夜 桜





「なぁ、めめ。俺達別れよ」

「え……」

それは本当に唐突だった。

日が落ち始め、時間があれば康二とよく散歩に来ていた下町を見渡せる高台。

互いの仕事が忙しく、さらに今やタイ語を話せることを活かしてタイでも定期的に活動している康二と会えない日が二週間ほど続き、メンバーや趣味の話、俺の愛犬の話や最近食べて美味しかった物など、他愛のない話をしながら康二と手を繋ぎ、俺は康二と二人きりのかけがえのない時間を噛み締めながら一段一段ゆっくりと階段を上がった。

「(すごく会いたかった。俺の康二)」

前回康二と会った時に抱いた焦りよりも、康二に久しぶりに会えた喜びの方が勝り、俺の心は高揚していた。

上り切った先がまさか死刑台だなんて、夢にも思わず。

「秋らしくなってきたね」

「ようやくあのうんざりする暑さから解放されるな」

この間の蒸し暑さとは打って変わり、本格的な秋を迎えた今日は少し肌寒く、繋いだ康二の手はヒンヤリとしていた。

何段もの階段を上り頂上に辿り着けば、次第に茜色に移り変わる空の下で東京の下町の景色が広がり、それは俺が死ぬまで康二と二人で眺めていたいと思う光景だ。 

康二のメンバーカラーである夕焼けに包まれると、心が穏やかになる。

そうして、夕日が地平線に完全に沈もうとしていた頃。

「めめ、俺達別れよう 」

「えっ……別れるってどうして」

それを背景に康二は俺を真っ直ぐに見つめ、再度俺に死刑宣告をする。

急なことにパニックになる俺に康二の表情がくしゃっと歪んで俺を睨み、さらに康二から放たれた言葉に俺は息が止まった。

「俺はな、俺と翔太を別れさせたあの女とお前が憎い……」

「ッ……!!?」

これまでの十四年間で見たことのない康二の憎悪の表情。 

そして、地を裂くような聞いたことのない康二の低い声に俺は動揺し、思考が停止する。

「まさか俺と翔太を別れさせる為に、あの女と手を組むなんてな」

「………」

あの女とは翔太君の嫁となった美容外科クリニックの娘だ。

硬直する俺に康二はどこで情報を知り得たのか、容赦なく真実を突きつけていく。

康二の口から紡がれる翔太君の名前と口調は鋭く、俺の心を大きく抉る。

「ただ、あの女が翔太を好きなだけじゃ翔太は俺とは絶対別れない。やから、あの女は俺の過去にあった出来事で翔太を脅して俺と別れさせて、翔太は俺を守る為にあの女と結婚した。

めめ、お前も知ってるんやろ?俺が誰にも知られたくなかった過去を 」

「過去……?」

過去とはなんだろうか。

そして、康二は翔太君の妻となったあの女の存在を知っている?

康二の強い眼差しに耐えられず、俺はそれから逃れるように俯いてキツく目を閉じ、桜が咲く艶やかな季節にあの女と初めて交わした言葉を思い返す。



『翔太さんが好きなの。どうしたら翔太さんを私のモノに出来るかしら?』

狙った獲物は絶対に逃がさないというような女のジトッとした眼差しはまるで蛇のようで、初めて会うというのに目の前の女はなぜか勝ち気で、正直俺の苦手なタイプだ。

『アンタじゃ絶対無理だよ』

こういうのは相手にしないに限る。
俺がポツリと呟き、ウィスキーに沈む丸い氷に目をやれば女は低いトーンで俺に耳打ちをする。

『……私知ってるのよ。あなたと同じグループの向井康二さん、彼と付き合っているのでしょう』

『誰がそんな噂を広めてるのやら』

当事者が隠している秘密を得体の知れない女が知っていることに内心ドキッとし、思わず振り返りそうになったが既の所でそれを堪え、俺は何事もないように振る舞った。

しかし、俺のそんな努力も虚しく、次の瞬間放たれた言葉に俺の眉根が僅かに寄ってしまう。

『それとね目黒さん。

あなたが向井さんを好きなことも知ってるわ』

『勘違いも甚だしい。俺は別に康二にそういう感情を抱いたこともないし、仮に翔太君と康二が付き合っていたとしても俺には全く関係のないことだ』

——嘘だ。

本当は毎日康二を抱きしめて、愛してると囁きたい。
薄い唇に飽きるほど吸い付き、舌を奪い、しなやかな体に指を這わせて康二は俺のモノだと紅い痕をいくつも残したい。

そして、本人ですら見たことのない場所に俺の熱り勃つ肉棒を深く挿しこみ、俺なしでは生きていけないように快感を叩きつけたい。

『めめっ、好きッ……!!』

いつも陽気で明るく、屈託なく微笑む彼の夜の姿はどんなに淫らなのだろうか?

高く、甘い声で俺の名前だけを呼び、愛を囁いて欲しい。

そうしたら俺はデビュー当時のように康二だけを大切にして、どんな苦難からも俺が康二を守るよ。

成就することのない想いに諦めがつかず、毎日虚しくもそんな想像ばかりしている。

『可哀想に。

ねぇ……もし、確実にあの二人が別れることになったら、目黒さんは向井さんと付き合う?』

この女は俺たちのことをどこまで把握しているのか。
強がる俺を嘲笑い、なんだか鎌をかけられているようでイライラする。

そして、康二と翔太君が確実に別れるだって?
なにを言っている。

交際から十年が経とうとする今も相思相愛で、日を増すごとに熟年夫婦のように仲睦まじいあの二人が簡単に別れる訳がない。

『……あんたは何がしたいんだ?』

俺がゆっくりと女を見据えれば、女は口角をグッと上げ、勝ち気に微笑む。

『あの二人は絶対に別れる。そうしたら、あなたに連絡するわ。私は翔太さんと結ばれる自信があるの』

——その後、あなたが向井さんを手に入れるのよ。

女の言葉にゴクリと唾を飲む。
なぜだろう、この時、康二が俺の恋人として隣にいる未来が鮮明に浮かんで胸が熱くなった。

その自信は一体どこから来るのか、なぜ二人が別れることになるのか、何度女に聞いても女は俺の質問をのらりくらりと交わし、いまだに二人が別れることになった理由を俺は知らない。


「裏切り者……お前も自分の欲しい物の為なら平気で人の心を踏み躙る奴やったとはな」

仇を見るような目で康二に裏切り者と言われ、俺の心はズタボロだ。

でも、それ以上に康二の心が深く傷付いている。
なぜなら、康二の目頭には涙の粒が溜まり、康二はそれを溢さぬように歯を食いしばり、必死で堪えているから。

「康二、待って、お願い話しを聞いて……!」

「俺に触るな!!」

——パシンッ!!

康二を泣かせたくなくて、俺が必死で康二を宥めようと康二の肩に手を伸ばせば、その手は康二に思い切り振り払われ行き場を無くし、虚しくも宙を舞う。

「ッ……!!」

「……お前の顔なんて二度と見たくない」 

康二の完全な拒絶と死刑宣告に胸が張り裂け、俺の目から一粒の涙が流れる。

「くっ!ぁぁああぁあ!!」

そんな俺を見て康二は下唇を噛み締め、悲しみに耐えきれず、握った右手の拳を自分の右太腿に打ち付け声を上げる。

「康二っ、落ち着い…… 」

怒りに飲まれ頭を両手で掻き、一心不乱に叫ぶ康二に俺は康二を抱き締めて落ち着かせようと再度手を伸ばす。

……あれだけ守りたいと思っていた康二を俺が、俺自身が今、酷く苦しめている。

「うるさいっ、うるさい!!お前も俺の心を踏み躙る、死んだあの女と一緒や!!

———信じてたのにっ!!!!」

しかし、俺が康二に触れることは許されず、康二は俺の手から逃れるようにどんどん背後に下がって行く。

「康二っ、待って!!危ない!!」

その先は————-

「えっ………」

「康二!!!!」

階段を踏み外し、康二の体がぐらりと夕日が消えた漆黒の世界へと傾き、俺は必死で手を伸ばした。


俺の心も体も全てを奪う康二。

君のいない世界は

俺にとってなんの価値も無い。

俺には君が必要なんだ、康二。



「っ…!!」

深い闇に落ちていく中、俺は康二を強く抱きしめ、心の中で何度も何度も康二に謝罪し、そして神様に願った。

許してくれなくていい、俺は罰を受けます。

だから、どうか康二を助けて下さい。

安心して康二。
俺はもう二度と君の前には姿を現さないと誓うから。

俺は君にいつまでも笑顔でいて欲しい。

出来ることなら、俺が康二を笑顔にさせたかった。






「い……って………こ、じ……え?」

「………」

体全体に鋭い痛みが走り、声が出ない。
恐らく何十段もの階段を転げ落ちたのにも関わらず、まだ意識があることに俺は驚く。

そして、俺の視界を遮る何か。

俺の頭に強く巻きついた腕。

「は……嘘だ…ろ」

「…………」

それが何か、理解するのにそう時間はかからなかった。  

なぜ?
落ちる瞬間、この胸にしっかりと抱き留めたはずの康二がいつの間にか俺を庇うように俺を抱き締め、体全体から血を流してグッタリと意識を失っている。

「こ、じ……!嘘……だっ!こ、じ!こーじッ!!」

「…………」

「嘘だ、っ、嘘!おねが、い!康二っ、目を覚ましてくれ!!!!」

———ねぇ、康二。
どうして、あんなに憎んだ俺を庇ったの?

激痛の走る体をなんとか動かし、ふと、暗闇で視界に入った光るもの。青い海と空を背景に白い歯を見せて笑う俺と康二が待ち受けとなった康二のスマホ。

二人の間には落下の衝撃により大きな亀裂が入り、俺の視線を感じては画面が真っ黒なものとなり、俺はそれを見て康二の命の灯火が消えてしまうのではないかとゾクリとした。

「そ、だ、救急車………」

痛む腕を必死で動かし、ポケットに入った携帯を取り出し、震えながら救急車を呼び、その後は康二の手を握り無事を祈ることしか出来なかった。









「めめ!大丈夫!?」

マネージャーから連絡を受け真っ先に病院に到着したラウールが、精密検査を終えて病室の準備の為、待合室で車椅子に乗り、放心している俺に駆け寄る。

「俺は大丈夫……。だけど、康二が……」

「マネージャーから聞いたよ。めめの病室は康二君の隣だから、部屋に入る前に康二君のところに行けないか聞いてみるね」

俺の体の後ろ全体は打撲、腕には痛々しいほどの擦り傷や痣。

だけど、顔と頭に異常が無かったのは間違いなく康二が守ってくれたおかげだ。

でも、康二は?
俺を庇った康二はもっと重症で、頭からも血が流れていた。

「もし、もし、康二になにかあったら……俺は」

「めめ、康二君ならきっと大丈夫。だから、そんなに自分を責めないで」

弱々しく震える俺の頭をラウールは自分の胸に抱き込み、何度も何度も大丈夫だと言い聞かせた。



「…………」 

「……康二」

俺の病室に行く前に康二の姿を見せて欲しいと、ラウールが医師にお願いをし、康二に付き添っていたマネージャーとラウールと一緒に康二の病室へと足を踏み入れる。

体全体に包帯を巻かれ、酸素マスクをし、小さな息を立ててベッドに横たわる姿はとても痛々しい。

康二の綺麗な顔に、体に、そして純粋な心にさえも

俺が深い傷をつけた。

罪悪感に飲み込まれ、目に涙が滲む。

「向井さん頭を強く打っているものの命に別状はないとのことです。ただ、今後なにがあるかはわからないので、医師にも言われたと思いますが、目黒さんもどこか痛むところがあったり、違和感があったらちゃんと言って下さいね」

「……うん」

康二から目を離さず、小さく頷く俺を見てマネージャーとラウールが悲痛な表情を浮かべる。 

「めめも怪我をしてるし、康二君と一緒にいたい気持ちは分かるけど、ここはマネージャーに任せて一度病室に行こ?」

「……あぁ」

ラウールが看護師さんを呼び、俺も看護師さんとラウールの手を借りゆっくりとベッドへ横たわる。

本当は康二の側で康二が目を覚ますのを見守りたかったが、俺は二度と康二の前に姿を現してはいけない存在だ。

「康二……ごめん、ごめん」

怪我をした箇所よりも心の方が何百倍も痛み、とてつもなく苦しかった。

涙を流す俺にラウールはティッシュで顔に付いた涙を拭い、戸惑いながら俺に問う。

「なにかあった……?」

「……康二に別れようって言われた。あの女と一緒に自分の知られたくない過去をだしに俺と翔太君を別れさせたのかって、二度と俺の顔を見たくない、裏切り者って康二が酷く取り乱して……階段から落ちた」

先程の出来事を思い返して震えが止まらない。

康二の突然の別れの言葉、俺を見る突き刺すような眼差し、初めて聞いた冷たい声。

完全な拒絶。

「……康二君が知られたくないっていう過去をめめは知ってたの?」

白い病室の天井を微動だにせず見つめる俺にラウールが静かに問う。

「知らない……。
あの女はそれを頑なに言わなかった。でも、康二は俺を人の心を踏み躙る死んだあの女と一緒だって」

あんなに半狂乱になる程、康二はどんなに辛い思いをしたのだろう。

さらに俺はその傷口に塩を塗り、康二を痛め付けた。

「(前回会った時にはすでにあの女と俺が会っていたことを康二は知ってたんだ)」

康二の今まで見たことのない苦虫を噛み潰したような嫌悪の表情。

あれは翔太君の嫁、
そして、それはきっと俺にも向けられていた。

『めめってしょっぴーの嫁と顔見知りなん?』

『え?いや、知らないけど。……なんで?』

俺がついた嘘で康二は苦しんでいた。

「……とにかく今は康二君が目を覚ますのを待とう。マネージャーが他のメンバーにはめめが階段から足を踏み外したのを康二君が庇ったと説明したみたいだから、めめもどこか遠くに行こうとか考えないでよね」

「……あぁ」

ラウールに死んでしまいたいという気持ちを見透かされたのだろう。

俺と康二の知らせを聞いて到着したメンバーが代わりばんこにやって来て、俺と康二を心配して涙を流すメンバーもいた。

『命があって本当に良かった』

俺は自業自得だが、グループから康二を奪ったことにもとても申し訳なくなり、居た堪れず、体の痛みと心の痛みで俺は一睡もすることが出来ずにただただ、静かな空間で真っ白な天井だけを見つめていた。

数日後、いつの間にか眠っていた俺が目を覚ました後、死ぬよりも遥かにキツい現実を味わうことになる。




「………」

「康二……」

「目黒さん……命に別状は無いと医師も言ってましたし、あまり自分を責めないで下さい」

俺と康二に付き添うマネージャーは俺が目を覚ましたのを確認したのち、トイレや着替えの手助け、食事や薬を看護師さんに頼み、俺を車椅子に乗せて康二の元へ連れて来てくれた。

病室のカーテンから入り込むオレンジの日差し。
二人で階段から落ちてもうすぐ二日間が経過しようとしていたが、康二はいまだに目を覚ましていないらしい。

魂の抜けた表情で康二を見つめる俺の肩にマネージャーがそっと手を乗せる。

「僕、お水を買って来ますね」

「……うん」

昨日からマネージャーは俺に気を遣ってくれている。
翔太君が脱退して以来、めめこじとして康二とペアで活動する事が多くなり、その活動をよくサポートしてくれてるマネージャーに本当の事情を話せない事が申し訳なく、マネージャーが病室を退室した後、俺は項垂れた。

「………」

「……康二、ごめん。本当にごめん、俺、何も知らなかったんだ。あの女が翔太君と康二を絶対に別れさせるからって、そしたら、俺が康二と付き合えばいいって言われて俺は出会った頃から康二のことをずっと好きでっ!……辛い思いをさせてほんとっ、ごめん」

小さな寝息を立てる康二の包帯を巻かれた手を握れば涙が止まらず、俺は自分の過ちを悔いた。

康二は翔太君の隣で至極幸せそうだった。
それをあの女が壊し、数年間、指を咥えて羨ましそうに見ていただけの俺が傷付いた康二を懐柔し手に入れた。

俺が直接二人を別れさせたわけではないが、俺のズルさを康二に見抜かれ、嫌悪されるのは当然のことだ。

俺は今、康二がこの世で最も憎んでいる人物と同じ。

どれだけ詫びたところで、康二が俺を許すことはないだろう。

「くっ、う…っ、俺は康二の前から消えるから、だから、早く目を覚まして欲しい…… 」

大きな胸の痛みに引き裂かれそうになりながら、俺が嗚咽を漏らすと、

「…………ん」

「……康二?」

ピクリと康二の手が動く。

「…………め、め?」

ゆっくりと康二の綺麗な瞳が姿を現し、その目が俺を捉え、か細い声で俺の名を呼んだ瞬間、俺は康二に縋り付いた。

「康二!俺っ、本当にごめん!!」

顔から出るものを全部出し、泣きじゃくる俺に康二は眉根を寄せ、言葉を放つ。

「……体全体が痛い。めめも怪我しとるやん。なぁ、俺たち一体なにがあったん?」
 
「え……」

康二の言葉に俺はピタリと体が固まり、ドクンと心臓が波打つ。

ゆっくりと視線を合わせた俺を見て、康二は見れば見るほど痛々しいわと静かに呟き、俺の心が騒めき出す。

「二人してこんな怪我して事故にでもあったんか?」

「……二日前によく行く高台で二人で階段から落ちたこと覚えてないの……?」

震えながら呟く俺に、康二は小さく首を傾げ、考え込む。

「二日前?階段から落ちた?よく行く高台?俺とめめが?うーん……すまん、なんも思い出せん 」

階段から落ちる前、憎悪の眼差しで俺を見ていた康二が俺と普通に会話をしている。

一昨日の出来事を思い出せないと言うのなら、目の前のこの康二は一体いつまでの記憶があるのだろうか。

「……ねぇ、翔太君がこの春にグループを脱退したことは覚えてるよね」

「は?」

俺の問いに露骨に顔を顰める康二に俺は絶望した。

続く
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