?今日はやけにご機嫌ね」
「ん?まぁね、やっと本気を出せるから嬉しいんだよ」
「?」
キッド君の言っている事が分からず首を傾げると、彼は頬杖をついて上目遣いで私を見た。
「せんせ、今年で俺はいくつになったと思う?」
「え?えーと、去年甲斐谷君が卒業したから…今年で二十歳ね!とうとうキッド君も大人の仲間入りかぁ〜!」
嬉しさに手を叩き祝えば、彼はにっこりと笑った。
「そ。で、タイミングの良いことに俺今日誕生日なんだよねぇ」
「え!?あ、そういえばそうね!あぁ〜来るって言ってくれれば、何か用意してたのに!何かないかしら…」
キョロキョロと保健室を見渡すが、治療道具と医療関係の本しか見当たらない。いつも持ち歩いているお菓子も、さっき食べてしまった。
「いいよ先生。お祝いなんて」
「ダメよ!成人になったお祝いを何か…」
「じゃあ俺のお願い聞いてよ」
「お願い?」
「うん、そう」
「お願いって何?」
「俺の恋人になって」
キッド君はにこにこと笑顔のままそう言った。
「こ、恋人?先生と?」
「他に誰がいるの…はぁ…先生ってばひどいよねぇ。俺がずっと好きだって言ってるのに、さらりと流すんだから…」
確かに好きだと言われた事はあったが、あれは教師としての好きだとずっと思っていた。
「まぁ…教師と生徒だなんて世間体がうるさいと思ってたから、曖昧にしてた俺もいけないんだけど」
もたれかかっていた窓から離れ、彼は服装を正した。
「今は元生徒と教師だ。それに俺も二十歳で子供じゃないから、本気で口説いても何も問題ないよね」
そう言って、彼は小さな花束を取り出し私へと差し出した。
「好きだよ先生。一年の時からずっとね」
甲斐谷君が覚悟をしておけ、と言ったのはこの事だったのか。それにしても予想の斜め上の出来事に、みっともなくおろおろするしかなかった。
「…ちょ、ちょっと待って!恋人になるっていうのは早いというか、なんというか…」
とにかく少し考える時間が欲しい。こんな告白された事ないし、元教え子というのもあって軽率に返事はできない。
「先生今すごく混乱してるから…えぇと、今日は誕生日のお祝いにご飯を食べに行くだけじゃダメ…かな?」
キッド君は少し考え、笑って頷いた。
「うん、今日はそれでもいいよ」
『今日は』という事は、これ以降もこのようなアプローチが続くのか。自分の心臓が保つかどうか心配になる。とにかく冷静になれる時間を確保する事ができたと、ほっと息をついた。
しかし、安心したのは束の間。一緒に食事に行ったが最後、彼の紳士的な振舞いと熱烈なアプローチの連続に私の心臓は耐えられず早々に白旗をあげる事になるのだった。
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