水仙を絶つ
* * *
「——なぁ、兵助」
「なぁに、勘右衛門」
久々知兵助と尾浜勘右衛門は、二人仲良く寝そべって空を見上げていた。
汗で張り付いた布が煩わしく、上衣は脱いで横に放り出しているのも二人一緒で、ぼーっと見上げた空にようやく息が整い始めた頃だった。
寝そべって、視線も寄越さぬままに声を掛けられ、兵助は同じく視線を向けることなく返事をする。
「あの人、忍務の時どんな顔をするのか気にならない?」
勘右衛門はそう言って上体を起こすと、兵助もそれに倣って身を起こす。
二人の視線の先には五年ろ組の竹谷八左ヱ門を翻弄するくノ一教室の六年生の姿があり、快活に笑う彼女の後ろでは、同じくろ組の蜂屋三郎と不破雷蔵がへろへろの顔をしている。
一対三をするわけにもいかず、三郎と雷蔵は六年ろ組の七松小平太に扱かれており、そんなものか! と苦無を握り直して飛び掛られていた。
兵助は、七松先輩が相手でなくて良かった、と人知れずほっとしていたのだが、勘右衛門も同じことを思っていたらしく、同じ時に息を吐くもので思わず顔を見合わせる。
「うーん、どうだろう。でもまぁ、くノ一教室の先輩と同じ忍務に就くことなんて、そう滅多にあることじゃないだろ?」
「だから気になるって話だよ。あの人いつも笑ってるから、真剣な顔を見てみたくなっちゃった」
兵助は勘右衛門の悪戯めいた笑みに苦笑すると、確かに、と腑に落ちる思いで記憶を掘り起こす。
常に明るく、常に笑みを浮かべている先輩が、スっと鋭い眼差しを見せる様なんて、見る機会なんて早々にない。かといって、こんな様子だっただろうかと、そんな先輩の姿を思い浮かべようとしてみても、なんだか上手くいかない。
兵助は眉間に皺を寄せたところで、勘右衛門が兵助の眉間に指を突き立てる。
「なぁんかご一緒する機会があれば良いのだけれど。あっ、お願いしたら真剣な顔をしてくれるかな?」
勘右衛門が兵助の眉間を解すように指で撫でながら、良いこと思いついたと目を輝かせる。
そういうのは大概良いことでは無いような、と兵助は言おうとしたが、八左ヱ門が隣に倒れ込んだことで言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
また勝てなかった、と悔しさと暑さに項垂れる八左ヱ門が上衣を放り投げると、近くに寄っていた先輩が八左ヱ門の隣に腰掛ける。
「ふっふっふ〜、これが先輩の意地ってやつよ」
首筋に汗の玉を滑らせながら、そう言って微笑む彼女の前髪はしっとりとしており、幾本かの毛が張り付く様に喉が鳴る。
赤くなった頬と少し乱れた上衣は、連戦したためのものであり、そこにいかがわしさなどないはずなのに、目のやり場に困るような思いが込み上げる。
兵助や勘右衛門、八左ヱ門の落ち着かない気持ちを知らない彼女は、スっと上衣に手を掛けるとばさりとそれを脱ぎ去った。もちろん、兵助らと同様に中にはもう一枚着ているのだが、より体の線が浮き彫りとなるその姿に、思わず三人とも顔を逸らした。
暑いねぇ、と呑気に手で顔を扇ぎながら、三郎と雷蔵が小平太に苦戦している様を見ている彼女は、時折ふふっと笑みを零す。
見てはいけないのに見てしまう。そんなふうに盗み見る彼女の横顔に、意を決した勘右衛門は手を挙げた。
「はい! 先輩質問です!」
「はい、何かね尾浜勘右衛門くん」
「先輩っていっつも笑っていらっしゃいますが、忍務中でも同じなんですか?」
「おや心外だ、私がいつもへらへらと脳天気な面をしていると言っている。悲しいなぁ、後輩にそんなふうに思われていたなんて」
よよよ、と涙を拭う仕草をしてみせる彼女だが、もちろん五年生ともなればそんな嘘泣きには騙されない。
ちっとも心配の声をしてくれないものだから、彼女がちろりと片目を覗かせてみると、三人ともじっと黙ってこちらを見ていた。ただ純粋に見詰められている、それだけでいたたまれなさに苛まれるのは彼女の方である。
彼女の嘘泣きへの五年生の対処法はいつもこうであり、これが弱点だと最初に気付いたのは三郎であった。今はまだ小平太に遊ばれているが、ありがとう三郎、と三人が心の中で合掌をする。
兵助と勘右衛門、八左ヱ門の視線を受ける彼女はやや顔を赤らめ、手で口元を隠しては恥じらいに目元を細める。
「そういう目はしないでって、私いつも言ってるのに……」
見詰められるだけで照れてしまう彼女に、三人は口を揃え、嘘泣きはやめてくださいといつも言っています、と口を揃えて返せば、彼女は悔しげに唸ってから、勘弁して欲しいとばかりに眉尻を下げた。
勝気で快活に笑う彼女が恥じらいに悶える様は、学年が上と分かっていながらも、三人にとっては可愛らしく映るもので、ついついそんな可愛くないことを返してしまうのだ。
顔を手で覆った彼女が再度顔を上げると、既にそこに恥じらいはなく、にぃっと持ち上げられた口角に三人は身構える。
「まだまだ余裕があるみたいだね、三人とも。私じゃあ男の子の体力についていけないから仕方がないけれど、遊び足りないっていうなら小平太が相手になるよ!」
彼女はすくっと立ち上がると、制止の声を上げる間もなく走って行ってしまう。
ぼろぼろになった三郎と雷蔵を両脇に抱えた小平太に彼女が声をかけると、ぺかーっと笑う小平太が三人を見る。五年生からして見れば、あまりにも不吉な笑みである。
「体力があることは良い事だ! よし、私が相手になろう!」
かかって来い、と三郎と雷蔵を放り投げた小平太に、兵助と勘右衛門、八左ヱ門はうげっと顔を歪める。
嫌と言えばもっとキツい鍛錬になることは間違いなしで、けれど嫌な顔を隠しもせずに立ち上がった三人。
彼女は三郎と雷蔵の手を引いて戻って来て、三人に優しく微笑んだ。
「小平太に勝ったら教えたげるよ。あんたたちの知りたいこと全部、ね?」
妖艶な笑みを浮かべた彼女は、頑張ってね、と三郎と雷蔵の手を持ち上げれば、三人は俄然やる気を出して小平太へと向かって行く。
一対三であることに誰も口を出さないが、まぁだからと言って小平太が負けるとも微塵も思わない彼女は、二人から手を離すと名残惜しそうな目で見上げられる。
可愛い後輩の視線に彼女は即降参で、二人の間に腰を下ろしては、小平太たちを眺めることにした。
「なんの話をされていたんですか?」
三郎は猫のように先輩である彼女の右肩に頭を乗せる。
「ああこら、私今汗かいているからあまり近付かないでよ」
「おや、先輩もそういうのを気にされるのですね」
汗臭いところをそんなに近付かれては、一介の女としては少し遠慮して貰いたい気持ちがある。だというのに、三郎は全くもって意に介していないのが悔しく、拳でも落としてやろうかと考える。
だがここで、彼女はあることにふと気が付いた。あれだけ激しく小平太に振り回されたあとだというのに、汗のひとつもかいていないその顔に、彼女の指が伸びたかと思えば、首筋をついっと撫で上げる。
「なんだ、ちゃんと発汗するんだねぇ」
「——っ、そらしますよ、私とて人間ですから」
ぐっと上衣の合わせを引き締め、身を縮こまらせる三郎の耳は赤くなっており、彼女はけらけらとした笑い声をあげる。
先輩として矜恃を取り戻した気がしては、彼女の中での溜飲はあっさりと立ち消える。
「雷蔵は大丈夫? 気持ち悪くなってたら医務室に行くんだよ?」
肩に三郎を引っ付けたまま二人して雷蔵を覗くと、彼は額の汗を拭いながらへらりと笑ってみせる。
けれど、そんな雷蔵の口は頻りにどちらにしようかと言葉を紡いでいるもので、医務室に行くのを迷っているのかと彼女は眉を顰めた。
迷うくらいならば行ってきなさい、と彼女が言おうとしたところにぽすりと雷蔵の頭が左肩に預けられた。そうして、えへ、と笑んでみせる雷蔵に、思わず彼女は三郎と顔を見合わせると、二人してにんまりとした笑みを浮かべてしまう。
「ん〜、可愛いねぇ、可愛ねぇ雷蔵は!」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも! うちの自慢の雷蔵ですから」
「ちょっと〜、僕はいつから三郎の子になったの」
彼女の綻ぶ口元は可愛いと何度も零しており、三郎はふんすと鼻を鳴らしては誇らしげに雷蔵を自慢する。雷蔵はなんだか擽ったい気持ちでそう言い返しても、二人にとってはそれすらも愛おしいとばかりに生温かい眼差しを向けられるだけだった。
あまりにもそれが続くもので、流石に耐え切れないが彼女からは離れ難く、口をついて出たのは三郎の問いをなぞらえたものだ。
「それより! さっき兵助たちとなにをお話になっていたのですか? 三人とも、なんだか随分やる気を出しているみたいですけれど」
「そうだったそうだった、その答えをまだ得ていませんよ」
雷蔵の問いにのしりとさらに右肩が重くなり、彼女はうむと顎に手をやって考える素振りをした。
勿体ぶらないでくださいよ、と催促する三郎に彼女は至極真面目な顔をして言った。
「私ってさ、そんないつもへらへらしてる?」
「わーお、先輩そんな真剣な顔出来たんですね」
生意気なことを吐かす後輩へ、先輩として鉄槌を下す。こん、と裏返した手で三郎の額を小突くと、彼はへらりと笑っては、失敬失敬、とまるで反省していないように見える。
雷蔵と同じ顔なのに全くもって可愛くないと雷蔵の手を取り同意を求めると、困ったように笑うだけの雷蔵に、羨ましげな三郎の目が彼女の肩越しに向けられる。
一体どちらへの羨ましさなのか、きっと両方なのだろうと雷蔵は敢えて口にしないが、それでも自業自得だと先輩の手を握り返した。
「忍務の時でもへらへらしてるのかってさ。そら楽しけりゃ笑うし、楽しくなけりゃ笑わないのにねぇ」
けらけらとして三郎の手も取ると、彼女は後ろに倒れるもので、二人も一緒になって後ろに倒れ込んだ。
高い空は雲が呑気に流れており、引いた汗に少し寒いくらいだが、両隣から温もりが伝わってきて心地が良かった。
「なんだかお腹空いてきたかも」
「おや奇遇ですね、先輩」
「僕もちょっとお腹空いてきました」
身を転がして頬杖をついて見てくる二つの同じ顔に、彼女はぐぅと鳴るお腹を押さえる。
聞きました? と彼女が二人に順に視線を送ると三郎と雷蔵は顔を合わせて笑い、それから、しっかりと、と返した。
途端に羞恥に顔を赤くする彼女へ、二人が覗き込もうとするのを阻止すべく、彼女は顔を手で覆ってしまう。
上げた手によって脇からサラシが覗くのだが、これ幸いと眼福を拝む気持ちにある三郎と、まるで気付いていない雷蔵とに挟まれた彼女は、ふとがばりと起き上がる。
すると目の前には小平太が三人を担いで立っており、にっかりと笑みを浮かべているものだから、三郎と雷蔵の背に冷や汗が流れる。
「小平太どう?」
「まだまだだ、三人がかりで私を倒せないようじゃ鍛え直す必要がある」
「小平太を負かすようになったら私なんてコテンパンにされちゃうよ」
どさりと降ろされた兵助と勘右衛門、八左ヱ門の三人はぐったりとしており、立ち上がる気力さえないのか、彼女の呼び掛けにも弱々しく手を上げるのが精一杯のようだった。
小平太は彼女の上衣を拾い上げると、その肩にふわりと羽織らせる。
三郎が内心で、なんてさり気ない男、とおののいていると、小平太はそのまま手を差し出して彼女が重ねると、ぐいっと引っ張り上げる。
「——うん、良いと思うよ」
引き上げた勢いのまま耳元で何かを囁かれたのか、彼女は短い返事をした。
三郎はそんな様子を見上げており、声は届かないものの彼女の顔が見える位置にいた。
いつもの笑みとも、先程の真剣な顔とも違う、鋭い瞳が弓のようにしなる様は、まさにくノ一の顔である。
口角を上げた唇から覗く舌には吸い込まれるようで、三郎が息を呑んだのと同時であった。大きな手が彼女の顔を三郎の視線から覆い隠し、代わりに黒々とした丸い瞳が三郎を見下ろしていた。
「お前たち、学園から裏裏山まで往復三周。それが終わるまで帰って来なくて良いぞ!」
にっかりと笑う小平太の発言に、全員が瞬時にうげっと嫌そうな声を上げたかと思えば、パンッと手が叩かれる。それには最早体が勝手に反応してしまい、即座に立ち上がって上衣を羽織って身支度を整える。もう一度パンッと鳴らされれば自然と足は駆け出しており、後ろから彼女の、頑張れ〜、という呑気な声援を貰えたことだけが救いである。
なんでこんなことに、と漏らしたのは勘右衛門であった。
「三郎、お前なにかしたの?」
雷蔵が隣を走りながらじとりとした目で三郎を睨み、三郎はハハッと乾いた笑いを浮かべる。
「うっかり珠玉を盗み見てしまった」
勢い良く振り向いたのは勘右衛門と八左ヱ門であり、隣を走る兵助と雷蔵は呆れたように溜息を零した。
「なにそれなにそれ! すっごく気になる!」
「俺たち先輩を見てただけで怒られたのか……」
勘右衛門が嬉々として飛び上がるのに対し、兵助が酷く疲れ切った声を漏らす。
彼女は六年生にとってまさに掌中の珠のような存在であり、故にこそ下手に触ろうとすれば六年生の怒りを買うのである。
けれど、誰のものでもないのなら、誰とどうしようと彼女の自由だろうに、六年生は彼女が自分たち以外に靡くことを良しとしないのだ。
「でも先輩を普通に見てるだけじゃ流石に怒らないだろ? なんでまた今回は怒ったんだ? それに七松先輩ってのが俺には腑に落ちない」
器用にも走りながら腕を組む八左ヱ門に、雷蔵も、確かに、と相槌を打つ。
三郎は思い出すだけでも寒気がするような小平太の瞳が頭に浮かび、ぶるりと体を震わせて口角を上げた。
「おっかなくも美しい、一人のくノ一を見てしまったんだよ、私はね。それがこのザマだ」
「えぇ!? 先輩のくノ一の顔!?」
「先輩はいつもくノ一だろう?」
勘右衛門が、きゃー、とはしゃぐのに対し、兵助は首を傾げて理解しかねる仕草を見せた。
「それがどうにもこう、妖艶でねぇ、あれは私たちのような未熟者には毒の顔だよ。恐ろしくも美しい女に、惹かれない男はいないだろう?」
「狡いぞ三郎、俺だって見たかったのにぃ! ていうか見るために七松先輩と手合わせしてたのに!」
きゃんきゃんと吠える勘右衛門に、三郎は優越感が胸元にせり上がり、けれども小平太の瞳を思い出してはげんなりとした顔をする。
「じゃあお前も七松先輩に睨まれてごらんなさいよ。私はもう嫌だよ、猛犬の巣に手を突っ込むのは」
「えー、確かにそれは嫌だなぁ。でもやっぱり俺も見たいし、ねっ、兵助も見たいよね?」
「見れるものならすべて見たいけれど、先輩方を敵に回したら面倒だよ」
「八左ヱ門と雷蔵は!?」
「俺は別に……てかそんなの拝み倒せば見せてくれるんじゃないのか?」
「僕も別に良いかな。それよりも別の顔をたくさん見れれば」
「うわ、犬っころ根性と実はいちばん豪胆なやつ!」
これだけの応酬を繰り広げながらも、足はしっかりと走り続けている五人は、ぎゃいぎゃいと騒ぎながら小平太の命令を忠実にこなすのであった。
「——なぁ、兵助」
「なぁに、勘右衛門」
久々知兵助と尾浜勘右衛門は、二人仲良く寝そべって空を見上げていた。
汗で張り付いた布が煩わしく、上衣は脱いで横に放り出しているのも二人一緒で、ぼーっと見上げた空にようやく息が整い始めた頃だった。
寝そべって、視線も寄越さぬままに声を掛けられ、兵助は同じく視線を向けることなく返事をする。
「あの人、忍務の時どんな顔をするのか気にならない?」
勘右衛門はそう言って上体を起こすと、兵助もそれに倣って身を起こす。
二人の視線の先には五年ろ組の竹谷八左ヱ門を翻弄するくノ一教室の六年生の姿があり、快活に笑う彼女の後ろでは、同じくろ組の蜂屋三郎と不破雷蔵がへろへろの顔をしている。
一対三をするわけにもいかず、三郎と雷蔵は六年ろ組の七松小平太に扱かれており、そんなものか! と苦無を握り直して飛び掛られていた。
兵助は、七松先輩が相手でなくて良かった、と人知れずほっとしていたのだが、勘右衛門も同じことを思っていたらしく、同じ時に息を吐くもので思わず顔を見合わせる。
「うーん、どうだろう。でもまぁ、くノ一教室の先輩と同じ忍務に就くことなんて、そう滅多にあることじゃないだろ?」
「だから気になるって話だよ。あの人いつも笑ってるから、真剣な顔を見てみたくなっちゃった」
兵助は勘右衛門の悪戯めいた笑みに苦笑すると、確かに、と腑に落ちる思いで記憶を掘り起こす。
常に明るく、常に笑みを浮かべている先輩が、スっと鋭い眼差しを見せる様なんて、見る機会なんて早々にない。かといって、こんな様子だっただろうかと、そんな先輩の姿を思い浮かべようとしてみても、なんだか上手くいかない。
兵助は眉間に皺を寄せたところで、勘右衛門が兵助の眉間に指を突き立てる。
「なぁんかご一緒する機会があれば良いのだけれど。あっ、お願いしたら真剣な顔をしてくれるかな?」
勘右衛門が兵助の眉間を解すように指で撫でながら、良いこと思いついたと目を輝かせる。
そういうのは大概良いことでは無いような、と兵助は言おうとしたが、八左ヱ門が隣に倒れ込んだことで言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
また勝てなかった、と悔しさと暑さに項垂れる八左ヱ門が上衣を放り投げると、近くに寄っていた先輩が八左ヱ門の隣に腰掛ける。
「ふっふっふ〜、これが先輩の意地ってやつよ」
首筋に汗の玉を滑らせながら、そう言って微笑む彼女の前髪はしっとりとしており、幾本かの毛が張り付く様に喉が鳴る。
赤くなった頬と少し乱れた上衣は、連戦したためのものであり、そこにいかがわしさなどないはずなのに、目のやり場に困るような思いが込み上げる。
兵助や勘右衛門、八左ヱ門の落ち着かない気持ちを知らない彼女は、スっと上衣に手を掛けるとばさりとそれを脱ぎ去った。もちろん、兵助らと同様に中にはもう一枚着ているのだが、より体の線が浮き彫りとなるその姿に、思わず三人とも顔を逸らした。
暑いねぇ、と呑気に手で顔を扇ぎながら、三郎と雷蔵が小平太に苦戦している様を見ている彼女は、時折ふふっと笑みを零す。
見てはいけないのに見てしまう。そんなふうに盗み見る彼女の横顔に、意を決した勘右衛門は手を挙げた。
「はい! 先輩質問です!」
「はい、何かね尾浜勘右衛門くん」
「先輩っていっつも笑っていらっしゃいますが、忍務中でも同じなんですか?」
「おや心外だ、私がいつもへらへらと脳天気な面をしていると言っている。悲しいなぁ、後輩にそんなふうに思われていたなんて」
よよよ、と涙を拭う仕草をしてみせる彼女だが、もちろん五年生ともなればそんな嘘泣きには騙されない。
ちっとも心配の声をしてくれないものだから、彼女がちろりと片目を覗かせてみると、三人ともじっと黙ってこちらを見ていた。ただ純粋に見詰められている、それだけでいたたまれなさに苛まれるのは彼女の方である。
彼女の嘘泣きへの五年生の対処法はいつもこうであり、これが弱点だと最初に気付いたのは三郎であった。今はまだ小平太に遊ばれているが、ありがとう三郎、と三人が心の中で合掌をする。
兵助と勘右衛門、八左ヱ門の視線を受ける彼女はやや顔を赤らめ、手で口元を隠しては恥じらいに目元を細める。
「そういう目はしないでって、私いつも言ってるのに……」
見詰められるだけで照れてしまう彼女に、三人は口を揃え、嘘泣きはやめてくださいといつも言っています、と口を揃えて返せば、彼女は悔しげに唸ってから、勘弁して欲しいとばかりに眉尻を下げた。
勝気で快活に笑う彼女が恥じらいに悶える様は、学年が上と分かっていながらも、三人にとっては可愛らしく映るもので、ついついそんな可愛くないことを返してしまうのだ。
顔を手で覆った彼女が再度顔を上げると、既にそこに恥じらいはなく、にぃっと持ち上げられた口角に三人は身構える。
「まだまだ余裕があるみたいだね、三人とも。私じゃあ男の子の体力についていけないから仕方がないけれど、遊び足りないっていうなら小平太が相手になるよ!」
彼女はすくっと立ち上がると、制止の声を上げる間もなく走って行ってしまう。
ぼろぼろになった三郎と雷蔵を両脇に抱えた小平太に彼女が声をかけると、ぺかーっと笑う小平太が三人を見る。五年生からして見れば、あまりにも不吉な笑みである。
「体力があることは良い事だ! よし、私が相手になろう!」
かかって来い、と三郎と雷蔵を放り投げた小平太に、兵助と勘右衛門、八左ヱ門はうげっと顔を歪める。
嫌と言えばもっとキツい鍛錬になることは間違いなしで、けれど嫌な顔を隠しもせずに立ち上がった三人。
彼女は三郎と雷蔵の手を引いて戻って来て、三人に優しく微笑んだ。
「小平太に勝ったら教えたげるよ。あんたたちの知りたいこと全部、ね?」
妖艶な笑みを浮かべた彼女は、頑張ってね、と三郎と雷蔵の手を持ち上げれば、三人は俄然やる気を出して小平太へと向かって行く。
一対三であることに誰も口を出さないが、まぁだからと言って小平太が負けるとも微塵も思わない彼女は、二人から手を離すと名残惜しそうな目で見上げられる。
可愛い後輩の視線に彼女は即降参で、二人の間に腰を下ろしては、小平太たちを眺めることにした。
「なんの話をされていたんですか?」
三郎は猫のように先輩である彼女の右肩に頭を乗せる。
「ああこら、私今汗かいているからあまり近付かないでよ」
「おや、先輩もそういうのを気にされるのですね」
汗臭いところをそんなに近付かれては、一介の女としては少し遠慮して貰いたい気持ちがある。だというのに、三郎は全くもって意に介していないのが悔しく、拳でも落としてやろうかと考える。
だがここで、彼女はあることにふと気が付いた。あれだけ激しく小平太に振り回されたあとだというのに、汗のひとつもかいていないその顔に、彼女の指が伸びたかと思えば、首筋をついっと撫で上げる。
「なんだ、ちゃんと発汗するんだねぇ」
「——っ、そらしますよ、私とて人間ですから」
ぐっと上衣の合わせを引き締め、身を縮こまらせる三郎の耳は赤くなっており、彼女はけらけらとした笑い声をあげる。
先輩として矜恃を取り戻した気がしては、彼女の中での溜飲はあっさりと立ち消える。
「雷蔵は大丈夫? 気持ち悪くなってたら医務室に行くんだよ?」
肩に三郎を引っ付けたまま二人して雷蔵を覗くと、彼は額の汗を拭いながらへらりと笑ってみせる。
けれど、そんな雷蔵の口は頻りにどちらにしようかと言葉を紡いでいるもので、医務室に行くのを迷っているのかと彼女は眉を顰めた。
迷うくらいならば行ってきなさい、と彼女が言おうとしたところにぽすりと雷蔵の頭が左肩に預けられた。そうして、えへ、と笑んでみせる雷蔵に、思わず彼女は三郎と顔を見合わせると、二人してにんまりとした笑みを浮かべてしまう。
「ん〜、可愛いねぇ、可愛ねぇ雷蔵は!」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも! うちの自慢の雷蔵ですから」
「ちょっと〜、僕はいつから三郎の子になったの」
彼女の綻ぶ口元は可愛いと何度も零しており、三郎はふんすと鼻を鳴らしては誇らしげに雷蔵を自慢する。雷蔵はなんだか擽ったい気持ちでそう言い返しても、二人にとってはそれすらも愛おしいとばかりに生温かい眼差しを向けられるだけだった。
あまりにもそれが続くもので、流石に耐え切れないが彼女からは離れ難く、口をついて出たのは三郎の問いをなぞらえたものだ。
「それより! さっき兵助たちとなにをお話になっていたのですか? 三人とも、なんだか随分やる気を出しているみたいですけれど」
「そうだったそうだった、その答えをまだ得ていませんよ」
雷蔵の問いにのしりとさらに右肩が重くなり、彼女はうむと顎に手をやって考える素振りをした。
勿体ぶらないでくださいよ、と催促する三郎に彼女は至極真面目な顔をして言った。
「私ってさ、そんないつもへらへらしてる?」
「わーお、先輩そんな真剣な顔出来たんですね」
生意気なことを吐かす後輩へ、先輩として鉄槌を下す。こん、と裏返した手で三郎の額を小突くと、彼はへらりと笑っては、失敬失敬、とまるで反省していないように見える。
雷蔵と同じ顔なのに全くもって可愛くないと雷蔵の手を取り同意を求めると、困ったように笑うだけの雷蔵に、羨ましげな三郎の目が彼女の肩越しに向けられる。
一体どちらへの羨ましさなのか、きっと両方なのだろうと雷蔵は敢えて口にしないが、それでも自業自得だと先輩の手を握り返した。
「忍務の時でもへらへらしてるのかってさ。そら楽しけりゃ笑うし、楽しくなけりゃ笑わないのにねぇ」
けらけらとして三郎の手も取ると、彼女は後ろに倒れるもので、二人も一緒になって後ろに倒れ込んだ。
高い空は雲が呑気に流れており、引いた汗に少し寒いくらいだが、両隣から温もりが伝わってきて心地が良かった。
「なんだかお腹空いてきたかも」
「おや奇遇ですね、先輩」
「僕もちょっとお腹空いてきました」
身を転がして頬杖をついて見てくる二つの同じ顔に、彼女はぐぅと鳴るお腹を押さえる。
聞きました? と彼女が二人に順に視線を送ると三郎と雷蔵は顔を合わせて笑い、それから、しっかりと、と返した。
途端に羞恥に顔を赤くする彼女へ、二人が覗き込もうとするのを阻止すべく、彼女は顔を手で覆ってしまう。
上げた手によって脇からサラシが覗くのだが、これ幸いと眼福を拝む気持ちにある三郎と、まるで気付いていない雷蔵とに挟まれた彼女は、ふとがばりと起き上がる。
すると目の前には小平太が三人を担いで立っており、にっかりと笑みを浮かべているものだから、三郎と雷蔵の背に冷や汗が流れる。
「小平太どう?」
「まだまだだ、三人がかりで私を倒せないようじゃ鍛え直す必要がある」
「小平太を負かすようになったら私なんてコテンパンにされちゃうよ」
どさりと降ろされた兵助と勘右衛門、八左ヱ門の三人はぐったりとしており、立ち上がる気力さえないのか、彼女の呼び掛けにも弱々しく手を上げるのが精一杯のようだった。
小平太は彼女の上衣を拾い上げると、その肩にふわりと羽織らせる。
三郎が内心で、なんてさり気ない男、とおののいていると、小平太はそのまま手を差し出して彼女が重ねると、ぐいっと引っ張り上げる。
「——うん、良いと思うよ」
引き上げた勢いのまま耳元で何かを囁かれたのか、彼女は短い返事をした。
三郎はそんな様子を見上げており、声は届かないものの彼女の顔が見える位置にいた。
いつもの笑みとも、先程の真剣な顔とも違う、鋭い瞳が弓のようにしなる様は、まさにくノ一の顔である。
口角を上げた唇から覗く舌には吸い込まれるようで、三郎が息を呑んだのと同時であった。大きな手が彼女の顔を三郎の視線から覆い隠し、代わりに黒々とした丸い瞳が三郎を見下ろしていた。
「お前たち、学園から裏裏山まで往復三周。それが終わるまで帰って来なくて良いぞ!」
にっかりと笑う小平太の発言に、全員が瞬時にうげっと嫌そうな声を上げたかと思えば、パンッと手が叩かれる。それには最早体が勝手に反応してしまい、即座に立ち上がって上衣を羽織って身支度を整える。もう一度パンッと鳴らされれば自然と足は駆け出しており、後ろから彼女の、頑張れ〜、という呑気な声援を貰えたことだけが救いである。
なんでこんなことに、と漏らしたのは勘右衛門であった。
「三郎、お前なにかしたの?」
雷蔵が隣を走りながらじとりとした目で三郎を睨み、三郎はハハッと乾いた笑いを浮かべる。
「うっかり珠玉を盗み見てしまった」
勢い良く振り向いたのは勘右衛門と八左ヱ門であり、隣を走る兵助と雷蔵は呆れたように溜息を零した。
「なにそれなにそれ! すっごく気になる!」
「俺たち先輩を見てただけで怒られたのか……」
勘右衛門が嬉々として飛び上がるのに対し、兵助が酷く疲れ切った声を漏らす。
彼女は六年生にとってまさに掌中の珠のような存在であり、故にこそ下手に触ろうとすれば六年生の怒りを買うのである。
けれど、誰のものでもないのなら、誰とどうしようと彼女の自由だろうに、六年生は彼女が自分たち以外に靡くことを良しとしないのだ。
「でも先輩を普通に見てるだけじゃ流石に怒らないだろ? なんでまた今回は怒ったんだ? それに七松先輩ってのが俺には腑に落ちない」
器用にも走りながら腕を組む八左ヱ門に、雷蔵も、確かに、と相槌を打つ。
三郎は思い出すだけでも寒気がするような小平太の瞳が頭に浮かび、ぶるりと体を震わせて口角を上げた。
「おっかなくも美しい、一人のくノ一を見てしまったんだよ、私はね。それがこのザマだ」
「えぇ!? 先輩のくノ一の顔!?」
「先輩はいつもくノ一だろう?」
勘右衛門が、きゃー、とはしゃぐのに対し、兵助は首を傾げて理解しかねる仕草を見せた。
「それがどうにもこう、妖艶でねぇ、あれは私たちのような未熟者には毒の顔だよ。恐ろしくも美しい女に、惹かれない男はいないだろう?」
「狡いぞ三郎、俺だって見たかったのにぃ! ていうか見るために七松先輩と手合わせしてたのに!」
きゃんきゃんと吠える勘右衛門に、三郎は優越感が胸元にせり上がり、けれども小平太の瞳を思い出してはげんなりとした顔をする。
「じゃあお前も七松先輩に睨まれてごらんなさいよ。私はもう嫌だよ、猛犬の巣に手を突っ込むのは」
「えー、確かにそれは嫌だなぁ。でもやっぱり俺も見たいし、ねっ、兵助も見たいよね?」
「見れるものならすべて見たいけれど、先輩方を敵に回したら面倒だよ」
「八左ヱ門と雷蔵は!?」
「俺は別に……てかそんなの拝み倒せば見せてくれるんじゃないのか?」
「僕も別に良いかな。それよりも別の顔をたくさん見れれば」
「うわ、犬っころ根性と実はいちばん豪胆なやつ!」
これだけの応酬を繰り広げながらも、足はしっかりと走り続けている五人は、ぎゃいぎゃいと騒ぎながら小平太の命令を忠実にこなすのであった。