そのうすべに色を隠して。
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『三十四頁 譲れない気持ち 後編』
〜前回までのあらすじ〜
三対三のサッカーの勝負に勝ったチームが上町陽太を獲得できるというあたおかルールのもと行われた試合は、錫高野与四郎チームが二点先取のまま、あわや三点目が決まるかに思われた。だが、突如として乱入した優勝賞品もとい上町陽太本人のディフェンスによりゴールが阻止され、蹴り返したボールは食満留三郎の顔面を直撃、即気絶となったのであった!
実況担当として放送席に着いている仙蔵が、陽太の伝言だというそのメモを読み上げる。
「『与四郎。ここからは、私が相手だ。』……とは書かれていませんが、」
「書かれてねえこと捏造して言うんじゃねえよ!」
文次郎のツッコミにも動じず、仙蔵は続ける。
「『二対零からのスタートでいい。その代わり、選手交代させてもらうぞ。』、とのことです。突然の上町陽太本人の参戦宣言に、ギャラリーにも動揺が広がっております。」
会場がざわつく中、陽太は運動に備えて足の曲げ伸ばしをして準備をする。
そして、体を起こすとギャラリーに聞こえないよう声量を落として、与四郎に向けて言う。
留三郎の鼻血を止める処置をしながら、僕もその様子を見守っていた。
「言っておくけど留三郎と私がどうのとか、そういうのは一切関係ないからな。自分のことなのに他人の勝負に行く末を委ねるなんて、やっぱり納得がいかないんだ。」
「…俺は別に構わねぇけどよ。何なら、こっちの二点も一旦無しにすべぇか?」
「いや、勝負を一度止めたのは私の我儘だ。そのままでいい。…与四郎はさっき、本気だと言っていた。だから私も、本気で迎え撃つ。手加減も要らない。」
彼女は、相手の顔を真っ直ぐ見る。
「私が勝つ。与四郎には、絶対に負けない。」
彼女の宣戦布告を受けて、それまで遠慮がちだった与四郎の表情がふっと変わる。それは、好戦的で、それでいて相手を愛おしく思う気持ちが混じる眼差しで。
「…やっぱ、俺の惚れた女だな。」
ニヤリと笑い、踵を返して文次郎たちのいる自陣に戻っていった。
「よぉーっし!仕切り直しだべ、文次郎!長次!」
「…お前、なんか楽しそうだよな…」
「もそ…。」
一方の陽太も与四郎たちに背を向けて、僕と小平太の方に歩いてくる。
「どうやら、選手交代については話がまとまった模様です。試合の展開は一体どうなるのでしょうか?…それから気絶して戦闘不能になった食満選手は三対三のルールに反するので、至急フィールドから出て下さい。」
…相変わらず容赦無いな、仙蔵…。
とりあえず鼻血は何とか止められたので、ギャラリーの中にいた乱太郎、伏木蔵、左近、数馬にも手伝ってもらって、気絶したままの留三郎を少し離れた木陰に安静に寝かせる。留三郎のことは乱太郎たちが看てくれるというので任せて、僕はフィールドに急いで戻った。
「スコアはリセット無しということで、二点リードの錫高野与四郎チームに対して食満留三郎チーム改め上町陽太チームは依然としてピンチのままです。果たしてこのピンチを覆すことができるのでしょうか?」
作戦会議の冒頭、小平太は顔の前で手を合わせて陽太に謝った。
「陽太、今日ミスばっかでホントごめんな…!」
対する陽太は意外にも落ち着いていて、むしろ逆に、気遣うように小平太の肩を軽く叩いた。
「もういいよ、小平太。取られてしまったものは仕方ない。それより、私たちが三点取り返す作戦を立てなきゃ。」
「何か、策があるのかい?」
促すと、陽太は更に声を潜めた。
「それでは攻め手の上町陽太チーム、いよいよキックオフです!」
ホイッスルが鳴り、陽太の右足のインサイドがボールに触れる。
ーーーーーーー大丈夫。まずは作戦通りに。
小平太、そして僕と、ボールを受けてパスを送り出した順に前線へと上がった。
「パスは出させねーべ!」
僕と小平太、それぞれに文次郎と長次がマークにつき、前線に上がる前に僕からボールを受けた陽太の前には与四郎が立ち塞がろうとした。
陽太は、そのまま小平太がいるサイドにドリブルで入っていく。カットしようと、与四郎が足を出した、ーーーーーーー瞬間。
転がしたボールを再び足で引き寄せ、体を一回転させながら進行方向をそれまでと反対側に切り替えた。
「あっ…?!」
不意を突かれたように、抜かれた与四郎の表情が変わる。
ーーーーーーーーーー「二人は、ボールを回したらすぐ前線に上がって。
二人が前線に上がれば、どっちかにパスすると思ってコースを塞ぎにくると思う。それでも、二点リードの余裕と油断は必ずある。私がその隙をつく。
与四郎をかわしたらそのまま決めるから、二人には文次郎と長次を引きつけておいてほしい。」ーーーーーーーーーー
狙い通り、与四郎以外の二人が僕らのマークについたことで、ゴール前はガラ空きだった。
シュートが決まり、ホイッスルをかき消さんばかりに観客からも歓声が上がる。
「ッゴォーーール!!!上町選手、得意のルーレットからのミドルシュート!錫高野与四郎チーム、遂に一点を返されてしまいました!」
「はあぁん……上町先輩ぃ…!」
「推してて…良かった……っっ」
歓声の中には恐らくくの一教室の女子生徒のものと思われる、打ち震えるような声も含まれていた。
「陽太、やったな!」
「ん。」
ボールを回収して戻ってきた陽太は声をかけた小平太と拳を合わせる。
そして、数回軽くリフティングしたボールを呆気に取られた様子の与四郎に向けてポンと弧を描くように渡した。
「…はは、やられちまったな。次は、こうはいかねーからな。」
肩をすくめる与四郎の目には、好戦的な光が少しだけ強まっていた。
与四郎はキックオフ直後、最初から前のめりに攻めてきた。文次郎が声をかける。
「与四郎、こっちに回せ!」
「いや、ここは俺だけで突破してみせんべーよ!」
「…ったく、まんまと陽太に乗せられやがって。」
留三郎と同様すぐ熱くなる文次郎に言われたんじゃ与四郎も浮かばれないだろうな、…とは心の中だけに留めつつ、僕も駆け出す。
ーーーーーーーーーー「私が一点目を取れば、多分与四郎はますます私へのマークが厳しくなると思う。私は一点目以降はボールを取ったらキープせずにすぐ回すから、フォローお願い。取られても、私が必ず取り返してみせる。」ーーーーーーーーーー
与四郎の足止めをし、徹底的にパスコースを塞ぐ陽太。
「っ、くそ、速ぇな…」
焦れる与四郎。一瞬の隙をついて陽太の足先が、彼のキープしていたボールに触れる。
足元から転がり出たボールを僕は受け取って、
「小平太!」
長次に寄せられる前にパスしたボールを、小平太が胸でトラップする。その時、きっと彼自身も思い出していただろう。
試合再開前の作戦会議で陽太が、小平太を激励した言葉を。
ーーーーーーーーーー「小平太、ファール取られたくないからって動いてくれない方が私は困るよ。いつものいけどんはどうしたの。自信持って!」ーーーーーーーーーー
そして、右足を振りかぶる。
「いっ、けぇええ!いけどん・無回転シュート!!」
今日一番の鋭いシュート。これで、二対二だ。
同点ゴールを決めた小平太は、駆け寄った陽太と抱き合って喜んでいる。
「伊作ー、ナイスパス!」
いつもの調子が戻ったようで、手を振る小平太に僕も振り返して応えた。
「……!」
逆に今度は、与四郎の表情に、焦りが見え始めた気がした。
ホイッスルが鳴り、最後のキックオフ。
「さあ試合もいよいよ大詰め、果たして勝つのはどちらのチームなのでしょうか?」
与四郎と陽太、それぞれの負けられないという気持ちがボールの取り合いを激しくさせた。
ドリブルで持ち込まれそうになり、陽太がスライディングでカットする。けれど文次郎に取られ、また与四郎に渡る。それでも陽太は、すぐに回り込んでマークする。
取られては追いすがり、また取られては奪い返す。
彼女は必死でボールを追い続けた。
ふと。与四郎のチャージの当たりが強かったのか、陽太が倒された。
「っ、!」
観客からも、あっという声が上がる。ファールではないので、ホイッスルは鳴らない。けど与四郎は慌てた様子で、ボールを追いかけることも忘れて、
「すまねえ、大丈夫か?!」
と声をかけながら手を差し出した。ボールに一番近かった小平太が、一度ゲームを中断するためコートからボールを出す。
「大丈夫、平気。……試合、まだ続いてるぞ?」
「いや、そーだけどよ…」
覆面の中で陽太は苦笑し、与四郎の手を借りて立ち上がる。
けれど大丈夫と言った陽太の顔には、覆面をしていない部分だけでもかなりの汗が流れていて。肩でする息もかなり荒い。
「陽太!怪我してない?」
「してない、よ。……っ…」
思わず駆けつけた僕に首を振ってそう返しながらも、その受け答えも息が苦しそうだった。……激しい運動を、口と鼻を布で隙間なく覆った状態で続けているのだ。息が切れて当然だ。今日、そして今は特に、相手にあと一点取られたらお終いなのだから尚更だろう。
けど、陽太は額の汗を拭い捨てると、続ける体勢に入る。
彼女を、誰も止めない。止めてはいけない気がした。
陽太を倒してしまったことが若干影響しているのだろう、与四郎は無理に詰めることはしなかった。
それでも、ボールを取り返そうとするその手は緩めていない。
やっぱり、本気なんだろう。
息苦しさに、彼女の表情が歪むのが見えた。ーーーーーーー
試合が再開する直前。「転けないでね。」と笑いながら言われて苦笑を返すしかない僕に、彼女は続けて真剣な目で。
私、今日は絶対負けたくないから。よろしく。
ボールを必死でキープする彼女の体勢が一瞬崩れ。汗が、目に入ったのだと気付く。
「ーーーーーーー陽太、右斜め前に出して!」
咄嗟に指示すると、僕が走り込むタイミングで彼女が右足のアウトサイドでボールを蹴り出す。
うまく繋がった。
決めなきゃ、
そう思ったのに、こんな所で不運を発動してしまい地面の僅かな窪みに足を取られて転ぶ。前方にいる文次郎から「お約束だなあ…」という呟きが聞こえた。
けど、小平太がすぐフォローに回ってくれて、転がったボールを与四郎に取られる前に「陽太!」と大きく蹴り上げる。
立て直した陽太はとっくに前方に上がっていた。そしてーーーーーーー
長次に競り勝ちヘディングされたボールは、ゴールラインを鮮やかに越えていった。
上がる歓声の中、仙蔵もゴールを告げる。
「上町選手、三点目を決めました!よってこの勝負、上町・七松・善法寺チームの勝利です!」
ギャラリーが収まらぬ興奮と歓喜に湧く中、与四郎はゴールの方向を見つめたまま、動かなかった。
ヘディングの後からずっと地面に倒れ込んでいた陽太が苦しそうに息をしながら、手足を投げ出すようにして仰向けになる。
「おい、大丈夫か陽太?」
中腰になった文次郎が、手を貸そうとした。
けど。立ち上がった勢いで「少しは手加減しろやぁああああ!!」とそのまま頭突きが文次郎の顎に命中した。
「ッッッてぇーーーっ!!?てめ、舌噛んらぞゴラァ!!」
「うるせー自業自得だ!長次は若干忖度してくれてたのに!本気でくる奴があるかバーカバーカ!」
「お前、手ェ抜いたら抜いたで怒るじゃねえか!!」
「もそ。バランス…」
「はははっ、まあ勝てたんだし、細かいことは気にするな文次郎!」
「ふざけんな、こっちは負けてんだよ!チクショー最悪だぜ!」
文次郎たちとぎゃあぎゃあ騒ぐ途中。フラ、と陽太の立つ体勢が崩れかけて。
「陽太!」
慌てて僕は駆け寄り、背中を支える。
「ごめん、ありがとう。あー、それにしても疲れる試合だったなあ。」
一瞬預けた背中を元に戻して、彼女は。
「……へへ。ここに残れて良かった。」
頭巾で顔を覆っていても、安堵したような、嬉しそうな笑顔を浮かべているのが分かる。
彼女のその言葉に、僕だけでなく、文次郎、長次、小平太もふっと表情が緩んだ。
「ーーーーーーーひまり。」
与四郎がこちらに歩いてきて、静かに声をかけてきた。
「…俺の負けだ。完敗だべ。こんなんで、おめーを嫁に、なんて言えっこねーよな。」
「与四郎…」
「約束通り、今日は大人しく引き下がることにすっから。くれぐれも、元気でな。」
与四郎に向けて、陽太は手を差し出した。握手の形だ。驚いたような顔をする彼に、陽太は悪戯っぽく笑って言う。
「…こんなこと言うの何か変だけど、ありがと。久しぶりに楽しかったよ。」
与四郎が、その手を握り返す。
そのままその腕を引いて陽太の体を抱きしめた瞬間、観客席から驚いたような声が、そしてごく一部からは何とも言えないような黄色い声が起こった。
「ッ!!?ちょ、離し…っ」
「今は無理でも、いつか必ずおめーを迎えに来んべ!それまで、待っててくれんせ。」
「おいてめえ!こんな人目につくところで何してやがんだ!」
文次郎と長次に問答無用で引き離される与四郎は眉尻を下げて、笑っていた。真っ赤な顔で固まったままの陽太は番犬みたいに唸る小平太がガードするように守っている。
「あーあ、引き離されちまった。…ったくよー、おめーらはいいよな、いっつもひまりの側にいられて!」
「おい、何で俺さりげなく外されてんだよ?」
目を覚ましたのか、いつの間にか留三郎が僕たちの方に来ていた。
「何でって、お前気ィ失うから陽太が代わりに…」
「ちげーよ!ボール当てられたんだよ、見てただろお前らも!陽太てめぇなあ…!」
素知らぬ顔を決め込もうとする陽太に詰め寄りかけた彼を「留三郎!」と与四郎が大きく呼ばわる。
「今日はこのまま身を引くけどよ、俺のいねー間にひまりに手ェ出したら許さねーからな!」
「ん…は?」
「伊作、留三郎のことしっかり見張っててくれんせ!」
「だからお前…ホント人の話聞いてねぇよな…。」
よろしくなー!と与四郎に手を振られ、ーーーーーーーーーー僕は。最後まで、自然な感じで笑うことができていただろうか。
その自信はなかった。
「それでは陽太陽太争奪戦サッカー対決は、これにて終了とさせていただきます。尚、賭け金の払い戻し受付は一年は組の摂津のきり丸までお越しください。ーーーーーーー」
こうして、与四郎の誤解から始まった騒動は幕を閉じた。
「はぁ…。」
その日の夜。風呂上がり、寝巻き姿で部屋に戻る道すがら。僕は思わずため息をこぼしてしまっていた。
最近、ため息をつくことが多い気がする。
今日の試合には勝ったのに。陽太も無事、風魔に行かなくて済んだというのに。
モヤモヤした何かが、ずっと体の中に居座っているような。
「ーーーーーーーー伊作、」
廊下の外から、呼ばれたような気がして見回すと。庭の木の陰から出てきた相手に目を見張る。
「陽太…」
僕の方を見ながら覆面を下ろす彼女のそばに、地面に降り立って駆け寄る。
「ごめん、部屋戻るとこだったよね。ちょっとだけ話、いい?」
仄かな月明かりが照らす中で、彼女に笑いかけられてドキリとする。
「あ、私もお風呂は入ったんだけど、長屋の方に行くから誰かに見られるかもって思って。制服も洗ったやつに着直したんだ。」
「大丈夫?湯冷めしたら…」
「だいじょーぶだって。……」
「どうしたの?」
急に口籠る彼女に、促すように訊くと。
「あの、今日は、その…ありがとね。」
「え?」
「最後、私が目に汗入ったの分かったんでしょ?指示出してくれて、あれ、すごく助かったよ。それが言いたくて。」
「…僕は、何も……」
感謝の言葉に、戸惑ってしまう。
ずっと胸の内に渦巻くのは。
自分が役に立てたかどうかも怪しくて、申し訳ない気持ち。…だけじゃなかった。
もっと、ーーーーーーーそう。
黒くて、体の奥がちくちくするような。
とても、嫌な気持ち。
ひまりは、黙ってしまった僕の様子には気付かないままくるりと背を向けて軽い調子で続けていた。
「…てかさー、もう参っちゃうよ、あんな場所で与四郎に引っ付かれて恥ずかしいやら暑苦しいやらで…あいつ力強いのに、加減効かないし。」
……嫌だ。
与四郎に抱きしめられたのなんて、今、思い出さないで。
与四郎のこと、思い出さないで。
そんな気持ちが強く溢れた瞬間。
「……!…い、さく……?」
後ろから、彼女の体を腕に閉じ込めていた。
忍術学園の六年生として生き残るために努力を重ねた彼女は、実践でも一人でも十分強い。
だけど今抱きしめたその体は、同い年の僕らと比べると細くて、華奢で。
本気で力を加減なく込めてしまえば壊れてしまうんじゃないか。それくらい、ただ普通の、女の子なんだと、
…分かっているのに、どうして。
止まらない。
回した腕の力が強くなる。
「ど、したの…?……痛い、よ…っ」
僕が抱きしめた瞬間から、固まって動けずにいるひまりが戸惑いながら僕に訴える。
そこで漸く、"何をしてるんだ"と我に返った。
「あ………その、えっと」
急いで腕を解いても、心の臓が早鐘のようだ。口がもつれて、顔も熱くて。
「かっ、体!冷えちゃうから、早く部屋に戻った方がいいよ…っ」
「う、うん…?」
驚かせてしまったせいか、肩越しにこちらを見上げるひまりの反応は生返事といった感じだった。沈黙が続いて気まずい。急いで何か言わなきゃとますます焦る。
「あぁあああのっ、半纏!半纏持ってくるから、それ着てって!あの、持ってくるからっ!」
「あ、うん。ありがとう…。…って、伊作部屋こっちじゃ、」
恥ずかしさが増すばかりで。
早くその場から立ち去りたくて、ひまりの顔を見れなくて。頭が混乱して。
僕は、行き先も考えないまま走る。
何やってるんだ、僕。あんな恥ずかしいこと、
……いや、そんなのは今更かもしれない。
応急処置だなんて、彼女の傷を、ーーーーーーーーーー彼女の顔を、
「〜〜〜っ、ああ〜〜……」
思い出してしまって、誰かに今の自分を見られるかもしれないという懸念より、頭を抱えてうずくまりたい気持ちが遥かに勝った。
…こういう時に、落とし穴に落ちたらいいのに。
「……やっぱりあの時、蒸し返すようなこと言わなきゃ良かった……」
君を助けられて良かっただなんて、まるで弁解のような。
けど、それでも彼女はいつもと変わらず優しく。
ーーーーーーーーーー『あの時のこと、嫌だったとかじゃないから、……伊作にだったら、別に…嫌とか思わない、よ。』
きっと、僕がこんなだから気を遣ってくれて。
だから期待なんかするのはお門違いなのに。
そんな優しい君に、僕は、ずっと心惹かれてばかりで。
でも、ーーーーーーーーーーここのところはそれだけじゃない。
……ごめんね、ひまり。
僕、最近おかしいんだ。
君が、誰かと話して楽しそうに笑っているのなら、それは僕にとっても喜ばしいことなんだと分かっているのに。
君が幸せならそれで十分なはずなのに。
僕の方が、君の側にいちゃいけないのに。
ふと、よぎる感情。
僕がここにいるのに、誰かと楽しそうにしないで。
そんなに一緒にいないで。
笑って冗談言い合ったりなんかしないで。
そいつのこと、それ以上見ないで。
……なんて。
最低だよね。そんなこと思うなんて。
格好悪い。情けない。
やっぱり、どこか体、おかしいのかな。
…きっとそうだ。
こんなの、まるで病気みたいじゃないか。
だって、ーーーーーーー本当は、誰にも君を渡したくないと思っている。
誰にも触れられてほしくない。与四郎にだって。
そして誰よりも、自分が側にいたいと願っている。
彼女に一生消えない傷を負わせた僕なんか。
不運を引き寄せる僕なんか。
その資格さえないくせに。
君の周りにいる奴全員に、嫉妬なんかして。
抑えなきゃ、いけないのに。
「……ひまり…」
言ってはいけないのに。
君が好き、なんて。
〜前回までのあらすじ〜
三対三のサッカーの勝負に勝ったチームが上町陽太を獲得できるというあたおかルールのもと行われた試合は、錫高野与四郎チームが二点先取のまま、あわや三点目が決まるかに思われた。だが、突如として乱入した優勝賞品もとい上町陽太本人のディフェンスによりゴールが阻止され、蹴り返したボールは食満留三郎の顔面を直撃、即気絶となったのであった!
実況担当として放送席に着いている仙蔵が、陽太の伝言だというそのメモを読み上げる。
「『与四郎。ここからは、私が相手だ。』……とは書かれていませんが、」
「書かれてねえこと捏造して言うんじゃねえよ!」
文次郎のツッコミにも動じず、仙蔵は続ける。
「『二対零からのスタートでいい。その代わり、選手交代させてもらうぞ。』、とのことです。突然の上町陽太本人の参戦宣言に、ギャラリーにも動揺が広がっております。」
会場がざわつく中、陽太は運動に備えて足の曲げ伸ばしをして準備をする。
そして、体を起こすとギャラリーに聞こえないよう声量を落として、与四郎に向けて言う。
留三郎の鼻血を止める処置をしながら、僕もその様子を見守っていた。
「言っておくけど留三郎と私がどうのとか、そういうのは一切関係ないからな。自分のことなのに他人の勝負に行く末を委ねるなんて、やっぱり納得がいかないんだ。」
「…俺は別に構わねぇけどよ。何なら、こっちの二点も一旦無しにすべぇか?」
「いや、勝負を一度止めたのは私の我儘だ。そのままでいい。…与四郎はさっき、本気だと言っていた。だから私も、本気で迎え撃つ。手加減も要らない。」
彼女は、相手の顔を真っ直ぐ見る。
「私が勝つ。与四郎には、絶対に負けない。」
彼女の宣戦布告を受けて、それまで遠慮がちだった与四郎の表情がふっと変わる。それは、好戦的で、それでいて相手を愛おしく思う気持ちが混じる眼差しで。
「…やっぱ、俺の惚れた女だな。」
ニヤリと笑い、踵を返して文次郎たちのいる自陣に戻っていった。
「よぉーっし!仕切り直しだべ、文次郎!長次!」
「…お前、なんか楽しそうだよな…」
「もそ…。」
一方の陽太も与四郎たちに背を向けて、僕と小平太の方に歩いてくる。
「どうやら、選手交代については話がまとまった模様です。試合の展開は一体どうなるのでしょうか?…それから気絶して戦闘不能になった食満選手は三対三のルールに反するので、至急フィールドから出て下さい。」
…相変わらず容赦無いな、仙蔵…。
とりあえず鼻血は何とか止められたので、ギャラリーの中にいた乱太郎、伏木蔵、左近、数馬にも手伝ってもらって、気絶したままの留三郎を少し離れた木陰に安静に寝かせる。留三郎のことは乱太郎たちが看てくれるというので任せて、僕はフィールドに急いで戻った。
「スコアはリセット無しということで、二点リードの錫高野与四郎チームに対して食満留三郎チーム改め上町陽太チームは依然としてピンチのままです。果たしてこのピンチを覆すことができるのでしょうか?」
作戦会議の冒頭、小平太は顔の前で手を合わせて陽太に謝った。
「陽太、今日ミスばっかでホントごめんな…!」
対する陽太は意外にも落ち着いていて、むしろ逆に、気遣うように小平太の肩を軽く叩いた。
「もういいよ、小平太。取られてしまったものは仕方ない。それより、私たちが三点取り返す作戦を立てなきゃ。」
「何か、策があるのかい?」
促すと、陽太は更に声を潜めた。
「それでは攻め手の上町陽太チーム、いよいよキックオフです!」
ホイッスルが鳴り、陽太の右足のインサイドがボールに触れる。
ーーーーーーー大丈夫。まずは作戦通りに。
小平太、そして僕と、ボールを受けてパスを送り出した順に前線へと上がった。
「パスは出させねーべ!」
僕と小平太、それぞれに文次郎と長次がマークにつき、前線に上がる前に僕からボールを受けた陽太の前には与四郎が立ち塞がろうとした。
陽太は、そのまま小平太がいるサイドにドリブルで入っていく。カットしようと、与四郎が足を出した、ーーーーーーー瞬間。
転がしたボールを再び足で引き寄せ、体を一回転させながら進行方向をそれまでと反対側に切り替えた。
「あっ…?!」
不意を突かれたように、抜かれた与四郎の表情が変わる。
ーーーーーーーーーー「二人は、ボールを回したらすぐ前線に上がって。
二人が前線に上がれば、どっちかにパスすると思ってコースを塞ぎにくると思う。それでも、二点リードの余裕と油断は必ずある。私がその隙をつく。
与四郎をかわしたらそのまま決めるから、二人には文次郎と長次を引きつけておいてほしい。」ーーーーーーーーーー
狙い通り、与四郎以外の二人が僕らのマークについたことで、ゴール前はガラ空きだった。
シュートが決まり、ホイッスルをかき消さんばかりに観客からも歓声が上がる。
「ッゴォーーール!!!上町選手、得意のルーレットからのミドルシュート!錫高野与四郎チーム、遂に一点を返されてしまいました!」
「はあぁん……上町先輩ぃ…!」
「推してて…良かった……っっ」
歓声の中には恐らくくの一教室の女子生徒のものと思われる、打ち震えるような声も含まれていた。
「陽太、やったな!」
「ん。」
ボールを回収して戻ってきた陽太は声をかけた小平太と拳を合わせる。
そして、数回軽くリフティングしたボールを呆気に取られた様子の与四郎に向けてポンと弧を描くように渡した。
「…はは、やられちまったな。次は、こうはいかねーからな。」
肩をすくめる与四郎の目には、好戦的な光が少しだけ強まっていた。
与四郎はキックオフ直後、最初から前のめりに攻めてきた。文次郎が声をかける。
「与四郎、こっちに回せ!」
「いや、ここは俺だけで突破してみせんべーよ!」
「…ったく、まんまと陽太に乗せられやがって。」
留三郎と同様すぐ熱くなる文次郎に言われたんじゃ与四郎も浮かばれないだろうな、…とは心の中だけに留めつつ、僕も駆け出す。
ーーーーーーーーーー「私が一点目を取れば、多分与四郎はますます私へのマークが厳しくなると思う。私は一点目以降はボールを取ったらキープせずにすぐ回すから、フォローお願い。取られても、私が必ず取り返してみせる。」ーーーーーーーーーー
与四郎の足止めをし、徹底的にパスコースを塞ぐ陽太。
「っ、くそ、速ぇな…」
焦れる与四郎。一瞬の隙をついて陽太の足先が、彼のキープしていたボールに触れる。
足元から転がり出たボールを僕は受け取って、
「小平太!」
長次に寄せられる前にパスしたボールを、小平太が胸でトラップする。その時、きっと彼自身も思い出していただろう。
試合再開前の作戦会議で陽太が、小平太を激励した言葉を。
ーーーーーーーーーー「小平太、ファール取られたくないからって動いてくれない方が私は困るよ。いつものいけどんはどうしたの。自信持って!」ーーーーーーーーーー
そして、右足を振りかぶる。
「いっ、けぇええ!いけどん・無回転シュート!!」
今日一番の鋭いシュート。これで、二対二だ。
同点ゴールを決めた小平太は、駆け寄った陽太と抱き合って喜んでいる。
「伊作ー、ナイスパス!」
いつもの調子が戻ったようで、手を振る小平太に僕も振り返して応えた。
「……!」
逆に今度は、与四郎の表情に、焦りが見え始めた気がした。
ホイッスルが鳴り、最後のキックオフ。
「さあ試合もいよいよ大詰め、果たして勝つのはどちらのチームなのでしょうか?」
与四郎と陽太、それぞれの負けられないという気持ちがボールの取り合いを激しくさせた。
ドリブルで持ち込まれそうになり、陽太がスライディングでカットする。けれど文次郎に取られ、また与四郎に渡る。それでも陽太は、すぐに回り込んでマークする。
取られては追いすがり、また取られては奪い返す。
彼女は必死でボールを追い続けた。
ふと。与四郎のチャージの当たりが強かったのか、陽太が倒された。
「っ、!」
観客からも、あっという声が上がる。ファールではないので、ホイッスルは鳴らない。けど与四郎は慌てた様子で、ボールを追いかけることも忘れて、
「すまねえ、大丈夫か?!」
と声をかけながら手を差し出した。ボールに一番近かった小平太が、一度ゲームを中断するためコートからボールを出す。
「大丈夫、平気。……試合、まだ続いてるぞ?」
「いや、そーだけどよ…」
覆面の中で陽太は苦笑し、与四郎の手を借りて立ち上がる。
けれど大丈夫と言った陽太の顔には、覆面をしていない部分だけでもかなりの汗が流れていて。肩でする息もかなり荒い。
「陽太!怪我してない?」
「してない、よ。……っ…」
思わず駆けつけた僕に首を振ってそう返しながらも、その受け答えも息が苦しそうだった。……激しい運動を、口と鼻を布で隙間なく覆った状態で続けているのだ。息が切れて当然だ。今日、そして今は特に、相手にあと一点取られたらお終いなのだから尚更だろう。
けど、陽太は額の汗を拭い捨てると、続ける体勢に入る。
彼女を、誰も止めない。止めてはいけない気がした。
陽太を倒してしまったことが若干影響しているのだろう、与四郎は無理に詰めることはしなかった。
それでも、ボールを取り返そうとするその手は緩めていない。
やっぱり、本気なんだろう。
息苦しさに、彼女の表情が歪むのが見えた。ーーーーーーー
試合が再開する直前。「転けないでね。」と笑いながら言われて苦笑を返すしかない僕に、彼女は続けて真剣な目で。
私、今日は絶対負けたくないから。よろしく。
ボールを必死でキープする彼女の体勢が一瞬崩れ。汗が、目に入ったのだと気付く。
「ーーーーーーー陽太、右斜め前に出して!」
咄嗟に指示すると、僕が走り込むタイミングで彼女が右足のアウトサイドでボールを蹴り出す。
うまく繋がった。
決めなきゃ、
そう思ったのに、こんな所で不運を発動してしまい地面の僅かな窪みに足を取られて転ぶ。前方にいる文次郎から「お約束だなあ…」という呟きが聞こえた。
けど、小平太がすぐフォローに回ってくれて、転がったボールを与四郎に取られる前に「陽太!」と大きく蹴り上げる。
立て直した陽太はとっくに前方に上がっていた。そしてーーーーーーー
長次に競り勝ちヘディングされたボールは、ゴールラインを鮮やかに越えていった。
上がる歓声の中、仙蔵もゴールを告げる。
「上町選手、三点目を決めました!よってこの勝負、上町・七松・善法寺チームの勝利です!」
ギャラリーが収まらぬ興奮と歓喜に湧く中、与四郎はゴールの方向を見つめたまま、動かなかった。
ヘディングの後からずっと地面に倒れ込んでいた陽太が苦しそうに息をしながら、手足を投げ出すようにして仰向けになる。
「おい、大丈夫か陽太?」
中腰になった文次郎が、手を貸そうとした。
けど。立ち上がった勢いで「少しは手加減しろやぁああああ!!」とそのまま頭突きが文次郎の顎に命中した。
「ッッッてぇーーーっ!!?てめ、舌噛んらぞゴラァ!!」
「うるせー自業自得だ!長次は若干忖度してくれてたのに!本気でくる奴があるかバーカバーカ!」
「お前、手ェ抜いたら抜いたで怒るじゃねえか!!」
「もそ。バランス…」
「はははっ、まあ勝てたんだし、細かいことは気にするな文次郎!」
「ふざけんな、こっちは負けてんだよ!チクショー最悪だぜ!」
文次郎たちとぎゃあぎゃあ騒ぐ途中。フラ、と陽太の立つ体勢が崩れかけて。
「陽太!」
慌てて僕は駆け寄り、背中を支える。
「ごめん、ありがとう。あー、それにしても疲れる試合だったなあ。」
一瞬預けた背中を元に戻して、彼女は。
「……へへ。ここに残れて良かった。」
頭巾で顔を覆っていても、安堵したような、嬉しそうな笑顔を浮かべているのが分かる。
彼女のその言葉に、僕だけでなく、文次郎、長次、小平太もふっと表情が緩んだ。
「ーーーーーーーひまり。」
与四郎がこちらに歩いてきて、静かに声をかけてきた。
「…俺の負けだ。完敗だべ。こんなんで、おめーを嫁に、なんて言えっこねーよな。」
「与四郎…」
「約束通り、今日は大人しく引き下がることにすっから。くれぐれも、元気でな。」
与四郎に向けて、陽太は手を差し出した。握手の形だ。驚いたような顔をする彼に、陽太は悪戯っぽく笑って言う。
「…こんなこと言うの何か変だけど、ありがと。久しぶりに楽しかったよ。」
与四郎が、その手を握り返す。
そのままその腕を引いて陽太の体を抱きしめた瞬間、観客席から驚いたような声が、そしてごく一部からは何とも言えないような黄色い声が起こった。
「ッ!!?ちょ、離し…っ」
「今は無理でも、いつか必ずおめーを迎えに来んべ!それまで、待っててくれんせ。」
「おいてめえ!こんな人目につくところで何してやがんだ!」
文次郎と長次に問答無用で引き離される与四郎は眉尻を下げて、笑っていた。真っ赤な顔で固まったままの陽太は番犬みたいに唸る小平太がガードするように守っている。
「あーあ、引き離されちまった。…ったくよー、おめーらはいいよな、いっつもひまりの側にいられて!」
「おい、何で俺さりげなく外されてんだよ?」
目を覚ましたのか、いつの間にか留三郎が僕たちの方に来ていた。
「何でって、お前気ィ失うから陽太が代わりに…」
「ちげーよ!ボール当てられたんだよ、見てただろお前らも!陽太てめぇなあ…!」
素知らぬ顔を決め込もうとする陽太に詰め寄りかけた彼を「留三郎!」と与四郎が大きく呼ばわる。
「今日はこのまま身を引くけどよ、俺のいねー間にひまりに手ェ出したら許さねーからな!」
「ん…は?」
「伊作、留三郎のことしっかり見張っててくれんせ!」
「だからお前…ホント人の話聞いてねぇよな…。」
よろしくなー!と与四郎に手を振られ、ーーーーーーーーーー僕は。最後まで、自然な感じで笑うことができていただろうか。
その自信はなかった。
「それでは陽太陽太争奪戦サッカー対決は、これにて終了とさせていただきます。尚、賭け金の払い戻し受付は一年は組の摂津のきり丸までお越しください。ーーーーーーー」
こうして、与四郎の誤解から始まった騒動は幕を閉じた。
「はぁ…。」
その日の夜。風呂上がり、寝巻き姿で部屋に戻る道すがら。僕は思わずため息をこぼしてしまっていた。
最近、ため息をつくことが多い気がする。
今日の試合には勝ったのに。陽太も無事、風魔に行かなくて済んだというのに。
モヤモヤした何かが、ずっと体の中に居座っているような。
「ーーーーーーーー伊作、」
廊下の外から、呼ばれたような気がして見回すと。庭の木の陰から出てきた相手に目を見張る。
「陽太…」
僕の方を見ながら覆面を下ろす彼女のそばに、地面に降り立って駆け寄る。
「ごめん、部屋戻るとこだったよね。ちょっとだけ話、いい?」
仄かな月明かりが照らす中で、彼女に笑いかけられてドキリとする。
「あ、私もお風呂は入ったんだけど、長屋の方に行くから誰かに見られるかもって思って。制服も洗ったやつに着直したんだ。」
「大丈夫?湯冷めしたら…」
「だいじょーぶだって。……」
「どうしたの?」
急に口籠る彼女に、促すように訊くと。
「あの、今日は、その…ありがとね。」
「え?」
「最後、私が目に汗入ったの分かったんでしょ?指示出してくれて、あれ、すごく助かったよ。それが言いたくて。」
「…僕は、何も……」
感謝の言葉に、戸惑ってしまう。
ずっと胸の内に渦巻くのは。
自分が役に立てたかどうかも怪しくて、申し訳ない気持ち。…だけじゃなかった。
もっと、ーーーーーーーそう。
黒くて、体の奥がちくちくするような。
とても、嫌な気持ち。
ひまりは、黙ってしまった僕の様子には気付かないままくるりと背を向けて軽い調子で続けていた。
「…てかさー、もう参っちゃうよ、あんな場所で与四郎に引っ付かれて恥ずかしいやら暑苦しいやらで…あいつ力強いのに、加減効かないし。」
……嫌だ。
与四郎に抱きしめられたのなんて、今、思い出さないで。
与四郎のこと、思い出さないで。
そんな気持ちが強く溢れた瞬間。
「……!…い、さく……?」
後ろから、彼女の体を腕に閉じ込めていた。
忍術学園の六年生として生き残るために努力を重ねた彼女は、実践でも一人でも十分強い。
だけど今抱きしめたその体は、同い年の僕らと比べると細くて、華奢で。
本気で力を加減なく込めてしまえば壊れてしまうんじゃないか。それくらい、ただ普通の、女の子なんだと、
…分かっているのに、どうして。
止まらない。
回した腕の力が強くなる。
「ど、したの…?……痛い、よ…っ」
僕が抱きしめた瞬間から、固まって動けずにいるひまりが戸惑いながら僕に訴える。
そこで漸く、"何をしてるんだ"と我に返った。
「あ………その、えっと」
急いで腕を解いても、心の臓が早鐘のようだ。口がもつれて、顔も熱くて。
「かっ、体!冷えちゃうから、早く部屋に戻った方がいいよ…っ」
「う、うん…?」
驚かせてしまったせいか、肩越しにこちらを見上げるひまりの反応は生返事といった感じだった。沈黙が続いて気まずい。急いで何か言わなきゃとますます焦る。
「あぁあああのっ、半纏!半纏持ってくるから、それ着てって!あの、持ってくるからっ!」
「あ、うん。ありがとう…。…って、伊作部屋こっちじゃ、」
恥ずかしさが増すばかりで。
早くその場から立ち去りたくて、ひまりの顔を見れなくて。頭が混乱して。
僕は、行き先も考えないまま走る。
何やってるんだ、僕。あんな恥ずかしいこと、
……いや、そんなのは今更かもしれない。
応急処置だなんて、彼女の傷を、ーーーーーーーーーー彼女の顔を、
「〜〜〜っ、ああ〜〜……」
思い出してしまって、誰かに今の自分を見られるかもしれないという懸念より、頭を抱えてうずくまりたい気持ちが遥かに勝った。
…こういう時に、落とし穴に落ちたらいいのに。
「……やっぱりあの時、蒸し返すようなこと言わなきゃ良かった……」
君を助けられて良かっただなんて、まるで弁解のような。
けど、それでも彼女はいつもと変わらず優しく。
ーーーーーーーーーー『あの時のこと、嫌だったとかじゃないから、……伊作にだったら、別に…嫌とか思わない、よ。』
きっと、僕がこんなだから気を遣ってくれて。
だから期待なんかするのはお門違いなのに。
そんな優しい君に、僕は、ずっと心惹かれてばかりで。
でも、ーーーーーーーーーーここのところはそれだけじゃない。
……ごめんね、ひまり。
僕、最近おかしいんだ。
君が、誰かと話して楽しそうに笑っているのなら、それは僕にとっても喜ばしいことなんだと分かっているのに。
君が幸せならそれで十分なはずなのに。
僕の方が、君の側にいちゃいけないのに。
ふと、よぎる感情。
僕がここにいるのに、誰かと楽しそうにしないで。
そんなに一緒にいないで。
笑って冗談言い合ったりなんかしないで。
そいつのこと、それ以上見ないで。
……なんて。
最低だよね。そんなこと思うなんて。
格好悪い。情けない。
やっぱり、どこか体、おかしいのかな。
…きっとそうだ。
こんなの、まるで病気みたいじゃないか。
だって、ーーーーーーー本当は、誰にも君を渡したくないと思っている。
誰にも触れられてほしくない。与四郎にだって。
そして誰よりも、自分が側にいたいと願っている。
彼女に一生消えない傷を負わせた僕なんか。
不運を引き寄せる僕なんか。
その資格さえないくせに。
君の周りにいる奴全員に、嫉妬なんかして。
抑えなきゃ、いけないのに。
「……ひまり…」
言ってはいけないのに。
君が好き、なんて。