そのうすべに色を隠して。
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『十八頁 僕の願い。私の願い。』
三年生の時。
不運な僕が、君のおつかいに付き添ってしまったこと。
盗賊から逃げた先の洞窟で、僕が君にしてしまったこと。
ご両親が学園に来られた時、負傷の原因は君ではなく僕にあるのだと分かって頂きたくて、君の意向も確認しないまま、お二人に向かって謝罪をしたこと。
最善を選んだつもりでも、それは結局、いつも僕の独りよがりでしかなくて。
僕は、君を困らせてばかりだ。
本当は、僕の助けなんか君には全然必要無くて。むしろ僕なんかが近くにいない方が、君にとってはいいのかもしれないとさえ思ってしまう。…いや、きっとそうなんだ。
僕が側にいないことで君が幸せになるのなら、ーーーーーーーーーー喩え、君を守ることを"他の誰か"に託すことになるとしても、
それでもいいと思った。
君は僕にとって、
すごく、大切な人だから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「…ひまり、」
僕は、探していたひまりに声をかける。
僕がひまりのご両親に向けて謝罪したことに、怒っていたと留三郎たちから聞いたから。……彼女の望まないことばかりする自分に、いい加減、嫌気が刺してくる。
とにかく、謝らなきゃ。
見つけた時、ひまりはあまり人の来ない裏庭の隅の木に寄りかかって、地面を見つめて何か考えていたようだった。
彼女は、少し目線を上げて僕を一瞬見たけれど。
「あの、…僕、」
切り出した矢先、寄りかかっていた木から体を起こして、僕の方に歩み寄って来る。
「…顔色、悪い。」
「え?」
「あまり、ちゃんと寝てないんでしょ。夜。」
グッと詰め寄られ、肯定も否定もできないでいるうちに、彼女は続ける。
「この傷は、伊作のせいじゃないんだから。私が、上手く避けられなかっただけなんだから。もう、気にして悩んだり、謝ったりしないのよ?」
「で、でも、やっぱり僕が…」
「あーもうっ、気にするなって言ってるでしょ!これ以上謝ったら友達やめるよ?!いい?もう言わないの。分かった?」
答えかねていると、「分かったら返事っ!」とまた怒鳴られて。
「っ…はい…」
結局はその迫力に押されて、頷くしかなかった。
そんな、怒ったような顔をしていたひまりは、僕が頷いたのを見てから、申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。
「伊作。ごめん、私、この前嘘ついた。」
「…え?」
「あの日、…盗賊に襲われる前。悩んでるのかって、心配して訊いてくれたよね。なのに私、テストで疲れただけだって……ごめん。あれ、嘘だったの。」
「……」
「打ち明けても、そうそう簡単に解決できることじゃないと思って。他の皆にも、何も言わないままでいて、私だけの問題だって一人で抱え込んで。…でも、留三郎に怒られちゃった。悩んでるくせに隠して、無理して笑うなって。」
ーーーーーーーそれも、留三郎から聞いていた話だった。
怒って噛み付かれるのを覚悟で言ったつもりだったと、彼は、その時のことを話してくれた時、ひどく後悔するような顔をしていた。「あいつが泣くなんて思いもしなかった」、と。
「皆や伊作のこと、信用してないわけじゃないの。…でもやっぱり、解決するとしたら自分の手でやるしかないことだから。ここまで心配かけておいて、こんな事言ってたらまた怒られそうだけど。」
肩をすくめて笑う彼女は、ふと思い出したように僕を見た。
「あ、それとね。今度、実家に帰ろうと思って。」
「……やっぱり、ここを辞めてしまうの?」
「ううん。辞めないよ。」
家に帰るのに、辞めない?どういうことなのか、分からず僕は彼女の顔を見つめ返す。
「…いや、ホントはね、辞めちゃおうかなとも思ったんだ。ほんの一瞬だけど。」
苦笑を浮かべて、ひまりはまた話しだす。
「親に反対されてるから仕方ないとか、今悩んでるのが辛いからって、そういうのを理由にして。…でも、それじゃ逃げてる気がしてさ。そんなの私、嫌だなって。
自分のことだから、誰かに決められるんじゃなくて、自分でちゃんと選んで決めたい。将来のこととか、…生き方、とか。」
話しながら、彼女は校舎のある方を見上げていた。
「私、まだここで学びたい事たくさんあるもの。だから絶対、戻ってくる。親に掛け合って、……喩え、もしそれで勘当されても、忍術学園に通い続けることを諦めたくないから。」
「勘当、って…そんな…」
その言葉を発した本人より、僕の方が慌ててしまっている。ひまりは、笑った。
「だから、喩えだってば。…そんなに、心配しないでよ。」
不安など微塵も感じさせないというような、彼女のその笑顔。
まるで、僕の方を安心させようとしているかのようだった。
「ごめん、そろそろ。帰る準備しないとだから。……またね。」
すれ違って去っていく彼女を振り返るけれど、僕は、その背中に声をかけることができずにいた。
その時の僕には、彼女のためにできることは何も無いのだと悟ったから。
待つしかできないんだと、思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学園長先生の庵を後にしても、私は自室には戻らず、人気の無い裏庭の木に寄りかかってずっと考えていた。
「ーーーーーーー儂からこのように言うのは憚られるのじゃが、……どうしたいかは、最後はお主自身が決めることじゃ。」
両親も交えた話の途中で部屋を飛び出してきてしまったことを詫びに戻った時、学園長先生は私に静かにそう諭された。
己で納得のゆくまで考えよ、と。
ーーーーーーーどうしたいか、…か。
それを考える前に、私は、もしこのまま忍術学園を辞めてしまったらどうなるのだろうか、と想像してみる。
学園は、私一人がいなくなったところで何も変わることはない。そのまま、残った生徒達によって時が刻まれていくのだろう。
だけど。
きっと、私は後悔する。
まだ通い続けたかった、と。
忍術も、それ以外の学問も、学ぶことが私は嫌いではなかった。むしろ、家にいるだけでは知り得なかったであろうことに毎日出会えるこの場所が、好きだった。
女、というだけで、その喜びを絶たれなければいけないのだろうか?
私のこの先の人生は、もう、誰かに嫁ぐことだけだと決められてしまっているのだろうか?
……そんなの、やっぱり納得できない。
いつも一緒にふざけてバカ騒ぎしている友達の言葉が、頭の中によみがえってくる。
「今のお前、らしくねぇぞ。」
「お前が何で苦しいのか、言わねえと、俺たちだってどうしていいか分からねえだろうが!」
………やっぱり、
消えてほしくない。
苦しくてこの現状から逃げたいからって、大事な皆との思い出まで記憶から消えてしまっても構わないだなんて。
全部、無かったことにしたいだなんて。
一瞬でも、何て馬鹿なことを考えてしまっていたのだろう。そんなの、絶対に嫌に決まってるのに。
「友達じゃなかったら私たち、何だっていうのよ?」
ただ偶然、出会っただけの私たち。
たまたま気が合ったから、ずっと一緒にいるだけ。そしてきっとこの先も、友達であることに変わりはない。
女装のやたら上手い同級生に言われた台詞を思い出す。
……そうだ。
こんなことくらいで諦めたくない。この学園に居続けることを。皆と一緒にいることを。そして、私の将来を。
自分から諦めてしまって、その理由をこの傷のせいにしたり、他の誰かや何かのせいにしたり、なんて。
そんなことは絶対にしたくない。
まるで、全部に負けたみたいで。そうなったらすごく、すごく悔しい。
ーーーーーーーそれに、
「…ひまり、」
このまま私が学園を去ってしまったら、そのことをきっとずっと気にするんだろうな、と。
私を探していたらしい、伊作の顔を見た時、そんなふうに予想がついてしまって。そして、
その顔を見たら、ハッキリと心は決まった。
抗うんだ。正攻法でなくても。
卑怯だと言われても。
そう決めた私は、宣言する。
「だから絶対、戻ってくる。」
と。
それから。思い返せばあっという間のような、長い何日かが経って。
一旦実家に帰り、そうして学園に戻った私は、改めて挨拶に伺った学園長先生の所から職員室へ向かう途中、とっ捕まった文次郎に素っ頓狂な声を上げられていた。
「はぁあ?!何言ってんだ、そんなの無理に決まってんだろ!」
「うっさいなー、もう決まったんだってば!後からギャースカ言わないでよ。」
「あ!伊作、長次ー!ひまり戻ってきたぞー!」
うるさく問い詰める文次郎に顔をしかめていると、一緒にいた小平太が別の方向に向かって大きく声を張ったので、私もそちらを振り返る。
そして、相手の姿を、目で捉えると。
「…伊作っ!ちょっと、こっち来なさい!」
「えっ、えっ?」
私は、少し、わざと怒ったような顔と勢いを作って、伊作の腕を引っ張る。彼と、一緒に来ていた長次も含めて、その場全員が呆気にとられたように目を丸くする中。
誰もいない所まで強引に連れ出した伊作に、振り返って私は、
「ただいま。」
と声をかける。
「……」
驚くのも無理はないとは思うけれど、反応が無いのは少し寂しい。
「ただいま、ってば。」
とせっつくと、漸く相手から「お、おかえり…」と戸惑いつつも返事を返される。
それから、じっと顔を見られて。
「…やっぱり、残ってしまったんだね…。」
ガーゼの取れた左頬にはっきりと残った傷痕を、目に映す伊作は辛そうな顔で。もう私は、努めて明るく乗り切ることにする。
「しょーがないよ、刀疵だもん。それよりさ、どうかな?…やっぱ、ちょっとサイズ大きかったかもなあ。」
私が腕を広げるようにして見せたのは、いつもの薄紅色の制服ではなく、浅葱色の、ーーーーーーー忍たまの三年生が着るのと同じ制服だった。
伊作が驚いているのは、そのせいだった。訊きたいことは大体分かっていたから、先に説明する。
「通うことに関しては、とりあえず許しは出たんだけど、"これ"が、親からの条件でね。くの一としての授業は受けるな、って。…忍たまとして、学園に入り直すことにしたから。改めてよろしく。」
「よ、よろしくって…」
「言ったじゃん。私、絶対戻ってくるって。文次郎には、さっき散々文句言われたけどね。女が男装して忍たまに混じるなんて、ってさ。」
腕を広げた格好のまま、くるりと回ってみせる。
「でもさ、なんかこう、変な気分っていうか。制服の色が違うだけなのにね。まるで、以前の私と全然違っちゃったみたいに感じるよ。……顔に傷がある女だからって、ついこの前アルバイトも断られちゃったし。ただの皿洗いなのにね。学費くらい、自分で何とかしたかったんだけどなあ。」
「……違わないよ。」
ポツリと、でもはっきりと口にされた言葉に続けて。伊作が、真剣な目を向けてくる。
「顔に傷があったって、ひまりはひまりのままじゃないか…!そんなの、そんなこと言う人の方が、おかしいよ。」
真っ直ぐ私を見ていた目が、ハッと気付いたように見開かれ。そのまま申し訳なさそうな、伏せ目がちになる。
「ご、ごめん…その傷を作らせたのは僕なのに…」
思わず、笑ってしまった。急に笑う私に伊作はぽかんとしていたけれど、私は何だか、すっきりしたような、吹っ切れた気持ちになっていた。
「うん。分かってる。伊作の言う通りだよ。」
バイトを断られたことに、実は結構、不貞腐れたような気持ちにもなっていたはずなのに。
君がそう言ってくれるのなら、もう、誰に何を言われても平気な気さえしてくるから不思議だ。
「大丈夫。これは、私が決めたことだから。」
だからせいぜい、強がって見せる。それで少しでも、君の心の枷が軽くなるのなら、いくらでもそうしたいと思った。
「顔に傷があっても、…もしも誰にも嫁げなくても、それでも生きていく道はあるはずなんだって。自分を信じなきゃ駄目だなって思ったの。
…だから、やってみるんだ。プロ忍、目指すって。」
私のその宣言に、伊作は呆気にとられているみたいだった。
「うちの親も、許したのって多分、やれるもんならやってみろって感じだったんだと思う。男子に混じった実技の授業で音を上げるのを、期待してるんじゃないかな。…でも、最初から無理って言われたら、ますますやってみたくなるじゃない?」
だから、と私は笑ってみせた。
「これからは、くのたまじゃなくて、忍たまとして。…よろしく、ね。」
これから、君と同じ道を目指すことを、誓って。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初めて忍たまの制服に身を包んだ時のひまりは、余計な心配をさせまいとして笑っているように、その時の僕には見えた。
よろしくね、と言って、それから少し眉根を寄せた顔をして、こちらにズイッと迫る格好になって。
「…あとさ。傷のことでもう謝らないでって、言ったよね?」
「そ、それは……ごめん…だって、つい……」
また怒鳴られるかと、身構えていたら。
「約束。今度こそ、したからね?」
そう言って、頬を膨らませて。まるで、怒っているように。
ーーーーーーーでもそれは、彼女の優しさからの発言なんだと、僕は、その時から分かっていた。
ひまりはひまりで、僕がずっと責任を感じて気にすることを心配してくれていて。
僕なんかに、友達としてそれまで通りに接してくれた。
君は多分否定するのだろうけれど、でも君は、本当にいつも、優しくて。
だからこそ、僕はずっと傷のことを気にしている。
それは違う、と否定されても、自分の責任だと心に刻む。気にしないでなんて、いられるはずもない。
だって、僕は。
君のことを、ーーーーーーー
「さて、と。それじゃ私、早速先生のとこ行ってこなきゃ。今度受けるテストの話があるから。」
一つ伸びをしてからひまりは、頭巾の、顎に引っ掛けている部分を目元まで引っ張り上げた。男装をする手前、顔が見えていては良くない、ということらしく。
伊作や、皆にだけ明かすんだから。女だってこと、内緒だからね?ーーーーーーーと。
その覆面の中できっとイタズラっぽく笑って、唇のある辺りに人差し指を置いて見せた彼女は。
昔から、やっぱり、強くて。しなやかな人だと、改めて思う。
だから、僕なんかが守りたいだなんて思うことは、本当はおこがましいことなのかもしれない。
……ましてや、好きだなんて。
愛想をつかされても仕方ないくらい迷惑をかけてしまっている、自分なんかが。
とても、おこがましいのに。
「……伊作にだったら、別に…嫌とか思わない、よ。」
いつもそばにいてくれて嬉しいこと、いつも迷惑をかけてしまって申し訳なく思っていることを、伝えられたらそれで十分だと思っていた、僕の耳に。
ぽつりぽつりと紡ぐような、彼女のその言葉が届く。
その意味を言葉で聞きたかったけれど、結局聞けなかったけれど。そう言った君は覆面をしていても分かるほど、顔が真っ赤で。
僕は彼女が立ち去っても、ずっと、心の臓が速くて。
どうしよう。
もし。もしも、君のその言葉と赤く染まった顔を、僕の都合の良いように捉えてしまってもいいのなら。
ねぇ、ひまり。
僕は、ほんの少しだけ、期待してしまってもいいのかな。
僕が側にいることを、君に嫌がられているのではないのだと。
僕が君に、少なくとも嫌われているのではないのだと。思ってしまってもそれは勘違いじゃないのかな。
ーーーーーーー『…ちょっとは、私の言葉も信じてよ。』
呆れたように小さく笑う声が、後ろ向きな僕の心をそっと小突くみたいだ。
…そうだね。
君が、嫌々僕と一緒にいるって勝手に決めつけてしまうのは、君の気持ちに対して失礼なのかもしれない。
側にいることが許されているのなら。
せめて友達ではありたいと、思う。
……喩えこの気持ちが、叶わないとしても。
あと少しの間だけでいいから。ひまりの側にいさせて。
彼女の走り去った方向に、僕は一方的でも、そう願いを込めて心の中で呼びかけていた。
三年生の時。
不運な僕が、君のおつかいに付き添ってしまったこと。
盗賊から逃げた先の洞窟で、僕が君にしてしまったこと。
ご両親が学園に来られた時、負傷の原因は君ではなく僕にあるのだと分かって頂きたくて、君の意向も確認しないまま、お二人に向かって謝罪をしたこと。
最善を選んだつもりでも、それは結局、いつも僕の独りよがりでしかなくて。
僕は、君を困らせてばかりだ。
本当は、僕の助けなんか君には全然必要無くて。むしろ僕なんかが近くにいない方が、君にとってはいいのかもしれないとさえ思ってしまう。…いや、きっとそうなんだ。
僕が側にいないことで君が幸せになるのなら、ーーーーーーーーーー喩え、君を守ることを"他の誰か"に託すことになるとしても、
それでもいいと思った。
君は僕にとって、
すごく、大切な人だから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「…ひまり、」
僕は、探していたひまりに声をかける。
僕がひまりのご両親に向けて謝罪したことに、怒っていたと留三郎たちから聞いたから。……彼女の望まないことばかりする自分に、いい加減、嫌気が刺してくる。
とにかく、謝らなきゃ。
見つけた時、ひまりはあまり人の来ない裏庭の隅の木に寄りかかって、地面を見つめて何か考えていたようだった。
彼女は、少し目線を上げて僕を一瞬見たけれど。
「あの、…僕、」
切り出した矢先、寄りかかっていた木から体を起こして、僕の方に歩み寄って来る。
「…顔色、悪い。」
「え?」
「あまり、ちゃんと寝てないんでしょ。夜。」
グッと詰め寄られ、肯定も否定もできないでいるうちに、彼女は続ける。
「この傷は、伊作のせいじゃないんだから。私が、上手く避けられなかっただけなんだから。もう、気にして悩んだり、謝ったりしないのよ?」
「で、でも、やっぱり僕が…」
「あーもうっ、気にするなって言ってるでしょ!これ以上謝ったら友達やめるよ?!いい?もう言わないの。分かった?」
答えかねていると、「分かったら返事っ!」とまた怒鳴られて。
「っ…はい…」
結局はその迫力に押されて、頷くしかなかった。
そんな、怒ったような顔をしていたひまりは、僕が頷いたのを見てから、申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。
「伊作。ごめん、私、この前嘘ついた。」
「…え?」
「あの日、…盗賊に襲われる前。悩んでるのかって、心配して訊いてくれたよね。なのに私、テストで疲れただけだって……ごめん。あれ、嘘だったの。」
「……」
「打ち明けても、そうそう簡単に解決できることじゃないと思って。他の皆にも、何も言わないままでいて、私だけの問題だって一人で抱え込んで。…でも、留三郎に怒られちゃった。悩んでるくせに隠して、無理して笑うなって。」
ーーーーーーーそれも、留三郎から聞いていた話だった。
怒って噛み付かれるのを覚悟で言ったつもりだったと、彼は、その時のことを話してくれた時、ひどく後悔するような顔をしていた。「あいつが泣くなんて思いもしなかった」、と。
「皆や伊作のこと、信用してないわけじゃないの。…でもやっぱり、解決するとしたら自分の手でやるしかないことだから。ここまで心配かけておいて、こんな事言ってたらまた怒られそうだけど。」
肩をすくめて笑う彼女は、ふと思い出したように僕を見た。
「あ、それとね。今度、実家に帰ろうと思って。」
「……やっぱり、ここを辞めてしまうの?」
「ううん。辞めないよ。」
家に帰るのに、辞めない?どういうことなのか、分からず僕は彼女の顔を見つめ返す。
「…いや、ホントはね、辞めちゃおうかなとも思ったんだ。ほんの一瞬だけど。」
苦笑を浮かべて、ひまりはまた話しだす。
「親に反対されてるから仕方ないとか、今悩んでるのが辛いからって、そういうのを理由にして。…でも、それじゃ逃げてる気がしてさ。そんなの私、嫌だなって。
自分のことだから、誰かに決められるんじゃなくて、自分でちゃんと選んで決めたい。将来のこととか、…生き方、とか。」
話しながら、彼女は校舎のある方を見上げていた。
「私、まだここで学びたい事たくさんあるもの。だから絶対、戻ってくる。親に掛け合って、……喩え、もしそれで勘当されても、忍術学園に通い続けることを諦めたくないから。」
「勘当、って…そんな…」
その言葉を発した本人より、僕の方が慌ててしまっている。ひまりは、笑った。
「だから、喩えだってば。…そんなに、心配しないでよ。」
不安など微塵も感じさせないというような、彼女のその笑顔。
まるで、僕の方を安心させようとしているかのようだった。
「ごめん、そろそろ。帰る準備しないとだから。……またね。」
すれ違って去っていく彼女を振り返るけれど、僕は、その背中に声をかけることができずにいた。
その時の僕には、彼女のためにできることは何も無いのだと悟ったから。
待つしかできないんだと、思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学園長先生の庵を後にしても、私は自室には戻らず、人気の無い裏庭の木に寄りかかってずっと考えていた。
「ーーーーーーー儂からこのように言うのは憚られるのじゃが、……どうしたいかは、最後はお主自身が決めることじゃ。」
両親も交えた話の途中で部屋を飛び出してきてしまったことを詫びに戻った時、学園長先生は私に静かにそう諭された。
己で納得のゆくまで考えよ、と。
ーーーーーーーどうしたいか、…か。
それを考える前に、私は、もしこのまま忍術学園を辞めてしまったらどうなるのだろうか、と想像してみる。
学園は、私一人がいなくなったところで何も変わることはない。そのまま、残った生徒達によって時が刻まれていくのだろう。
だけど。
きっと、私は後悔する。
まだ通い続けたかった、と。
忍術も、それ以外の学問も、学ぶことが私は嫌いではなかった。むしろ、家にいるだけでは知り得なかったであろうことに毎日出会えるこの場所が、好きだった。
女、というだけで、その喜びを絶たれなければいけないのだろうか?
私のこの先の人生は、もう、誰かに嫁ぐことだけだと決められてしまっているのだろうか?
……そんなの、やっぱり納得できない。
いつも一緒にふざけてバカ騒ぎしている友達の言葉が、頭の中によみがえってくる。
「今のお前、らしくねぇぞ。」
「お前が何で苦しいのか、言わねえと、俺たちだってどうしていいか分からねえだろうが!」
………やっぱり、
消えてほしくない。
苦しくてこの現状から逃げたいからって、大事な皆との思い出まで記憶から消えてしまっても構わないだなんて。
全部、無かったことにしたいだなんて。
一瞬でも、何て馬鹿なことを考えてしまっていたのだろう。そんなの、絶対に嫌に決まってるのに。
「友達じゃなかったら私たち、何だっていうのよ?」
ただ偶然、出会っただけの私たち。
たまたま気が合ったから、ずっと一緒にいるだけ。そしてきっとこの先も、友達であることに変わりはない。
女装のやたら上手い同級生に言われた台詞を思い出す。
……そうだ。
こんなことくらいで諦めたくない。この学園に居続けることを。皆と一緒にいることを。そして、私の将来を。
自分から諦めてしまって、その理由をこの傷のせいにしたり、他の誰かや何かのせいにしたり、なんて。
そんなことは絶対にしたくない。
まるで、全部に負けたみたいで。そうなったらすごく、すごく悔しい。
ーーーーーーーそれに、
「…ひまり、」
このまま私が学園を去ってしまったら、そのことをきっとずっと気にするんだろうな、と。
私を探していたらしい、伊作の顔を見た時、そんなふうに予想がついてしまって。そして、
その顔を見たら、ハッキリと心は決まった。
抗うんだ。正攻法でなくても。
卑怯だと言われても。
そう決めた私は、宣言する。
「だから絶対、戻ってくる。」
と。
それから。思い返せばあっという間のような、長い何日かが経って。
一旦実家に帰り、そうして学園に戻った私は、改めて挨拶に伺った学園長先生の所から職員室へ向かう途中、とっ捕まった文次郎に素っ頓狂な声を上げられていた。
「はぁあ?!何言ってんだ、そんなの無理に決まってんだろ!」
「うっさいなー、もう決まったんだってば!後からギャースカ言わないでよ。」
「あ!伊作、長次ー!ひまり戻ってきたぞー!」
うるさく問い詰める文次郎に顔をしかめていると、一緒にいた小平太が別の方向に向かって大きく声を張ったので、私もそちらを振り返る。
そして、相手の姿を、目で捉えると。
「…伊作っ!ちょっと、こっち来なさい!」
「えっ、えっ?」
私は、少し、わざと怒ったような顔と勢いを作って、伊作の腕を引っ張る。彼と、一緒に来ていた長次も含めて、その場全員が呆気にとられたように目を丸くする中。
誰もいない所まで強引に連れ出した伊作に、振り返って私は、
「ただいま。」
と声をかける。
「……」
驚くのも無理はないとは思うけれど、反応が無いのは少し寂しい。
「ただいま、ってば。」
とせっつくと、漸く相手から「お、おかえり…」と戸惑いつつも返事を返される。
それから、じっと顔を見られて。
「…やっぱり、残ってしまったんだね…。」
ガーゼの取れた左頬にはっきりと残った傷痕を、目に映す伊作は辛そうな顔で。もう私は、努めて明るく乗り切ることにする。
「しょーがないよ、刀疵だもん。それよりさ、どうかな?…やっぱ、ちょっとサイズ大きかったかもなあ。」
私が腕を広げるようにして見せたのは、いつもの薄紅色の制服ではなく、浅葱色の、ーーーーーーー忍たまの三年生が着るのと同じ制服だった。
伊作が驚いているのは、そのせいだった。訊きたいことは大体分かっていたから、先に説明する。
「通うことに関しては、とりあえず許しは出たんだけど、"これ"が、親からの条件でね。くの一としての授業は受けるな、って。…忍たまとして、学園に入り直すことにしたから。改めてよろしく。」
「よ、よろしくって…」
「言ったじゃん。私、絶対戻ってくるって。文次郎には、さっき散々文句言われたけどね。女が男装して忍たまに混じるなんて、ってさ。」
腕を広げた格好のまま、くるりと回ってみせる。
「でもさ、なんかこう、変な気分っていうか。制服の色が違うだけなのにね。まるで、以前の私と全然違っちゃったみたいに感じるよ。……顔に傷がある女だからって、ついこの前アルバイトも断られちゃったし。ただの皿洗いなのにね。学費くらい、自分で何とかしたかったんだけどなあ。」
「……違わないよ。」
ポツリと、でもはっきりと口にされた言葉に続けて。伊作が、真剣な目を向けてくる。
「顔に傷があったって、ひまりはひまりのままじゃないか…!そんなの、そんなこと言う人の方が、おかしいよ。」
真っ直ぐ私を見ていた目が、ハッと気付いたように見開かれ。そのまま申し訳なさそうな、伏せ目がちになる。
「ご、ごめん…その傷を作らせたのは僕なのに…」
思わず、笑ってしまった。急に笑う私に伊作はぽかんとしていたけれど、私は何だか、すっきりしたような、吹っ切れた気持ちになっていた。
「うん。分かってる。伊作の言う通りだよ。」
バイトを断られたことに、実は結構、不貞腐れたような気持ちにもなっていたはずなのに。
君がそう言ってくれるのなら、もう、誰に何を言われても平気な気さえしてくるから不思議だ。
「大丈夫。これは、私が決めたことだから。」
だからせいぜい、強がって見せる。それで少しでも、君の心の枷が軽くなるのなら、いくらでもそうしたいと思った。
「顔に傷があっても、…もしも誰にも嫁げなくても、それでも生きていく道はあるはずなんだって。自分を信じなきゃ駄目だなって思ったの。
…だから、やってみるんだ。プロ忍、目指すって。」
私のその宣言に、伊作は呆気にとられているみたいだった。
「うちの親も、許したのって多分、やれるもんならやってみろって感じだったんだと思う。男子に混じった実技の授業で音を上げるのを、期待してるんじゃないかな。…でも、最初から無理って言われたら、ますますやってみたくなるじゃない?」
だから、と私は笑ってみせた。
「これからは、くのたまじゃなくて、忍たまとして。…よろしく、ね。」
これから、君と同じ道を目指すことを、誓って。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初めて忍たまの制服に身を包んだ時のひまりは、余計な心配をさせまいとして笑っているように、その時の僕には見えた。
よろしくね、と言って、それから少し眉根を寄せた顔をして、こちらにズイッと迫る格好になって。
「…あとさ。傷のことでもう謝らないでって、言ったよね?」
「そ、それは……ごめん…だって、つい……」
また怒鳴られるかと、身構えていたら。
「約束。今度こそ、したからね?」
そう言って、頬を膨らませて。まるで、怒っているように。
ーーーーーーーでもそれは、彼女の優しさからの発言なんだと、僕は、その時から分かっていた。
ひまりはひまりで、僕がずっと責任を感じて気にすることを心配してくれていて。
僕なんかに、友達としてそれまで通りに接してくれた。
君は多分否定するのだろうけれど、でも君は、本当にいつも、優しくて。
だからこそ、僕はずっと傷のことを気にしている。
それは違う、と否定されても、自分の責任だと心に刻む。気にしないでなんて、いられるはずもない。
だって、僕は。
君のことを、ーーーーーーー
「さて、と。それじゃ私、早速先生のとこ行ってこなきゃ。今度受けるテストの話があるから。」
一つ伸びをしてからひまりは、頭巾の、顎に引っ掛けている部分を目元まで引っ張り上げた。男装をする手前、顔が見えていては良くない、ということらしく。
伊作や、皆にだけ明かすんだから。女だってこと、内緒だからね?ーーーーーーーと。
その覆面の中できっとイタズラっぽく笑って、唇のある辺りに人差し指を置いて見せた彼女は。
昔から、やっぱり、強くて。しなやかな人だと、改めて思う。
だから、僕なんかが守りたいだなんて思うことは、本当はおこがましいことなのかもしれない。
……ましてや、好きだなんて。
愛想をつかされても仕方ないくらい迷惑をかけてしまっている、自分なんかが。
とても、おこがましいのに。
「……伊作にだったら、別に…嫌とか思わない、よ。」
いつもそばにいてくれて嬉しいこと、いつも迷惑をかけてしまって申し訳なく思っていることを、伝えられたらそれで十分だと思っていた、僕の耳に。
ぽつりぽつりと紡ぐような、彼女のその言葉が届く。
その意味を言葉で聞きたかったけれど、結局聞けなかったけれど。そう言った君は覆面をしていても分かるほど、顔が真っ赤で。
僕は彼女が立ち去っても、ずっと、心の臓が速くて。
どうしよう。
もし。もしも、君のその言葉と赤く染まった顔を、僕の都合の良いように捉えてしまってもいいのなら。
ねぇ、ひまり。
僕は、ほんの少しだけ、期待してしまってもいいのかな。
僕が側にいることを、君に嫌がられているのではないのだと。
僕が君に、少なくとも嫌われているのではないのだと。思ってしまってもそれは勘違いじゃないのかな。
ーーーーーーー『…ちょっとは、私の言葉も信じてよ。』
呆れたように小さく笑う声が、後ろ向きな僕の心をそっと小突くみたいだ。
…そうだね。
君が、嫌々僕と一緒にいるって勝手に決めつけてしまうのは、君の気持ちに対して失礼なのかもしれない。
側にいることが許されているのなら。
せめて友達ではありたいと、思う。
……喩えこの気持ちが、叶わないとしても。
あと少しの間だけでいいから。ひまりの側にいさせて。
彼女の走り去った方向に、僕は一方的でも、そう願いを込めて心の中で呼びかけていた。