0章
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「ひゃあー……すごい雨だ……」
濡れた眼鏡を拭きながら、役場に避難していたヨシロは窓の外を見て呆然と呟いた。白くけぶった景色の中には、民家の影が黒々と建ち並んでいる。
小一時間ほど前、取材がひと段落したところで雨が降り始めた。外にいた研究員たちがそれに気づき、水濡れ厳禁の機材を急いで片づけ、一行は部屋を借りている役場へ駆け込んだのだ。休憩に入っていた一部の職員たちは、慌ただしく戻ってきたヨシロ達に嫌な顔ひとつせず昼食の準備をしてくれた。研究に熱中しているときはつい忘れてしまうが、ひとたび我に返ると様々な欲求が襲ってくる。誰もがほとんど無言のまま食べ物を頬張り、昼食を済ませたのだった。
(ダイゴさん、結局帰ってこなかったな……)
気掛かりなのは、知らぬ間に姿を消してしまった彼のことだ。あれから何度か端末に連絡を入れてみたが、まったく反応がない。例の聖域へ入っていったと聞いたが、ヨシロにはその行動の理由がさっぱり分からなかった。ダイゴは禁じられたことを意図的に破るような性格ではない。常に冷静で、状況分析を怠らないタイプだ。そんな普段の様子を知っているからこそ、解せない点が多い。
(何か、惹きつけられるものがあったんだ……あの人の好奇心を刺激するようなもの……)
学者としての血が騒いだ。知的好奇心に逆らえないのはヨシロも同じだ。
「また雨か……」
「最近よく降るな」
カウンターの中で書類整理をしていた男たちが、溜息交じりに話す声が聞こえてくる。住んでいてもその環境に慣れることはないのか、職員の間には憂鬱そうな空気が漂っていた。
「そろそろ祭りをした方がいいんじゃないか?」
「最近よくないことも起きてるし……」
おや、と耳を傾けた。盗み聞きに気付いていないのか、男たちは囁くように話を続けている。
「災いの印が現れたんだ。きっと何か起きるに違いない」
「だとしたら、なぜ町長は日照り乞いの祭りを開かない?」
「そんなの俺が知るかよ……」
わざわいのしるし……。ヨシロは胸中でその言葉を繰り返すと、思いつくものを片っ端から頭に浮かべてみる。
(何だろう。生息地を考えるとアブソルが出現してもおかしくはないよな……。とはいえ、ポケモンセンターが普及しているこの土地で、今もそんな古い考えが定着しているとは思えないし……)
信仰に関わることなら先ほど取材をしたばかりだ。しかし、アカガシからそのような不穏な話は聞いていない。<守り人さま>を祀るようになった経緯や行事の内容など、かなりデリケートな部分まで踏み込んだつもりだった。しかし、
(この町には、まだ秘密があるんだ)
じっとりと掌に汗が滲む。
好奇心はエネコも殺すというが、こういう仕事をしていると、その土地に根付く不可思議なものに直面することがある。それを闇と知らずにのめり込み、物理的にも精神的にも帰れなくなってしまう研究者は少なくない。その一方で、独特のセンサーでもって闇を察知するタイプもいる。ヨシロは後者だった。
全身の産毛がピリピリと逆立ち、興奮で、熱いのか寒いのか分からなくなる。
(これは久々に大物かもしれないぞ……!)
もっと詳しい情報を入手できないかと、平静を装ってカウンターに近づく。男たちは顔を突き合わせるようにしているため、ヨシロに気付かないまま話続けていた。
「やっぱり<守り人さま>に、その……お願いすべきだ」
「ああ。このままじゃ不安で夜も眠れねえや」
待合所の椅子を避け、観葉植物の影を利用して少しずつ足を進める。もっとよく聞き取ろうと首を伸ばしたところで、
「ヨシロ殿?」
「びゃっ!」
驚きのあまり奇声と共に跳び上がった。眉を顰めたアカガシが雨合羽を小脇に抱え隣に立っている。ヨシロの声に驚いたのか、カウンターの中で話していた男たちが蜘蛛の子を散らすように各々の仕事へと戻っていく。それを視界の端でとらえ、ヨシロは柄にもなく悪態を吐きそうになった。
「こんなところでどうされましたか」
「あ、ええと、そ、外の景色を見ていまして!」
「外?」
「ええ。土地柄なんでしょうね……滅多に見ない降り方をしていたもので、珍しくて」
アカガシの片眉がぴんと跳ね上がる。
「そ、そういえば先ほど町の人が話していたんですけど、最近雨が多いそうですね」
「え? ああ、」
まただ、とヨシロは思った。いつもは流暢な話しぶりだが、ときどき今のように歯切れが悪くなることがある。このアカガシの微妙な変化に、ヨシロは以前より違和感を感じていた。
「もうすぐ雨期ですからね」
「とすると、日照り乞いの儀式はいつ頃行われるご予定なのですか?」
「いくらあなたでも、それは教えられません」
ぴしゃりと断られる。冷たい声音だった。
あと一言でも問いかければ信用を失いそうな気配を感じたので、大人しく身を引くことにした。
「そうですよね。失礼しました」
「分かってくだされば良い。では、私は町内の見回りに出てきます」
「え……お独りでですか?」
「そうですが、何か」
見れば勢いは若干収まりつつあったが、それでもバケツをひっくり返したかのような本降りだった。熱心なのは良いことだが、こんな悪天候のなか、青年団も連れず一人で見回りをすることなどあるのだろうか。
「たまに小さな子が水路に落ちたりする事故があるんですよ」
「な、そんな……尚更危ないじゃないですか! 私も手伝いますよ!」
「ありがたい申し出ですがお断り致します。この土地に不慣れな人間はかえって足手まといですからな」
「それは……そうかもしれませんけど……」
そこまで言われてしまうと返す言葉がない。言葉に詰まるヨシロを置いて、アカガシは抱えていた雨合羽を身に着ける。
「では」
そう言い残して、アカガシは役場から出て行ってしまった。後味の悪い沈黙がひたひたと満ちている。あれでは暗に、大人しくしていろと釘を刺されたようなものだ。
町長とは、長い時間をかけて信頼関係を築いてきたつもりだった。今回の調査もその努力が実ったからこそ許可が下りたのだと思っているし、その証はアカガシの態度の端々にも表れていた。しかし、ああも邪険に扱われてしまうと、所詮自分は彼にとって外部の人間だったのかと思い知らされる。
「こればっかりは慣れないな……」
気分を切り替えるようにぐしゃぐしゃと頭を掻く。忙しなく動き回る職員を見たが、これ以上得られるものはなさそうだった。
ヨシロは諦めて部屋に戻ることにした。
0-6 鎮守
盆地は日が沈むのが早い。
夕食を作り食卓を囲むような頃合いでも、この町では幼い子供が眠りにつく時間だ。黄昏時を境に町中から人の気配が薄くなり、家々に橙色の灯がともり始める。ポケモンセンターだけは遅い時間まで入り口を開けていた。
午前中から降り続いていた雨は13時を過ぎると小雨になり、現在は天候も回復していた。鉛色に渦巻いていた雲の切れ間の向こうには、すっと冴えた星空が広がっている。
二十時を過ぎ役場の客室でベッドに腰かけていたヨシロは、部屋の明かりを消したまま、何をするでもなく窓の外を眺めていた。役場の二階にあるこの一室は北東——<守り人さま>の社殿がある方を拝めるよう作られており、町全体を一通り見渡せるようできていた。
「……」
もう何度目になるか分からない。諦め半分で端末を開くが、次の学会の招待状が届いているだけだ。受信履歴を更新してみるが変化はない。
毛布の上に端末を投げ出すと、ヨシロはぱんとひとつ、己の頬を打った。
(考えててもしょうがない)
一度ポケモンセンターに行ってみよう。事前に部屋番号は聞いている。もしかしたら端末を見ていないだけで、戻ってきているかもしれない。きっと変わり者の彼のことだから、慌ててやってきたヨシロに目を丸くして「どうかしましたか」と首を傾げるに違いない。
そう考えたヨシロは、自身のモンスターボールを腰のベルトに提げると静かに部屋を抜け出した。
非常灯が廊下を不気味に照らしている。息を凝らして確認したが、警備員が巡回をしているような様子はない。
ヨシロは忍び足のまま一階へ下り、鍵を開けて役場を出た。深く息を吸うと湿度を含んだ夜気がほんのり甘く肺を満たす。
街灯のない町並みは昼間とは正反対の世界だった。夜行性のポケモンたちが徘徊しているのか、時おり空気が動くのを感じる。草葉の陰に蟠る闇には異様なものでも住んでいるのか、絶えず何かがこちらを凝視しているような気配がした。
「何か羽織ってくればよかったかな……」
肌寒さに腕を擦る。体を温めようと、いくらか早足でポケモンセンターに向かった。町の中央を突っ切る路に沿って歩くと、白く煌々と輝くポケモンセンターが見え始めた。
到着と同時にヨシロは袖口で目を覆う。夜道で広がった瞳孔には些か刺激が強すぎた。
ヨシロは目が慣れるまで瞬きを繰り返すと、意を決して入り口を潜った。
「あら、こんばんは」
コンピュータを操作していたジョーイが顔を上げる。相棒のラッキーは奥で仕事をしているのか、姿は見えない。
「こんばんは。遅くにすみません」
「研究団の方ですよね。ポケモンの回復ですか?」
「あ! いえ。こちらに泊まっている知り合いが忘れ物をしたみたいで……。ちょっとお邪魔してもよろしいでしょうか」
「大丈夫ですよ! お部屋の番号はお分かりですか?」
「ええ、事前に聞いてます」
「分かりました。あちらへどうぞ」
ジョーイの案内を受けてホテルルームがある通路へ入る。簡素な作りの廊下を進み、目的の部屋の前に立った。
ノックをするが、やはり返事はない。
「ダイゴさん?」
駄目もとでノブを引いてみる。ドアは鍵に阻まれることなく素直に開いた。
(いくら何でも不用心すぎじゃ……)
わざとなのか抜けているのか分からない。仮にも大企業の御曹司。窃盗にあったらどうするつもりなのだろう。
ため息交じりにドアを開くと、そっと室内を覗き込んだ。カーテンが閉められているのか、部屋は暗く静まり返っている。
(失礼しますよー……)
ドアを後ろ手に閉める。部屋の電気を点けて室内をざっと見渡した。やはり戻っていないのか、チェストの傍にはコンパクトにまとめられた荷物が置かれている。メモ一つなかった。
落胆して窓際に歩み寄る。カーテンを開くと、裏庭のバトルフィールドが見えた。
「ん?」
目を凝らす。赤いスカートがひらめいたような気がしたのだ。
ぐっと眉間に力を籠める。
女の子だ。
小さな女の子が何かを抱えて夜道を歩いている。
人目を憚るように何度も後ろを振り返りながら、明かりも持たず先を急いでいた。
どこへ向かっているんだろう?
「あの道は確か……」
ヨシロは小走りに部屋を出た。エントランスホールを駆け抜ける時に後ろからジョーイが声をかけてきた気がしたが、振り切って表へ飛び出す。
畑を三つほど隔てた向こう側に、件の少女の姿はあった。長いおさげが揺れている。何かに怯えるように肩を竦め、大きく見開かれた瞳は進行方向を凝視していた。
あの道は確か、町の北側へと続いていたはずだ。
(きた……)
項の産毛がびりびりと逆立つ。ヨシロの中のセンサーが反応していた。
生唾を飲み込む音が厭に大きく聞こえる。
自身の目的と闇夜に対する恐怖心で頭がいっぱいなのか、少女はヨシロに気付かないまま先を歩いていく。その背中を見失わないように距離を保ちながら、ヨシロは少女の後をつけた。
民家の群れを抜け、畑ばかりが広がる場所に出ても少女の歩みは止まらない。
(これ、もしかして……)
町中に巡らされた道は、あの社殿がある北側へと収束されるように通っている。物陰に身を隠していたヨシロは、ひとつの可能性に賭け思い切って先回りすることにした。
「はあ、は、」
昼間訪れた社殿が見えてくる。崩れた崖の間に蹲る木造の建築物は、陽を浴びているときより遥かに迫力を増してそこに居た。まるで怪物が深い眠りについているかのような、人を寄せ付けぬ雰囲気を纏っている。
ヨシロは物陰を見つけ、そこに身を潜めた。
少しすると軽い足音が近づいてくる。
(やっぱり……)
赤いスカートの少女だった。抱えているのは籠のように見えた。
少女は社殿の前まで来ると辺りを見渡し、人目がないのを確認すると、ポケットから鈍色の鍵を取り出す。見覚えのある形に息を呑んだ。
錠前に鍵が差し込まれる。
籠を片手に、少女が扉を開いた。
蝶番の軋む音が響く。
「<守り人さま>、どうぞお鎮まりください」
手を合わせた少女の声が聞こえる。その背が社の中に消えるのを見届けてから、ヨシロは社殿に駆け寄った。欄干に沿って社と崖の間に滑り込む。鋭い岩肌が頬や後頭部を擦ったが、そんな痛みなど気にならないくらいに興奮していた。アドレナリンで全身の血が滾るのを感じる。心臓の音がうるさかった。
耳を澄ませると、何かを引きずるような音が聞こえる。
ずっ、ずっ、ごとっ。
(今のは……)
真っ先に思い浮かんだのは、重石のようなものを移動させる少女の姿だ。しかし、あの中にそんなものがあっただろうか。
記憶を掘り起こしてみても、該当するものが出てこない。
それから衣擦れのような音が続き、暫くすると。
ぼとぼとぼとっ。ぼとっ。
今度はボールが落ちるような音が聞こえた。
(なんだ、何が行われているんだ……)
未知の領域に対する恐怖が腹の底に溜まり始める。
再び何事かを呟く少女の声と、重石を引きずるようなあの音が響いた。用事が済んだのか、逃げるような足取りで少女が社から出てくる。振り返りざまに見つからないように、ヨシロは息を止めて気配を消した。錠前に鍵をかける音がする。
「<守り人さま>、どうぞお鎮まりください」
最後にそう言い残し、少女は立ち去っていった。