0章
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「……はあー……」
少女が戻ってこないのを確認してから、ヨシロは隙間から脱出した。緊張で固まった全身をほぐすように大きく息を吐く。こめかみがどくどくと脈打っているのが分かった。口内は乾ききり、舌が上顎に張り付いて硬直している。暴れだしそうな心臓を抑えるように胸元をさすった。指先がひんやりと冷たい。
(なんとかバレずに済んだみたいだけど)
下唇を噛んで濡らし、挑むように社を見上げた。ここで安堵のぬるま湯に浸れるほど甘い性格はしていない。
「<守り人さま>どうぞお鎮まりください、だって?」
少女が囁いていた言葉を改めて口にしてみる。なんの変哲もないお参りの言葉のようにも聞こえるが、明らかな矛盾をヨシロは見逃さない。
そもそも<守り人さま>とは水害を予知し、日照りを乞う神子のことだ。雨期がくると水止めの祭りが行われ、社には五穀豊穣を願って穀物が供えられる。アカガシや町民の話とその様子を参考にしても、生贄信仰の名残というヨシロの考察は間違っていないように思える。
だとすれば<守り人さま>の役割は人柱であり、その本分は日照りを導く神さまそのものではなく、限りなく「人」寄りの存在として、彼らの生活に寄り添ってきたと考えるのが自然だろう。
つまり根本的に、<守り人さま>は荒神のように畏れるべき対象ではなく、貴く、しかし身近なものとして町民たちに信じられてきた筈なのだ。祈る必要があるとするなら、それは生贄を求める神に対して行われるべきではなかろうか。
役所の職員たちは厄災を逃れるために「<守り人さま>にお願いすべき」と言っていた。それが少女の「お鎮まりください」という言葉と繋がらない。
確かに、大きな力は時と場合によっては味方にも敵にも成り得る。各地に伝わる多種多様の伝承の中には、悪い行いをした者に、神々がその荒々しい力を以って制裁を下すという話もあるくらいだ。
信仰は、長い歴史を経て変化していく。
<守り人さま>にもそのような一面がある可能性も捨てきれない。
(……腑には落ちないけど)
まるで逢魔が時を境に世界が引っ繰り返ってしまったかのようだ。隠されていたものが夜の力を得て動き出したのか、奇妙な余韻が腹の底で反響し続けている。
拭えない違和感に、ヨシロは暫く立ち尽くしていた。落ち着いたはずの心拍が再び激しく鼓動する。
(どうする)
脳内では自問が飛び交っていたが、冷えたままの手は腰のベルトへと伸びていく。つんと指先に触れたものを撫でると、干上がった喉から声を絞り出した。
「頼んだぞ、相棒」
応えるようにモンスターボルが震えると、赤い閃光と共に、かぎたばポケモンのクレッフィが姿を現した。円を描くように繋がれた両手には、一本の鍵が通されている。ヨシロの眼がニャルマーのように光った。
「やっぱりあったか、スペアキー……!」
クレッフィは嬉しそうにその場で一回転して見せると、持っていた鍵をヨシロに渡した。
このポケモンは鍵集めという少々厄介な習性を持っているが、ヨシロの相棒はただの鍵収集家ではない。「相手が最も喜ぶ鍵」を、相棒にも内緒で発見し持ち出すのが何よりの楽しみなのだ。
タマゴから育てたということもあるのだろう。これまでもクレッフィは行く先々で、研究に役立ちそうな蔵の鍵や、廃屋となった洋館にある地下書庫の鍵などを見つけてきてくれた。その目敏さ鋭さは凄腕の盗賊も泣いて逃げ出すほどだ。更にヨシロの性格もよく理解しているのか、無暗矢鱈に貴重な鍵を持ってきたりはしない。重要性や、ここぞというタイミングを見極めて、健気にヨシロの研究の手伝いをしてくれているのだ。
そんなクレッフィが、今回は「必要だ」と判断したのだろう。いつの間にモンスターボールを抜け出したのか、こうして社殿のスペアキーを拝借してきてくれた。
飛び上がるような思いでクレッフィを抱きしめると、受け取った鍵を片手に社の階段に足を掛けた。人目がないことを念入りに確認し、改めて扉と向き合う。
錠を持ち上げ、月明りを頼りに鍵を差し込んだ。響く金属音にびくりと肩を揺らす。ヨシロはぐっと奥歯を噛み締めると、一息に鍵を捻った。
かち。
芯棒の受け口が跳ねた。錠の重みが両手に伝わる。ヨシロはそれを慎重にクレッフィに預けると、扉の掛け金も外した。
入り口を片側だけ開く。そっと中の様子を窺うと、明り取りの窓もない社殿の胎には、黒々とした闇が蟠っていた。
うら若き乙女ならば泣いて逃げ出す光景だ。
「見張りは頼んだぞクレッフィ」
尻ポケットから小型のペンライトを取り出し点灯する。宙を漂う埃が白く浮き上がった。その中へ身を滑り込ませると、後ろ手に扉を閉める。僅かな月明りすら失われた世界に、自然と肌が粟立つ。
これまで経験したことのないような狂気が、ひたひたとそこら中を這いずり回っている気がした。それだけ特殊な場所なのだ、ここは。
足元を照らしながら扉を背に、真っすぐ慎重に歩を進める。目的の位置に着くと、布手袋をはめた。触れる際に皮脂などが付着しないよう保護するためだ。
調べる場所は最初から目星をつけていた。
<守り人さま>のご神体が収められているという木箱だ。
ダイゴに話題を振られた際にアカガシはそう説明していたが、返答が妙にぎこちなかった。まるで気を逸らそうとしているかのような、普段堂々とした彼らしくない焦りを感じたのだ。
件の木箱に関しても、四方は一枚板で密閉され、箱というより祭壇に据えられた煙突のような印象を受ける。おそらくあの時、ダイゴもヨシロと同じことに気づいて指摘しようとしていたのだろう。しかしその言葉を遮るように、アカガシは箱に触れるなと言い放った。
ヨシロは隅々までライトを這わせながら祭壇を観察した。箱を計算に入れても腰までの高さしかない、小さな祭壇だ。下段に置かれた金物に触れないよう、ゆっくりと身を乗り出す。
「失礼致します」
ペンライトを咥えて手を伸ばし、人差し指で静かに木箱に触れた。そのままさっと周りに指を走らせ、取っ手がないか確認する。やはり凹みもなければ出っ張りもない。綺麗な直方体の箱だ。
「そもそも箱なのか、これは」
触れてみて分かったことだが、中が空洞になっている気配がしない。思い切って爪を使い軽く叩いてみる。
音が全く響かない。
箱というより、切り出した木材のようだ。
(だとすると……)
躊躇ったのは一瞬だった。
両手を箱に添え力を籠める。すると、
ずっ。
僅かに箱が動いた。
やはりと目を見開く。逸る気持ちを押えながら、ヨシロはゆっくり箱を横にずらしていった。ふと何かに鼻先を撫でられたような気がして、思わず手を止める。ペンライトを持ち直して箱があった場所を照らした。
「これは……」
祭壇に穴が開いていた。
箱よりひと回り小さく、縁には固まった樹液のような、黒い染みがこびり付いている。覗き込むと縦穴になっており、密度の高い暗闇が続いていた。
ハンカチで黒ずんだ部分を拭い、採集する。匂いを嗅いでみたが、薄く甘い香りがするだけで、それ以上のことは分からない。
一体、何のための穴なのだろう。
落ちてくる眼鏡のブリッジを中指で支え、ヨシロは状況を整理するために頭を働かせた。
(状況だけで判断するなら、箱は御神体を収めていたんじゃなく、穴を塞ぐために置かれた蓋ということになる。……さっきの女の子が動かしていたのも、きっとこれだ。じゃあ、その後聞こえてきた音は……? もしかして、この穴の中に何かを入れていたのか……)
ならばそれは、恐らく<守り人さま>への供物だろう。少女が囁いた言葉がそのままの意味なら、彼女は<守り人さま>を鎮めるために巫女として使わされた子供ということになる。
(精霊流しのような発想なんだろうか……祭壇があるのに、この穴を使う理由がどこに、)
ずぅぅううるるぅううぅぅぅ。
何かが動いた。
全身が一気に粟立った。
ぞろりと足裏から伝わってきた気配に呼吸が止まる。
跳ね上がった鼓動が生々しく耳の奥を打つ。
浅く息を吸い、自分の周りを探る。
(なんだ……なにも、ない……?)
そんな筈はと立ち竦む。気のせいにするにはあまりにもリアルな感覚だった。
噴き出した冷や汗が背中を滑り落ちる。
(駄目だ、これ以上はまずい……)
踏み入ってはいけない場所なのだと理解したときにはもう遅く、ヨシロの第六感が激しく警鐘を鳴らし始めた。
早く逃げなければ。
追われるように撤退の準備を整え、箱をもとの位置に戻そうと手を伸ばす。穴から立ち昇る微弱な空気の流れが、ヨシロの前髪を微かに揺らした。
何かがいる。
穴の底で何かがこちらをじいっと見つめている。
ず、ずずぅ、ずるるるぅうう。
無知なる者を嗤うかのように、中にいるソレは首を擡げて這い出ようとしていた。
「——ッ」
殆ど反射で穴を塞いだ。なんとか繋ぎ止めた理性で箱の位置を念入りに確認する。自分が居た痕跡を消し社から飛び出すと、鍵をかけ、外で待っていたクレッフィをモンスターボールに戻して走った。とにかく社殿から離れようと、がむしゃらに足を繰り出す。
(なんだあれは、なんだあれは、なんだあれは……!!)
焼き付いた光景を払うように頭を振る。
穴の底でちらついた、てらてらとした、真っ白い、もの。それが生き物のように蠢くのを、見てしまったのだ。
それからの記憶は曖昧で、どのような道を辿って役場に帰ったのか、ヨシロは覚えていない。
気付けばいつも通りの朝を迎え、珈琲を一杯飲んだ後、ぼうっとする頭でポケモンセンターに向かっていた。
ダイゴはまだ、戻っていなかった。
0-7 胎に眠るもの
——わたしが、<守り人さま>だ。
虚ろにそう囁かれた言葉を呑み込むのに、時間を要した。ダイゴは、どこかぼんやりとした顔の少女を視界に収めたまま、次の言葉を待った。
地面を打つ雨音が洞内に響いている。
少女の隣に控えるアブソルは、彼女と揃いの色をした瞳でダイゴを観察しているようだった。
「……調査にきたと言っていたけど、なにを?」
「歴史、と言うべきなのかな。<守り人さま>の信仰について調べていたんだ」
「だから社を見にきていたの」
ひとつ頷きながら、ダイゴはできるだけ柔らかい口調で問うた。
「君は……どうして、あの場所に?」
ほんの少し言葉に詰まったのは、初対面の時、不用意な言動の数々で少女の機嫌を損ねてしまったことを思い出したからだ。
アレは失敗だった。彼女の心を開くには、あまりにも礼儀を失した発言だった。あちらが自ら姿を現してくれたことに無意識で浮足立っていたのだろう。お陰で、さっきはニャビーのように逃げられてしまった。ミクリが知ったら机に突っ伏して笑われそうだ。
だがダイゴとて、伊達に幼い頃から父の会社を手伝ってきたわけではない。基本的に会話を続かせる術は心得ている。仕事や社交の場で常人より多く人と接してきたのだ。二度は同じ愚を犯すまいと、限られた情報をもとに少女の人物像を分析しながら、慎重に会話を進めることにした。
「……理由なんてない。いつもより騒がしい気がして、のぞいただけ」
言外に「お前が勝手に追いかけてきたんだ」と言われる。成程、それが彼女の言い分らしい。間違ってはいないため、素直にそれを受け入れ謝罪した。
「驚かせてごめん」
虚を突かれたような表情をされたが、それも一瞬のことで、少女は急に居心地が悪くなったように膝を抱えて座りなおした。尖った口から「べつに」と拗ねた声が聞こえてくる。そこに警戒の響きがないことに、ダイゴは密かに安堵した。同時に、彼女との会話のリズも掴めた気がした。
彼女は非常に規則的な——素直な性格の持ち主なのだろう。
まず、質問に対して応えが得られないことを嫌う。皮肉や軽口を理解する聡明さがありながら、それを好んで言葉遊びを吹き掛けてくるタイプではない。彼女を動かすのは誠実さだ。現状ただの部外者であるダイゴには、そのルールに忠実であることが求められる。
「訊いてもいいかな」
焚火に落ちていた視線が上目遣いにダイゴに向けられた。
「君は、いつからこの山に?」
「——、」
息を呑む気配がした。
そもそも少女が<守り人さま>を自称した瞬間から、疑問は感じていたのだ。
彼女は身を隠すように神域の入り口から、社の調査をしに来たダイゴたちの様子を窺っていた。仮にも自身が祀られている社だ。<守り人さま>には普段は姿を見せてはいけない決まりでもあるのかもしれないが、こうして生き神がいるなら、今朝の調査かそれ以前の取材で何かしらの説明があっても良かった筈だ。しかし昨晩見せてもらったヨシロのレポートには、一切そのような情報はなかった。町の習俗を守るためなのか、外部の人間に知られては都合が悪いからなのかは判らないが、この少女の存在が意図的に伏せられたのは確かだ。
思い返せば、社の中にある調度品や天井絵の解説には饒舌だったアカガシだが、ダイゴが<守り人さま>のご神体に注目した際は、あからさまに口を噤んでいた。純粋に信仰を守ろうとする者が、
「大丈夫、無理に答えてもらおうとは思ってないよ。山道に慣れているようだったし、ここでの暮らしが長いのかなと思ったんだ」
生き神としての<守り人さま>が暗黙の了解として町民に認知されている可能性も考えた。しかしそれにしては、少女はあまりにも神子らしくなかった。この
古い土地で出会った名も知らぬ少女は、燃え盛る炎の揺らぎを食い入るように見つめていた。何かを深く吟味しているのだろう。睫毛が影を落としている。瞳孔の周りに散った星屑は、それでもきらきらと光を含んでいた。
「……忘れた。もう何年も彼といる」
彼、のところで少女はアブソルの首を撫でた。
「ずっと独りで? 町には出ないのかい?」
「わたしは<守り人さま>だ。良くないものが外からくれば、それが入り込む前に町を守らなければいけない」
おやと内心首を傾げる。話が急に具体性を帯び始めた。<守り人さま>は水害を予知し、雨を止める力を持った水止め祭の主神ではなかったのか。
「良くないものって、例えば……?」
少女は親指を唇に当てると、一度思案するように視線を彷徨わせて呟いた。
「ひと」
「ひと?」
「町を荒らして危害を加える者。ポケモンたちを苦しめる者。わたしはそれを赦さないためにいる」
そうか、そういうことか。
隧道を抜けてこの町にやって来た、昨日のことを思い出す。
遠目で崖の上にその姿を認めたあの時、彼女は来訪者であるダイゴが、町に害為す存在かどうかを見極めていたのだ。鋭い気配を叩きつけてきたのは、こちらの出方を試していたのだろう。
「ありがとう。それが、<守り人さま>としての君なんだね」
礼を述べながら、さてどうしたものかとダイゴは常にない速度で思考を巡らせた。
アカガシを肯定すると少女が嘘をついてることになるが、少女を肯定するとアカガシの言動に説明がつけられる。これが意味するところはひとつだ。
ハバキタウンの<守り人さま>信仰には
山に立ち入ることは町の者にも禁じているとアカガシは言っていた。旅人が迷い込み行方知れずのままというのも、きっと言葉通りの意味ではないのだろう。
どうやら自分は、かなり厄介な案件に足を突っ込んでいるらしい。そして立てた仮説が正しければ、想像しているより
そう結論を出したタイミングで、膝に頬を乗せ外を眺めていた少女が口を開いた。
「もうすぐ雨が止む」
「……みたいだね」
しとしとと降り続いていた雨は細く弱まり、白くけぶっていた景色の中に、薄らと陽光の筋が下りている。
土の匂いが濃く香った。
「君の言う通り山を下りるよ」
少女は静かに目を瞬かせ、「そう」と素っ気なく相槌を打った。その様子に、一歩踏み込み図々しくなったら怒るだろうかと悪戯心が芽生える。
「良ければ道を教えてくれないかな。ここには勝手に来てしまったし、人に見つからずに戻りたいんだ」
「お前……」
地を這うような声が返ってきた。本音と建て前にも敏感らしい。
それでもにっこりと——ミクリに言わせれば胡散臭い——笑みを浮かべていると、少女は諦めるように荒くため息を吐いた。
「わかった」
「嬉しいな。ありがとう」
「お前、そう言えば済むとおもってないか」
不思議と、じと目で睨まれるのも悪くないと思った。
胸の奥が温かな感覚で満たされていく。
ふとがむしゃらに旅をしていた時代を思い出す。年を経る毎にいつの間にか消えていった、あの頃の自分が抱いていた熱に、その柔らかさは似ているような気がした。
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