喉に張り付く藤袴
心の臓が一瞬止まったかのように思え、室内もまた、時を止めたようにしんと静まり返る。
あんなに煩かったのに、あれだけ暴れていたというのに、部屋の中はただじっとりとした沈黙が横たわっていた。
手のひらに突き刺さった破片が、じくじくとした痛みを伴って、夢では無いとこちらを見上げている。よく見れば、めり込んではいるものの、血が出るほどではないのは果たして幸いと呼ぶか。
拾い上げてみたそれは無惨にも粉々に割れていて、元の形には到底戻せそうもなかった。
「……お、おい」
「すまん! ぶつかっちまっ……て」
散々取っ組みあっていた二人は、なんと言葉をかけたら良いものか、最初は戸惑いを見せていた。視線ばかりを注いで突っ立ていたものの、彼女が割れた破片やらを集め始めたところで、ようやく弁明と謝罪をしようと口を開いたのも束の間、彼女の起こした行動に再度言葉を失った。
彼女はさも何も聞こえていないかのように破片を集め終えると、戸を多少荒々しくスパンと開け放つ。縁側に立った彼女はそのまま地面へと、手の内の割れた破片をバラバラと地面へと撒き捨てた。
ちゃらちゃらと、軽い音を立てて打ち捨てられるのは一体なんだったのか。
ストンと地面に降り立った彼女は、裸足のままにスタスタと歩き始める。文句はもちろん、振り返りもせずに歩みを進めていく彼女の背に、六年い組の潮江文次郎とは組の食満留三郎はハッとして気付くやいなや、慌てて後を追い掛ける。
「すまない! 俺たちの不注意だ!」
「本当にすまん! おい、せめてなにか言ってくれ!」
文次郎と留三郎はそう言って追い縋り、どれだけの謝罪を繰り返そうとも、やはり彼女は足を止めることは無い。
二人の声は忍たまの長屋中に響き渡り、なんだなんだと複数の子が興味を引かれて顔を出す。
恥も外聞もなく、二人は彼女を必死に引き留めようとしているが、当の彼女は全くと言っていいほどに響いていない。彼女があまりにも無表情で歩き続けるもので、痺れを切らした文次郎がその腕へ手を伸ばした。
ぐっ、と細い手首を掴んだと思った。
途端、バシッと手酷い音が鳴り響き、顔を出していた子らは肩を跳ね上げて、亀の如く首を竦めていた。
「——触るなよ、潮江文次郎。今はお前たちの声も顔も存在も、何もかもが煩わしいんだ。だから潮江、二度と触れてくれるな」
くノたま六年生の彼女は、忍たま六年生と仲が良く、今日のように時折忍たま長屋へと遊びに来ることが多々ある。話し掛ければ笑顔で応え、宿題に行き詰まった子がいれば助言をしてくれたり、人数が足りないところに混ざって遊んでくれたり、忍たま六年生と同様に広く慕われていた。
故に、忍たまの中でも彼女を知らぬ者はいないが、普段の彼女は快活に笑っている姿が目について、怒りに凪いだ顔など滅多に見る機会はない。それどころか、三年生以下にとっては初めてのことである。
三年生以下の下級生は、初めて彼女が激怒と呼ぶべき激情を六年生にぶつける様を見て、さらにはその激情が激怒を通り越し、敵意を含む声へと変わっていく様子を目の当たりにしたことで、背筋をなぞられる感覚がしては、思わずぶるりと震え上がる。
「……なんだと? もういっぺん言ってみろ」
ここで大人しく、彼女の気が済むまでとことん謝り続ければ良いものを、留三郎は眦を吊り上げて彼女を見た。負けず嫌いの留三郎が、彼女の言葉を売り言葉だと感じ取り、即座に言い値で買い取ったのだ。
長屋の真ん中で繰り広げられる、静かな睨み合いには下級生らは竦み上がる。隣にいる者同士で手を取り合い、震える体を抱き締め合って、けれど目が離せないのは足がそこへ縫い付けられたように動かないからだ。
「何でもかんでも喧嘩だと思うなよ、鬱陶しい。お前は本当に浅慮な奴だな、食満留三郎」
彼女は冷笑をもって吐き捨てると、留三郎の手が彼女の襟元を掴み上げる。
その行いにはさすがに文次郎が止めようと肩に手をかけるが、留三郎は文次郎に、黙っていろ、と怒鳴り声を上げて肩の手をぞんざいに払ってしまう。
下級生らの中では、他の六年生か先生方を呼んだ方が良いのではないかと言う声が上がり出した。
けれど自分たちだけでは判断が付かず、助言を求めるべくしていちばん近くにいた四年生を見やるも、下級生と同様にハラハラした様子の四年ろ組の浜守一郎とは組の斉藤タカ丸を除き、彼らはやけに静かに成り行きを観察しているだけであり、取り合ってくれないことに困惑してしまう。
それならばと、次いで視線を移した先の五年生はといえば、こちらは四年生と打って変わり、やたらと楽しげに笑みを浮かべているもので、どうするのが正解なのか余計に分からなくなってしまう。
右往左往する視線を、結局は中心地へと向けるしか無くなってしまった下級生は、互いの手を取り合って、他の六年生か先生方が現れるしかないのだと、涙を浮かべて諦めた。
「もういっぺん……ねぇ? いいよ、何度でも言ってやるよ、食満。お前たちは煩わしい、だからお前たちはもう要らない。離せよ、食満。皺が出来るだろうが」
ぐっ、と彼女の襟元を掴む手が強くなり、けれど殴ることも言葉を紡ぐことさえ出来ず、睨み付けたままに怒りだけが蓄積されていく。
青筋をたてる留三郎を、冷ややかな目が見上げてきているのが、とにかく気に入らないのだ。
常の彼女にはない、侮蔑を底に隠した目であった。
——もうお前など要らない。
あの捨てた破片たちと同様に、自分たちも打ち捨てようとされるのが我慢ならなかった。
文次郎がいい加減にしろ、と横から手を無理矢理離させたものの、二人は互いに睨み合ったままだ。
“潮江”、そして“食満”。
名前を呼ぶことすら煩わしいと感じているのか、唾棄するようにそう言われると、腹の中に巣食う言いようのない感情が暴れ出しそうになるのを堪えるように、留三郎は一度大きく息を吐いた。
「これだけ悪かったと言っているのに、お前は話をする気もないってか」
「開き直るなよ、食満。お前の謝罪など不要だと言っているのが分からないのか? もういいだろう、お前たちとは金輪際の縁を切ろう」
「おいそれは——」
流石に看過出来ずに文次郎が言葉を挟もうとするも、酷く冷えた瞳がその口を縫い付けた。
ぎろりと向けられる、冷たい刃のような眼光には、自分たちが対象ではないと分かっているはずなのに、下級生らは、ひぃ、と堪らず悲鳴を漏らす。
「それは? それはあんまりだとでも? 良いじゃないか、卒業すればどうせ会うこともない。それが少し早まっただけだよ。互いに不干渉でいよう。お前たちと遊ぶのは楽しかったけれど、お前たちはもう要らないよ」
勝手に話を進め、勝手に去ろうとする彼女に、けれど二人はこれ以上の言葉を持ち合わせない。引き留めようとも、触れることを次は絶対に許さないだろうことは、長い付き合いの中で悟っていた。
だがそこへ、空気を割るようにして新たな人物の声が降ってくる。その声にはさしもの彼女も無視出来ず、歩き出そうとする足が止まった。
「——お前たち、なにを騒いでいる。一体なにがあったんだ?」
留三郎と文次郎が振り向けば、そこには六年い組の立花仙蔵と六年は組の善法寺伊作の姿があり、ただならぬ様子の三人を見詰めては、訝しげに眉を顰めていた。
仙蔵と伊作は所用で席を外していたところ、戻って来た矢先に繰り広げられていた光景に、目を細めて事態を把握しようとする。
だが、説明を求めるには衆人環視が過ぎるとして、留三郎も文次郎もバツが悪そうな顔をするばかりであり、この場での説明を拒むように顔を逸らした。
仕方の無い奴らだ、と溜息を零した仙蔵が周囲を見渡しても、皆なにが原因なのかは知らないので首を振るしかない。下級生にいたっては首を振るよりも、助けが来たとばかりに拝み出す始末だ。
どうしたものかと考える仙蔵だが、隣にいた伊作が、未だ背を向けたままの彼女へと不意に近付いた。そしてその肩に触れようとしたところ、彼女はひょいと避けてしまい、伊作の手は無情にも空を切る。
伊作は大してそれを気にした様子もなく、次いで努めて優しい声音で語りかける。
「何があったのか言ってごらん。皆も怯えているし、そんなふうに突っぱねているだけではなにも分からないよ?」
伊作はそう小さな背を諭すと、彼女は肩を震わせた。
我慢の限界を迎えたらしく、彼女は勢い良く振り向くと、伊作に向けて噛み付いた。
「解決? 解決なんてするわけないだろ阿呆が! どうしてくれるってんだよ! なぁ! 皆が怯える? そんなこと知ったことか! 私は——」
怒りに目を尖らせて声を荒らげる彼女だが、伊作は笑みを消して彼女の頭をこつりと小突いた。
力なんて微塵も入っていないし、避けようと思えば避けられた。
けれど怒りに目の前が真っ赤になっていた彼女は、虚をつかれて目を丸めると、舌に乗せたはずの言葉を失っていた。
「お前が怒っていることは分かるけれど、喚くだけでは子供と変わらないんだよ。ところ構わず当たり散らし、他者に迷惑を掛けるのが上級生の姿かい? お前は本当にそれで良いの?」
伊作の言葉に、しん、と辺りが静まった。
誰よりも優しい人が怒る声は、誰に叱られるよりもずっと怖かった。
張り詰めた空気が今にも破裂しそうに膨張し続け、やがて誰かが息を呑む音を合図に破け散る。
彼女は俯かせた顔をゆらりと持ち上げると、伊作を敵意を持った目で睨み付ける。そうして動じない伊作とその後ろの文次郎、留三郎を見て、もう一度伊作に視線を戻した彼女は大声で叫んだ。
「——お前も要らない!」
彼女はそう言い残すと駆け出してしまい、誰も止められないままにその背はどんどんと小さくなってしまう。
彼女の消えていく背中を見詰め、残された忍たま長屋には重苦しい空気だけが残される。
さすがに五年生らも笑みを浮かべていたのを消し去って、殊勝にも深刻そうな面持ちで彼女の消えた先を見ていたことに、下級生らは事態の深刻さを改めて痛感させられる。
だがそこへ、仙蔵がパンッと故意に大きく響くようにと手を叩くと、強制的に意識がそちらへと向けさせられる。
「散れ、いつまで呆けている。文次郎、留三郎、お前たちもいつまで立ち尽くしているつもりだ? 部屋に戻れ、話は後で聞こう。——ああそれと五年生。そう、お前たちだ。お前たちは事態の収拾を図らなかったこと、あとで弁明に来るように」
それぞれの部屋に顔を引っ込めていく中、仙蔵が五年生へと冷ややかな眼差しを送ると、彼らは背筋を正して、はいっ、と威勢だけは良い返事をして室内に戻って行った。
文次郎と留三郎が部屋へと歩き始める中、伊作の肩に手を置いた仙蔵は、おい、とわざとらしく無愛想に声を掛ける。
くるりと振り向いた伊作は眉を情けなく下げ切っており、仙蔵は面倒が増えたことにまたひとつ溜息を零した。
「あの様子、久しぶりに見たな」
仙蔵は彼女が消えた先に目を向け、そうぽつりと呟いた。呆れに富んだ声音より、けれど寄せた眉間の皺がより内心をよく表している。
「そうだね……どうしよう仙蔵、あの子が僕のこと、嫌いになってたら嫌だなぁ」
そう言ってうるうると目を潤ませる伊作に仙蔵は、阿呆、と伊作が彼女にしたようにその頭を小突いた。
すると伊作はへらりと笑い、頬をかいて気分を上げようと、殊更に明るい声で言ってみる。
「あーあ、留三郎と文次郎が怒らせるから、僕まで要らない子認定されちゃったよ」
「癇癪を起こすと極端になるからな、あれは。けれどお前まで言われるなんて、相当なことをしでかしたに違いない」
「あっ、仙蔵お前今、自分が声を掛けなくて良かったって思ったね?」
首を振って呆れたという仕草をした仙蔵へ、伊作は顔を見上げてから内心を見透かすように目を細めた。
途端、仙蔵はくるりと踵を返し、長い髪をたなびかせる。
「さて、あいつらから話を聞き出さなくてはな」
「狡いよ仙蔵、そういうとこ!」
さてなんのことやら、と文次郎たちの後を追い始めた仙蔵へ、伊作は腕を振って怒りを示すが、仙蔵は何処吹く風と言ったふうに笑うだけだ。
そこでふと、伊作はもう一度振り返る。
彼女が所在なさげにそこにいるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていたものの、彼女の影も形もありはしない。
そんな伊作へ仙蔵は前を向いたままに、置いて行くぞ、と言ってやれば、少し駆けて伊作が隣へと並んだ。
「小平太と長次が面倒を見てくれるだろう」
「うん、きっと大泣きしてるものね。今頃は小平太がすっ飛んで来てるんじゃないかな」
「そして長次がボーロを作り始めている頃合だ」
二人は顔を見合わせると同時に吹き出して、そして部屋の中で茸を栽培し始めているであろう、互いの同室を思い浮かべてからこれまた揃って肩を落とす。
「最近は随分と大人びたと思っていたけれど、あの子もまだあんな子供のような顔をするんだね」
「何を言うか、あいつはいつでも子供だろう。大人ぶった子供だ。あれは真似事しか出来ない子供に過ぎん」
「またまたそんなこと言って〜、散々泣かされてきたことを根に持っているの?」
伊作はくふりと吹き出しては、仙蔵の背中をばしばしと叩く。
下級生の頃は今よりもっと癇癪を起こしやすかった彼女は、時折誰かしらと大喧嘩をすることがあった。特に仙蔵と喧嘩した時は仙蔵が泣かされてばかりで、彼女には、仙蔵なんて要らない! とよく言われたものだ。
たかだか二、三年しか経っていないにもかかわらず、懐かしさすら覚える光景が頭を過ぎって、伊作は静かになった仙蔵を覗き込む。
すると吊り上げた目が伊作を睨み、肩を震わせながらに頬を紅潮させているもので、伊作は堪え切れずに、ははっ、と声を上げてしまう。
「あれはあいつが頑固だから——」
「うんうん、仙蔵もまだまだ子供だったってことだよね」
そうじゃない! と抗議の声を上げる仙蔵を無視した伊作は、地面に転がる破片を後目に、文次郎と留三郎がいるであろう六年生の長屋——い組の戸へ手を掛けた。
あんなに煩かったのに、あれだけ暴れていたというのに、部屋の中はただじっとりとした沈黙が横たわっていた。
手のひらに突き刺さった破片が、じくじくとした痛みを伴って、夢では無いとこちらを見上げている。よく見れば、めり込んではいるものの、血が出るほどではないのは果たして幸いと呼ぶか。
拾い上げてみたそれは無惨にも粉々に割れていて、元の形には到底戻せそうもなかった。
「……お、おい」
「すまん! ぶつかっちまっ……て」
散々取っ組みあっていた二人は、なんと言葉をかけたら良いものか、最初は戸惑いを見せていた。視線ばかりを注いで突っ立ていたものの、彼女が割れた破片やらを集め始めたところで、ようやく弁明と謝罪をしようと口を開いたのも束の間、彼女の起こした行動に再度言葉を失った。
彼女はさも何も聞こえていないかのように破片を集め終えると、戸を多少荒々しくスパンと開け放つ。縁側に立った彼女はそのまま地面へと、手の内の割れた破片をバラバラと地面へと撒き捨てた。
ちゃらちゃらと、軽い音を立てて打ち捨てられるのは一体なんだったのか。
ストンと地面に降り立った彼女は、裸足のままにスタスタと歩き始める。文句はもちろん、振り返りもせずに歩みを進めていく彼女の背に、六年い組の潮江文次郎とは組の食満留三郎はハッとして気付くやいなや、慌てて後を追い掛ける。
「すまない! 俺たちの不注意だ!」
「本当にすまん! おい、せめてなにか言ってくれ!」
文次郎と留三郎はそう言って追い縋り、どれだけの謝罪を繰り返そうとも、やはり彼女は足を止めることは無い。
二人の声は忍たまの長屋中に響き渡り、なんだなんだと複数の子が興味を引かれて顔を出す。
恥も外聞もなく、二人は彼女を必死に引き留めようとしているが、当の彼女は全くと言っていいほどに響いていない。彼女があまりにも無表情で歩き続けるもので、痺れを切らした文次郎がその腕へ手を伸ばした。
ぐっ、と細い手首を掴んだと思った。
途端、バシッと手酷い音が鳴り響き、顔を出していた子らは肩を跳ね上げて、亀の如く首を竦めていた。
「——触るなよ、潮江文次郎。今はお前たちの声も顔も存在も、何もかもが煩わしいんだ。だから潮江、二度と触れてくれるな」
くノたま六年生の彼女は、忍たま六年生と仲が良く、今日のように時折忍たま長屋へと遊びに来ることが多々ある。話し掛ければ笑顔で応え、宿題に行き詰まった子がいれば助言をしてくれたり、人数が足りないところに混ざって遊んでくれたり、忍たま六年生と同様に広く慕われていた。
故に、忍たまの中でも彼女を知らぬ者はいないが、普段の彼女は快活に笑っている姿が目について、怒りに凪いだ顔など滅多に見る機会はない。それどころか、三年生以下にとっては初めてのことである。
三年生以下の下級生は、初めて彼女が激怒と呼ぶべき激情を六年生にぶつける様を見て、さらにはその激情が激怒を通り越し、敵意を含む声へと変わっていく様子を目の当たりにしたことで、背筋をなぞられる感覚がしては、思わずぶるりと震え上がる。
「……なんだと? もういっぺん言ってみろ」
ここで大人しく、彼女の気が済むまでとことん謝り続ければ良いものを、留三郎は眦を吊り上げて彼女を見た。負けず嫌いの留三郎が、彼女の言葉を売り言葉だと感じ取り、即座に言い値で買い取ったのだ。
長屋の真ん中で繰り広げられる、静かな睨み合いには下級生らは竦み上がる。隣にいる者同士で手を取り合い、震える体を抱き締め合って、けれど目が離せないのは足がそこへ縫い付けられたように動かないからだ。
「何でもかんでも喧嘩だと思うなよ、鬱陶しい。お前は本当に浅慮な奴だな、食満留三郎」
彼女は冷笑をもって吐き捨てると、留三郎の手が彼女の襟元を掴み上げる。
その行いにはさすがに文次郎が止めようと肩に手をかけるが、留三郎は文次郎に、黙っていろ、と怒鳴り声を上げて肩の手をぞんざいに払ってしまう。
下級生らの中では、他の六年生か先生方を呼んだ方が良いのではないかと言う声が上がり出した。
けれど自分たちだけでは判断が付かず、助言を求めるべくしていちばん近くにいた四年生を見やるも、下級生と同様にハラハラした様子の四年ろ組の浜守一郎とは組の斉藤タカ丸を除き、彼らはやけに静かに成り行きを観察しているだけであり、取り合ってくれないことに困惑してしまう。
それならばと、次いで視線を移した先の五年生はといえば、こちらは四年生と打って変わり、やたらと楽しげに笑みを浮かべているもので、どうするのが正解なのか余計に分からなくなってしまう。
右往左往する視線を、結局は中心地へと向けるしか無くなってしまった下級生は、互いの手を取り合って、他の六年生か先生方が現れるしかないのだと、涙を浮かべて諦めた。
「もういっぺん……ねぇ? いいよ、何度でも言ってやるよ、食満。お前たちは煩わしい、だからお前たちはもう要らない。離せよ、食満。皺が出来るだろうが」
ぐっ、と彼女の襟元を掴む手が強くなり、けれど殴ることも言葉を紡ぐことさえ出来ず、睨み付けたままに怒りだけが蓄積されていく。
青筋をたてる留三郎を、冷ややかな目が見上げてきているのが、とにかく気に入らないのだ。
常の彼女にはない、侮蔑を底に隠した目であった。
——もうお前など要らない。
あの捨てた破片たちと同様に、自分たちも打ち捨てようとされるのが我慢ならなかった。
文次郎がいい加減にしろ、と横から手を無理矢理離させたものの、二人は互いに睨み合ったままだ。
“潮江”、そして“食満”。
名前を呼ぶことすら煩わしいと感じているのか、唾棄するようにそう言われると、腹の中に巣食う言いようのない感情が暴れ出しそうになるのを堪えるように、留三郎は一度大きく息を吐いた。
「これだけ悪かったと言っているのに、お前は話をする気もないってか」
「開き直るなよ、食満。お前の謝罪など不要だと言っているのが分からないのか? もういいだろう、お前たちとは金輪際の縁を切ろう」
「おいそれは——」
流石に看過出来ずに文次郎が言葉を挟もうとするも、酷く冷えた瞳がその口を縫い付けた。
ぎろりと向けられる、冷たい刃のような眼光には、自分たちが対象ではないと分かっているはずなのに、下級生らは、ひぃ、と堪らず悲鳴を漏らす。
「それは? それはあんまりだとでも? 良いじゃないか、卒業すればどうせ会うこともない。それが少し早まっただけだよ。互いに不干渉でいよう。お前たちと遊ぶのは楽しかったけれど、お前たちはもう要らないよ」
勝手に話を進め、勝手に去ろうとする彼女に、けれど二人はこれ以上の言葉を持ち合わせない。引き留めようとも、触れることを次は絶対に許さないだろうことは、長い付き合いの中で悟っていた。
だがそこへ、空気を割るようにして新たな人物の声が降ってくる。その声にはさしもの彼女も無視出来ず、歩き出そうとする足が止まった。
「——お前たち、なにを騒いでいる。一体なにがあったんだ?」
留三郎と文次郎が振り向けば、そこには六年い組の立花仙蔵と六年は組の善法寺伊作の姿があり、ただならぬ様子の三人を見詰めては、訝しげに眉を顰めていた。
仙蔵と伊作は所用で席を外していたところ、戻って来た矢先に繰り広げられていた光景に、目を細めて事態を把握しようとする。
だが、説明を求めるには衆人環視が過ぎるとして、留三郎も文次郎もバツが悪そうな顔をするばかりであり、この場での説明を拒むように顔を逸らした。
仕方の無い奴らだ、と溜息を零した仙蔵が周囲を見渡しても、皆なにが原因なのかは知らないので首を振るしかない。下級生にいたっては首を振るよりも、助けが来たとばかりに拝み出す始末だ。
どうしたものかと考える仙蔵だが、隣にいた伊作が、未だ背を向けたままの彼女へと不意に近付いた。そしてその肩に触れようとしたところ、彼女はひょいと避けてしまい、伊作の手は無情にも空を切る。
伊作は大してそれを気にした様子もなく、次いで努めて優しい声音で語りかける。
「何があったのか言ってごらん。皆も怯えているし、そんなふうに突っぱねているだけではなにも分からないよ?」
伊作はそう小さな背を諭すと、彼女は肩を震わせた。
我慢の限界を迎えたらしく、彼女は勢い良く振り向くと、伊作に向けて噛み付いた。
「解決? 解決なんてするわけないだろ阿呆が! どうしてくれるってんだよ! なぁ! 皆が怯える? そんなこと知ったことか! 私は——」
怒りに目を尖らせて声を荒らげる彼女だが、伊作は笑みを消して彼女の頭をこつりと小突いた。
力なんて微塵も入っていないし、避けようと思えば避けられた。
けれど怒りに目の前が真っ赤になっていた彼女は、虚をつかれて目を丸めると、舌に乗せたはずの言葉を失っていた。
「お前が怒っていることは分かるけれど、喚くだけでは子供と変わらないんだよ。ところ構わず当たり散らし、他者に迷惑を掛けるのが上級生の姿かい? お前は本当にそれで良いの?」
伊作の言葉に、しん、と辺りが静まった。
誰よりも優しい人が怒る声は、誰に叱られるよりもずっと怖かった。
張り詰めた空気が今にも破裂しそうに膨張し続け、やがて誰かが息を呑む音を合図に破け散る。
彼女は俯かせた顔をゆらりと持ち上げると、伊作を敵意を持った目で睨み付ける。そうして動じない伊作とその後ろの文次郎、留三郎を見て、もう一度伊作に視線を戻した彼女は大声で叫んだ。
「——お前も要らない!」
彼女はそう言い残すと駆け出してしまい、誰も止められないままにその背はどんどんと小さくなってしまう。
彼女の消えていく背中を見詰め、残された忍たま長屋には重苦しい空気だけが残される。
さすがに五年生らも笑みを浮かべていたのを消し去って、殊勝にも深刻そうな面持ちで彼女の消えた先を見ていたことに、下級生らは事態の深刻さを改めて痛感させられる。
だがそこへ、仙蔵がパンッと故意に大きく響くようにと手を叩くと、強制的に意識がそちらへと向けさせられる。
「散れ、いつまで呆けている。文次郎、留三郎、お前たちもいつまで立ち尽くしているつもりだ? 部屋に戻れ、話は後で聞こう。——ああそれと五年生。そう、お前たちだ。お前たちは事態の収拾を図らなかったこと、あとで弁明に来るように」
それぞれの部屋に顔を引っ込めていく中、仙蔵が五年生へと冷ややかな眼差しを送ると、彼らは背筋を正して、はいっ、と威勢だけは良い返事をして室内に戻って行った。
文次郎と留三郎が部屋へと歩き始める中、伊作の肩に手を置いた仙蔵は、おい、とわざとらしく無愛想に声を掛ける。
くるりと振り向いた伊作は眉を情けなく下げ切っており、仙蔵は面倒が増えたことにまたひとつ溜息を零した。
「あの様子、久しぶりに見たな」
仙蔵は彼女が消えた先に目を向け、そうぽつりと呟いた。呆れに富んだ声音より、けれど寄せた眉間の皺がより内心をよく表している。
「そうだね……どうしよう仙蔵、あの子が僕のこと、嫌いになってたら嫌だなぁ」
そう言ってうるうると目を潤ませる伊作に仙蔵は、阿呆、と伊作が彼女にしたようにその頭を小突いた。
すると伊作はへらりと笑い、頬をかいて気分を上げようと、殊更に明るい声で言ってみる。
「あーあ、留三郎と文次郎が怒らせるから、僕まで要らない子認定されちゃったよ」
「癇癪を起こすと極端になるからな、あれは。けれどお前まで言われるなんて、相当なことをしでかしたに違いない」
「あっ、仙蔵お前今、自分が声を掛けなくて良かったって思ったね?」
首を振って呆れたという仕草をした仙蔵へ、伊作は顔を見上げてから内心を見透かすように目を細めた。
途端、仙蔵はくるりと踵を返し、長い髪をたなびかせる。
「さて、あいつらから話を聞き出さなくてはな」
「狡いよ仙蔵、そういうとこ!」
さてなんのことやら、と文次郎たちの後を追い始めた仙蔵へ、伊作は腕を振って怒りを示すが、仙蔵は何処吹く風と言ったふうに笑うだけだ。
そこでふと、伊作はもう一度振り返る。
彼女が所在なさげにそこにいるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていたものの、彼女の影も形もありはしない。
そんな伊作へ仙蔵は前を向いたままに、置いて行くぞ、と言ってやれば、少し駆けて伊作が隣へと並んだ。
「小平太と長次が面倒を見てくれるだろう」
「うん、きっと大泣きしてるものね。今頃は小平太がすっ飛んで来てるんじゃないかな」
「そして長次がボーロを作り始めている頃合だ」
二人は顔を見合わせると同時に吹き出して、そして部屋の中で茸を栽培し始めているであろう、互いの同室を思い浮かべてからこれまた揃って肩を落とす。
「最近は随分と大人びたと思っていたけれど、あの子もまだあんな子供のような顔をするんだね」
「何を言うか、あいつはいつでも子供だろう。大人ぶった子供だ。あれは真似事しか出来ない子供に過ぎん」
「またまたそんなこと言って〜、散々泣かされてきたことを根に持っているの?」
伊作はくふりと吹き出しては、仙蔵の背中をばしばしと叩く。
下級生の頃は今よりもっと癇癪を起こしやすかった彼女は、時折誰かしらと大喧嘩をすることがあった。特に仙蔵と喧嘩した時は仙蔵が泣かされてばかりで、彼女には、仙蔵なんて要らない! とよく言われたものだ。
たかだか二、三年しか経っていないにもかかわらず、懐かしさすら覚える光景が頭を過ぎって、伊作は静かになった仙蔵を覗き込む。
すると吊り上げた目が伊作を睨み、肩を震わせながらに頬を紅潮させているもので、伊作は堪え切れずに、ははっ、と声を上げてしまう。
「あれはあいつが頑固だから——」
「うんうん、仙蔵もまだまだ子供だったってことだよね」
そうじゃない! と抗議の声を上げる仙蔵を無視した伊作は、地面に転がる破片を後目に、文次郎と留三郎がいるであろう六年生の長屋——い組の戸へ手を掛けた。
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