未だ青きは花菖蒲
太陽が空高く座している昼時に、平和な空気が流れる中に不釣り合いな格好をして走る者が一人。
彼女は腕に抱えた子を取り落とさぬようにしながらも、自身の体が常より動かしにくいことに眉を寄せる。視界もなんだか悪いと感じる暇もなく、それよりも腕の中の子が垂れ流す命が尽きる前にとその足を一層早める。
疾風の如く駆け抜けられれば良かったのだが、現実はそうもいかない。
女と言えど、意識を失った人間というのは存外に重く、ましてや男でもない彼女が人を抱えて走っても、速度なんて満足に出るはずもない。
——ああ、男だったら、と心の中で何度も嘆く。
麗らかな日和の昼時は授業もなく、ランチを終えて外に出ている下級生らが彼女たちを見ては、わっ、と短い声を上げて飛び退いた。
挨拶なんてしている余裕はもちろんなく、全ての音を置き去りにする思いでひたすらに駆ける。
塞がった腕では常のように戸を開けることは出来ず、ままならない思いに歯噛みして、行儀悪くも片足でスパンっと荒い音を立てて開け放つ。
「新野先生は——新野洋一先生はいらっしゃいますか!?」
作法も何もあったものじゃない、不躾な声とともに返答を待たずに乗り込んだのは医務室だ。
彼女は肩で息をしながらも、腕の中の子をそれでも落とすまいとしては、半ば睨むようにして部屋の中を見渡した。
果たしてそこにいたのは、保健委員会所属一年は組の猪名寺乱太郎であり、手にしていた包帯をぽろりと取り落とし、顔を真っ青にして彼女を見詰め返していた。
獣のように荒い息のまま部屋を再度見渡した彼女は、一度目を瞑って深く長く息を吐く。そうして、再び目を開けるとにこりと微笑んだ。
「ごめんね、とっても急いでいたの。止血するから、清潔な布と包帯、それから——」
ふるふると、突然の濃い血の香りに動揺しているのか、震えている乱太郎をなるべく怖がらせないよう、努めて平静を装った声音で言いながら腕の中の子を寝かせる。そうして意識のない中眉を寄せる子の頬にかかる毛を払ってから振り向いたところ、廊下からわざとらしくもバタバタとした足音が聞こえてくる。
パンっと、軽い音を立てて開けられた戸に立つのは保健委員会委員長である、六年は組の善法寺伊作である。恐らくどこかで見ていたか、そうでなければ誰かが呼んでくれたのだろうことに、彼女は安堵の息を零しそうになる。
伊作は部屋に入るなり即座に状況を把握し、深い裂傷を負っている、未だに意識の戻らぬ子の傍に寄ると、手にしていた桶を傍らに膝をついた。
「乱太郎、糸と針を用意してくれるかい? それから湯をうんと沸かしてきてくれ」
「あ……は、はい!」
乱太郎は一瞬戸惑いを見せるが、そこはやはり保健委員。返事をするとすぐに糸と針を用意し、湯を沸かすべく部屋を慌ただしく出て行った。
「量は? どれくらい失ってそう?」
「分からない、見ている余裕は無かったから。けれど、たぶん、たくさん」
「そう。火は無かった?」
「位置を気取られる前に移動する必要があったから何も。布で押さえるくらいしかしてない」
「お前は出来る限りをしたのだから、あとは僕に任せなさい。新野先生は今は遠方に赴かれているんだ。先生には遠く及ばないが、それでも僕も出来る限りを尽くしてみせるよ」
伊作は今は無い意識が万が一戻った時を考え、横たわる子の口に布を押し込んだ。針を取り出すと入念に火で炙り消毒し、糸を通しながら顔も向けずにそう言った。
伊作の傍らに座していた彼女はそこで、ほぅっ、と一つ息を落とした。途端にぽたりと血が床を汚し、けれど拭うでもなくじくじくとした左肩の痛みの煩わしさに眉を寄せる。
このままでは動けなくなると感じた彼女は、一瞬ふらつく中立ち上がる。
「伊作先輩! お湯を持って来ました!」
そこへ戻って来た乱太郎が桶を持って入ると、その後ろには伊作の同室である食満留三郎の姿があった。
留三郎も桶を持っており、そこには熱い湯があるのが見て取れた。
実は来る前に伊作が共に居た留三郎に、湯を沢山沸かしておくように頼んでいたので、使いに出した乱太郎が事情を説明する必要もなく、一緒になってやって来たのだ。
「ありがとう、乱太郎。助かるよ。そしたらランチに行っておいでね、まだ昼を食べていないだろう」
保健委員として心配なのか、このまま出て行くことを渋る乱太郎だが、湯桶を置いた留三郎がその頭をわしわしと撫でて送り出すと、後ろ髪引かれる思いで出て行く乱太郎。
まだ一年生には早いだろうと思った伊作の気遣いだが、何よりも今は気性の荒い姿の彼女と共にいさせるのは酷だと判断したからだ。
「留三郎、湯に布を。それからその棚の金創膏を紙に塗って。——こら、待ちなさい。お前もここに残るんだよ。僕が何もせず、お前をみすみす外に出すと思うかい?」
留三郎の脇を抜けようとした彼女だが、伊作の声と留三郎の手によって引き止められる。
額を濡らす血をそのままに、伊作を睨め下げる彼女だが、その左肩には矢が一本突き刺さったままだ。そんな彼女を保健委員長として、何より友としてそのままにしておけるなんてことはなく、伊作はじっとその目を見詰め返す。
「……伊作、“優先順位”が違うんだ。お前はその子、私は戻らなくちゃならない。お前もそこを退きなさい、留三郎」
ぐっと押し退けようと留三郎の肩を掴む彼女の手は真っ赤に染まっており、留三郎の肩にべたりと血がついてしまう。
けれど、留三郎はそんなことお構い無しと、顔色一つ変えずに空いた手で無遠慮に肩の矢を掴む。
「——っ!」
突然の痛みが脳内を支配しては体を強ばらせ、思わず留三郎にしがみつけば、ようやくその手が矢から離される。
はくはくと、短く息を漏らすのは陸に揚げられた魚のようで、じわりと浮かぶ目元の涙を留三郎に恨みと共に押し付けた。
ぎゅうと、肩を強く掴まれながらも、留三郎はひょいと彼女を抱き上げてしまえば、彼女は途端に離せと暴れ出す。
「おいこら暴れるな、折ってやるから。そのままだと適当な場所に引っ掛けて使いものにならなくなるぞ」
そう言って留三郎が彼女の頭を撫でてやると、彼女はそれきり大人しくなった。
留三郎の耳元で、早く、と呟く声は弱まっており、背中に回した手がべたりとした湿り気を帯びていることに、留三郎は敢えて何も言うまいとした。
「良い子だ、縫合は終わりだよ。しばらく寝ていていい、よく頑張ったね」
伊作はそんな中、縫合を終えていたらしく、痛みに目を覚ましていた子の頭を撫でると、また気絶するように意識を手放したのを見てから桶の湯に手をつける。
伊作は手についた血を湯で落としたあと、布で手を拭きながら留三郎と彼女を見ていた。
背中の矢の射付節と篦中節の間を見定めると、留三郎がフッと息を吐いてそれを折る。矢に触れているだけでも痛みが走るというのに、折れた時の衝撃に縮こまった体がさらに小さくなり、次いで肩で荒い息を吐いて弛緩しようと努める。
「……痛むか?」
「あはっ、もちろん……」
留三郎が気遣わしげに頬に触れると、彼女はにんまりと笑んだ。強がっていないと、今にも倒れてしまいそうなのだ。
額から垂れていた血は擦れていて、既に乾き掛けているのか、脂汗と滲んでなかなかに酷い顔をしている。だというのに、目だけが爛々と輝いており、獰猛な獣の如く闘気を隠さない彼女は、息を整えるとゆっくりと立ち上がる。
ぼたり、と背中の傷が開いたのか、床にまた新たな血が滴り落ちた。
「こちらにおいで、応急処置をしてあげる」
「要らないよ、動きづらくなるもの」
「血を失い過ぎて倒れたら、それこそ動けなくなってしまうよ。お前はそれで良いのかい?」
伊作が手招きするも時間が惜しいのか、さっさと出て行きたいと顔に書いてある彼女に、それでも伊作が手招きを続ければ、観念して渋々伊作の前に座る。そうして上衣を脱いだ彼女は肩衣を捲りあげ、伊作の眼前に沢山の傷痕を持つ小さな背中を晒す。
そこには横に凪ぐ刀傷が、今も気を失う子よりも深く走る痕が刻まれていた。
痛々しく映るその傷に金創膏を塗り付けた紙を貼り付け、その上から包帯を巻いてやる。あっという間に処置を終えたが、彼女は包帯のせいで動きづらいのが煩わしいと、眉間に皺を寄せたままだ。
彼女を振り向かせた伊作は、留三郎から湯に付けておいた絞った布を受け取ると、その顔の血を丁寧に拭き取った。額の傷は浅く、今はもう血も止まっていた。
「ありがとね、伊作。留三郎も。これで存分に仕返しに行ける」
ちぅ、と伊作の頬を両手で包み、鼻先に口付けを落とした彼女は立ち上がる。素早く上衣を羽織って整えたかと思えば、目付きをさらに鋭くした彼女は、片手間に口布を上げながら医務室を出て行った。
常よりも動きにはどうしたって俊敏さが欠けており、痛みが体を支配しそうになるのを気合いだけで消し飛ばしているのだと悟れば、伊作と留三郎はどちらともなく顔を見合わせる。
二人して眉を下げ、床に残る彼女の血を拭き取ってから口を開く。
「血気盛んなところ、お前によく似ているよ」
「無茶をするのは伊作も同じだろうが」
伊作と留三郎がそう笑い合っていれば、カタンっと音が鳴ってそろそろと戸が開かれる。ぴょこりと覗いたのは乱太郎で、乱太郎の上にはきり丸がおり、下にはしんベヱがいた。
団子のようになって覗いたかと思えば、曇った表情のままに医務室へと入って来た。
「伊作先輩、わたしやっぱり心配で……」
乱太郎がそう切り出すと、後ろのきり丸としんベヱは気遣わしげに乱太郎を見詰める。
一年生だからといって、何も分からないわけではないのだ。理解しているわけではないが、それでも何かとても不安になるようなことが起こっていることだけは分かっていた。
伊作は乱太郎に近付くと、その頭を撫でてやる。ふわふわとした毛質に優しく笑んでやっても、乱太郎は不安なのか眉尻を下げたままに呟いた。
「さっき、先輩が医務室から出て行くのが見えたんです。わたしには、あの人もあんな風に出歩いて良いようには思えないのですが……」
尻すぼみになる乱太郎はそこで言葉を閉ざしてしまい、伊作がどうしたのかと覗いて見ても首を振るばかり。
代わりに後ろにいたきり丸が、乱太郎の肩に手を添えて続きを口にした。
「僕たち、先輩の顔を見たら声を掛けられなくなっちゃって、止められなかったんです」
きり丸がそう言うと、しんベヱも乱太郎の手を握って寄り添う。
乱太郎は負傷者が医務室から飛び出て行く様に、咄嗟に保健委員として止めようとした。
だが、彼女は今や忍務のことで頭がいっぱいだったのだ。
そんなピリピリとした彼女に声を掛けることが出来なかったのを悔いて、保健委員としての責務を果たせなかったことを正直に懺悔する後輩たちは、不安気な様子で伊作を見上げる。
六年生が一年生に声を掛けるのは容易いが、一年生が六年生に声を掛けることを躊躇う場面というのは、この学園生活において存外多いものだ。例えそれがどれだけ普段仲の良い相手であってもだ。
それを理解しているからこそ伊作と留三郎は三人の頭を撫でてやりながら、安心しなさい、と勇敢で責任感の強い後輩と目線を合わせて笑む。
「僕たちでも止められないのだから、乱太郎たちが止められなくても仕方の無いことだよ」
「あれを止めるには、三人が今よりもっと大きくならんと無理だな」
伊作の慰めに続き、留三郎が揶揄い混じりにそう言った。
乱太郎たちは顔を見合わせると、安堵に胸を撫で下ろして、俯きがちだった顔も少しだけ上向いた。
「先輩たちがそうおっしゃってくれるおかげで、なんだか少し気持ちが晴れました」
「ありがとう、乱太郎、きり丸、しんベヱ。さぁもうお前たちは戻りなさい。この後補習があるんだろう? 遅刻をしたり、サボったりなんてしたら、お前たちを探していた土井先生の胃に本当に穴が空いてしまうよ」
三人は口を揃えて、はーい! と元気良く返事をすると、寝ている患者がいたことを思い出し、勢い良く手で口を塞いでからそろりそろりと部屋を出る。そうして戸を閉める際に三人は綺麗なお辞儀をし、失礼しました、とひそやかにパタパタと出て行った。
一年生の三人組が医務室から出て行くと、途端にしんと静まり返る室内。
伊作は重傷者の子を見ると熱が出始めているのか、赤い顔が苦しげに眉を寄せていた。
すっかり冷え切った、まだ綺麗な水の入った桶の中で手拭いを濡らし、その額に掛けてやると、幾分か呼吸が穏やかになったように感じられ、そのまま布団を肩口まで掛け直してやる。
留三郎は手にした折れた矢を見詰めながら、肩に残る彼女の痛みに苦しむ手を思い出す。
「……力ずくでも止めるべきだったと思うか?」
ふと、そんなことを思えば口に出ており、留三郎はしまったと訂正しようと思うも、零した言葉を今更呑み込むことは出来なかった。
胸中から滲み出た憂慮が重く床底に沈んでいき、彼女の垂らした血のついた手拭いが、ちゃぽりと桶の中で踊っていた。
「矢を折る判断をしたのは留三郎、金創膏を塗る判断をしたのは僕だ。同じだよ、留三郎。留三郎だけじゃない、二人で送り出したんだ」
じんわりと水に赤黒い血が溶けていくが、染み付くすべてが早々に落ちるでもなく伊作は擦り続ける。
「彼女がこれで死んだら、墓前で共に一生謝ってくれるかい?」
手をぴたりと止めた伊作は、留三郎を猫のような目で見詰める。
留三郎はそんな伊作に肩を落とし、そうして近寄ってからその額を指先で弾いた。
「あれは前回も生き延びたんだし、間違ってもそんなこと言うんじゃねぇと言いたいが——共に謝るさ、同室なんだから」
——同室だから、共犯者にもなる。
なんて良い同室を持ったのかと、伊作は留三郎に打たれた額の熱にそう思えば、手拭いはようやく元の色を思い出していた。
彼女は腕に抱えた子を取り落とさぬようにしながらも、自身の体が常より動かしにくいことに眉を寄せる。視界もなんだか悪いと感じる暇もなく、それよりも腕の中の子が垂れ流す命が尽きる前にとその足を一層早める。
疾風の如く駆け抜けられれば良かったのだが、現実はそうもいかない。
女と言えど、意識を失った人間というのは存外に重く、ましてや男でもない彼女が人を抱えて走っても、速度なんて満足に出るはずもない。
——ああ、男だったら、と心の中で何度も嘆く。
麗らかな日和の昼時は授業もなく、ランチを終えて外に出ている下級生らが彼女たちを見ては、わっ、と短い声を上げて飛び退いた。
挨拶なんてしている余裕はもちろんなく、全ての音を置き去りにする思いでひたすらに駆ける。
塞がった腕では常のように戸を開けることは出来ず、ままならない思いに歯噛みして、行儀悪くも片足でスパンっと荒い音を立てて開け放つ。
「新野先生は——新野洋一先生はいらっしゃいますか!?」
作法も何もあったものじゃない、不躾な声とともに返答を待たずに乗り込んだのは医務室だ。
彼女は肩で息をしながらも、腕の中の子をそれでも落とすまいとしては、半ば睨むようにして部屋の中を見渡した。
果たしてそこにいたのは、保健委員会所属一年は組の猪名寺乱太郎であり、手にしていた包帯をぽろりと取り落とし、顔を真っ青にして彼女を見詰め返していた。
獣のように荒い息のまま部屋を再度見渡した彼女は、一度目を瞑って深く長く息を吐く。そうして、再び目を開けるとにこりと微笑んだ。
「ごめんね、とっても急いでいたの。止血するから、清潔な布と包帯、それから——」
ふるふると、突然の濃い血の香りに動揺しているのか、震えている乱太郎をなるべく怖がらせないよう、努めて平静を装った声音で言いながら腕の中の子を寝かせる。そうして意識のない中眉を寄せる子の頬にかかる毛を払ってから振り向いたところ、廊下からわざとらしくもバタバタとした足音が聞こえてくる。
パンっと、軽い音を立てて開けられた戸に立つのは保健委員会委員長である、六年は組の善法寺伊作である。恐らくどこかで見ていたか、そうでなければ誰かが呼んでくれたのだろうことに、彼女は安堵の息を零しそうになる。
伊作は部屋に入るなり即座に状況を把握し、深い裂傷を負っている、未だに意識の戻らぬ子の傍に寄ると、手にしていた桶を傍らに膝をついた。
「乱太郎、糸と針を用意してくれるかい? それから湯をうんと沸かしてきてくれ」
「あ……は、はい!」
乱太郎は一瞬戸惑いを見せるが、そこはやはり保健委員。返事をするとすぐに糸と針を用意し、湯を沸かすべく部屋を慌ただしく出て行った。
「量は? どれくらい失ってそう?」
「分からない、見ている余裕は無かったから。けれど、たぶん、たくさん」
「そう。火は無かった?」
「位置を気取られる前に移動する必要があったから何も。布で押さえるくらいしかしてない」
「お前は出来る限りをしたのだから、あとは僕に任せなさい。新野先生は今は遠方に赴かれているんだ。先生には遠く及ばないが、それでも僕も出来る限りを尽くしてみせるよ」
伊作は今は無い意識が万が一戻った時を考え、横たわる子の口に布を押し込んだ。針を取り出すと入念に火で炙り消毒し、糸を通しながら顔も向けずにそう言った。
伊作の傍らに座していた彼女はそこで、ほぅっ、と一つ息を落とした。途端にぽたりと血が床を汚し、けれど拭うでもなくじくじくとした左肩の痛みの煩わしさに眉を寄せる。
このままでは動けなくなると感じた彼女は、一瞬ふらつく中立ち上がる。
「伊作先輩! お湯を持って来ました!」
そこへ戻って来た乱太郎が桶を持って入ると、その後ろには伊作の同室である食満留三郎の姿があった。
留三郎も桶を持っており、そこには熱い湯があるのが見て取れた。
実は来る前に伊作が共に居た留三郎に、湯を沢山沸かしておくように頼んでいたので、使いに出した乱太郎が事情を説明する必要もなく、一緒になってやって来たのだ。
「ありがとう、乱太郎。助かるよ。そしたらランチに行っておいでね、まだ昼を食べていないだろう」
保健委員として心配なのか、このまま出て行くことを渋る乱太郎だが、湯桶を置いた留三郎がその頭をわしわしと撫でて送り出すと、後ろ髪引かれる思いで出て行く乱太郎。
まだ一年生には早いだろうと思った伊作の気遣いだが、何よりも今は気性の荒い姿の彼女と共にいさせるのは酷だと判断したからだ。
「留三郎、湯に布を。それからその棚の金創膏を紙に塗って。——こら、待ちなさい。お前もここに残るんだよ。僕が何もせず、お前をみすみす外に出すと思うかい?」
留三郎の脇を抜けようとした彼女だが、伊作の声と留三郎の手によって引き止められる。
額を濡らす血をそのままに、伊作を睨め下げる彼女だが、その左肩には矢が一本突き刺さったままだ。そんな彼女を保健委員長として、何より友としてそのままにしておけるなんてことはなく、伊作はじっとその目を見詰め返す。
「……伊作、“優先順位”が違うんだ。お前はその子、私は戻らなくちゃならない。お前もそこを退きなさい、留三郎」
ぐっと押し退けようと留三郎の肩を掴む彼女の手は真っ赤に染まっており、留三郎の肩にべたりと血がついてしまう。
けれど、留三郎はそんなことお構い無しと、顔色一つ変えずに空いた手で無遠慮に肩の矢を掴む。
「——っ!」
突然の痛みが脳内を支配しては体を強ばらせ、思わず留三郎にしがみつけば、ようやくその手が矢から離される。
はくはくと、短く息を漏らすのは陸に揚げられた魚のようで、じわりと浮かぶ目元の涙を留三郎に恨みと共に押し付けた。
ぎゅうと、肩を強く掴まれながらも、留三郎はひょいと彼女を抱き上げてしまえば、彼女は途端に離せと暴れ出す。
「おいこら暴れるな、折ってやるから。そのままだと適当な場所に引っ掛けて使いものにならなくなるぞ」
そう言って留三郎が彼女の頭を撫でてやると、彼女はそれきり大人しくなった。
留三郎の耳元で、早く、と呟く声は弱まっており、背中に回した手がべたりとした湿り気を帯びていることに、留三郎は敢えて何も言うまいとした。
「良い子だ、縫合は終わりだよ。しばらく寝ていていい、よく頑張ったね」
伊作はそんな中、縫合を終えていたらしく、痛みに目を覚ましていた子の頭を撫でると、また気絶するように意識を手放したのを見てから桶の湯に手をつける。
伊作は手についた血を湯で落としたあと、布で手を拭きながら留三郎と彼女を見ていた。
背中の矢の射付節と篦中節の間を見定めると、留三郎がフッと息を吐いてそれを折る。矢に触れているだけでも痛みが走るというのに、折れた時の衝撃に縮こまった体がさらに小さくなり、次いで肩で荒い息を吐いて弛緩しようと努める。
「……痛むか?」
「あはっ、もちろん……」
留三郎が気遣わしげに頬に触れると、彼女はにんまりと笑んだ。強がっていないと、今にも倒れてしまいそうなのだ。
額から垂れていた血は擦れていて、既に乾き掛けているのか、脂汗と滲んでなかなかに酷い顔をしている。だというのに、目だけが爛々と輝いており、獰猛な獣の如く闘気を隠さない彼女は、息を整えるとゆっくりと立ち上がる。
ぼたり、と背中の傷が開いたのか、床にまた新たな血が滴り落ちた。
「こちらにおいで、応急処置をしてあげる」
「要らないよ、動きづらくなるもの」
「血を失い過ぎて倒れたら、それこそ動けなくなってしまうよ。お前はそれで良いのかい?」
伊作が手招きするも時間が惜しいのか、さっさと出て行きたいと顔に書いてある彼女に、それでも伊作が手招きを続ければ、観念して渋々伊作の前に座る。そうして上衣を脱いだ彼女は肩衣を捲りあげ、伊作の眼前に沢山の傷痕を持つ小さな背中を晒す。
そこには横に凪ぐ刀傷が、今も気を失う子よりも深く走る痕が刻まれていた。
痛々しく映るその傷に金創膏を塗り付けた紙を貼り付け、その上から包帯を巻いてやる。あっという間に処置を終えたが、彼女は包帯のせいで動きづらいのが煩わしいと、眉間に皺を寄せたままだ。
彼女を振り向かせた伊作は、留三郎から湯に付けておいた絞った布を受け取ると、その顔の血を丁寧に拭き取った。額の傷は浅く、今はもう血も止まっていた。
「ありがとね、伊作。留三郎も。これで存分に仕返しに行ける」
ちぅ、と伊作の頬を両手で包み、鼻先に口付けを落とした彼女は立ち上がる。素早く上衣を羽織って整えたかと思えば、目付きをさらに鋭くした彼女は、片手間に口布を上げながら医務室を出て行った。
常よりも動きにはどうしたって俊敏さが欠けており、痛みが体を支配しそうになるのを気合いだけで消し飛ばしているのだと悟れば、伊作と留三郎はどちらともなく顔を見合わせる。
二人して眉を下げ、床に残る彼女の血を拭き取ってから口を開く。
「血気盛んなところ、お前によく似ているよ」
「無茶をするのは伊作も同じだろうが」
伊作と留三郎がそう笑い合っていれば、カタンっと音が鳴ってそろそろと戸が開かれる。ぴょこりと覗いたのは乱太郎で、乱太郎の上にはきり丸がおり、下にはしんベヱがいた。
団子のようになって覗いたかと思えば、曇った表情のままに医務室へと入って来た。
「伊作先輩、わたしやっぱり心配で……」
乱太郎がそう切り出すと、後ろのきり丸としんベヱは気遣わしげに乱太郎を見詰める。
一年生だからといって、何も分からないわけではないのだ。理解しているわけではないが、それでも何かとても不安になるようなことが起こっていることだけは分かっていた。
伊作は乱太郎に近付くと、その頭を撫でてやる。ふわふわとした毛質に優しく笑んでやっても、乱太郎は不安なのか眉尻を下げたままに呟いた。
「さっき、先輩が医務室から出て行くのが見えたんです。わたしには、あの人もあんな風に出歩いて良いようには思えないのですが……」
尻すぼみになる乱太郎はそこで言葉を閉ざしてしまい、伊作がどうしたのかと覗いて見ても首を振るばかり。
代わりに後ろにいたきり丸が、乱太郎の肩に手を添えて続きを口にした。
「僕たち、先輩の顔を見たら声を掛けられなくなっちゃって、止められなかったんです」
きり丸がそう言うと、しんベヱも乱太郎の手を握って寄り添う。
乱太郎は負傷者が医務室から飛び出て行く様に、咄嗟に保健委員として止めようとした。
だが、彼女は今や忍務のことで頭がいっぱいだったのだ。
そんなピリピリとした彼女に声を掛けることが出来なかったのを悔いて、保健委員としての責務を果たせなかったことを正直に懺悔する後輩たちは、不安気な様子で伊作を見上げる。
六年生が一年生に声を掛けるのは容易いが、一年生が六年生に声を掛けることを躊躇う場面というのは、この学園生活において存外多いものだ。例えそれがどれだけ普段仲の良い相手であってもだ。
それを理解しているからこそ伊作と留三郎は三人の頭を撫でてやりながら、安心しなさい、と勇敢で責任感の強い後輩と目線を合わせて笑む。
「僕たちでも止められないのだから、乱太郎たちが止められなくても仕方の無いことだよ」
「あれを止めるには、三人が今よりもっと大きくならんと無理だな」
伊作の慰めに続き、留三郎が揶揄い混じりにそう言った。
乱太郎たちは顔を見合わせると、安堵に胸を撫で下ろして、俯きがちだった顔も少しだけ上向いた。
「先輩たちがそうおっしゃってくれるおかげで、なんだか少し気持ちが晴れました」
「ありがとう、乱太郎、きり丸、しんベヱ。さぁもうお前たちは戻りなさい。この後補習があるんだろう? 遅刻をしたり、サボったりなんてしたら、お前たちを探していた土井先生の胃に本当に穴が空いてしまうよ」
三人は口を揃えて、はーい! と元気良く返事をすると、寝ている患者がいたことを思い出し、勢い良く手で口を塞いでからそろりそろりと部屋を出る。そうして戸を閉める際に三人は綺麗なお辞儀をし、失礼しました、とひそやかにパタパタと出て行った。
一年生の三人組が医務室から出て行くと、途端にしんと静まり返る室内。
伊作は重傷者の子を見ると熱が出始めているのか、赤い顔が苦しげに眉を寄せていた。
すっかり冷え切った、まだ綺麗な水の入った桶の中で手拭いを濡らし、その額に掛けてやると、幾分か呼吸が穏やかになったように感じられ、そのまま布団を肩口まで掛け直してやる。
留三郎は手にした折れた矢を見詰めながら、肩に残る彼女の痛みに苦しむ手を思い出す。
「……力ずくでも止めるべきだったと思うか?」
ふと、そんなことを思えば口に出ており、留三郎はしまったと訂正しようと思うも、零した言葉を今更呑み込むことは出来なかった。
胸中から滲み出た憂慮が重く床底に沈んでいき、彼女の垂らした血のついた手拭いが、ちゃぽりと桶の中で踊っていた。
「矢を折る判断をしたのは留三郎、金創膏を塗る判断をしたのは僕だ。同じだよ、留三郎。留三郎だけじゃない、二人で送り出したんだ」
じんわりと水に赤黒い血が溶けていくが、染み付くすべてが早々に落ちるでもなく伊作は擦り続ける。
「彼女がこれで死んだら、墓前で共に一生謝ってくれるかい?」
手をぴたりと止めた伊作は、留三郎を猫のような目で見詰める。
留三郎はそんな伊作に肩を落とし、そうして近寄ってからその額を指先で弾いた。
「あれは前回も生き延びたんだし、間違ってもそんなこと言うんじゃねぇと言いたいが——共に謝るさ、同室なんだから」
——同室だから、共犯者にもなる。
なんて良い同室を持ったのかと、伊作は留三郎に打たれた額の熱にそう思えば、手拭いはようやく元の色を思い出していた。
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