本編
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▽局長のお見合い写真
誘拐事件で傷口が開き、悪化してしまったせいで長引いたけれど、どうにか抜糸も終えた。
とはいえ、完治したわけではないので、無茶な事はするなと、医者や看護師から厳重に注意されてしまった。
どうやら医者は、私が自主退院した挙句、傷口を開いた事をかなり怒っているようで、経過観察の為に通院する度説教をしてくる。
今度入院したら拘束するからな、と低めに脅された。
自室で服を捲って左腹を見れば、痛々しい傷跡。手術跡も相俟って、なかなかにグロい。
医者に、傷跡は消える事はないだろうと言われてしまった。時間が経つにつれて目立ちにくくはなるとの事だったけれど、当分はこの傷跡と付き合っていかなければならない。
普段服の下に隠れているし、腹を出さなければ誰の目に触れる事もないので、気にする必要はないけれど複雑だ。
退、気にするよね……
優しい彼の事だ。
腹の傷跡を見る度に、絶対に気に病んでしまうだろう。それが1番の心配だ。
腹の傷を見たくないと言う理由で、抱かれなくなってしまったらと想像するだけで悲しい。
退と肌を重ねるのは好きだから余計に。
「美緒ちゃん大変だ!」
「どうした?狼少年」
退の事を考えていたら、襖が開いてそんな事を叫ぶ狼少年……改め、退。
「大変だから来て!このままじゃ真選組がゴリラに乗っ取られる!」
「え?もう既に乗っ取られてるようなもんじゃ……」
「違う!モノホンのゴリラ!」
要領を得ない事を言う退に引っ張られて、隊士達が集まっている和室へとやってきた。
隊士の表情は一様に青ざめていて、困惑し動揺のそれが見える。中には頭を抱えている隊士も。
「内田、これを見てくれ」
原田隊長が持っている、A5サイズ程の高級そうな台紙が渡された。中を見れば、着物を着ているゴリラの写真。まるでそれはお見合い写真のようで。
「ん?原田隊長のお見合い相手ですか?」
「俺じゃねーよ。局長のお見合い相手だ」
「局長のお見合い相手……え!?局長のお見合い相手!?」
原田隊長を見れば、うんうんと頷いている。退に顔を向けても同じ動きをされた。
もう1度写真へと視線を落とす。
「上が局長にこの縁談を持ってきたらしいんだ。局長のお見合いがもし成功したら、このゴリラが俺らの姐さんになるんだよ」
このゴリラが私達の姐さん!?
幕府は何を血迷っていらっしゃるのか。
そんな事が許されていいのか。このゴリラを敬えと!?無理だよ……
ゴリラを否定しているわけではないが、あまりにも種族が違い過ぎる。
隊士達が、あんな表情になってしまうのも無理はない。そもそも言語は通じるのか?
「なんか、よく見たらゴリラ同士お似合いな気がしてきたなー。夫婦というよりむしろ兄弟?みたいな?生き別れた兄弟が見付かった的な?感動の再会かもしれないよね。ドキュメンタリー番組に出れるね。お涙頂戴の最高視聴率がとれるかもだよね。あははー」
「内田が壊れた!」
「美緒ちゃんしっかりして!戻ってきて!」
あはははと笑い続ける私の肩が揺さぶられる。
現実逃避もそこそこに、副長を含めた会議が行われた。
「この見合い相手は、猩猩星の第三王女バブルス様だ。逆タマだよ」
副長が言う相手の想像だにしない肩書きに、お見合い写真のゴリラを思い浮かべる。
あのゴリラ、王女だったのか!
人は見かけによらないとはよく言うけれど、本当に見かけによらない。
副長は、紫煙を吐き出した後続けた。
最近の局長は、お妙ちゃんに振られ続けて疲労し、性別がメスなら誰でもいいという限界まで来ているとの事。
「……恐らく、この話飲むだろうな」
「副長の権限でどうにかならねーんですか!?ゴリラが姐さんッスよ!いいんですか!?」
「俺が何を言っても、近藤さんが決めたんなら聞き入れちゃくれねーだろうぜ」
「副長、私ゴリラ検定の資格持ってないので、ゴリラの扱い方が分かりません」
「ゴリラ検定ってなんだ!誰も持ってねーよそんなん!」
話し合いを重ねに重ね、局長が愛してやまないお妙ちゃんに、真選組の姐さんになってもらおうという結論に至った。
しかし、お妙ちゃんは局長の事をよく思っていない。そう簡単に作戦に頷いてくれるかどうか、いや、断られるに決まっている。
それどころか、縁談が来ていると知れば、ストーキングがなくなると喜ぶ事請け合い。
でも、真選組のピンチ。お妙ちゃんも一肌脱いでくれるかもしれない。
夜、一縷の希望を抱いて、副長と共にお妙ちゃんが働いている『スナックすまいる』へとやって来た。
あまり大人数で行くのも店の迷惑になるので、退と私、原田隊長を含めた10人程のメンバーで行く事に。
最初は、副長も行く予定ではなかったのだが、局長にお願いされては断る術もなかったようで。
いらっしゃいませー!と、歓迎された後、副長はあっという間にキャバ嬢に囲まれて、黄色い声を浴びせられている。
「キャアアア!土方はん!土方はんやわ!」
「今日はあのゴリラじゃなくて、土方はんが来てくれはったわ!」
「キャアアア!こっちの席に来て土方はん!」
副長が、女性に囲まれている姿を見て呆気にとられる。
クールな外見なのでモテるだろうとは思っていたが、こんなにも人気だったとは……
「副長がここぞとばかりにモテてらっしゃる……」
「あー、ちょいとお嬢ちゃん。身分証見せてください」
副長や隊士の後に続いて入店しようとしたら、肩を叩かれた。
「ちょっとお嬢ちゃん、君だよ君」
振り返れば、ボーイだろうか。蝶ネクタイをした男性が立っている。
「あ、私ですか。なんでしょうか?」
「なんでしょうか?じゃなくて、身分証見せて。ここ未成年は入店お断りだから」
「え?私成人してます」
「身分証見せて」
隣でクスクスと笑っている退。
渋々、財布から保険証を取り出して見せれば、入店許可が下りた。
「最悪。なんで私だけ」
「身長じゃない?」
「そこまで小さくないよ!」
「いや、こんなガタイよくて、身長高い連中に囲まれてちゃあ、そう見えるよ」
前を歩いている隊士達を見て、確かにと納得せざるを得ない。
隊士と立って話す時、見上げて話す方が多い事に、今更ながら気付かされた。
恐らく、私が退くらいの身長があって、ちょうどいいのかもしれない。
副長とお妙ちゃんが座る席の前に並んだ。
「お妙さァァァん!どうか局長の女房に……俺達の姐さんになってくだせェェ!」
隊士達の野太い大きな声が私の鼓膜を貫通した。
隊士と一緒に私も土下座をする。
「なんですかコレは。腰の低い恐喝?」
「お妙ちゃん、私からもお願いします!私達の姐さんになってください!」
「美緒ちゃんだけの姐さんになら喜んでなるわよ」
副長は、お妙ちゃんに、こう頼まざるを得ない事情を話した。やはり、それでお妙ちゃんが引くようなタマではなく。
「あら、良かったじゃないですか。これで私へのストーキングもなくなるし、近藤さんも愛妻が出来るし、美緒ちゃんも嫁ぎに来てくれるし、みんな幸せになれますね」
「え?お妙ちゃん、その話は終わったんじゃ……」
「何?嫁ぐ?どういう事?」
水面下で終わった話だと思っていたのに、まさかよりにもよって退のいる前で蒸し返されるとは。
退の顔が見れない。怒っているのが、声色で伝わってくる。
「後で詳しく聞かせてもらうから」
「……はい……」
退に怯えている間、お妙ちゃんは副長から見せられたのか、お見合い写真を持っている。
「まァ。夫婦は顔が似てくるって言うけれど、既に長年連れ添った夫婦のようだわ。ゴリ2つよ」
「姐さんよく見て!微妙に近藤さんと違うよ!そっちはモノホンだよ!」
さっきまで私に怒っていたのに、もうお妙ちゃんにツッコミを入れている。
切り替えが早いという事は、そこまで怒っていないのかもしれない。
隊士達は、必死にお妙ちゃんに訴えかけているけれど、お妙ちゃんは依然として笑顔を崩さずに「きっといい奥さんになってくれるわ」と切り捨てた。
そんな中、退は1人「この通りだ姐さん」と土下座をした。
「結婚までとは言わない!止めてくれるだけでいい!男がこれだけ頭下げてんだ。その重み!義に通ずる姐さんなら分かってく……」
「アラ、どこが重いのかしら?この頭」
軽々と退の頭を持ち上げてしまった。おまけに、退の両足は床を離れてジタバタしている。
笑顔なのに、その恐怖たるや。
私は身の危険を察知し、急いで先程までお妙ちゃんが座っていた場所へと避難する。
「スカスカの脳みそしか詰まってねーだろうがァァ!」
案の定投げられた退は、隊士諸共吹き飛ばした。
「テメーらしつこいんだよォ!んなマネしたら、また勘違いされてストーカーに拍車がかかること山の如しだろーが!」
お妙ちゃんは、店員の制止も聞かず、隊士達をボコボコに殴っていく。
そんな中私は、せっかくスナックに来たので、目の前にあるお酒を嗜む事にした。
局長に電話をする副長の隣で、お妙ちゃんの分だろうと思われる、まだ手付かずの酒を煽った。
「はぁー……お酒美味しい。久しぶりに飲んだ」
度数が高いのか、1杯だけで顔に熱がこもり、少し頭がぼんやりしてきた。
なくなったグラスに氷を入れて、お酒を作って飲み進める。その間も、お妙ちゃんが投げたであろう残骸がこちらに飛んでくる。
「あ!おまっ!何飲んでやがんだ!飲むなコラ!酔ったらお前歌うだろ、うるせーんだからやめとけ!」
「土方さんもどーぞ。はい、乾杯」
グラスの側面に、私のグラスの飲み口を当てると、カチンと小さく音を奏でた。
「いや乾杯じゃねー!飲むなっつってんだよバカ!」
投げられたであろう誰かが、テーブルに飛んできたので、慌てて酒とグラスを避難させる。
「おい、帰るぞ」
「あー、まだ全部飲んでないよー」
飲んでいたグラスが副長に奪われてしまった。グラスを奪い返そうと、空中を泳ぐ手が掴まれる。
「顔真っ赤だぞ、やめとけ」
「あーん、眠くなってきたー……」
「クソうぜーコイツ……おい山崎!」
首根っこを掴まれて、犬猫のように扱われる。
「何言ってんの!どう見ても俺達が姐さんにボコられてただろーが!それでも僕らは侍です!」
眠くて落ちてくる瞼を開ければ、笠を被った髪の長い人が、お妙ちゃんを護るように立っている。
私が酒を飲んでいる間に何が起こったのだろう。
「このひとに手ェ出してもらっちゃ困る。僕の大事な人だ」
「あー!?チビ助が何ナマ言ってんだ!」
その人を囲んで凄んでいる隊士達の中に入り、副長が制止をかけた。
「これ以上店騒がすな。引き上げるぞ。それからガキんちょ。お前も来い。お前未成年だろ。こんな店に来ていいと思ってんのか」
副長の言葉に、私の耳が痛む。
副長より背が低いかもしれないけれど、未成年と決めつけるのは、些か早計なのではないだろうか。
「オイ貴様今なんて言った?」
私にも感じる殺気が放たれている。
刹那、私の体が放り投げられ、受け身を取りそびれて床に転がった。
「ガキんちょなんかじゃない。柳生九兵衛だ」
慌てて上体を起こしてそっちを見れば、周りを囲んでいた退達はみんな倒され、副長はその峰を刃で受け止めていた。
一体、この一瞬で何が起きたというのだろうか。
それに、今彼は『柳生九兵衛』と名乗った。
柳生家の名前は、私でも聞いた事がある。
かつては、将軍家の指南役をおおせつかっていた程の名家。
剣術が零落する一方で、華麗なる技を学ぶ為に、未だ門を叩く者も多いと聞く。
この次期当主が、今目の前にいる柳生九兵衛。
小柄で幼さが残る顔付きとは裏腹に、神速の剣の使い手で、柳生家始まって以来の天才と名高い。
半信半疑だったが、今の一太刀で噂が本当だという事を目の当たりにした。
しかし、それを咄嗟に受け止めた副長もなかなかのものだ。
倒れている退達を見て、これが峰打ちじゃなかったらと考えた時ゾッとした。
「うっ……気持ち悪……」
さっき転がったせいで、酒が回ったのかもしれない。急に吐き気を催してきた。
暫く睨みあっていた副長と柳生九兵衛と名乗る少年だったが、柳生が刀を収めた事により一時休戦。
柳生は、お妙ちゃんを連れてどこかに消えてしまった。
刀を見つめた後、忌々しそうに舌打ちをした副長は、倒れている退達に声をかけた。
「テメーら、いつまで寝てる。帰るぞ」
のそのそと起き上がった隊士達は、未だ気絶をしている隊士に肩を貸して店を出ていく。
私も、少しフラフラする足に力を入れて、どうにか立ち上がる。
「美緒ちゃんいた。帰る……って、酒飲んだの!?何してんの!?」
「でも、さっきの騒ぎで酔いさめたよ」
「さめてねーよ!おもっきし顔赤いよ!歩ける?」
「歩けるよ。私にハイハイの時代などなかった。産まれたその瞬間から二足歩行」
「歩けるなら歩いて」
退に手を引かれて、私達もスナックを後にした。
副長達の姿はとうに見えなくなっていて、私の酔い覚ましに、コンビニで水を買って公園に寄る事にした。
街灯の明かりがぼんやりと照らす、公園のベンチに並んで座る。肌を撫でる、少し乾いた風。
ペットボトルの水を喉に流し込んだ。
先程まで気持ち悪かったのが、少し和らいだ気がして、もう1口飲む。
「美緒ちゃんさ、姐さんの……新八くんのとこに嫁ぐの?」
「んなわけないでしょ!あれは、お妙ちゃんが勝手に言ってるだけ。私も新ちゃんもそんな気サラサラないよ。諦めてくれたんだとばっかり思ってたから、私もビックリしたよ」
「俺の知らない間に新八くんとそういう関係になったのかと……」
そう勘違いされて、途端に悲しくなった。
酒が入っているからなのか、普段なら泣かないというのに、涙が溢れてきて止まらない。
「え、ちょっと、なんで泣いてんの?」
「悲しいの。退がありもしない勘違いいっぱいするから」
「ごめん。泣かないで」
「私、さが……っ、以外と、ど、ック……どうこうなる気ないのに、退だけなのに……っ、」
泣きながら訴える私の頭を撫でて謝ってくる。
「ごめん。俺が悪かった。ごめんね」
距離を縮めて私の背中に回された手が、あやすようにゆっくり叩いてくる。頭には手が乗っていて、時々退が顔を寄せてくるのが感じられた。その胸に額を当てて、泣きじゃくる。
一頻り泣いた後、退の胸から額を剥がして後悔に項垂れ、顔を両手で覆う。
酒が入っていたとはいえ、あんなに泣いてしまうとは恥ずかしい。
「……ごめん。取り乱した」
「いいよ。俺が悪かったんだし」
両手を剥がして、ふぅーっと払拭するように息を吐き出す。泣いた後必ずやってくる頭痛に、今度は右手で俯いたままの額を抑える。
ズキズキと痛む頭に、眉間に皺が寄る。
「退。私ね、退以外と付き合うとか、結婚とか考えられないし、ありえないよ」
「うん」
額から手を剥がして退を見れば、微笑んでくれた。
なんだかそれが嬉しくて、小さく笑った後、涙を拭って水を飲んだ。
「美緒ちゃん、俺にも水をください」
「はい、どうぞお飲みください」
突然の敬語に疑問を浮かべながら、同じように敬語で返して、ペットボトルを渡した。
すると、半分以上あったそれを、一気に飲み干したのだ。そして、その後噎せるその背をさする。
その流れに、思わず声を上げて笑ってしまった。
「どうしたのいきなり。退の中で何が起こってんの?面白いなぁ」
「美緒ちゃん……俺……」
膝の上に肘を置いて、俯いたままそれ以上何も言わない。寝てしまったのかと思って、声をかけると反応があるので、寝てはいないようだ。
「あ、水、全部飲んじゃった……コンビニ行って買って来て。あ、嘘行かないで。そこの自販機……いや、俺が……いや、美緒ちゃんが」
「1人で何言ってんの?どうしたの?水なら買いに行くからちょっと待っててよ」
腰を上げたら手首を掴まれて、大きなため息をつかれた。さっきから、何をしたいのか全く分からない。
「水以外がいいの?焼きそばパン買ってくる?」
「いや……」
私の手首を掴んでいた手が、力が抜けたように滑り落ちた。そして、またため息。
上げたばかりの腰を再び下ろし、ずっと地面を見ているその頭を撫でる。
「何飲むか決まったら教えて。この後何もないし、ゆっくり決めていいから」
退が話し出すまで待つ事にした。
私も頭痛が治るまで、隣でボーッと座って過ごす。
頭痛が治まってきた頃、童心にかえって、鉄棒やブランコに乗って草履を飛ばして遊んでいる事、1時間半以上。
視界の隅で、漸く退が動きを見せた。
こちらに寄ってくるので、私もブランコから降りて退のもとに向かう。
「そろそろ帰る?」
いきなり、90度に腰を曲げて驚いた。
「けっ……け、けけけ、けっ、あ、ちが、あ、ぼ、ぼぼ、僕、僕と、僕と、け、けけ結婚してください!」
「…………」
目を見開いたまま、ただ退を見つめる。
今、何を言われた?結婚してって言われた?
結婚って、なんだっけ?
突然の事に頭が正常に働かないが、頭痛は既に治まっているので、関係のない事だけは分かる。
グルグルと脳内を駆け巡る退のセリフ。
それが、どんどん私の思考と感情を支配し、鼓動が高鳴る。
プロポーズされたのだと理解した時には、止まったはずの涙がまた流れてしまいそうで。
退は、未だに頭を下げたまま。
「退、頭上げて」
躊躇していた頭が、ゆっくりと上がってきた。
退の顔がこっちに向いて、視線を合わせる。
その顔が、ぼんやりした街灯に照らされても、真っ赤になっているのが分かる。
さっき様子がおかしかったのは、私にこれを伝える為に、落ち着かせていたせいだったのかもしれない。結局、どもりまくっているのがなんとも退らしくて、愛しさが溢れてくる。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
笑顔で答えれば、今日何度目かのため息が吐き出された。でも、それは種類が違って、気が抜けたような安心したようなそれで。
「……緊張したー……結局どもったし、カッコわる……」
「ありがとう。嬉しい、ありがとう。カッコ悪くないよ、ありがとう」
嬉しさのあまり抱きついた。
遅れてやってきた感動に、涙が溢れてくる。
「何回礼言うんだよ。こっちが言う方だろ」
抱きしめられて、私もそれに応えるように抱きしめる腕に力を入れる。
「何?泣いてんの?」
「だって、私……ああもう幸せ過ぎてこのまま死にたい。このまま殺してー」
「殺さないよ、何言ってんのって、笑ってんのかい!情緒どうした!」
涙を拭いながら、口元を緩めている私の顔を見て、退も笑った。
「だってさ、退が私の事好きになってくれたのも奇跡で、嬉しくて幸せなのに、プロポーズしてくれるんだよ。幸せすぎて泣いたらいいのか、笑ったらいいのか分かんないよ」
「何可愛い事言ってんの?」
更に追撃が入り、クリティカルヒットを食らわされてしまい、その場にしゃがみ込んで、両手の中に顔を埋めた。
「これ以上何も望まない!産まれてきて良かった、退に会えて良かった幸せ!殺して!私のライフはもう0よ!」
「だから情緒!ていうか、幸せに浸ってるとこ悪いんだけど、美緒ちゃんに言わなきゃいけない事がある」
顔を上げたら、退も同じようにしゃがんで頭を下げた。
「プロポーズしたのに申し訳ないんだけど、今すぐ結婚は出来ない。資金貯まったらプロポーズするつもりだったから、まだ貯まってない。ごめんなさい」
「あ、なんだ。いいよ」
もっと重々しい事かと思えば、拍子抜けしてしまった。お金は、私も働いてるのだからなんとでもなる。
「いいの?」
「いつでもいいよ。5年後でも10年後でも。退が私と一緒にいたいって思ってくれる、その気持ちだけで充分嬉しいよ。ありがとう」
「そんなにかかんないよ」
「退大好き」
抱きつけば、その弾みで退の尻が地面についた。それでも、私を受け止めて抱きしめ返してくれる。
「うん、俺も」
誘拐事件で傷口が開き、悪化してしまったせいで長引いたけれど、どうにか抜糸も終えた。
とはいえ、完治したわけではないので、無茶な事はするなと、医者や看護師から厳重に注意されてしまった。
どうやら医者は、私が自主退院した挙句、傷口を開いた事をかなり怒っているようで、経過観察の為に通院する度説教をしてくる。
今度入院したら拘束するからな、と低めに脅された。
自室で服を捲って左腹を見れば、痛々しい傷跡。手術跡も相俟って、なかなかにグロい。
医者に、傷跡は消える事はないだろうと言われてしまった。時間が経つにつれて目立ちにくくはなるとの事だったけれど、当分はこの傷跡と付き合っていかなければならない。
普段服の下に隠れているし、腹を出さなければ誰の目に触れる事もないので、気にする必要はないけれど複雑だ。
退、気にするよね……
優しい彼の事だ。
腹の傷跡を見る度に、絶対に気に病んでしまうだろう。それが1番の心配だ。
腹の傷を見たくないと言う理由で、抱かれなくなってしまったらと想像するだけで悲しい。
退と肌を重ねるのは好きだから余計に。
「美緒ちゃん大変だ!」
「どうした?狼少年」
退の事を考えていたら、襖が開いてそんな事を叫ぶ狼少年……改め、退。
「大変だから来て!このままじゃ真選組がゴリラに乗っ取られる!」
「え?もう既に乗っ取られてるようなもんじゃ……」
「違う!モノホンのゴリラ!」
要領を得ない事を言う退に引っ張られて、隊士達が集まっている和室へとやってきた。
隊士の表情は一様に青ざめていて、困惑し動揺のそれが見える。中には頭を抱えている隊士も。
「内田、これを見てくれ」
原田隊長が持っている、A5サイズ程の高級そうな台紙が渡された。中を見れば、着物を着ているゴリラの写真。まるでそれはお見合い写真のようで。
「ん?原田隊長のお見合い相手ですか?」
「俺じゃねーよ。局長のお見合い相手だ」
「局長のお見合い相手……え!?局長のお見合い相手!?」
原田隊長を見れば、うんうんと頷いている。退に顔を向けても同じ動きをされた。
もう1度写真へと視線を落とす。
「上が局長にこの縁談を持ってきたらしいんだ。局長のお見合いがもし成功したら、このゴリラが俺らの姐さんになるんだよ」
このゴリラが私達の姐さん!?
幕府は何を血迷っていらっしゃるのか。
そんな事が許されていいのか。このゴリラを敬えと!?無理だよ……
ゴリラを否定しているわけではないが、あまりにも種族が違い過ぎる。
隊士達が、あんな表情になってしまうのも無理はない。そもそも言語は通じるのか?
「なんか、よく見たらゴリラ同士お似合いな気がしてきたなー。夫婦というよりむしろ兄弟?みたいな?生き別れた兄弟が見付かった的な?感動の再会かもしれないよね。ドキュメンタリー番組に出れるね。お涙頂戴の最高視聴率がとれるかもだよね。あははー」
「内田が壊れた!」
「美緒ちゃんしっかりして!戻ってきて!」
あはははと笑い続ける私の肩が揺さぶられる。
現実逃避もそこそこに、副長を含めた会議が行われた。
「この見合い相手は、猩猩星の第三王女バブルス様だ。逆タマだよ」
副長が言う相手の想像だにしない肩書きに、お見合い写真のゴリラを思い浮かべる。
あのゴリラ、王女だったのか!
人は見かけによらないとはよく言うけれど、本当に見かけによらない。
副長は、紫煙を吐き出した後続けた。
最近の局長は、お妙ちゃんに振られ続けて疲労し、性別がメスなら誰でもいいという限界まで来ているとの事。
「……恐らく、この話飲むだろうな」
「副長の権限でどうにかならねーんですか!?ゴリラが姐さんッスよ!いいんですか!?」
「俺が何を言っても、近藤さんが決めたんなら聞き入れちゃくれねーだろうぜ」
「副長、私ゴリラ検定の資格持ってないので、ゴリラの扱い方が分かりません」
「ゴリラ検定ってなんだ!誰も持ってねーよそんなん!」
話し合いを重ねに重ね、局長が愛してやまないお妙ちゃんに、真選組の姐さんになってもらおうという結論に至った。
しかし、お妙ちゃんは局長の事をよく思っていない。そう簡単に作戦に頷いてくれるかどうか、いや、断られるに決まっている。
それどころか、縁談が来ていると知れば、ストーキングがなくなると喜ぶ事請け合い。
でも、真選組のピンチ。お妙ちゃんも一肌脱いでくれるかもしれない。
夜、一縷の希望を抱いて、副長と共にお妙ちゃんが働いている『スナックすまいる』へとやって来た。
あまり大人数で行くのも店の迷惑になるので、退と私、原田隊長を含めた10人程のメンバーで行く事に。
最初は、副長も行く予定ではなかったのだが、局長にお願いされては断る術もなかったようで。
いらっしゃいませー!と、歓迎された後、副長はあっという間にキャバ嬢に囲まれて、黄色い声を浴びせられている。
「キャアアア!土方はん!土方はんやわ!」
「今日はあのゴリラじゃなくて、土方はんが来てくれはったわ!」
「キャアアア!こっちの席に来て土方はん!」
副長が、女性に囲まれている姿を見て呆気にとられる。
クールな外見なのでモテるだろうとは思っていたが、こんなにも人気だったとは……
「副長がここぞとばかりにモテてらっしゃる……」
「あー、ちょいとお嬢ちゃん。身分証見せてください」
副長や隊士の後に続いて入店しようとしたら、肩を叩かれた。
「ちょっとお嬢ちゃん、君だよ君」
振り返れば、ボーイだろうか。蝶ネクタイをした男性が立っている。
「あ、私ですか。なんでしょうか?」
「なんでしょうか?じゃなくて、身分証見せて。ここ未成年は入店お断りだから」
「え?私成人してます」
「身分証見せて」
隣でクスクスと笑っている退。
渋々、財布から保険証を取り出して見せれば、入店許可が下りた。
「最悪。なんで私だけ」
「身長じゃない?」
「そこまで小さくないよ!」
「いや、こんなガタイよくて、身長高い連中に囲まれてちゃあ、そう見えるよ」
前を歩いている隊士達を見て、確かにと納得せざるを得ない。
隊士と立って話す時、見上げて話す方が多い事に、今更ながら気付かされた。
恐らく、私が退くらいの身長があって、ちょうどいいのかもしれない。
副長とお妙ちゃんが座る席の前に並んだ。
「お妙さァァァん!どうか局長の女房に……俺達の姐さんになってくだせェェ!」
隊士達の野太い大きな声が私の鼓膜を貫通した。
隊士と一緒に私も土下座をする。
「なんですかコレは。腰の低い恐喝?」
「お妙ちゃん、私からもお願いします!私達の姐さんになってください!」
「美緒ちゃんだけの姐さんになら喜んでなるわよ」
副長は、お妙ちゃんに、こう頼まざるを得ない事情を話した。やはり、それでお妙ちゃんが引くようなタマではなく。
「あら、良かったじゃないですか。これで私へのストーキングもなくなるし、近藤さんも愛妻が出来るし、美緒ちゃんも嫁ぎに来てくれるし、みんな幸せになれますね」
「え?お妙ちゃん、その話は終わったんじゃ……」
「何?嫁ぐ?どういう事?」
水面下で終わった話だと思っていたのに、まさかよりにもよって退のいる前で蒸し返されるとは。
退の顔が見れない。怒っているのが、声色で伝わってくる。
「後で詳しく聞かせてもらうから」
「……はい……」
退に怯えている間、お妙ちゃんは副長から見せられたのか、お見合い写真を持っている。
「まァ。夫婦は顔が似てくるって言うけれど、既に長年連れ添った夫婦のようだわ。ゴリ2つよ」
「姐さんよく見て!微妙に近藤さんと違うよ!そっちはモノホンだよ!」
さっきまで私に怒っていたのに、もうお妙ちゃんにツッコミを入れている。
切り替えが早いという事は、そこまで怒っていないのかもしれない。
隊士達は、必死にお妙ちゃんに訴えかけているけれど、お妙ちゃんは依然として笑顔を崩さずに「きっといい奥さんになってくれるわ」と切り捨てた。
そんな中、退は1人「この通りだ姐さん」と土下座をした。
「結婚までとは言わない!止めてくれるだけでいい!男がこれだけ頭下げてんだ。その重み!義に通ずる姐さんなら分かってく……」
「アラ、どこが重いのかしら?この頭」
軽々と退の頭を持ち上げてしまった。おまけに、退の両足は床を離れてジタバタしている。
笑顔なのに、その恐怖たるや。
私は身の危険を察知し、急いで先程までお妙ちゃんが座っていた場所へと避難する。
「スカスカの脳みそしか詰まってねーだろうがァァ!」
案の定投げられた退は、隊士諸共吹き飛ばした。
「テメーらしつこいんだよォ!んなマネしたら、また勘違いされてストーカーに拍車がかかること山の如しだろーが!」
お妙ちゃんは、店員の制止も聞かず、隊士達をボコボコに殴っていく。
そんな中私は、せっかくスナックに来たので、目の前にあるお酒を嗜む事にした。
局長に電話をする副長の隣で、お妙ちゃんの分だろうと思われる、まだ手付かずの酒を煽った。
「はぁー……お酒美味しい。久しぶりに飲んだ」
度数が高いのか、1杯だけで顔に熱がこもり、少し頭がぼんやりしてきた。
なくなったグラスに氷を入れて、お酒を作って飲み進める。その間も、お妙ちゃんが投げたであろう残骸がこちらに飛んでくる。
「あ!おまっ!何飲んでやがんだ!飲むなコラ!酔ったらお前歌うだろ、うるせーんだからやめとけ!」
「土方さんもどーぞ。はい、乾杯」
グラスの側面に、私のグラスの飲み口を当てると、カチンと小さく音を奏でた。
「いや乾杯じゃねー!飲むなっつってんだよバカ!」
投げられたであろう誰かが、テーブルに飛んできたので、慌てて酒とグラスを避難させる。
「おい、帰るぞ」
「あー、まだ全部飲んでないよー」
飲んでいたグラスが副長に奪われてしまった。グラスを奪い返そうと、空中を泳ぐ手が掴まれる。
「顔真っ赤だぞ、やめとけ」
「あーん、眠くなってきたー……」
「クソうぜーコイツ……おい山崎!」
首根っこを掴まれて、犬猫のように扱われる。
「何言ってんの!どう見ても俺達が姐さんにボコられてただろーが!それでも僕らは侍です!」
眠くて落ちてくる瞼を開ければ、笠を被った髪の長い人が、お妙ちゃんを護るように立っている。
私が酒を飲んでいる間に何が起こったのだろう。
「このひとに手ェ出してもらっちゃ困る。僕の大事な人だ」
「あー!?チビ助が何ナマ言ってんだ!」
その人を囲んで凄んでいる隊士達の中に入り、副長が制止をかけた。
「これ以上店騒がすな。引き上げるぞ。それからガキんちょ。お前も来い。お前未成年だろ。こんな店に来ていいと思ってんのか」
副長の言葉に、私の耳が痛む。
副長より背が低いかもしれないけれど、未成年と決めつけるのは、些か早計なのではないだろうか。
「オイ貴様今なんて言った?」
私にも感じる殺気が放たれている。
刹那、私の体が放り投げられ、受け身を取りそびれて床に転がった。
「ガキんちょなんかじゃない。柳生九兵衛だ」
慌てて上体を起こしてそっちを見れば、周りを囲んでいた退達はみんな倒され、副長はその峰を刃で受け止めていた。
一体、この一瞬で何が起きたというのだろうか。
それに、今彼は『柳生九兵衛』と名乗った。
柳生家の名前は、私でも聞いた事がある。
かつては、将軍家の指南役をおおせつかっていた程の名家。
剣術が零落する一方で、華麗なる技を学ぶ為に、未だ門を叩く者も多いと聞く。
この次期当主が、今目の前にいる柳生九兵衛。
小柄で幼さが残る顔付きとは裏腹に、神速の剣の使い手で、柳生家始まって以来の天才と名高い。
半信半疑だったが、今の一太刀で噂が本当だという事を目の当たりにした。
しかし、それを咄嗟に受け止めた副長もなかなかのものだ。
倒れている退達を見て、これが峰打ちじゃなかったらと考えた時ゾッとした。
「うっ……気持ち悪……」
さっき転がったせいで、酒が回ったのかもしれない。急に吐き気を催してきた。
暫く睨みあっていた副長と柳生九兵衛と名乗る少年だったが、柳生が刀を収めた事により一時休戦。
柳生は、お妙ちゃんを連れてどこかに消えてしまった。
刀を見つめた後、忌々しそうに舌打ちをした副長は、倒れている退達に声をかけた。
「テメーら、いつまで寝てる。帰るぞ」
のそのそと起き上がった隊士達は、未だ気絶をしている隊士に肩を貸して店を出ていく。
私も、少しフラフラする足に力を入れて、どうにか立ち上がる。
「美緒ちゃんいた。帰る……って、酒飲んだの!?何してんの!?」
「でも、さっきの騒ぎで酔いさめたよ」
「さめてねーよ!おもっきし顔赤いよ!歩ける?」
「歩けるよ。私にハイハイの時代などなかった。産まれたその瞬間から二足歩行」
「歩けるなら歩いて」
退に手を引かれて、私達もスナックを後にした。
副長達の姿はとうに見えなくなっていて、私の酔い覚ましに、コンビニで水を買って公園に寄る事にした。
街灯の明かりがぼんやりと照らす、公園のベンチに並んで座る。肌を撫でる、少し乾いた風。
ペットボトルの水を喉に流し込んだ。
先程まで気持ち悪かったのが、少し和らいだ気がして、もう1口飲む。
「美緒ちゃんさ、姐さんの……新八くんのとこに嫁ぐの?」
「んなわけないでしょ!あれは、お妙ちゃんが勝手に言ってるだけ。私も新ちゃんもそんな気サラサラないよ。諦めてくれたんだとばっかり思ってたから、私もビックリしたよ」
「俺の知らない間に新八くんとそういう関係になったのかと……」
そう勘違いされて、途端に悲しくなった。
酒が入っているからなのか、普段なら泣かないというのに、涙が溢れてきて止まらない。
「え、ちょっと、なんで泣いてんの?」
「悲しいの。退がありもしない勘違いいっぱいするから」
「ごめん。泣かないで」
「私、さが……っ、以外と、ど、ック……どうこうなる気ないのに、退だけなのに……っ、」
泣きながら訴える私の頭を撫でて謝ってくる。
「ごめん。俺が悪かった。ごめんね」
距離を縮めて私の背中に回された手が、あやすようにゆっくり叩いてくる。頭には手が乗っていて、時々退が顔を寄せてくるのが感じられた。その胸に額を当てて、泣きじゃくる。
一頻り泣いた後、退の胸から額を剥がして後悔に項垂れ、顔を両手で覆う。
酒が入っていたとはいえ、あんなに泣いてしまうとは恥ずかしい。
「……ごめん。取り乱した」
「いいよ。俺が悪かったんだし」
両手を剥がして、ふぅーっと払拭するように息を吐き出す。泣いた後必ずやってくる頭痛に、今度は右手で俯いたままの額を抑える。
ズキズキと痛む頭に、眉間に皺が寄る。
「退。私ね、退以外と付き合うとか、結婚とか考えられないし、ありえないよ」
「うん」
額から手を剥がして退を見れば、微笑んでくれた。
なんだかそれが嬉しくて、小さく笑った後、涙を拭って水を飲んだ。
「美緒ちゃん、俺にも水をください」
「はい、どうぞお飲みください」
突然の敬語に疑問を浮かべながら、同じように敬語で返して、ペットボトルを渡した。
すると、半分以上あったそれを、一気に飲み干したのだ。そして、その後噎せるその背をさする。
その流れに、思わず声を上げて笑ってしまった。
「どうしたのいきなり。退の中で何が起こってんの?面白いなぁ」
「美緒ちゃん……俺……」
膝の上に肘を置いて、俯いたままそれ以上何も言わない。寝てしまったのかと思って、声をかけると反応があるので、寝てはいないようだ。
「あ、水、全部飲んじゃった……コンビニ行って買って来て。あ、嘘行かないで。そこの自販機……いや、俺が……いや、美緒ちゃんが」
「1人で何言ってんの?どうしたの?水なら買いに行くからちょっと待っててよ」
腰を上げたら手首を掴まれて、大きなため息をつかれた。さっきから、何をしたいのか全く分からない。
「水以外がいいの?焼きそばパン買ってくる?」
「いや……」
私の手首を掴んでいた手が、力が抜けたように滑り落ちた。そして、またため息。
上げたばかりの腰を再び下ろし、ずっと地面を見ているその頭を撫でる。
「何飲むか決まったら教えて。この後何もないし、ゆっくり決めていいから」
退が話し出すまで待つ事にした。
私も頭痛が治るまで、隣でボーッと座って過ごす。
頭痛が治まってきた頃、童心にかえって、鉄棒やブランコに乗って草履を飛ばして遊んでいる事、1時間半以上。
視界の隅で、漸く退が動きを見せた。
こちらに寄ってくるので、私もブランコから降りて退のもとに向かう。
「そろそろ帰る?」
いきなり、90度に腰を曲げて驚いた。
「けっ……け、けけけ、けっ、あ、ちが、あ、ぼ、ぼぼ、僕、僕と、僕と、け、けけ結婚してください!」
「…………」
目を見開いたまま、ただ退を見つめる。
今、何を言われた?結婚してって言われた?
結婚って、なんだっけ?
突然の事に頭が正常に働かないが、頭痛は既に治まっているので、関係のない事だけは分かる。
グルグルと脳内を駆け巡る退のセリフ。
それが、どんどん私の思考と感情を支配し、鼓動が高鳴る。
プロポーズされたのだと理解した時には、止まったはずの涙がまた流れてしまいそうで。
退は、未だに頭を下げたまま。
「退、頭上げて」
躊躇していた頭が、ゆっくりと上がってきた。
退の顔がこっちに向いて、視線を合わせる。
その顔が、ぼんやりした街灯に照らされても、真っ赤になっているのが分かる。
さっき様子がおかしかったのは、私にこれを伝える為に、落ち着かせていたせいだったのかもしれない。結局、どもりまくっているのがなんとも退らしくて、愛しさが溢れてくる。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
笑顔で答えれば、今日何度目かのため息が吐き出された。でも、それは種類が違って、気が抜けたような安心したようなそれで。
「……緊張したー……結局どもったし、カッコわる……」
「ありがとう。嬉しい、ありがとう。カッコ悪くないよ、ありがとう」
嬉しさのあまり抱きついた。
遅れてやってきた感動に、涙が溢れてくる。
「何回礼言うんだよ。こっちが言う方だろ」
抱きしめられて、私もそれに応えるように抱きしめる腕に力を入れる。
「何?泣いてんの?」
「だって、私……ああもう幸せ過ぎてこのまま死にたい。このまま殺してー」
「殺さないよ、何言ってんのって、笑ってんのかい!情緒どうした!」
涙を拭いながら、口元を緩めている私の顔を見て、退も笑った。
「だってさ、退が私の事好きになってくれたのも奇跡で、嬉しくて幸せなのに、プロポーズしてくれるんだよ。幸せすぎて泣いたらいいのか、笑ったらいいのか分かんないよ」
「何可愛い事言ってんの?」
更に追撃が入り、クリティカルヒットを食らわされてしまい、その場にしゃがみ込んで、両手の中に顔を埋めた。
「これ以上何も望まない!産まれてきて良かった、退に会えて良かった幸せ!殺して!私のライフはもう0よ!」
「だから情緒!ていうか、幸せに浸ってるとこ悪いんだけど、美緒ちゃんに言わなきゃいけない事がある」
顔を上げたら、退も同じようにしゃがんで頭を下げた。
「プロポーズしたのに申し訳ないんだけど、今すぐ結婚は出来ない。資金貯まったらプロポーズするつもりだったから、まだ貯まってない。ごめんなさい」
「あ、なんだ。いいよ」
もっと重々しい事かと思えば、拍子抜けしてしまった。お金は、私も働いてるのだからなんとでもなる。
「いいの?」
「いつでもいいよ。5年後でも10年後でも。退が私と一緒にいたいって思ってくれる、その気持ちだけで充分嬉しいよ。ありがとう」
「そんなにかかんないよ」
「退大好き」
抱きつけば、その弾みで退の尻が地面についた。それでも、私を受け止めて抱きしめ返してくれる。
「うん、俺も」