キン肉マン

生きるって本当に大変だ。嫌がらせをしてくる先輩、仕事をしない後輩、これ以上面倒事が増えないように笑顔でやり過ごす日々。
「こんなに頑張ったご褒美が、ドーナツ一つじゃ耐えられない…」
いつも仕事終わりに寄るカフェでコーヒーとドーナツを食べて帰るのだが、今日は残業で遅くなってしまったためお持ち帰りとなってしまった。残業になった理由も理由なので、いつもは一つしか買わないドーナツを豪快に五つ買って帰る事にした。
「お腹空いた…行儀が悪いけど、食べながら帰ろう」
空腹に耐えられず、ドーナツの入った箱を開け一つ取り出した。真っ黒なチョコでコーティングされ、内側には赤いベリージャムがのぞいている。期間限定、ハロウィン仕様の特別なドーナツ。
「美味しそう…いただきます!」
そう言って、口にしようとした時だった。
「わっ!?」
段差につまづいて、手からドーナツが飛んでいく。
(せっかくの限定ドーナツが…!)
赤いベリーソースが街灯に照らされ、虚しく光る。悲しい結末にただ手を伸ばすことしかできない自分の目の前で、ドーナツが地面に吸い込まれて消えた。
「え?」
アスファルトの道に手をついて、ドーナツが落ちたはずの場所を凝視する。しかし、どこにもドーナツはない。本当は落としていなかったのかもと、箱の中を確認するが四つしか入っていなかった。
「…え?どこに行ったの、私のドーナツ?」
周囲を見渡すが、それらしき物はない。もう一度、ドーナツが落ちたであろう場所に目を向ける。すると、食べようとしていたドーナツを思わせるような何かがぬるっと現れた。
「…え」
何だこれと思った時には、ずるりと真っ黒な身体が現れ自分を見下ろしている。ドーナツの穴のように、ぽっかりと空いた所から星空が見えた。
「…お前が落としたあれは何だ?」
「ひぃ…喋った…!」
人ではない何かが口もないのに声を発した事に驚いていると、ぬるりと穴の空いた顔が近づいてきた。
「質問に答えろ。あれは何だ」
「…ど、どーなつ…と言いまふ…」
がしりと顔を掴まれ、感情の読めないこの生き物に恐怖を覚えた。
「…まだあるのか」
「あ、ありまふけど…」
「よこせ」
持っていたドーナツの箱を差し出すと、私の顔から手を離してそれを取り上げる。そして蓋を開け中を覗くと、空いている穴にドーナツが次々と吸い込まれていく。私は身体を震わせながら、それを見ていた。
「…まあまあだな」
カタンとドーナツの空箱が足元に転がった。
「悪いな全部なくなった。代わりにお前の望みを聞いてやる」
「…の、望み?」
「あぁ、俺は今みたいに物を吸い込んで消す事ができる。何か消したい物はあるか?」
また穴が近づいてきて、ドーナツのように自分が吸い込まれそうでぞわりと背筋が冷たくなる。
「…な、ないです…」
「いいのか、せっかくの機会だぞ」
消したい物はたくさんあるが、そんな恐ろしい事は頼めない。早く解放してほしくて、必死に首を横に振った。
「…気が向けばいつでも言ってこい」
不気味な笑い声を残し地面に吸い込まれるようにして、何かわからないそれは消えた。

次の日、会社にて。
「ちょっと〇〇さん、これやっといてって言ったじゃん」
「え?そ、それは彼女がやるからって…」
先輩に仕事を頼まれていたはずの後輩に顔を向ければ、目を逸らされた。
「あなたの方が先輩なんだから、気を利かせてやってあげなさいよ。見本を見せてあげるくらいしたら?」
先輩が私の机に荒々しく紙の束を置き、カツカツとヒールを鳴らして離れていった。後輩は何もなかったかのように、席を立ってどこかへ行ってしまった。
(…何で私ばっかり)
気持ちを落ち着かせるために、一度部屋から出た。誰もいない事を確認して、ずるずると座り込む。
「…あんな奴らいなくなればいいのに」
「あの人間共を消せばいいのか」
「え…」
昨日聞いた声が、誰もいないはずの廊下に響く。慌てて立ち上がり周囲を警戒するが、あの姿もない。気味が悪くなって、早くに自分の机に戻り仕事をする事にした。
「…終わった」
必死に仕事を終わらせて一息つく。そこでやっと、周囲がざわついている事に気づいた。
(何かトラブルでもあったのかな…)
こそこそと話をしている人達の会話に耳を澄ませる。
「△△さん。さっき休憩に行ってから戻ってこないんだけど、早退するって言ってたかしら?」
「◇◇さんも戻ってこないのよ。あの二人、本当に困った人達よね」
会話の中に私の先輩と後輩の名前が出てきて、まさかと思い嫌な汗が背中を流れる。
(でも、たまたまかも…あの二人仲良いから、一緒に早退しただけかもしれないし…)
勝手な行動の多い彼女達の事だから上司にだけ言って帰ったのだと、そう自分に言い聞かせて無理やり仕事に集中する事にした。
結局、その先輩と後輩は帰ってこなかったし早退したのかも確認できなかった。

その次の日。仕事場に先輩と後輩の姿はない。
「〇〇さん、あの二人休むって聞いてる?」
「い、いいえ…」
上司にそう聞かれ、無断欠勤である事がわかった。いよいよ昨日のあの声が現実味を帯びてきた。
(まさか本当に…)
だからと言って、上司や警察に相談したとしてもまともに取り合ってもらえそうにない。証拠も何ないのだから。大事になるかと心配していたが、先輩達がいなくなって三日後には新しい人が来て普通に仕事が回っている。まるで最初からいなかったかのように、時間が過ぎていった。
「ちょっと〇〇さん、これやっといてって言いましたよね」
あの人達がいなくなり職場の雰囲気が変わるかと思ったが、何も変わらなかった。ここまで似たような人間が配属されるのかとため息をつきたいのをぐっと我慢して、突きつけられた紙を受け取った。
(…何も変わらないんだ)
目の前のパソコンのモニターに映る自分の顔を見つめた。

仕事からの帰り道、あの穴に出会った場所に立つ。
「…あ、あの出てきてくれませんか?」
少しの間、何もない地面をじっと見つめた。
「…やっぱり出てこないか」
「何の用だ」
背後から声がして振り返れば、漆黒の闇の中に円形に切り取られた星空が見える。
「ひっ!!」
思わず悲鳴を上げそうになり口元を抑えた。
「カカカ…どうした。消したい人間が増えたのか?」
表情はわからないが、どこか楽しんでいるように感じた。
「あ、あなたが先輩達を…?」
「お前がいなくなればいいと言ったから、望み通りにしてやったまでだ」
「…先輩達はどこに…」
すると、星空の見える穴を指差した。
「…先輩達を戻して欲しいって言ったらできますか?」
「なぜだ。いなくなって清々したんじゃないのか」
「いいえ、結局変わらないんだってわかりました」
「こいつらを元に戻しても反省などしないし、元の態度が変わるわけでもない。お前はまたこいつらに良いように利用されるだけだぞ」
自分の事を心配してくれているのかはわからないが、その言葉に少しだけ恐怖が和らいだ。
「…あなたのおかげで決心がつきました。それに、人間には従う以外にもやり方があるんです」
「…可笑しな人間だな」
そう言って、三歩後ろに下がる。すると、あの穴からずるりと人の頭が出てきた。
「…ひっ!」
「本当にいいのか」
「…だ、大丈夫です…」
どさりと、行方不明だった先輩と後輩が穴から吐き出され地面に落とされる。気を失っているだけで、息をしている事に安心した。
「ブラックホール」
「…え?」
「俺の名前だ」
そう言って、ずぶりと影の中に消えた。

「今までお世話になりました」
そう言って頭を下げ仕事場を出ていく。教えていない事がいくつかあるが、それは私に仕事を押し付けていた罰という事で引き継ぎもそこそこに済ませた。あとは知らない、私にはもう関係のない事だから。
お気に入りのカフェで買ったドーナツとドリンクを持って、公園のベンチでのんびりとする。
「何だ人間、あそこから逃げたのか」
自分の足元の影から、ぬるりとブラックホールが顔を出した。
「ひっ!?…や、やめて下さい。いきなり出てくるのは」
頭だけではなく身体まで出てきて、私の目の前に立つ。いつも夜にしか会わなかったので、初めてはっきりと彼の姿を見た。
「逃げたんじゃないですよ、新しいスタートです」
「都合のいいように言うんだな」
「自分を守るためです。どう頑張ったって他人は変わらない。だったら関わる人を変えてしまう方が簡単です」
「新しい所でも同じだったらどうする」
「その時は…できるだけやってみて、合わなければ…」
「繰り返しじゃないか」
確かに彼の言う通りかもしれないが、あのままより良くなる可能性にかける方がいいと思った。
「そ、そうですね…でも、色々と勉強にはなると思います。それに仕事を変えるだけが、自分を守るためにできる事じゃないですし」
そう言って、買ってきたドーナツの箱を開け一つ取り出した。
「これも私を守るための行為なんですよ。た…食べますか?」
箱を彼の方に押せば、中を覗きこみ一つ取り出した。
「太るぞ」
「えっ!?」
まさかの一言に驚いていたわずかな時間でドーナツが消え、彼が笑い声をあげた。
「まあ、次に行く所がまともであればいいな」
「は、はい…」
そう言い残して、彼は影の中へ消えた。結局彼は何なのか分からず、得体の知れない怖さはあるが自分の事を気にかけてくれたいい人だったなと思った。

「今日からよろしくお願いします!」
新しい職場での挨拶はたくさんの拍手と笑顔に包まれいいスタートをきれた。
「今日からよろしくね。助かったよ、急に人がたくさん減っちゃったから困ってたんだ」
それを聞いて、もしかしてここの職場も良くないのかと不安になる。
「まぁ、でも良かったかな。いなくなったの困った人達ばっかりだったから」
「そ、そうなんですか…」
前の職場と似た感覚に、冷や汗が背中を流れた。
「いきなり辞職届が何枚も机の上にあった時には驚いたな〜挨拶はなかったけど、ちゃんと手続きはしてくれてたみたいで良かったよ」
前のようにただ消えたのではないと聞いて、彼の仕業ではないとわかりほっとした。
「〇〇さん、早速だけど会社を案内するからついてきてね〜」
「は、はい!」
優しそうな先輩に声をかけられ、メモを片手に小走りで近寄る。
「そんなに焦らなくても大丈夫よ。ゆっくりでいいから」
前とは違う扱いに、涙が浮かびそうになる。
(良かった…ここでなら頑張れそう)
新しい決意を胸に、先輩の後をついていく。前しか見ていない私は、後ろの影に気づかない。

「…お前から貰った数だけ仕事はしたからな」

後から聞いたが、私が入る前に四人辞めたそうだ。
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