0章
夢小説設定
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何やら外が騒がしい。
メモを取りながらアカガシと話していたヨシロは、ふと顔を上げた。取材に熱中するあまり周りが見えなくなっていたらしい。つい先ほどまで一緒にいたはずのダイゴの姿がなかった。
「なんでしょうか……」
呟くヨシロに、アカガシも怪訝な表情を浮かべる。外へ出ると研究員たちの青ざめた顔がそろってこちらを振り向いた。その迫力に後ずさる。
メンバーの中で一番若い女性がヨシロのもとへ走り寄った。今年入りたての新人だ。
「先輩、やばいです」
「え、え?」
「ちょっとこっちへ!」
よほど聞かれたくないことなのか、後輩研究員はヨシロの腕を引っ張り社から引き離す。まだ中にいたアカガシが、入口で胡乱な視線をこちらへ送っていた。それに背を向けるようにしてヨシロを取り囲んだ解析班の面子が、堰を切ったように話し始めた。
「大変ですヨシロさん」
「研究が中止になったらどうしましょう……!」
「まさかこんなことになるなんて!」
「ちょ、ちょっと待ってください、一斉に喋らないで。誰が、何を、どうしたんですか?」
ずれた眼鏡の位置を直しながら目を白黒させる。
こんなときこそ鶴の一声ならぬダイゴの一声が欲しい。
そこではたと気付いた。
「あれ、ダイゴさんは? 町に戻られたんですか?」
ぎくり。
空気が綺麗に固まる。
嫌な予感がした。
「あの……まさか……」
錆びた機械仕掛けの人形のように山道の方へ視線を動かす。その場にいた全員が無言で、小さく首を縦に振った。
全身から血が抜けるような心地がした。
なりふり構わず喚き散らしたいところだが、ちくちくと、アカガシの気配が背中に突き刺さる。
ヨシロは顔を覆った。
「分かりました……私が……なんとかします……皆さんは調査を、続けてください……」
せっかく勝ち取ったチャンスを無駄にはすまい。
意を決して社に戻ると、これでもかと眉を顰めた町長が腕をきつく組んでこちらを見下ろしていた。
「何か問題でもありましたかな」
「ええ、機材トラブルみたいで……もう大丈夫だそうです」
「それなら良いのですが。ところでダイゴどのはどちらに? 先ほどから姿が見えませんが」
ひゅっと喉が干上がる。
善し悪しはさておき、嘘をつくのはあまり得意な方ではない。
心臓が激しく肋骨の裏を叩いていた。
ヨシロは表情を崩すと、いやあ参った参ったと頭を掻いた。
「仕事のメールを読んでポケモンセンターに戻ったそうです。研究員に言伝を頼んでいたらしいんですが、その子が私に言うのを忘れていたみたいで……」
些か大袈裟すぎるような気もするが、このくらいの勢いがなければ今にも目が泳いでしまいそうだ。
「仕事が終わり次第戻ってこられるとのことでしたが……時間も勿体ないので、ぜひお話の続きを聞かせてください」
「ふむ……そういうことなら仕方ありませんな。次は日照り乞いの祭りについて、ご説明いたしましょう」
完全に誤魔化しきれたかは分からなかったが、気を逸らすことには成功したらしい。安堵の溜息を零すと、ヨシロは白衣のポケットに押し込んだメモ帳を取り出し、再びペンを握った。
(ダイゴさん、早く帰ってきてくださいよ——!)
0-4 赤い瞳
想像よりずっと荒れた山だ。
ともすれば見失いそうになりながら、ダイゴはずっと前を走る外套の裾を追いかけていた。
「はあっ……はっ……」
こめかみを汗が伝う。
山に飛び込んでから暫くは道らしきものがあった。だが、次第に倒木や崩れた岩盤が行く手を塞ぎ始め、ほとんど斜面を駆け上がるような状態が続いている。
激しい呼吸に喉が熱く焼けた。
人影は、一切スピードを落とすことなく岩から岩へと移動していく。まるで羽でも生えているかのような軽快さだ。確かに傾斜自体は緩やかだったが、とても真似できるものではない。
——と、外套の後姿がひと際大きく跳ねた。
そのまま吸い込まれるように地面へと消えてゆく。
「えっ……!!」
ダイゴは思わず声を上げ、人影が居た場所まで一気に上り詰めた。
樹木を支えに息を整える。
眼下に広がったのは、高さ三メートルほどの窪みだ。左右にずっと伸びており、底のぬかるみには腐った落ち葉や木の枝が溜まっている。
「これは……沢か……?」
水は流れていないらしい。土が湿っているのは昨晩の雨のせいだろう。ぐっと目を凝らすと、足跡らしきものが右手へと続いている。ダイゴは辺りを観察すると、ぞろぞろと伸びた木の根を掴んだ。崖の縁に足をかけ体を反転させる。着地点との距離を測りながら、慎重に沢の底へ降り立った。
「……、」
その場に屈んで刻まれた足跡に触れる。
成人済みの男のものではない。少年か、よくて小柄な女性までのサイズだ。
ダイゴは立ち上がると、外套の人物が進んでいったであろう方向へと歩き出した。
何か動く気配がしないかと耳を澄ませてみるが、ポケモンたちの息遣いすら聞こえない。高台から町を眺めた際は人とポケモンが共生する豊かな土地に見えたのだが、今やその印象は一変していた。
「静かすぎる……」
自分の心臓の音がやけに大きく耳に届いた。
この沢はどこへ通じているのだろう。
外套の中の人物はここで暮らしているのだろうか。随分と山道に慣れているようだった。
歩きながらダイゴは考える。
その間にも道は泥より砂利が多くなり、傾斜に沿って山を少し下っていく。どうやら方角的には、ハバキタウン入り口の隧道がある方へ向かっているらしい。
足跡が徐々に薄くなっていく。
今度はぬかるみを踏んだのであろう泥の跡を辿るようにして進んだ。
数分もすると、頭上を覆っていた草木の影が急に晴れた。
薄暗闇の中を彷徨っていたせいだろう。陽光は曇り空に遮られていたが、眼底を突き刺すような痛みを覚えた。
「う……」
目尻に浮いた涙を拭う。
忙しなく瞬きをしながら、ダイゴは辺りを見渡した。
左手に山脈のこやりのような一枚岩が聳え、圧倒的な存在感を放っている。
木々は少なく、視界は開けていた。
そこは火山岩が積み重なってできたでこぼこ山道のような、荒々しくも密やかな場所だった。岩盤が棚田のように連なり、ずっと下へと続いている。段差は二メートル弱ほどの高さがあり、まるで巨大な階段だ。
なんとも不思議な光景にダイゴの口元に笑みがこぼれる。
「はは、すごいな……」
一段目を下り、剥き出しの断層をなぞる。ところどころ人為的に削られたような痕跡がみられる。
「アカガシさんの言っていた鉱脈の跡地なのかもしれないな」
そう呟いたとき、背後でカラリと小石が滑る音がした。
「——!」
反射的に振り返る。
大きく目を見開いた。
風に煽られはためく外套が視界に広がる。
白い。雪のような髪が、綺羅のように光を含んでいた。
「大地の脈が読めるの?」
きゅっと結ばれた唇から紡ぎだされる音は、その年頃の少女から発せられるには物悲しくなるほど平坦で、ダイゴの胸にすっと沁みこむ。
「……趣味の一環でね、分かるんだ」
おそらくひと回りは歳の違うであろう少女を相手に、心の底から緊張している自分がいた。
張り詰めた糸の上を歩くような浮遊感に襲われる。
「なぜ、わたしを追ってきた」
伸びた前髪の隙間から赤い瞳が覗いていた。ガラス玉のように透き通り、ひたとこちらを見据えている。
問われて初めて、ダイゴは理由を探している自分に気づいた。
何故ここまで必死に追いかけてきたのか。どうして、夕日に包まれたあの姿が頭から離れてくれないのか。
分からないまま、無我夢中で山の中を走ってきた。——いや、本当は、答えを求めてこの少女を追っていたのかもしれない。彼女の瞳を見て強くそう思った。
ダイゴは知っていた。あれは何かに縋ることを迷っている者の目つきだ、と。
近づいたら、逃げてしまうだろうか。
そっと一歩踏み出す。
冬の湖面のように凪いでいた少女の表情が、初めて鼻白んだように揺らぐ。
「何か言いたそうにみえたんだ」
「……」
「向き合って初めて分かったよ。君が、僕を追わせたんだろう? 大切な何かを伝えるために。だから僕の前に姿を見せたんじゃないのかい」
星屑を散らしたような赤い双眸にぐっと力が込められる。
焔のようなその煌めきを美しいと思った。
「君はこの町の人なのかい?」
少女は答えない。
「町長さんはこの場所を聖域だと言っていたんだ。君はもしかして、<守り人さま>の関係者じゃないのか?」
「ちがう」
はっきりとした否定が返ってきた。
「ちがう。わたしは、」
少女の瞳が一瞬、ダイゴを通り越してぼんやりと虚空を凝視する。開きかけた唇は再び固く結ばれ、拒絶の言葉を口にした。
「おまえに言うことなんて何もない。町に戻れ」
「待って!」
「——ッ」
身を翻そうとした少女の腕を掴む。
ひどく怯えたように肩を揺らしたと思えば、少女はダイゴの白銀の瞳を睨んだ。
「はなせ」
「ごめん、でも待って。僕はダイゴ。君は……?」
「名前なんて知らない」
少女は乱暴にダイゴの腕を払い一段上の岩盤に跳びあがった。そのまま鋭く指笛を鳴らすと、どこからか一匹のアブソルが現れる。
アブソルは少女の腕に頭をすり寄せ、ぐるぐると唸った。
「山を下りろ。わたしのことも忘れろ」
少女はアブソルの背に乗ると、そう言い残してダイゴの視界から消える。はっと我に返り岩を駆け上がったが、時すでに遅し。少女は姿を眩ませた後だった。
「名前なんて知らない、か……」
掌を見つめる。
振り払われる直前、少女から感情の欠片が溢れ出たように感じた。諦めきれない何かを抱え、苦悩しているように思えた。
開いていた手で拳を作り、そっと口元に当てる。
「山の持ち主のような話しぶりだった……彼女はこの山に住んでいるのか……社殿に仕えているようにも見えなかった……町長は彼女の存在を知っているのか……そして、」
いつものように疑問点を口に出してみる。こうすることで脳内でバラバラになった自分の考察を、少しずつ整理していくのがダイゴの思考パターンだった。
「……そして、彼女は何を伝えようとしているのか……」
山を下りろと。すべて忘れろと少女は言ったが、大人しく従うつもりは毛頭なかった。旧友に言わせるところの、「悪い癖」が働いただけではない。このまま放っておくべきではないと、第六感が警鐘を鳴らしていた。
少女と会わなければ。
そして、彼女が何を伝えようとしていたのかを知らなければ。
ダイゴは改めて山に向き直った。
鈍色の雲が深く空を覆いつくしている。
雨が、降ろうとしていた。