水仙を絶つ

* * *

 とうに暗闇が支配し、月明かりだけが頼りとなった中、五つの影が木々隙間を切り裂くように縫っていく。その後ろを間を置かずに幾つもの影が追い掛け、その距離は時間が経つ事に縮まっていっていた。
 己の息の荒さを押し殺し、焼けそうな程に熱い肺がいつまでも空気を求めているが、額から落ちる汗を拭う暇さえない。
 背後から迫る幾つもの気配がいつ足を掴んでもおかしくはない状況に、五人は最悪だと同じことを考えていた。
 五人は小平太の言葉通り、裏裏山に来ていたのだが、とある密会を目撃してしまったがために追われる羽目となったのだ。
 隠密して聞き耳を立ててみたところ、山賊崩れの男たちがどこぞの城仕えの男に取り入ろうとしていたところであった。
 しかし、城仕えの男は不意に彼らを蔑んだ目で嘲笑い、要らぬと断じたかと思えばどこからか出てきた忍び衆によって無惨にも命を散らした。
 到底こんなところで起きて良いはずのない惨事に、五人は目配せをし合っては、早く学園に報せなくては、とその場を離れようとする。

『鼠だ、鼠の臭いがする。青クセェ鼠の臭いだァ』

 城仕えの男の傍、忍びの一人がそう口にすると、にたりとした笑みを浮かべた目が五人のいるところへビュッと何かを投げ付けた。
 間一髪のところを避けたものの、それぞれの立っていた場所には手裏剣が刺さっており、人数さえも看破されていることに緊張感が増した。
 五人は顔を合わせる間もなく同時に駆け出し、そうして撤退戦へと至るのだが、時折飛んでくる手裏剣を万力鎖で弾いた勘右衛門に、兵助は目配せをすると即座に頷きが返される。
 兵助と勘右衛門の二人が突如として反転したのに対し、三郎と雷蔵、八左ヱ門の三人は振り返ることなく先を行く。
 誰か一人でも学園に辿り着き、この事態を報告すれば良いのだ。そのための時間稼ぎをい組の二人は即座に請け負い、ろ組もまた当然のように二人を置いて駆け抜ける。
 口布越しの空気は吸っても吸ってもまるで肺を満たせず、肩は自然と上下に忙しなく動いてしまう。
 立ち止まっていても的になるだけであり、兵助は胸元から手裏剣を取り出し向かい来る一人に投げて打つ。当然のように難なく弾かれるが、一瞬でもそちらに気が向けば重畳とばかりに二人は駆け出した。
 木の枝にぶら下がればみしりと音がし、浮き上がらせた体が突っ込んできた敵の頭上を通り過ぎ、兵助が手を伸ばせば同時に勘右衛門の手が重なった。互いにぶつかり合う忍びたちを振り返り、勘右衛門がぷっと吹き出してみせれば、彼らは一様にして目を吊り上げた。

「勘右衛門、なんで怒らせたの?」

「だって間抜けじゃない?」

 兵助は勘右衛門を呆れながらに、飽きない奴だ、と笑いを零し、二人してまたトントンと木々を伝って逃げて行く。
 背後からは依然として先程よりも鬼気迫る顔をして追ってくる忍びたちがおり、焼き切れそうな肺が喉を怪しげに鳴らしている。
 いつまで逃げれば良いのか、いつまで逃げられるか。
 頭の中にはぐるぐると渦巻く疑問は死を予見しており、兵助は勘右衛門の表情を見る余裕もなく二人して茂みへと身を隠す。
 ハッハッ、と漏れ出る荒い呼吸を互いの手で塞ぎ、ザザザッと駆けていく多くの影を木の葉の隙間から見送った。
 しかし、ここら辺で見失ったのも確かなので、行ったり戻ったりする忍びたちが、いつここを見つけるのかは、最早時間の問題だった。
 心臓が耳元で鳴っているのではないかというほどに煩く、手で塞いでいても漏れ出る呼吸音は、耳の敏いものには聞こえてしまうのではないかと、余計に心臓が煩くなる。
 そんな折に、ふわりと嗅いだことのある香りが鼻を掠めたかと思えば、ぬるりと出てきた二本の腕が二人をまとめて抱き寄せた。
 息をするのも忘れ、高鳴る心臓は死を悟って止まったかと思ったほどだ。
 後ろに倒れ込んだはいいものの、後頭部は固くも暖かいものが当たっており、肩を抱く大きな手には覚えもある。
 そして何よりも、目の前にはくノ一の表情で笑みを見せた先輩がおり、小袖を頭から被って覆い被さった。

「——せん」

 勘右衛門の、先輩、と呼びそうになる声を彼女の胸が潰し、兵助もまた顔を柔らかい感触が覆い尽くすことに言葉を失った。
 鼻腔を満たすのは彼女特有の香りであり、柔らかな感触は胸だけでなく、全身を押し付けられたことを理解してしまい、びしりと全身が硬直してしまう。
 頭上で彼女が息を漏らすのが聞こえた気がしたかと思えば、静かにしているんだよ、と艶のある声が二人の耳を擽った。

「——小平太、いい?」

「——ああ」

 兵助と勘右衛門が彼女の柔らかさに固まっている中、小平太との短い確認を済ませた彼女はさらに身を寄せた。
 互いの息を呑むように唇を合わせたかと思えば、割り入れた舌が絡み合って淫靡な音を立てる。
 突然自分たちの頭上でそんなことをおっ始められては混乱の極みであり、兵助と勘右衛門の頭の中は真っ白である。
 そんな二人を笑うように、一際大きな音を立てて交わる小平太と彼女の口吸いの音は、いやに耳に響いてきて仕方がない。さっきまで走っていた胸は別の要因で高鳴り、彼女の胸に押し潰されて息もまともに出来やしない。
 これが新たな罰か、と二人が拷問とも呼べる中耐えていると、ガサリと茂みを分ける音がする。

「なんだ……チッ、こんなところで盛りやがって」

 小平太と彼女の深い口吸いの音は布越しでも聞こえているのか、腹立たしげに吐き捨てた忍びは踵を返し去って行く。
 小平太と彼女の口吸いは、一際淫猥な音を立てて止んだ。
 彼女が顔を上げたことで、その胸に押し潰されていた兵助と勘右衛門は大きく息を吸い、そうして見上げた先で彼女の潤んだ瞳と上気した頬に目を奪われてしまった。
 再度先程よりも激しくガサリと聞こえたかと思えば、ハッと息を呑む兵助と勘右衛門の耳には、二人分の舌打ちが聞こえた。
 
「そんなんで騙されるかァ!」

 怒声を上げた忍びが刀を振り上げたが、彼女は身を起こすと同時に小袖を後ろへ投げ、視界を潰された忍びの足元を払って転ばせる。
 視界外からの攻撃に簡単に地面に横たわる忍びの側頭部を、即座に踏み付けて意識を奪い取る彼女の口元には、先程の口吸いの名残がてらてらと輝いている。
 おっと、と言いながら口元を拭う彼女に見惚れた兵助と勘右衛門だが、その下にいるのが小平太なことを思い出して即座に退いた。
 一体どんなお叱りが来るか分からないと身構えるが、立ち上がって口布を直した小平太は、二人の頭を大きな手でぽんぽんと撫でたかと思えば、そのまま地面へと伏せさせた。
 強かに額を地面へと打ち付けた二人だが、頭上をヒュンッと切り裂く音が通り過ぎ、開放された頭で振り向けば、小平太が忍びの一人の刀を苦無で受け止めていた。

「このっ!」

 ぎりぎりと歯を噛み締めて圧し斬らんとする忍びだが、背後に回っていた彼女がその頭に回し蹴りを食らわせると、どさりと力なく倒れ込んだのを小平太が避ければ、可哀想にも顔面を地面へと打ち付けていた。
 鮮やかに二人も倒した小平太と彼女の手腕に、痛む額を押さえながら敵わないと思わず口をついて出そうになる。
 けれど意地で言葉を呑み込むと、兵助と勘右衛門に向いた二人は常の笑顔もなく、夜陰を見通す目をしていた。

「この先で先生が待っておられる。お前たちは先に行け」

 小平太の指示にすぐに従うべきだが、二人は彼女へと目を向けていた。
 もっと見ていたいし、可能ならば少しでも役に立ちたかったのだ。
 二人のそんな目に、彼女はけれど首を振る。

「あんたたちはもう十分だよ、良い子だから戻りなさい」

 少し離れたところから聞こえるのは甲高い音で、それが鉄のぶつかり合う音ということはすぐに分かった。先生が待っている、ということは今尚鳴り響く戦闘音は先生ではなく、他の六年生が来ていることを示していたのだ。
 これが単なる手合わせや他の事であったなら、彼女は兵助と勘右衛門の申し出を、嬉しいなぁ、と零して受け入れていただろう。
 しかし、こと忍務となればお荷物は不要と即座に斬り捨てる様に、二人は頭を下げてから背を向けた。
 ふと去り際に振り返った兵助と勘右衛門は、小平太の肩に頭を凭れてひらひらと手を振る彼女が笑顔であったことに、やはり敵わない、と思わず呟いてしまったのは仕方のないことだった。
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