0章
夢小説設定
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「ふう……」
今の自分を見たら、友人は間違いなくこう言うだろう。珍しく考え無しだな、と。
少女を探し山中を歩き回っていたダイゴは、数分前に降りだした雨を凌ぐため、岩陰を見つけて逃げ込んだ。生ぬるい大粒の雨がどうどうと地面を叩いている。雨脚が激しくなる前に避難できたおかげか、肩や髪が多少濡れただけで済んだ。
端末で現在の時刻を確認する。あと一時間ほどで正午だ。
上着の内ポケットから携帯食を取り出す。いつ何が起きても大丈夫なように準備している非常食だ。ダイゴはそれをひと欠片だけ口に放り込んだ。
まさかこんなことになるとは露ほど思いもしなかったため、荷物のほとんどはポケモンセンターに置いてきてしまっていた。手元にあるのは端末とモンスターボール、携帯ナイフ、小型のファイヤースターターなど、主に緊急用の道具だけだ。
「確かに、太陽が恋しくなるのも分かるな」
ヨシロから聞いた日照りを乞う祭りの話を思い出す。雨は大地を潤すが、降りすぎれば毒となる。この地形では土砂崩れなどの被害も少なくはないだろう。それでも町から人が離れていかないのは、生まれついた土地を愛する気持ちが強いからに違いない。
雨の匂いが鼻腔を満たした。
どこかであの少女も雨宿りをしているのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考える。
そういえば、彼女の呼び笛に応じたアブソルは随分と人馴れしているように見えた。
(あの子もトレーナーなのかな……)
ダイゴの手は自然とメタグロスのモンスターボールに伸びた。もう一か月、チャンピオンとしてはフィールドに立っていない。ジムバッジをすべて集め四天王を勝ち抜いてくるような強者が暫く不在だったからだ。
リーグ挑戦者が現れる時期には波がある。それこそ二か月前までは防衛戦で忙しかった。しかし、ちょうど新人トレーナーの世代交代が始まったらしく、挑戦者は日に日に減少していった。特にこの月は各地バトルトーナメントなどの目立ったイベントもない。故に、エキシビションで呼ばれることもなく。ダイゴは父親の会社の手伝いをしたり趣味に明け暮れたりと、いつもに比べれば静かな日々を過ごしていた。
そうした日々が続くと、チャンピオンとしての自分ではなく、一人のトレーナーとしての自分が見えてくる。未来ある新人たちに試練を与える壁となり、あのバトルフィールドに佇む自分は嫌いではない。しかし、長くチャンピオンの座に居るからこそ思うこともある。
時々、無性に。夢を追いかけ旅をしていた頃に戻りたくなるのだ。強敵を前にしてきらきらと瞳を輝かせていた、あの頃。
バトルを終えてフィールドを見渡した時に痛感する。随分と遠くまで来てしまったな、と。
——人は大人になると、多くを得る代わりに一番大切なものに置いて行かれるんだね。
かつてミクリが言った言葉を思い出す。彼も、どこか悲しげな顔をしていた。
だめだな、とダイゴは軽く首を振った。二十代も半ばに差し掛かると、どうも感傷的になっていけない。
空を見上げると、ほんの僅かにだが雨が収まってきていた。滝のようだった雨垂れも、本降りの時に比べれば勢いを失っている。このまま止んでくれれば良いのだが、依然どんよりとした雲は頭上でうねっていた。
甲高い悲鳴のようなものが耳朶を打ったのは、雨音が少し静まり始めたときだった。
「……?」
耳を澄ます。
雨粒が土を穿つ音に紛れて、微かだが聞こえてくる。
————!!
ダイゴははっと目を見張った。
(ポケモンの声だ……!)
絹を裂くような激しい鳴き方に、岩陰から飛び出す。乾きかけた髪を再び雨が濡らしたが、それどころではなかった。
滑る足元に注意を払いながら、ダイゴは声のする方へ走った。
倒木の下を潜ると、見覚えのある景色の中へ出る。
「あの沢の近くか」
目に入る雨粒を拭い、灌木の枝を除けた。
じっと聞き耳を立てる。
(あっちだ!)
茂みを掻き分け十メートルほど進む。次の一歩を踏み出そうとしたとき、ふっと地面が消えた。慌てて身を引く。すぐ先には、あの枯れた沢——雨水が膝丈ほどまで溜まり、川のように流れていた——が横たわっていた。
素早く視線を巡らせると、向こうの方に今にも濁った水に呑まれそうな小さな影が見えた。突然の土砂降りに逃げ遅れてしまったのか、岩の上で右往左往している。
(あれは……ジグザグマ……!)
ダイゴは急いで近くまで駆け寄ると、モンスターボールを取り出した。
「行け、メタグロス!」
赤い光を纏い、銀色のボディが姿を現す。
「サイコキネシスでジグザグマを助けるんだ!」
メタグロスはその言葉に素早く反応してサイコキネシスを繰り出す。直前までパニックに陥っていたジグザグマは、ふわりと浮いた自身の体に目を丸くする。
メタグロスはジグザグマをダイゴのもとへ移動させると、サイコキネシスを解いた。ダイゴはジグザグマを抱きとめ、安心させるように優しく笑った。
「もう大丈夫だよ」
「ザグー……」
「ありがとう、メタグロス」
「メタ」
メタグロスをモンスターボールに収める。ダイゴは膝を落とし、ジグザグマを地面に下ろした。しかしそのまま歩き出そうとしたジグザグマは、呻いて前のめりに倒れる。腹部から後ろ足の毛に血が滲んできていた。
「まずいな……」
今は傷薬を持っていない。それにこの雨では薬草を探すにも難しい。一瞬メタグロスの力で町のポケモンセンターに駆け込むことも考えたが、今必要なのは応急処置だ。それでは間に合わない。
ダイゴは傷に触らないようジグザグマを抱え上げた。濡れてしまった体毛から体温が奪われていくのか、腕の中の小さな体はがたがたと震えていた。
「く……っ」
焦るダイゴが視線を彷徨わせたその時。
「こっちだ!」
すっ、と。対岸から強い声が飛んできた。
白銀と赤い瞳がかち合う。
刹那、雨音が消えた気がした。
「アブソル!」
少女が一声叫ぶとその背後から白い影が躍り出て、軽やかにダイゴのいる方へ飛び移る。ダイゴは迷わずアブソルの背に乗った。ジグザグマをしっかりと抱き、振り落とされないよう掴まる。
アブソルの脚が地を蹴った。
僅かな衝撃と共に対岸に渡る。
少女はそれを見届けると素早く身を翻した。
「あしもとに気をつけろ」
アブソルはダイゴが下りるのを待ち、少女のもとへと戻っていく。少女は顔を前に向けたまま、そっとアブソルの首を撫でた。
「どうした、はやくしろ」
急かされて初めて自分がぼーっとしていたことに気づく。我に返ったダイゴは、少し先を行く少女の背中を追いかけた。
0-5 白い子ども
炎の影が洞内に伸びていた。
少女の寝ぐらだろうか。奥の方に積み重ねられた布や食料の籠が置いてある。
薪が弾ける音に耳を傾けると、どこか懐かしい心地がした。
「ふ、」
ジグザグマの手当てをしていた小さな背中から、ようやっと力が抜ける。指についた血を拭い厚い布でジグザグマの体を包むと、少女は耳のあたりをそっと撫で、もう大丈夫と囁いた。
「お前が助けてくれたの」
焚火に向き直った少女は、赤く燃える眼でダイゴを見つめてきた。その隣にはアブソルが寄り添い、体を休めている。
「君が来てくれなかったら助けられなかったよ」
「そんなのただの結果だ。お前が見つけてくれなければこの子の命はなかった」
ありがとう。
少女の唇が不器用に、そう動いた。
ダイゴの胸にじわじわと温かいものが広がる。張り詰めていたものが緩むようなその感覚に、自然と淡い笑みが浮かんだ。
気まずさからか、少女は視線を逸らす。
「山を下りろと言ったはずだけど」
「君を置いて?」
宝玉の双眸がナイフのような鋭さでダイゴを睨んだ。問われていることの意味を悟ったのだろう。その聡明さに驚かされる。
「……よく育てられてるね」
ダイゴはアブソルへと視線を移した。意表を突かれたように少女の瞼が瞬く。
「筋肉に無駄がないし、毛並みもとても美しい。素敵なパートナーだね」
「……ちがう」
「違うって、君たちは一緒に暮らしているんじゃないのかい?」
「それは……そうだけど、」
言い淀む姿を黙って見つめる。問い詰めすぎるとまた心を閉ざしてしまうかもしれない。少女と会話が成立していること自体が奇跡のようなものだ。数時間前に拒絶されたばかりのダイゴは、慎重に言葉を選んだ。
「改めまして、僕はダイゴ。ハバキタウンにはとある調査のために呼ばれてね。昨日からあの町に滞在しているんだ」
「……だから<守り人さま>のことを知っていたの」
「そうだよ。信じてくれるかい……?」
少女は再び沈黙した。考えを整理しているのか、ダイゴの言葉を吟味しているのか。燃え盛る炎をじっと見つめている。
やがてゆっくり口を開くと、真っすぐダイゴを捉えた。
「うそつきの目ならたくさん見てきた。でもお前は、」
熱に当てられ赤く熟れたような少女の瞳が、心を掴んで離さない。
「……お前は、そのどれよりもずっときれいだと思う」
そのとき初めて、ダイゴは、彼女の瞳孔の周りに針先のような細かい煌めきが漂っているのを知った。
「——ッ」
まるで一発逆転を叶える必殺技を決められた気分だ。とても耐えきれず、掌で口元を覆う。訝しげな視線が送られているのが分かったが、それに応えられるほどの余裕がない。目尻が焼けるように熱かった。
「どうした」
「ごめん、……ちょっと、君があまりにも素直すぎて」
「なんだと?」
馬鹿にされたように感じたのか、たちまち険しくなる表情にダイゴは慌てて手を振る。
「違う違う、そうじゃなくて。綺麗だって言いたかったんだ」
「は?」
「綺麗だよ、君の目は……とてもね」
「き、れい……、」
同じような言葉を返され驚いたのか、少女は呆然とその一言を反芻する。隣で伏せていたアブソルが、首をもたげて少女の脚に鼻をすり寄せた。それに応じようと持ち上げられた細い手首は、しかし、寄る辺なく空を彷徨った。
その様子に、またやってしまったか、と焦る。打ち解けてくれた実感に、つい勢いで余計なことを言ってしまったかもしれない。
反省するダイゴを他所に、少女は虚ろな目で洞穴の天井を見上げた。
忘れかけていた雨音が静かな洞内に響く。
「……わたし、は」
声音は震えていた。
膝の上で強く拳が握られている。
やがて絞り出すように、白い髪の少女は囁いた。
「……わたしが、<守り人さま>だ……」
ギ、と。
錆びた歯車が動く音が聞こえる気がした。