未だ青きは花菖蒲

* * *

 熱い頭とは反対に、指先からしんしんと冷えるような寒気が這い上がって来るようで、それが兎に角気持ち悪くて仕方なかった。身体中が痛いせいで最早どこが痛いのかさえ解らず、息をする度に肺の底に穴が空いたかのようで、上手く空気を取り込めない。
 先生方への報告を済ませたところ、運んでくれようとしたのを断ったのは、引くに引けない意地だった。
 こんなところで他者の手を借りていては、いつまで経っても卵のまま。孵化も出来ずに腐って死ぬことの、なんと面白みのないことかと断固として拒絶した。
 だらだらと、止血したはずの背中の傷がぱかりと開き、新たに脇腹と側頭部、さらには右腕にも裂傷を負っており、自身の情けなさに笑える始末だ。

「あー……」

 痛みに思わず零れた声は夜闇へと溶け込み、医務室へ向かう足取りは半ば引き摺る思いだ。
 歩かなければ死ぬ、死ねば歩けない。さりとて体は一歩ごとに重くなり、代わりにさらさらとしたせせらぎが近付いて、彼女は唐突に歩みを止める。
 ——ちゃぷりと、足先に水が浸る音が耳に木霊した。
 未だ人生最大とも呼べる喪失感を得た時と同様の感覚が、ゆっくりと彼女の元へと歩み寄る。
 左肩の矢は未だ刺さったままに引き攣れて、最早麻痺して痛みは感じない。煩わしさだけが存在を確かに主張しており、見上げた月の丸さに苛立ちを覚えた。
 啖呵を切って先生の手を払い除けたというのに、こんなところで無様を晒すわけにはいかないと思えども、もう一歩だって動けなくなってしまったのだ。
 足先だけだった水嵩は、途端に引き込むようにして膝までを呑み込んだ。その中にはきっと、懐かしい顔だって浮かんでいるはずだった。
 脇腹からどくどくと、昼間腕に抱いたあの子と同じように命が流れていく心地に、頭が冴えてくるような感覚でいた。

「——迎えを呼ぶにはまだ早いぞ」

 顔を向けるのも酷く億劫で、彼女は目だけでちらりと声の主を見ては理解する。
 先生方が彼女を強硬手段を取って運ばず、したい様にさせたのは、こうして迎えが来ていたことを知っていたからであったのだ。結局のところ、殻が付いている子の意地なんて、親鳥の前では無用の長物に過ぎないと、彼女は自嘲した。
 彼女が寄越した視線に声の主は手を伸ばし、血がつくことを厭いもせずに触れてくる。

「……なんだ、あんたは迎えに来てくれたんじゃないのか、留三郎」

 彼女はそう言うと留三郎にもたれ、その胸元に己の頭を押し付ける。
 留三郎の上衣に血を擦り付けるが、けれども文句を垂れることもなく彼女を抱き上げたかと思うと、俵のように担ぎ歩き始める。
 あんなにも轟々と音を立てて流れていた水は、最早どこにもありはしない。
 彼女は腹部に感じる圧迫感と逆さになる頭の気持ち悪さに、うえっ、と嘔吐きを漏らした。
 ぽたぽたと、血が滴り落ちては足跡を残していき、それを眺めながら彼女は大人しく揺られている。

「我慢しろよ、伊作も我慢していたんだ。だから死ぬのは我慢しろよ」

「あはは、なにそれ。我慢したら死なないの?」

「あっ、おいこらはしゃぐな。傷に障るだろうが」

 けらけらと笑い出す彼女が身を起こし、留三郎の頭を抱えるように身じろいだ。
 彼女を取り落とさぬよう抱え直した留三郎は、じっと見詰めてくる彼女をちらりと見上げる。
 血塗れで、ともすれば今にも死んでしまいそうなほどに青白い顔だ。昼間見送った時よりも怪我が増えており、その分血も失っているのだろう。
 ただ、目だけがずっと爛々と輝いているのは、手負いの獣が今はまだ牙を仕舞えずに唸り続けているのだ。

「起きた後輩が真っ先にお前を心配していたぞ。トドメを刺されそうになったあの後輩を庇ったんだと?」

「そう、あの子起きたんだ。良かった良かった、間に合った。世話になったねぇ、留三郎にも」

 ぺしぺし留三郎の頭を幾度となく軽く叩く彼女に、じろりとした目が向けられる。

「何終わったみたいに言ってんだ、お前の世話はこれからだぞ」

「分かってるよ。分かってるから、あんまり言わないで。頭に響いて仕方ない」

 彼女は留三郎の首に回した手に力を込めると、擦り寄るようにもたれ掛かる。
 自然と留三郎の足は早足になっており、駆け出したいが手荒に運ぶことも出来ずに気持ちだけが急いている。

「あんまり急がなくたって私は死にはしないよ、もう聞こえないもの。しぶとさだけが取り柄なんだ」

「俺の腕が痺れてきてるんだよ」

「なんだと留三郎、私が重たいと言いたいのか!?」

「ああ、重たいね。人の命なんぞ重たくて仕方ない!」

 抗議に顔を上げたくとも力を入れられず、代わりに声だけをやたらと張り上げた彼女に、留三郎はそれ以上の声量でもって返した。
 頭に響く、と思わず零した彼女の力が余計に抜けてしまえば、慌てて留三郎が謝るのが可笑しくて、またもけらけらと笑ってみせる。
 揺れる留三郎の肩の上はとてもじゃないが心地好いとは言い難く、けれどその温もりだけは今は離れ難い。
 指先だけだった冷えは全身を這い回っており、寒くて仕方がないと留三郎に余計に強く抱き着いた。

「伊作! 連れて来たぞ! 生きてる!」

 留三郎は半ば蹴破るような勢いで足で戸を開けると、中にいた伊作にそう叫ぶ。
 もう他の生徒がいないからって、そんな大声を上げるんじゃないよ、と彼女は思いながらも、言葉に出す気力は無かった。
 室内には既に一通りの処置道具を並べた伊作がおり、二人が入って来るなり眉を寄せる。

「そのままここに座って」

 伊作の手早い指示に従って、留三郎は壁際に敷いた布団の上へ彼女を抱えたままに座った。留三郎の腕の中、彼女はへらりとした笑みを浮かべる真っ青な顔で伊作を見上げる。

「新野先生は、まだ戻られないの?」

「うん、だから僕がいる。お前の傷は僕が診てやるから、寝るんじゃないよ。はい、この布を噛んで、それから留三郎ももっと強く抱き締めて。そう、しがみつくんだ。爪をどれだけ立ててもいいし、声をどれだけ上げてもいい。留三郎がお前を離すことは無いからね」

 伊作がそう言って彼女の口に布を押し込むと、留三郎はしがみつく彼女の背の患部に当たらないよう、一層強く抱き締めた。留三郎の背に傷を付けたくはないのか、上衣の布だけを強く握り締める彼女に、留三郎はぎゅうと体を引き寄せる。
 伊作は彼女の上衣を素早く切り、肩衣とサラシまでも切っていく。
 空気に晒される背中には、左肩に折れた矢と、その少し下には手当した包帯が巻かれているが、脇腹も薄く刀で撫でられたのか、包帯は赤く滲んで裂けていた。頭の傷は皮が裂けたようなものであるが、右腕の傷は多少深いようで、肉がちろりと覗いている。
 色々と診なければならないところは多いが、先ずは左肩の矢を除かなくてはならない。時間の経過によって肉が鏃を深く呑み込んでおり、伊作は小刀を取り出すとふぅと息を吐く。

「良いかい? 今から肉を抉って鏃を出す。暴れないでね、暴れれば要らぬ腱を切ってしまうかもしれない。……出来るね?」

 伊作は努めて平静な声を保つようにして問いかける。
 何故か今にも泣きそうな留三郎が、優しく彼女の頭を撫でると、こくりと小さく頷いたのが見えた。
 伊作は折れた矢に手を添え、滑るようにして肌に触れた。そして、柔い肌に小刀を一息のうちに入れて周りの肉を抉り出す。

「——ッぅあ」

 漏れ出た彼女の鈍い声と、びくりと一瞬跳ね上がる体を留三郎が抑え込む。強く握った留三郎の上衣がビリッと音を立て、縋る手は真っ白に染まるほどに衝撃を逃がそうと必死だった。
 ぎゅうと噛み締めた布の隙間から漏れ出る苦痛に耐える声と、伊作が肉を抉る音はやけに室内に響き、留三郎はただ静かに彼女の体を強く抱き締めていた。
 鮮血がとくとくと彼女の体から抜け落ちていき、鉄はさみで鏃が引き抜かれると、次いで伊作は素早く止血に入る。
 ヨモギと一瞬迷った末に、蒲黄を塗った布を患部にあてがい、さらにその上から包帯を幾重にも巻き終えると、ふぅと伊作はようやく詰めていた息を吐いた。

「終わったよ、よく頑張ったね」

 伊作がそう言うと、のろのろと顔を上げて振り向く彼女は、目にいっぱいの涙を浮かべていた。ほろりほろりと涙を落としていく彼女へ、伊作がその口から布を取り上げると、たらりと血の混じる唾液が顎へ糸を垂らす。
 留三郎にしなだれかかるままの彼女に、伊作はそのままの姿勢でいるようにと言い、昼間の包帯を切って取り払う。患部に貼っていた金創膏の紙が落ちるが、貼り付いてしまっているもものはぺりぺりと剥がしていく。
 痛みにまたも呻き声を上げる彼女に、留三郎はあやすように優しく髪を撫でつける。

「唇を噛むなよ、噛むなら俺の肩を噛め。噛みちぎってもここなら伊作がいる」

 留三郎が冗談混じりに肩に頭を押し付けてくるもので、彼女は素直に小さく口を開くと肩に噛み付いた。

「治療中に怪我人を増やされるのは困るのだけれど」

 伊作が困ったように笑みを浮かべながら患部の血を拭っていき、傷口には金創膏を新たに塗った布をあてがい包帯で留めていく。
 そこでふと、伊作は何かに思い至ると一瞬悩ましげな顔をするも、自身の上衣に手をかけて脱ぎ去った。
 留三郎が怪訝な顔をするが、伊作はその上衣を背中の処置を終えた彼女にかけさせてやり、今度は上向きになるようにと言う。
 彼女の上衣も肩衣も、さらにはサラシも血がついている上に切ってしまった後だ。かといって、素肌を晒したままに上向かせるのは、伊作と留三郎の精神衛生上よろしくなく、故に伊作は自身の上衣を羽織らせたのだが、ぶかぶかとしていつもとは違う色の上衣に包まれた彼女を見れば、十分に下手な気持ちが湧き起こりそうだった。
 こほん、と一つ咳払いをして気を取り直すと、伊作は彼女の右腕をとる。傷口は幸いにもさほど汚れもなく、背中と同様にして布で血を拭き取って、金創膏を塗った布を包帯で留めていく。
 涙の収まった彼女の目元は赤くなっており、じっと伊作の手元を見詰めてくる瞳は潤んでいて、そこには幼さすら垣間見える。
 伊作は落ち着かない気持ちになりそうなのを必死に堪えながら、右腕に包帯を巻き終えると、今度はその額に手を伸ばす。そして額と側頭部の傷を見て、血を拭ってやってから金創膏を直接塗り付けると、彼女がぐっと目を瞑った拍子に、その睫毛についた涙の名残が煌めいた。

「伊作?」

 留三郎の声に手が止まっていたことに気が付くと、伊作は誤魔化すように笑って頬が熱くなるのを感じながら、患者に向かって抱いた邪な考えを振り切るべく、一心不乱に薬を塗り込めた。
 ふぅ、となんだかやけに疲れたような気がする中、彼女の頬がほんのりと色付いていることに気が付いた。指の背で頬に触れると、熱くなっており、とろりと眠気を我慢する瞳が伊作を見詰める。

「熱が高くなってきたね。他に怪我は? 痛いところはあるかい?」

「あとは擦り傷とかだから、伊作に診て貰うようなものじゃないよ」

「擦り傷も傷だよ。痕になったらどうするの」

「ふふっ、なにそれ。そんなもの、今更じゃない? それにもっと大きな傷が出来たのだから、別に構わないよ」

 留三郎に深く身を預け、うつらうつらと微睡みに足をかけ始める彼女。
 反応が鈍くなりつつある彼女に心配そうな留三郎が覗き込み、彼女は頭を留三郎により押し付ける。

「留三郎、悪いけれど壁にもたれていいから、しばらくそのまま彼女を抱いておいて。今横になったら変に血が溜まるかもしれないからね」

「任せておけ!」

 留三郎はそう元気良く返事をすると、彼女が煩いと微睡みの縁から覗き出る。すまない、と謝る留三郎に気を良くしたのか、彼女はふふんと笑んでからまた瞼を閉じる。
 体が冷え切っており、色の悪い唇に伊作は触れる。血を失い過ぎたかもしれないと考えつくと、伊作は留三郎と彼女に貸した上衣を剥ぎ取った。
 思わぬ蛮行とも取れる所業に、なんだと目を見開く留三郎の肩衣まで奪い取り、ぴたりと素肌同士が密着するようにしてやる。

「そのまま彼女を温めるんだよ、留三郎。あっ、間違っても変な気は起こしちゃ駄目だからね」

「お前は俺がそんな節操なしに見えるのか……」

 ぷるぷると震えて今にも抗議の声を上げようとする留三郎を宥め、ばさりと上から布団を掛けてやる。
 次いで伊作は彼女の袴に手をかけ脱がせると、おい、という留三郎の声が振る。
 けれど、伊作が彼女の膝の擦り傷や太腿の打撲痕に軟膏を塗っていけば、なにも言えなくなったのか、己の早合点にバツの悪さを覚えて唇を引き結んでいた。
 伊作は目に見える範囲の傷に一通り薬を塗り終えると、やっと心の底から安堵の息を漏らす。しかし、彼女の冷え切った体を思えば油断は出来ず、伊作はよしっと掛け声ひとつ落として肩衣を脱いだ。
 首を傾げる留三郎に伊作は横になるように指示すると、布団をかけ直して伊作もいそいそと潜り込んでくる。
 彼女を挟むようにして向かい合う伊作に、留三郎は頭に浮かんだ疑問をそのまま顔に浮かべているもので、伊作は笑って彼女ごと留三郎に引っ付いた。

「体を温めるには人肌が良いのだと、新野先生にこの間教えていただいたんだ。一人より二人の方が温かいだろうし、今日はこのまま三人で寝てしまおう」

「まだ峠は越えていないってことか」

「そうだねぇ、あとはこの子次第。——至らぬところはあるかもしれないが、僕に出来ることは全てやったつもりだよ。だからこの子が死なないように、二人で温めてあげようね」

 伊作がぎゅうぎゅうとおしこくるもので、彼女の肌が密着して留三郎の顔は真っ赤に染まる。

「こんなところ他の奴らに見られたらどうするんだ!」

「大丈夫だよ、これは立派な治療行為なんだから。なにも恥じることは無いよ、人助けだもの」

 それとも、と伊作はにっこりとした笑顔を向ける。

「そんなに恥ずかしいのなら戻っても良いんだよ? 今までご苦労様、あとは僕に任せて存分に広く冷たい布団を堪能して来ると良いよ」

 伊作の言葉に留三郎は、ぐぬぬ、と唸り声を上げ、それからぎゅうと彼女ごと伊作に詰め寄った。

「付き合ってやろうじゃないか。一人より二人なんだろ」

 投げやりな言葉とは裏腹に、彼女を抱く力は優しくて、照れ隠しが下手な様は可笑しくて、伊作はまたも笑いを零さずにはいられない。
 それから二人の腕の中、眉間に皺を寄せて眠る彼女へ目を向けると、そのまま額に一つ口付けを落とした。
 煩わしいとでも言うように、余計に彼女の眉間には皺が寄り、けれど温もりを求めるように伊作の胸元へと頭を押し付けてくる。
 愛おしさに胸が苦しくなる思いに、伊作は彼女が生きていることを実感する。
 手の中にはまだ彼女の肉を抉った感触が残っているが、そんな伊作ごと留三郎が距離を詰めた。
 もう寝るぞ、と短く落として目を瞑る留三郎も、今までの険しい面持ちはどこへやら。
 彼女の状態は今はまだ、予断の許さない状況であるというのに、伊作は根拠の無い自信に目を瞑る。
 きっともう、彼女は大丈夫なのだと疑いもせずに、そのまま眠りに就いたのだった。
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