未だ青きは花菖蒲
* * *
「伊作ー? いるー?」
彼女はそう言って戸をほんの少し開けると、ひょこりと隙間から中を覗いて窺う。そこには伊作の姿はなく、代わりにちょこんと座っていたのは一年生の乱太郎であった。
乱太郎は顔を上げて彼女の顔を見ると、パッと顔を綻ばせる。
「先輩、もうお体はよろしいのですか?」
戸を開けて中に入り込んだ彼女へ、乱太郎はすぐ様に近くに寄って問い掛ける。
彼女は可愛くも健気な後輩の頭に手を乗せると、うりうりとやや力強く撫で付ける。
「うん、おかげでね! ありがとう、乱太郎。あんたがいなかったらあの子も危なかったし、私も危なかったよ。本当にありがとうね」
彼女がそう言って感謝を繰り返し零すのに対し、乱太郎の顔は徐々に曇っていく。
どうしたのかと覗き込めば、バッと乱太郎は抱き着いて彼女の腹に顔を埋める。
「本当に、本当に良かったです。先輩も重症だったのに、お止めできなかったこと、ずっと——」
感情が昂り、乱太郎の意思に反して勝手に流れる涙を、眼鏡が曲がりそうなほど先輩に押し当てる思いでしがみつく。
たとえ、どんなことがあっても止めるべきだったのだ。それが保健委員としてあるべき姿だというのに、ちらりと見えた先輩の鋭い瞳が自身を捉えることを恐れ、足が竦んでしまったあの日のことを、未だに忘れられずにいる。
幾度となく後悔を重ね、保健委員長である伊作が良しとしたという免罪符に縋り付き、けれどもどうしたって血塗れな姿の先輩が脳裏に焼き付いては離れなかった。
「いやぁ、私が悪かったんだよ。ありがとう、乱太郎。あんたは優しい子だ、優しくて強い子だ」
乱太郎の脇に手を入れると、彼女はふわりと抱き上げた。
親にして貰うのだってそろそろ恥ずかしいと思い始めていたところに、先輩に抱っこをして貰うというのはそれ以上の羞恥である。慌てた拍子に涙は引っ込んだものの、代わりにしゃっくりがひくりと転がり出る。
乱太郎の背中を優しくトントンとあやす彼女に乱太郎は、恥ずかしいです、と真っ赤になった顔で告げても下ろされる気配はない。
「本当はもっと早くお礼に来ようかと思っていたのだけれど、先生方にもこってり絞られちゃってね。しばらくくノたま長屋から出られなかったんだよ」
けらけらと、事も無げにそう言う彼女。
彼女は一晩伊作と留三郎に温めて貰い、なんとか一命を取り留めるものの、その後は要安静としてくノたま長屋で山本シナ先生直々に見張られながら養生していたのだ。
故に医務室へと顔を出すのは実に一週間ぶりのことであり、今もまだ全快とは言い難く、鈍い痛みが尾を引いている。
そんなに怒ることか、と反発する彼女に直々に監視して頂いた山本シナ先生は、美しい顔のままに底冷えするほどの怒りを孕んだ声音で言った。
——結果が全てとはいえ、くノ一として美しくない、と。
こんな時代、こんな職業、軽いからこそ尊ぶべきものが命だと続けるシナ先生に、彼女はいつかの説法を思い出し、ただ押し黙ることしか出来なかった。
「乱太郎はこんな六年生になるんじゃないよ〜」
くるくると、乱太郎を抱えたままに回っていると、カタンと音がして呆れたような視線が彼女に注がれる。
伊作が現れたことで回ることをやめた彼女だが、彼女の腕の中の乱太郎はぐるぐると未だ目を回していた。
「何をしているんだい、お前は。乱太郎を下ろしてあげて」
はーい、と調子良く返事をした彼女が乱太郎を床に下ろすと、乱太郎は平衡感覚が狂う様に翻弄され、ふらふらしたかと思えばおっとっとと彼女の前に戻って来る。
何度か頭を振るってなんとか正常に戻った乱太郎は、伊作に気が付くと傾いた眼鏡を直しながら元気良く挨拶をした。
「あ、伊作先輩こんにちは!」
「こんにちは、乱太郎。さっき土井先生が探してらしたよ」
「えぇ、なんでだろう……あっ! あとで復習するようにって言われてた課題を池に落としたあと、教室に干してたのすっかり忘れてました!」
「あちゃー、池に落としても復習なんて出来るの?」
「土井先生が新しい課題と取り替えてくださるそうでして……」
彼女の問いに乱太郎は頬をかき、所在なさげにゆらりと揺れる。
伊作は、それなら、と揺れ続ける頭に手を置いた。
「すぐに行っておいで。ここは僕がいるし少し抜けても大丈夫だから、あんまり土井先生を困らせてはいけないよ」
「はーい! それじゃあ先輩方、失礼します!」
二人が笑顔で手を振り見送ると、戸の向こうできり丸としんベヱの、あっ乱太郎いたー! という声が聞こえてきて、さらには遠くで土井先生が、お前たちー! と声を荒らげるのまで聞こえてくる。
ぷっ、とどちらともなく吹き出すと、伊作と彼女は二人して小さく笑い合う。
なんだか妙に懐かしく、そして他愛のないそんな日常を強く実感させられることに、胸の内を擽られるようだった。
「まったくもう、まだ完全に癒えたわけじゃないのだから無茶はしないでくれるかな」
伊作はふと思い出したように眉間に皺を寄せてから医務室の奥まで行くと、棚から薬の入った箱を幾つか取り出していく。
続けて新しい包帯の入った箱を手繰り寄せていたところ、わっ、と伊作が足を滑らせた。
あわや倒れると思って伊作は目を瞑るが、その衝撃は来ず、代わりに鼻腔を掠める香りに恐る恐る目を開けた。その先には彼女の俯く横顔があり、受け止めてくれたのかと思うものの、様子が変だと気付いて慌てて伊作は飛び退いた。
転びそうになった伊作を受け止めたのは良いものの、咄嗟に出したのは左腕であり、伊作が倒れ込む衝撃は肩まで伝わったのだ。引き攣る肉が神経を刺激し、痛みが脳髄を駆け巡る。
ぷるぷると震える彼女は伊作を受け止めた格好で固まっており、伊作が大丈夫? と声を掛けるとぎこちないながらもようやく首を動かした。
「い、痛い……かも」
涙目になりながらも口元には笑みを貼り付け、身体中を走り回る痛みを抑えつけているのか、冷や汗を浮かべている。
自身の不運は彼女によって回避出来たが、代わりに彼女は痛みというかたちでそれを引き受けることとなったのだ。
伊作は躊躇うことなく彼女の上衣を中の肩衣ごと捲り上げれば、背中に巻いた包帯はじんわりと血が滲んでいる。
「あっ、背中まで!」
「ありゃ、そっちは気が付かなかったや」
途端、先程までとは打って変わってけろりとした顔で振り向く彼女は、自身の背中を見ようとするが上手く見れないのか、くるりと一周その場で回る。
痛みを耐え凌いだ彼女はなんでもない風を装っているが、それでも痛覚が未だ悲鳴を上げ続けていることを見抜いた伊作は、回り続ける彼女の頭を鷲掴み、座るようにと指示をする。
素直に従った彼女の後ろに腰を下ろした伊作は、彼女に上衣と肩衣を脱ぐようにと言って薬を用意する。
布に薬を塗布している間に衣擦れの音がして、伊作が再度顔を上げると背中の半分以上が包帯を巻いた姿となった彼女がいる。
一度薬の塗った布を下ろし、今度は包帯をするすると解いてやると傷が現れ、じんわりと血が滲んでいた。
伊作は、ふぅ、とそこへ息を吹き掛ける。
びくりと肩を揺らした彼女はゆっくりと振り向き、肩越しに恨めしげな目で伊作を睨んだ。
「無茶な動きは禁物だよ。膿んではいないけれど、少し開いてしまったね」
何食わぬ顔をして伊作は清潔な布で傷口から漏れる血を拭っていき、彼女は再び前へと顔を戻した。
薬を患部に塗り込む度に、ビクビクと身体を震わせる彼女は、時折痛みに声を漏らす。伊作はずっと溜めていた怒りを込めるように、その手は少しだけ力が入っており、けれど彼女はそれを受け入れるようになにも言いはしなかった。
「……後輩がまた一人、学園を去るらしいの」
彼女は痛みの抜ける隙をついて、そう口にした。
後輩の一人、と言われて思い浮かぶのは、彼女が必死に抱えて戻ったおかげで処置が間に合った子である。彼女が守り、伊作が繋いだ子だ。
「——そう」
「“五年生になったというのに、決めたはずの覚悟が揺らいでしまった”って」
「そう。はい、手を上げて」
彼女の言葉には短い相槌と、包帯を巻くための指示だけをしていく。
「“なんだ、あんた覚悟なんてものあったの?”って聞いちゃった」
「そう、それは言葉が足りないよ」
「ちゃんと続けたよ。“私には無い覚悟があったんだね”って」
「それは余計だよ——はい、次は左肩を診せて」
「そしたらね、“先輩が私のせいで死ななくて良かった”って返されたの」
彼女の左肩は肉が盛り上がるようにして塞がり始めており、経過としては順調だろう。暫くは動かしづらいだろうが、重要な腱や筋肉を損傷した訳では無いのが幸いし、突然激しい運動しなければ、徐々に元のような動きも出来るだろうと薬を塗り込めた。
「勝手に私の死を背負わないで欲しかったのに、あの子、泣きながら言うから困っちゃった」
伊作は淡々と手を動かし、包帯を巻き終える。
くるりとこちらを向いた彼女は、泣いているかと思いきやそんなこともなく、ぐっと顔の中心に力を入れた伊作に苦笑した。
「私が傷を苦にして学園を辞めてたら、あんたはどうしてた?」
「さぁ、どうだろうね。お前がいなくなるのはとても寂しいけれど、嫌になったのならそれも仕方がないよ。お前は十分に耐えているし、楽しいことだけを選んで生きられるほど世の中甘くないことは、僕も六年生として嫌というほど見てきたからね」
伊作は喉の奥が狭くなる感覚を、必死に今じゃないと言い聞かせる。
彼女はそんな伊作の頬を、流れてもいない涙を拭うように指先で触れ、そして眉尻を下げて言う。
「私もあんたたちがいなくなったら寂しいよ。だから残ったの、離れられなかったの。寂しい思いをするくらいなら、置いて逝く方がうんと楽なんだ」
——どっかの誰かさんみたいに、と。
その言葉には伊作が彼女の手を取り引き寄せると、右肩に自身の頭を押し付ける。代わりに自分の左肩に彼女の額が押し当てられ、腰を寄せる腕に力を込めた。
「慣れやしないよ、こんなこと……」
「んっふふ、擽ったいよ」
伊作が額をグリグリと押し付けると、伊作の髪が彼女の首筋を擽って、けらけらとした軽やかな笑い声を降らせる。
あまりにも呑気に、死ぬことなんてまるでなんとも思っていないかのように笑うのに、寂しいから置いて逝くと言ったその口が、酷く恨めしかった。
「結局は僕たちを選ばないのに」
「えー、あんたたちには同室がいるから良いけれど、私にはいないんだよ? あんたたちの間に割って入るのも嫌じゃない」
「なんだいそれ、遠慮してくれたお礼に僕たちはお前の墓前で泣かなくちゃいけないの?」
「あはっ、墓なんて、骨も拾えやしないのに作れないよ。どこぞの知らない土地、知らない骸に埋もれて朽ちるのが関の山なのにさ」
——ああでも、どこかで晒されて鳥に啄まれる様を広く知られれば、きっと誰かが気付くかもしれないね、と。
「お前って、本当にああ言えばこう言う奴だよ」
「我の強さが似たのだよ、伊作くん」
「僕ってもしかして、みんなに我が強いって思われてる?」
伊作の手が離れ、顔を上げると満面の笑みを浮かべた彼女と目が合った。
額には傷跡が薄らと残っており、近付かなければ分からないほどになっていることに、伊作も目元を細めて微笑んだ。
「さて——お前本当は逃げて来たね?」
伊作は再度両手で彼女の腕を握ると、ぎくりと彼女は肩を跳ねさせる。じとりと目を覗き込めば、そろ〜っと彼女の瞳は宙に舞っていく。
「いや、逃げるってなにからさ。私は乱太郎にお礼を言うついでに診て貰おうと——」
「おいどこに行きやがったー!」
外から聞こえたのはそんな留三郎の怒声であり、彼女はまたも視線を彷徨わせるが、逃げようともビクともしない上、右腕にいたってはわざと傷口を握られ、たらたらと冷 嫌な汗が吹き出てくる。
「一体なにをしたの」
「痛い、痛いよ伊作。なんで私が何かをした前提なのさ。いや、ごめんなさい、売り言葉に買い言葉だったんだよ!」
「なんて言ったの?」
「……“あの夜、あんたの肩につけた歯型は治った?”って言いました」
「どこで?」
「食堂で……」
深い沈黙が帷となって下りる中、伊作の呆れ果てたと言う表情に、思わず食い付いて弁明する。
「だって留三郎が悪いんだよ! 私は最初にちゃんとお礼をしようとしたのに、あいつ私の鍛錬が足りないせいだとか言い出すから! 文次郎だってそんなこと言わなかったのに!」
「事実を受け入れないお前が悪いよ。留三郎が怒ると分かってて言ったんでしょう?」
「ほらぁ! やっぱり伊作は留三郎の味方をする! だから言わなかったのに! 離せ! 留三郎に見つかる前に私は逃げる!」
腕を振り回すも伊作の手は離れず、体の痛みも相まって思うようにいかずに無用に暴れるだけとなる。
そんなところへスパンッと、壊れそうなほどけたたましい音を上げて戸が開かれたかと思えば、色々な感情が混ざり合って真っ赤な顔をした留三郎が現れる。
「ここかァ!」
「ぎゃーっ! ちょっともう離して伊作、お願い伊作! よし留三郎、落ち着いて話し合おう、話はそれからだよ。なぁに、その鉄双節棍は? 話し合いには不要な武器だよ、良い子だから武器を置いて、ね?」
「いいや、俺たちに必要なのは勝負だ。お前が二度と軽口を叩けないように負かしてやるから、そしたら懇切丁寧に三つ指揃えて礼をして貰ってやるよ」
「なぁに、言ってんだか分からんわ! はんっ、得意分野で勝負しようっての? じゃあいいよ、二番勝負だ。あんたが鉄双節棍を出すなら私は褥を出すわ! シナ先生仕込みの房中術、あんたにたっぷりと叩き込んだげるから!」
「いるかそんなもん! 病み上がりのお前なんざ誰が抱くかバカタレ!」
「おいこら、その病み上がりと手合わせするのは良いってのかこの野郎!」
二人はキャンキャンとして言い合う中、伊作がおもむろに片手を上げたかと思えば、ゴンッと鈍い音が響いた。
その音はたまたま外にいた下級生にも聞こえていたのだが、皆首を傾げた後に何事も無かったかのように自分たちの生活に戻って行った。
「あぅっ——」
彼女の脳天に拳骨を落とした伊作は、ふらりと意識を失って倒れ込む彼女を抱えると、布団に寝かせたあとにゆらりと立ち上がって留三郎を振り返る。
伊作はにこやかに、どこまでもにこやかに微笑んでいる。
「ここがどこか分からないわけじゃないね? ねぇ、留三郎?」
留三郎はこくこくと首を縦に振り、鉄双節棍を背中に隠したかと思えば、だらだらと冷や汗を流す。
伊作は素早い動きで留三郎に近寄ると、振り上げた拳で留三郎の頭にも拳骨をかました。
またもゴンッと鈍く響いた音に、今度は近くまで戻って来ていた乱太郎が慌てて駆け込んで来た。
「伊作先輩、今の音はなんです……か?」
伊作は白目を剥く留三郎を彼女の横に寝かせてやりながら振り向くと、苦笑を零して首を振る。
「ああ、今のは留三郎が転んだ音だよ」
不運でね、と続ける伊作に乱太郎は、そうでしたか、とにこやかに返すと、今日の分の包帯を作るべく、伊作と一緒に布切れを取り出したのだった。
「伊作ー? いるー?」
彼女はそう言って戸をほんの少し開けると、ひょこりと隙間から中を覗いて窺う。そこには伊作の姿はなく、代わりにちょこんと座っていたのは一年生の乱太郎であった。
乱太郎は顔を上げて彼女の顔を見ると、パッと顔を綻ばせる。
「先輩、もうお体はよろしいのですか?」
戸を開けて中に入り込んだ彼女へ、乱太郎はすぐ様に近くに寄って問い掛ける。
彼女は可愛くも健気な後輩の頭に手を乗せると、うりうりとやや力強く撫で付ける。
「うん、おかげでね! ありがとう、乱太郎。あんたがいなかったらあの子も危なかったし、私も危なかったよ。本当にありがとうね」
彼女がそう言って感謝を繰り返し零すのに対し、乱太郎の顔は徐々に曇っていく。
どうしたのかと覗き込めば、バッと乱太郎は抱き着いて彼女の腹に顔を埋める。
「本当に、本当に良かったです。先輩も重症だったのに、お止めできなかったこと、ずっと——」
感情が昂り、乱太郎の意思に反して勝手に流れる涙を、眼鏡が曲がりそうなほど先輩に押し当てる思いでしがみつく。
たとえ、どんなことがあっても止めるべきだったのだ。それが保健委員としてあるべき姿だというのに、ちらりと見えた先輩の鋭い瞳が自身を捉えることを恐れ、足が竦んでしまったあの日のことを、未だに忘れられずにいる。
幾度となく後悔を重ね、保健委員長である伊作が良しとしたという免罪符に縋り付き、けれどもどうしたって血塗れな姿の先輩が脳裏に焼き付いては離れなかった。
「いやぁ、私が悪かったんだよ。ありがとう、乱太郎。あんたは優しい子だ、優しくて強い子だ」
乱太郎の脇に手を入れると、彼女はふわりと抱き上げた。
親にして貰うのだってそろそろ恥ずかしいと思い始めていたところに、先輩に抱っこをして貰うというのはそれ以上の羞恥である。慌てた拍子に涙は引っ込んだものの、代わりにしゃっくりがひくりと転がり出る。
乱太郎の背中を優しくトントンとあやす彼女に乱太郎は、恥ずかしいです、と真っ赤になった顔で告げても下ろされる気配はない。
「本当はもっと早くお礼に来ようかと思っていたのだけれど、先生方にもこってり絞られちゃってね。しばらくくノたま長屋から出られなかったんだよ」
けらけらと、事も無げにそう言う彼女。
彼女は一晩伊作と留三郎に温めて貰い、なんとか一命を取り留めるものの、その後は要安静としてくノたま長屋で山本シナ先生直々に見張られながら養生していたのだ。
故に医務室へと顔を出すのは実に一週間ぶりのことであり、今もまだ全快とは言い難く、鈍い痛みが尾を引いている。
そんなに怒ることか、と反発する彼女に直々に監視して頂いた山本シナ先生は、美しい顔のままに底冷えするほどの怒りを孕んだ声音で言った。
——結果が全てとはいえ、くノ一として美しくない、と。
こんな時代、こんな職業、軽いからこそ尊ぶべきものが命だと続けるシナ先生に、彼女はいつかの説法を思い出し、ただ押し黙ることしか出来なかった。
「乱太郎はこんな六年生になるんじゃないよ〜」
くるくると、乱太郎を抱えたままに回っていると、カタンと音がして呆れたような視線が彼女に注がれる。
伊作が現れたことで回ることをやめた彼女だが、彼女の腕の中の乱太郎はぐるぐると未だ目を回していた。
「何をしているんだい、お前は。乱太郎を下ろしてあげて」
はーい、と調子良く返事をした彼女が乱太郎を床に下ろすと、乱太郎は平衡感覚が狂う様に翻弄され、ふらふらしたかと思えばおっとっとと彼女の前に戻って来る。
何度か頭を振るってなんとか正常に戻った乱太郎は、伊作に気が付くと傾いた眼鏡を直しながら元気良く挨拶をした。
「あ、伊作先輩こんにちは!」
「こんにちは、乱太郎。さっき土井先生が探してらしたよ」
「えぇ、なんでだろう……あっ! あとで復習するようにって言われてた課題を池に落としたあと、教室に干してたのすっかり忘れてました!」
「あちゃー、池に落としても復習なんて出来るの?」
「土井先生が新しい課題と取り替えてくださるそうでして……」
彼女の問いに乱太郎は頬をかき、所在なさげにゆらりと揺れる。
伊作は、それなら、と揺れ続ける頭に手を置いた。
「すぐに行っておいで。ここは僕がいるし少し抜けても大丈夫だから、あんまり土井先生を困らせてはいけないよ」
「はーい! それじゃあ先輩方、失礼します!」
二人が笑顔で手を振り見送ると、戸の向こうできり丸としんベヱの、あっ乱太郎いたー! という声が聞こえてきて、さらには遠くで土井先生が、お前たちー! と声を荒らげるのまで聞こえてくる。
ぷっ、とどちらともなく吹き出すと、伊作と彼女は二人して小さく笑い合う。
なんだか妙に懐かしく、そして他愛のないそんな日常を強く実感させられることに、胸の内を擽られるようだった。
「まったくもう、まだ完全に癒えたわけじゃないのだから無茶はしないでくれるかな」
伊作はふと思い出したように眉間に皺を寄せてから医務室の奥まで行くと、棚から薬の入った箱を幾つか取り出していく。
続けて新しい包帯の入った箱を手繰り寄せていたところ、わっ、と伊作が足を滑らせた。
あわや倒れると思って伊作は目を瞑るが、その衝撃は来ず、代わりに鼻腔を掠める香りに恐る恐る目を開けた。その先には彼女の俯く横顔があり、受け止めてくれたのかと思うものの、様子が変だと気付いて慌てて伊作は飛び退いた。
転びそうになった伊作を受け止めたのは良いものの、咄嗟に出したのは左腕であり、伊作が倒れ込む衝撃は肩まで伝わったのだ。引き攣る肉が神経を刺激し、痛みが脳髄を駆け巡る。
ぷるぷると震える彼女は伊作を受け止めた格好で固まっており、伊作が大丈夫? と声を掛けるとぎこちないながらもようやく首を動かした。
「い、痛い……かも」
涙目になりながらも口元には笑みを貼り付け、身体中を走り回る痛みを抑えつけているのか、冷や汗を浮かべている。
自身の不運は彼女によって回避出来たが、代わりに彼女は痛みというかたちでそれを引き受けることとなったのだ。
伊作は躊躇うことなく彼女の上衣を中の肩衣ごと捲り上げれば、背中に巻いた包帯はじんわりと血が滲んでいる。
「あっ、背中まで!」
「ありゃ、そっちは気が付かなかったや」
途端、先程までとは打って変わってけろりとした顔で振り向く彼女は、自身の背中を見ようとするが上手く見れないのか、くるりと一周その場で回る。
痛みを耐え凌いだ彼女はなんでもない風を装っているが、それでも痛覚が未だ悲鳴を上げ続けていることを見抜いた伊作は、回り続ける彼女の頭を鷲掴み、座るようにと指示をする。
素直に従った彼女の後ろに腰を下ろした伊作は、彼女に上衣と肩衣を脱ぐようにと言って薬を用意する。
布に薬を塗布している間に衣擦れの音がして、伊作が再度顔を上げると背中の半分以上が包帯を巻いた姿となった彼女がいる。
一度薬の塗った布を下ろし、今度は包帯をするすると解いてやると傷が現れ、じんわりと血が滲んでいた。
伊作は、ふぅ、とそこへ息を吹き掛ける。
びくりと肩を揺らした彼女はゆっくりと振り向き、肩越しに恨めしげな目で伊作を睨んだ。
「無茶な動きは禁物だよ。膿んではいないけれど、少し開いてしまったね」
何食わぬ顔をして伊作は清潔な布で傷口から漏れる血を拭っていき、彼女は再び前へと顔を戻した。
薬を患部に塗り込む度に、ビクビクと身体を震わせる彼女は、時折痛みに声を漏らす。伊作はずっと溜めていた怒りを込めるように、その手は少しだけ力が入っており、けれど彼女はそれを受け入れるようになにも言いはしなかった。
「……後輩がまた一人、学園を去るらしいの」
彼女は痛みの抜ける隙をついて、そう口にした。
後輩の一人、と言われて思い浮かぶのは、彼女が必死に抱えて戻ったおかげで処置が間に合った子である。彼女が守り、伊作が繋いだ子だ。
「——そう」
「“五年生になったというのに、決めたはずの覚悟が揺らいでしまった”って」
「そう。はい、手を上げて」
彼女の言葉には短い相槌と、包帯を巻くための指示だけをしていく。
「“なんだ、あんた覚悟なんてものあったの?”って聞いちゃった」
「そう、それは言葉が足りないよ」
「ちゃんと続けたよ。“私には無い覚悟があったんだね”って」
「それは余計だよ——はい、次は左肩を診せて」
「そしたらね、“先輩が私のせいで死ななくて良かった”って返されたの」
彼女の左肩は肉が盛り上がるようにして塞がり始めており、経過としては順調だろう。暫くは動かしづらいだろうが、重要な腱や筋肉を損傷した訳では無いのが幸いし、突然激しい運動しなければ、徐々に元のような動きも出来るだろうと薬を塗り込めた。
「勝手に私の死を背負わないで欲しかったのに、あの子、泣きながら言うから困っちゃった」
伊作は淡々と手を動かし、包帯を巻き終える。
くるりとこちらを向いた彼女は、泣いているかと思いきやそんなこともなく、ぐっと顔の中心に力を入れた伊作に苦笑した。
「私が傷を苦にして学園を辞めてたら、あんたはどうしてた?」
「さぁ、どうだろうね。お前がいなくなるのはとても寂しいけれど、嫌になったのならそれも仕方がないよ。お前は十分に耐えているし、楽しいことだけを選んで生きられるほど世の中甘くないことは、僕も六年生として嫌というほど見てきたからね」
伊作は喉の奥が狭くなる感覚を、必死に今じゃないと言い聞かせる。
彼女はそんな伊作の頬を、流れてもいない涙を拭うように指先で触れ、そして眉尻を下げて言う。
「私もあんたたちがいなくなったら寂しいよ。だから残ったの、離れられなかったの。寂しい思いをするくらいなら、置いて逝く方がうんと楽なんだ」
——どっかの誰かさんみたいに、と。
その言葉には伊作が彼女の手を取り引き寄せると、右肩に自身の頭を押し付ける。代わりに自分の左肩に彼女の額が押し当てられ、腰を寄せる腕に力を込めた。
「慣れやしないよ、こんなこと……」
「んっふふ、擽ったいよ」
伊作が額をグリグリと押し付けると、伊作の髪が彼女の首筋を擽って、けらけらとした軽やかな笑い声を降らせる。
あまりにも呑気に、死ぬことなんてまるでなんとも思っていないかのように笑うのに、寂しいから置いて逝くと言ったその口が、酷く恨めしかった。
「結局は僕たちを選ばないのに」
「えー、あんたたちには同室がいるから良いけれど、私にはいないんだよ? あんたたちの間に割って入るのも嫌じゃない」
「なんだいそれ、遠慮してくれたお礼に僕たちはお前の墓前で泣かなくちゃいけないの?」
「あはっ、墓なんて、骨も拾えやしないのに作れないよ。どこぞの知らない土地、知らない骸に埋もれて朽ちるのが関の山なのにさ」
——ああでも、どこかで晒されて鳥に啄まれる様を広く知られれば、きっと誰かが気付くかもしれないね、と。
「お前って、本当にああ言えばこう言う奴だよ」
「我の強さが似たのだよ、伊作くん」
「僕ってもしかして、みんなに我が強いって思われてる?」
伊作の手が離れ、顔を上げると満面の笑みを浮かべた彼女と目が合った。
額には傷跡が薄らと残っており、近付かなければ分からないほどになっていることに、伊作も目元を細めて微笑んだ。
「さて——お前本当は逃げて来たね?」
伊作は再度両手で彼女の腕を握ると、ぎくりと彼女は肩を跳ねさせる。じとりと目を覗き込めば、そろ〜っと彼女の瞳は宙に舞っていく。
「いや、逃げるってなにからさ。私は乱太郎にお礼を言うついでに診て貰おうと——」
「おいどこに行きやがったー!」
外から聞こえたのはそんな留三郎の怒声であり、彼女はまたも視線を彷徨わせるが、逃げようともビクともしない上、右腕にいたってはわざと傷口を握られ、たらたらと冷 嫌な汗が吹き出てくる。
「一体なにをしたの」
「痛い、痛いよ伊作。なんで私が何かをした前提なのさ。いや、ごめんなさい、売り言葉に買い言葉だったんだよ!」
「なんて言ったの?」
「……“あの夜、あんたの肩につけた歯型は治った?”って言いました」
「どこで?」
「食堂で……」
深い沈黙が帷となって下りる中、伊作の呆れ果てたと言う表情に、思わず食い付いて弁明する。
「だって留三郎が悪いんだよ! 私は最初にちゃんとお礼をしようとしたのに、あいつ私の鍛錬が足りないせいだとか言い出すから! 文次郎だってそんなこと言わなかったのに!」
「事実を受け入れないお前が悪いよ。留三郎が怒ると分かってて言ったんでしょう?」
「ほらぁ! やっぱり伊作は留三郎の味方をする! だから言わなかったのに! 離せ! 留三郎に見つかる前に私は逃げる!」
腕を振り回すも伊作の手は離れず、体の痛みも相まって思うようにいかずに無用に暴れるだけとなる。
そんなところへスパンッと、壊れそうなほどけたたましい音を上げて戸が開かれたかと思えば、色々な感情が混ざり合って真っ赤な顔をした留三郎が現れる。
「ここかァ!」
「ぎゃーっ! ちょっともう離して伊作、お願い伊作! よし留三郎、落ち着いて話し合おう、話はそれからだよ。なぁに、その鉄双節棍は? 話し合いには不要な武器だよ、良い子だから武器を置いて、ね?」
「いいや、俺たちに必要なのは勝負だ。お前が二度と軽口を叩けないように負かしてやるから、そしたら懇切丁寧に三つ指揃えて礼をして貰ってやるよ」
「なぁに、言ってんだか分からんわ! はんっ、得意分野で勝負しようっての? じゃあいいよ、二番勝負だ。あんたが鉄双節棍を出すなら私は褥を出すわ! シナ先生仕込みの房中術、あんたにたっぷりと叩き込んだげるから!」
「いるかそんなもん! 病み上がりのお前なんざ誰が抱くかバカタレ!」
「おいこら、その病み上がりと手合わせするのは良いってのかこの野郎!」
二人はキャンキャンとして言い合う中、伊作がおもむろに片手を上げたかと思えば、ゴンッと鈍い音が響いた。
その音はたまたま外にいた下級生にも聞こえていたのだが、皆首を傾げた後に何事も無かったかのように自分たちの生活に戻って行った。
「あぅっ——」
彼女の脳天に拳骨を落とした伊作は、ふらりと意識を失って倒れ込む彼女を抱えると、布団に寝かせたあとにゆらりと立ち上がって留三郎を振り返る。
伊作はにこやかに、どこまでもにこやかに微笑んでいる。
「ここがどこか分からないわけじゃないね? ねぇ、留三郎?」
留三郎はこくこくと首を縦に振り、鉄双節棍を背中に隠したかと思えば、だらだらと冷や汗を流す。
伊作は素早い動きで留三郎に近寄ると、振り上げた拳で留三郎の頭にも拳骨をかました。
またもゴンッと鈍く響いた音に、今度は近くまで戻って来ていた乱太郎が慌てて駆け込んで来た。
「伊作先輩、今の音はなんです……か?」
伊作は白目を剥く留三郎を彼女の横に寝かせてやりながら振り向くと、苦笑を零して首を振る。
「ああ、今のは留三郎が転んだ音だよ」
不運でね、と続ける伊作に乱太郎は、そうでしたか、とにこやかに返すと、今日の分の包帯を作るべく、伊作と一緒に布切れを取り出したのだった。
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