夜 桜



『すごいわ、康ちゃん。あなたは本当に歩く芸術品よ。完璧な造形美……』

赤いマニュキアが塗りたくられた魔女のような指が俺の全身を這うように撫でていく。

その手つきと、恍惚した瞳に


—あぁ、反吐が出る。


芸能界の大御所でもあり、関西を牛耳るこの大女優が幼い少年に心を奪われていると世間が知ればどう思うやろか。

何も感じるな、心を無にしろ。
俺は世界を閉ざすように目を閉じる。

ふと、つい最近グループを脱退した心友の姿が脳裏に浮かぶ。

『康二、俺はもう無理や。一緒に逃げよう』

同じグループで切磋琢磨し、活躍していた戦友もこの絶望的な支配下にとうとう心が折れてしまったらしい。

俺の手を握り、強く訴える眼差しはこの時の俺の心に届くことはなかった。

『……俺が逃げたら、また次の”俺”が生まれてまうやろ?せやから、俺は逃げへん。でも、お前には新たな夢を叶えて幸せになってもらいたい』

『康二、なに言うとるん!?お願いや!
目を覚ましてくれっ、もう自分を犠牲にする必要はないんやで!?』

両手で肩をがっしりと掴まれ、体を揺さぶられる。 

声を上げ、必死で叫ぶその目には涙が溢れ、正直その姿を羨ましいと思ってしまった。

まだ涙が出るんやね。
それなら、お前はまだ引き返せる。

『……俺は後輩たちの笑顔と夢を守りたい。とっくに壊れてもうた俺に残ってるのはもうその気持ちだけなんよ。

一緒に行けへんくてごめんなぁ』

『康二……ほんまにそれでええんか』

『あぁ、関西の仲間たちはみんな俺が守るって決めたんや』

微動だにせず立ち尽くす俺に目の前の友は膝から崩れ落ち、俺の腰に縋り付く。

俺は何も言わず、彼が俺の元から去っていくのをただ、ただ待つことしか出来なかった。

そうして、また時が経ち、黒い淀みにさらなる淀みが重なり、それが淀んでいることさえもわからなくなった頃。


『……汚い』

肌についた穢れが何度擦っても落ちず、俺は自身の体が真っ赤になるまでタオルで擦り続ける。

『え?康ちゃんなんて?』

『汚れが落ちないんや』

『康ちゃん、やめて。そないに擦ったら痛いやろ?』

俺が女の言うことも聞かず、何度も何度もボディタオルで全身を強く擦り続ければ、擦れて傷になったところから今度は血が出始め、それがさらなる汚れに見えてしまい、俺は自分の体を清めようと一心不乱になる。

『汚い、汚い、きたない、キタナイ、キタナイ』

『康ちゃん、お願いやっ、やめて!痛々しいわ!!』

そんな俺を必死に止めようと女の手が俺の体に触れようとした時、

『うるさい!!早く俺の前から消えてくれっ!!!』

『っ!こ、康ちゃん……』

女の腕を音が出るくらい振り払い、親の仇のように女をキツく睨む。 

俺の完全な拒絶に女は口元に手を当て、涙を流した。

この時にはすでに俺の心はとっくに崩壊、どころかもう一欠片の形すら残っていなかったのだ。



大女優K子 自宅で謎の不審死

『…………』

女の死は新聞やメディアで連日のように取り上げられ、世間を騒がせた。

きっと、俺があの女を殺したんやろう。

罪悪感など無い。
正直ホッとしていた。
このまま女の死が解明することが無ければ、きっと俺は穢れのない自分を取り戻していけると思っていた。

そんな俺の前に

『ごめんなさい、康ちゃん。この身をもってあなたに償います』

『っ……、』

黒い喪服を見に纏う、俺と同じ歳くらいの少女が現れた。 少女の手にはあの女の遺書。

その姿に、息をのむ。
なぜなら、目の前の少女はあの女と瓜二つで……

そして、俺を冷たく見つめる瞳がまるで蛇のようやったからや。

——ねっとりと、狙った獲物を逃さない。
整った顔と白い肌に浮かぶ切長の眼。

『私ね、亡くなった叔母様が大好きだったの。もちろん叔母様があなたにしてきたことも知ってるわ。

美しく誰をも魅了する叔母様に寵愛されているあなたが羨ましかったのだけど……今はあたしから叔母様を奪ったあなたがすごく憎い』

淡々と話す姿に感情はこもっておらず、この女は俺と鏡写しだと思った。 

———心がない。

『……全てを知ってるんやろ?俺を恨むんはお門違いや。あんたの叔母さんがしてきたことを世間に公表してもええんやで』

俺は少女を鼻で笑いながらも、口調は強く、負けじと少女を睨み攻撃する。

もう、俺の身も心も誰にも左右されることなく自由に生きるんや。


『あなたには守るものがあるのでしょう』

『…………』

しかし、少女は俺がこの件を告発出来ないことを見越している。

証拠はいくらでも残っているが、俺が大切にしている関西の仲間たちを守りたいという強い意志により公にすることは出来ないと……。

『自分はなにがしたいん?』

『あなたが私の大切な叔母様を奪ったように、あなたの大切なものをいつか私も奪う』

女の遺書を大切に胸に抱き込み、その時を心待ちにするように少女は微笑む。

あの女が俺を見て笑ったように。


『はぁっ、はぁっ……!くっ、』

大人になった今も当時の出来事やあの女の姪の言葉がフラッシュバックされ、酷い頭痛と吐き気に苛まれ、立っているのもやっとな状況に度々陥る。

『……康二?大丈夫?』

『ん……大丈夫やで』

毎日のように背中を撫でて問いかけてくれた、柔らかな眼差しと穏やかな声、そして、その手の温かさに安堵し、度々救われていたことにどうして俺は気付かなかったのだろう。

『康二、愛してる』

それよりも強く、抱き締められる感覚は常に誰かに守られているのだと、俺の体の強張りを解き、俺はその胸に溺れていく。

そうして、いつまでも本来の自分を取り戻すことが出来ず、一人で立つことが困難になっていたんや。









『康二、久しぶりやね』

『……あぁ、ほんまに。お互い夢を叶えることが出来たんやね』

街中でかつて喜びも苦しみも分かちあった旧友
との突然の再会。

不安や戸惑い、憎しみや悲しみでいっぱいだった当時の面影はどこにも無い。

濁りのない彼の瞳に、会えた喜びよりも後ろめたさを感じ、その時の俺は酷く居心地が悪かった。

『俺の家で少し話さへん?』

『うん』

真剣な眼差しに断ることは許されず俺はこの日、彼の家で衝撃的な話を聞かされることになり、そこであの頃以上の仕打ちを受ける事になる。

『実は二年前の桜の咲く季節にあの女の姪と目黒君が一緒におる所を見たんや。そして、また今年の春に渡辺君とあの女の姪が入籍したやろ?それってただの偶然なんかなって……心配になってな』

『ただの偶然やない?あの女は全国的に有名なクリニックのオーナーでもあったし、今ではそのクリニックも事務所御用達やから、誰かしら関わってても別におかしくはないやろ』    

何事もないように笑顔で答え、微笑む俺に旧友は眉根を顰めるが、当時の罪悪感があるのかそれ以上の追及はなかった。

……なぁ、神様。
俺は何度苦しめばええの?

ようやく掴んだ幸せも、仮初のものやったんか。

めめ、俺はお前を信じたい。
お願いやから、信じさせてくれ……。
もう俺にはお前しかおらんねん。





「……ねぇ、翔太君がこの春にグループを脱退したことは覚えてるよね」

「は?」

目の下に隈をつくり、血の気の引いた深刻な顔でゆっくりと話すめめにドクン、ドクンと胸が大きく波打つ。

「自分なに……言うてるん?」

翔太が脱退?

お互い大怪我を追って、入院している時に冗談にも程がある。

めめの信じ難い言葉に目を見開き、手を震わせる俺にめめは目線を下に落とし、ボソボソと話し出す。

「康二、落ち着いて聞いて。翔太君は今年の春にグループを脱退して結婚したんだ」

実際に負傷している頭や全身の怪我の痛みよりもめめの放つ言葉に体を大きく切り刻まれ、その衝撃に意識が飛びそうになる。

「はぁっ、はぁっ、」

「……っ、 」

わなわなと震える手で心臓を抑え、必死で呼吸をする。

馬鹿なことを言うなと叫んでやりたかったが、俺に手を伸ばしかけためめのギュッと瞳を閉じた苦痛な表情にそれが嘘ではないことを悟ってしまい、俺は一気に奈落の底に堕とされた。

——康二、大丈夫?

脳裏に問いかける穏やかな声。
大丈夫なわけあらへん。

早く、俺の手を掴んでこの深い闇から引っ張り出してくれ……

「嘘や、しょうたっ、翔太……!苦しいっ、助けて!!!翔太!!」

俺は受け入れ難い現実にパニックになり、頭を抱え取り乱す。

点滴のチューブが体に絡まるのが煩わしく、腕でそれを勢いよく振り払う。

その動きによって、全身が大きく痛みで軋むが、そんなことは今はどうでもいい。

「……康二っ、駄目!落ち着いて!!」

「うるさい!!早く俺の前から消えてくれっ!!!」

俺を落ち着かせようと伸びてきた手を拒絶し、俺はこの光景を何度味わえば気が済むのか。

「っ、康……」

めめの振り払った手が宙を舞い、行き場を無くした。

そして、俺の拒絶によりめめの顔が大きく歪み、ボロボロと涙が溢れていく。

その姿に俺の目からも途端に涙が溢れ、体内に充満するありとあらゆる負の感情を叫ぶことで行き場のない苦しみを放つ。

「あぁっ、なんで!どうして……?!

俺は幸せにはなれへんのかいな!?

———うぅっっ、わぁぁぁッ……!!!!!」

そんなことでこの苦しみから解放されることはないと自分自身がよく分かっていた。

でも、諸行無常なこの世界で生きていくことに心は限界を訴える。

失っていくものがあまりにも大きすぎて……

「何事ですか、目黒さん!
向井さん!?目が覚めたんですね!
でも、落ち着いて下さい!!」

「マネージャー……康二が、康二が……っ」

「看護師さんを呼びましょう!ナースコールを 」

俺の叫び声に駆けつけたマネージャーが看護師を呼び、俺を抱き締め、何度も何度も俺の名前を呼び、声をかけてくれた。

しかし、その声が俺に届くことはない。

俺が求める翔太に強く抱き締めてもらい、俺は一人じゃないんやと、早くその逞しい胸の中で安心したかった。





蓮side


「…………」

「康二……」

「再検査の結果、脳には問題はありませんが、頭を強く打った衝撃で記憶に異常が出ているようです」

いつまでもパニック状態の康二に医師が注射を打ち、眠らせ、行われた再検査。

深く眠る康二を俺は見つめ、医師の説明をマネージャーとともに聞く。

「失礼ですが、向井さんのご家族は……」

「…………」

「向井さんのご家族は実は海外にいまして、今はまだ日本に来られないということです」

「そうですか……記憶喪失による精神的な負担が大きいようで、またパニックを起こす可能性がありそうです」

「その際はマネージャーの私や事務所の方で対応させていただきますので……」

マネージャーが眠る康二を悲しげに見つめ、小さな声でゆっくりと話す。

『俺はな、今独りぼっちなんよ』

俺が康二から初めてその話を聞いたのはグループに加入が決まり、康二が関西から上京してきてすぐのこと。

グループの加入前から兼ねてから交流のあった俺に話す康二は笑ってはいたが、その目はとても寂しそうで、俺がこの先、彼をそばで支えると決意したのはその時だ。

結果、彼の孤独の穴を十年間埋めていたのは俺ではなかったが。

「…………」

「(康二、本当にごめん)」

少しずつ、痩せ細って行く目の前の彼は俺と付き合う前の康二に逆もどりして行き、もう俺だけの康二ではない。

『俺が康二の家族です』

と、今ここで言えたらどんなに良かっただろう。

彼を寂しい人にせず済んだのに。

ただ、康二をドン底に突き落とした俺にそんなことを言う資格はない。

「他のメンバーには落ち着くまで面会を控えるように伝えます。向井さんが心配なのはわかりますが、目黒さんも早い復帰のためにしっかり休まないと行けません」

「うん……」

医師が退室し、康二の前で項垂れる俺の背中をマネージャーがそっと撫でる。

「お二人には僕がついていますから、きっと、また向井さんの笑顔を見れますよ」

「う、んっ…… 」

柔らかな声で微笑む彼は俺と康二がベストコンビ大賞を受賞した時、一番に喜んでくれ、翔太君の脱退後、復活しためめこじを熱烈に応援してくれた人だ。





「ううっ、翔太、どこ?一人は怖いっ、助けて!!」

「向井さん、大丈夫です。向井さんは一人じゃありません」

真夜中。

医師の言うとおり案の定、康二はパニックを起こす。

康二の叫ぶ声に俺は元々浅かった睡眠から目が覚め、車椅子に乗り康二の部屋へと向かう。

「っ、翔太、翔太っ……!」 

「目黒さん……」

マネージャーに背中をさすられ、涙を溢す康二。
入院から五日が経ち、困ったようにこちらを見るマネージャーにも疲れが滲んでいた。

……康二が会わせて欲しいと願う翔太君と面会させるべきかどうか、マネージャーと事務所の社長が頭を悩ませていたが、どうやら康二への面会を翔太君の嫁が反対しているらしく、もちろん翔太君がこの事故のことを知らないわけがない。

康二の記憶が二人が付き合っていた当初に戻り、あれほど愛した康二が自分の腕の中に戻ってくると知れば、彼はどんな反応をするだろうか。

『ただ、あの女が翔太を好きなだけじゃ翔太は俺とは絶対別れない。やから、あの女は俺の過去にあった出来事で翔太を脅して俺と別れさせて、翔太は俺を守る為にあの女と結婚した。

めめ、お前も知ってるんやろ?俺が誰にも知られたくなかった過去を』

俺の知らない康二の過去をあの女と翔太君は知っている。

その過去から康二を守るために、深く愛し合った康二と別れ、好きでもない女と結婚した翔太君。

「(はなから俺に勝ち目はなかったんだ……)」

そして、愛した人との知らぬ間の別れに涙を流し、荒れ狂う康二を俺はただ見つめるだけしか出来ず……

それが酷く虚しかった。

「……マネージャー

康二を一度翔太君に会わせてあげよ。
このままじゃ、康二がまた壊れてしまう」

「……本当にそれで目黒さんは大丈夫なんですか?」

悲痛な顔で俺を見るマネージャーに俺は力なく笑った。

俺にはもう康二の隣にいる権利が無ければ、康二を支えることも、幸せにすることも出来ないのだ。

「……っ、翔太、翔太」

心を閉ざした彼を唯一救えるのはただ一人。

「今の康二には翔太君が必要だ。康二をこんな姿にしたのは俺。だから、これは俺の責任で俺の勝手な判断。俺が翔太君に連絡するからマネージャーはなにも知らないフリをして」

「……分かりました」

マネージャーを真っ直ぐ見つめ、己の瞳に強い意志を灯す。  

マネージャーはそんな俺に力強く頷き、放心状態の康二をギュッと抱きしめた。




「…………」

部屋に戻り、照明の消えた暗い空間でスマホに表示された名前と11桁の数字を睨む。

「……翔太君、久しぶり」

もう二度とかけることはないと思っていた番号。
通話ボタンを押すのに少し時間がかかったのは、俺と康二の関係がこれで本当に終わってしまうのだと痛感したからだ。

『あぁ、久しぶり。

……目黒。お前、怪我は大丈夫なのか』

意を決して通話ボタンを押せば、俺からの連絡を待ち侘びていたと言うように憎き恋敵はすぐさま着信に応答する。

「俺はね大丈夫。それより聞いてると思うけど、康二の記憶が頭を強く打ったことによって、翔太君と付き合っていた頃に戻ったんだ」

『…………』

抑揚のない声で淡々と話す俺に電話越しにゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。

「……康二は今必死で翔太君を求めて、すごく苦しんでる。俺はもうそんな康二を見たくないっ……!

だから、翔太君お願いだ!康二を助けて欲しい」

『……分かった。ただし、一つ条件がある』


やはり、翔太君は今でも康二のことを愛しているのだと、この時、翔太君の言葉の中に強い決意を感じた。


康二が信じる運命の相手。
この世に渡辺翔太という存在がなければ俺は康二と幸せになれたかもしれないのにと、この後に及んで浅ましい自分に嫌気がさす。


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