0章
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霧が出ている。
寝ている間に雨が降ったらしい。
早朝、役場前で研究団と合流したダイゴは、そこで初めて町長と挨拶を交わした。
「初めまして、ダイゴです。この度は貴重な機会を設けていただき感謝いたします」
「アカガシです。お噂はかねがね」
歳は50代半ばほどだろうか。ひげを蓄えた口元は固く結ばれ、目尻に刻まれた皺は会話の最中であってもぴくりとも動かなかった。
しかし唯一ヨシロと話す時だけ、その鋭い相貌が僅かに緩むことに気付いた。強情そうなのは見た目だけで、意外と情に厚い性格なのかもしれない。
「何度も言いますが、社殿の中をお見せするのは今回だけです。我々独自の文化を歴史として書面に残されたいという貴方たちの熱意は分かりますが、扱いには十分注意を払っていただきたい。それと、勝手な行動もお控え下さい」
どうやら石橋は念入りに叩いて渡る主義らしい。全員が出発の準備を終えたところで、アカガシは釘を刺すように言った。その奥でヨシロが鷹揚に頷いている。ずれ落ちそうになる鞄の肩紐を何度も背負いなおしていたが、ようやく収まりのいい位置を見つけたらしい。滾る感情に拳を振りながら、小動物のような目でこちらを仰いだ。
「楽しみですね!」
ええ、と微笑み返す。好んで遺跡調査などを行うダイゴにも、その興奮はよく理解できた。
「では参りましょう! アカガシさん、案内をお願いいたします!」
こうして一行は社殿へと向かった。
<守り人さま>が祀られている社は、町と山の境界に当たる場所に建っていた。辿り着いた場所は、水がごっそりと抜かれた沢のような地形をしており、民家はおろか畑すらないような荒くれた土地だった。歩いてきた道は社の前を通り山中へ、ヒョウタンの口のように窄まり、朝靄の彼方へ消えている。
昨晩の雨が地面を黒く濡らしていた。
山の入り口にあたるこの場所は、ハバキタウンでは聖域として扱われているのだろう。切り崩した崖にすっぽり収まるよう建てられた社殿の手前には、太い注連縄が張られていた。
「外見は普通のお社のようですね……」
ヨシロがダイゴにだけ聞こえるよう囁いた。
確かに珍しいのは立地だけで、子どもが入り込めるくらいの床下がある建築技法はよく目にするスタイルのものだ。強いて言うなら窓が一切ない。ざっと観察しても、明り取りの小窓すらなかった。観音開きの扉には鉄の錠がかかっており、まるで作物を保管する食糧庫のように頑丈そうだ。
華美な装飾もないその異様な佇まいに気圧されたのか、研究団員たちがにわかに騒めく。
その中から一人抜け出したアカガシは、懐に仕舞っていた鍵束を手に、社へ上る階段の前まで近づいた。
「みなさん」
そして振り向きざまに、左手で山の方へ続く道を指さした。見れば背より高い岩肌が道の両端に聳えている。道は漏斗の先のように窄まっており、欝蒼と茂る草木が僅かな陽の光も寄せ付けない深い闇を落としていた。露出した木の根が何か別の生き物のように這い出ている。
「この社より先へは立ち入らないことです。町の者にも禁じている行為ですので、必ずお守りください」
「それは、あちらが神域に当たる場所だからでしょうか?」
問うダイゴに、アカガシは老いに濁った眼で頷いた。
「かつて迷い込んだ旅人が今も行方知れずのまま……というのは、我々の間ではあまりにも有名な話なのでね。どうか気を付けていただきたい」
ごくりと誰かが唾を呑んだ。
足元を冷たい風がすり抜ける。
漂った不気味な沈黙は、鍵が錠前を開ける音に破られた。
「お入りください。お答えできる範囲で質問もお受けしましょう」
0-3 山に消える
「これはすごい……!」
件の天井絵を見上げ、ダイゴは感嘆の声を上げた。
定期的に補修を行っているのか、塗装は剥げることなく鮮やかに頭上を飾っている。絵は四方に一枚ずつ、合計四つの場面で構成されていた。入口を背に右から時計回りで、二面にわたって町の全貌と、ポケモンたちとの共生の道を歩む町の人々の姿が描かれている。そして町のあちこちに枝葉のように細く張り巡らされた蒼い線が三枚目へと集まり、流れを作って四枚目へとうねっていた。その色を見て自他ともに認める石マニアのダイゴは気付く。
「あれは……もしかして岩絵具ですか!」
「よくご存じで」
淡々と応じるアカガシの横で、ヨシロが忙しなく眼鏡のブリッジを押し上げた。
「そうだとしたら、とても高価な美術品ですよ!」
高価な、どころの話ではない。決して単純には価値のつけられない代物だ。
「ではこの辺ではクジャク石が」
採れるのですかと訊こうとしたが、アカガシの低い声が遮る。
「大昔の話です。先祖が町を作るため山を拓いたとき、鉱脈が発見されたと言われています。大きいものではありませんが町を興すのには一役買ったようで。この絵もそのときに描かれたものと伝えられています。……まあ、補修には草木を煮出した染料を使っていますので、歴史的価値はそこまで高くはならないでしょう」
それでも十分に見応えのあるものだと、ダイゴは胸中で呟いた。
許可を得て、研究員の一人が撮影を始める。シャッターを切る音が響いた
興味深いものは他にもあった。
社の奥にある祭壇だ。下段には鈴や香炉などが、上段には高さ30センチほどの木箱が据えられていた。ダイゴの視線は自然とそちらへ吸い寄せられる。
噂の、<守り人さま>が収められた入れ物だろうか。
それにしては、どこか不自然だ。中を拝めるような扉も蓋もない。以前ジョウト地方の博物館で「厨子」というものを見たことがあるが、これは全く別物のように思えた。
「あの、これは何なんですか?」
ヨシロと話し込むアカガシを振り返る。和らいでいた彼の表情が一瞬にして消え去り、ぐっと眦が吊り上がる。
「それには触れないで頂きたい」
「もしかしてこちらが、<守り人さま>のご神体ですか?」
「ええ、まあ」
歯切れの悪い答えに首を傾げる。ヨシロも不思議そうに眉を開いていたが、ひとまず気難しい町長の気分をなだめるため、話を上手に元へ戻した。どうやら二人は天井絵の解釈で議論をしていたらしい。時おり頭上へと目を遣りながら考察に熱中している。
ダイゴは一通り社の内部を観察し終えると外へ出た。
二人の研究員が撮影した画像をパソコンに取り込んでいる。それを後目に、立ち入り禁止の山を振り仰いだ。頂きは霧に隠れている。上空で鉛色の雲が這っていた。午後にかけて、また雨が降るのだろうか。
端末を開く。メールが一通届いていた。
「ミクリ?」
差出人はルネに住む友人だった。
お互い仕事で忙しく最近は会う機会も減っていたが、互いに近況を綴ったメッセージのやり取りだけはしている。今回もそのメールかと思い開封すると、「これ、君が行く予定の場所だろう?」という簡潔な文章と共に一枚の画像が表示された。
新聞の切り抜きだろうか。大小さまざまな枠の中に、びっしりと文字が並んでいる。その中に、知っている名前を見つける。
災いの前兆か?
ハバキタウン付近でアブソルの目撃情報多数。
行く予定、ではない。
小さな見出しだが、今まさにその地にいるダイゴの目には大きく映った。
すぐさま発行年月を確認する。
「さすがミクリだ」
画像の隅に青い字で数字が書かれていた。ちょうどひと月前の日付だ。
アブソルは主に山岳地帯に生息しており、人里に姿を現すことは滅多にない。環境の変化にとても敏感で、察知したものを人に伝えるときに山を下りてくるとされている。その能力から「わざわいポケモン」と呼ばれ、長いあいだ災害を招くものとして誤解されてきた。その印象が強く根付いているのだろう。生態研究が進み、正しい情報が図鑑や本に記されるようになった現在でも、依然として災いの元凶と考える人が一定数存在していた。
ミクリから送られてきた記事には、一か月ほど前から急にハバキタウン、119番道路やヒマワキシティの近くでアブソルを見かけるようになったという、地元住民たちのインタビューが書かれていた。何かよからぬことが起こるのではないかと、高年層を中心にちょっとした騒ぎになったらしい。
それ以上でもそれ以下でもない、好き者を狙ったような記事にもみえた。だが事実ならば、何の理由もなくアブソルが山を下りるとは考えられない。
「二か月前か」
一旦メールを閉じ、その近辺の日付で新聞や市報を検索する。
するとヒマワキシティの市報が上がってきた。三ページ目に、新聞に似た内容の記事が掲載されている。
念のため現在までニュースになった事故や自然災害なども調べたが、これといって目立つもの——何頭ものアブソルに影響を及ぼすような事象——はなかった。
「いや。これから起きること、とも考えられるな……」
拳を口許に当てて考え込む。
——とそこへ、布を被せた籠を持つ一人の少女が、俯きがちに、民家のある方角から歩いてきた。十にも満たない幼い顔は今にも倒れてしまいそうなほど青白く、下唇をきつく噛み締めている。その様子に、ダイゴより早く人の気配に気づいた女性の研究員が、慌てて駆け寄っていった
「あなた、大丈夫!?」
「……っ」
声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。少女は肩をびくりと震わせると、ダイゴたちに視線を走らせ鋭く息を呑んだ。
「あ……そっか今日は……!」
お客様が来る日だった。そう言葉を続けようとしたのだろうか。少女は社を一瞥するとすぐさま方向転換をし、走り去ってしまった。あまりにも一瞬の出来事に、その場にいた全員が呆然と小さな後姿を見送る。
「お供え物をあげにきたのかもしれないね」
「え?」
ダイゴは女性研究員の足元へ手を伸ばし、モモンの実を拾う。少女が持っていた籠から転げ落ちたのだろう。驚かせてしまったことをそっと詫びながら、傍らにあった石の上に乗せた。その刹那、
——パキッ
「!」
微かに、だが鋭い音が空を割った。
枝を踏み抜いたような乾いた音だ。
ぞわっと項が粟立ち聴覚が研ぎ澄まされる。
覚えがある気配に神経が張り詰めた。
研究メンバーは画像の解析に戻り、まったく気づく様子もない。ダイゴは深く息を吸い、音の鳴る方——立ち入りを禁じられた山道を振り向いた。
すうっと、白い影が揺らめいている。炎のような双眸が、ひたとこちらを凝視してる。
目が、合ったような気がした。
時間にしたらほんの数秒の出来事だったに違いない。
影は、闇に溶けるように身を翻し、道の先へ消えた。見届けるより早く、ダイゴの脚は地を蹴っていた。全てが無意識の行動だった。
背後で自分を呼び止める声が聞こえる。
禁を破った。
苦労してようやく許可を得たヨシロ達の研究が打ち止めになってしまう。
考えずとも自分が置かれた状況は把握できた。
しかしそれ以上に冷え切った頭が、アレを追いかけろと指令を下している。
直感が、ダイゴを突き動かしていた。
(一瞬アブソルかと思ったけど……ッ)
ハバキタウンを目指し隧道を抜けた先で出会った光景がフラッシュバックする。そのとき鼻腔を満たした風の匂いが、恐ろしいほど強く、記憶に焼き付いていた。
山道に飛び込む。
山に喰われるような心地がした。
ダイゴは、ハバキの神域へと呑まれていった。