本編
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▽辻斬り
最近巷を脅かしている辻斬り。
その話は勿論、私たち真選組の耳にも入ってきて、厳重に警備し、町の人にも警告を行っている。
「見た連中は、その辻斬りが持っていたものは、刀じゃなくて生き物だって口を揃えて言うんだよ」
「生き物……顔は?誰か顔見たって人いたりします?」
「笠被ってたっつーからよォ、それに遠目からだと顔は分かんねェよ」
「ですよねー……」
ただ今、行きつけのスーパーの店長に話を聞いているが、噂の範疇を出ない。
スーパーは、井戸端会議をするおばちゃん連中の集まりやすい場所でもあるので、何か情報は得られないかと思っていたのだが、なかなか厳しい。
「美緒ちゃん気を付けなよ。女の子だからさー、おっちゃん心配でなァ……美緒ちゃんに何かあった日にゃ、おっちゃん泣いちゃう」
くぅっと目元を腕で覆って泣き真似をする店長に、思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。店長も気をつけてくださいね。夜は絶対外に出ないでくださいって、店員さんやお客さんにも伝えてください」
「勿論さね。美緒ちゃんも絶対無茶はしちゃいけないよ」
「ありがとうございます。何か分かったら連絡ください」
お忙しい中ありがとうございました、と頭を下げてスーパーを後にした。
他に隊士が行っていなさそうな場所や人を探し当て、情報を聞き出そうとするが示し合わせたかのように、店長と同じセリフを口にする。
「ダメだ……辻斬りの情報が全然ない……」
湯船に浸かって、そうぼやきながら天井を仰ぐ。
死人に口なしとはこの事だろうか。
見た者はみな遠目から。近付いた人はみな斬られているのだから、情報が少なくて当然だ。
まるで尻尾を出さない辻斬りに辟易する。
「あー!また私のアイス食べられてる!」
お風呂上がりにと、楽しみにとっておいたアイスがなくなっているのだ。犯人は分かっている。
ちゃんと名前も書いてあるのに、食べる神経が理解出来ない。
文句を言ったところで、アイスが戻ってくるわけでもないので、仕方なくアイスを求めてコンビニへと向かう事にした。
ミニ冷蔵庫だけでなく、ミニ冷凍庫も買うべきだろうか。
しかし、通帳が退の手中にある為、すぐに購入許可はおりないだろう。通帳を退に預けてからというもの、出費が格段に減り、退にお金を借りる事もなくなった。
それは喜ばしい事なのだが、特に大きな買い物をする時は、必ず退に購入理由を言って、許可をもらわないといけないのが面倒臭い。
そうは言うものの、退と話せる機会が増えた上に、緩く束縛されているのだと思うと、たまらない気持ちになってくるのも確かだ。言い争いになったりもするけれど。
「沖田の野郎。マジで今日から呼び捨てにしてやる。絶対呼び捨てにしてやる。アイス食われてんのに、沖田に日和ってる奴いる?いねーよなぁ?呼び捨てにすっぞコラァ」
ぶつぶつ文句を吐き出しながら、決意を固める。
コンビニまでの道のりを歩いていると、ふと月明かりが夜道を照らしている事に気が付いた。
見上げれば、紺色の空に浮かぶ綺麗な満月。
沖田隊長への怒りで気付かなかったけれど、体を吹き抜ける心地よい風。風呂上がりの火照った体には丁度いい。
コンビニでアイスと水を買ってから、満月が綺麗に見える場所を探す。どうせなら、満月を見ながらアイスを食べようと考えたからだ。
この判断が、私の身に危険を及ぼす事になるなど知らずに――
いつの間にか、だいぶ屯所から離れている場所まで来ていた。あまり遅くなったら退が心配してしまう。
心配の連絡が来る前に、外でお月見しながらアイスを食べると文面に起こし、送信した。
辻斬りを警戒している人が多いのか、辺りに人はほとんど見当たらない。
静まり返る町に突然怖くなり、踵を返そうとした時、橋を挟んだ向かい側の道を、誰かが歩いているのが見えた。
夜道は危険だと声をかけた方がいいだろう。
橋を渡ろうとしたその時、我が目を疑った。
突然、人が血を噴いて倒れたのだ。
その背後には、笠を被り着流しを身に纏っている人。手には刀――のはずだ。
――『刀じゃなくて生き物だって口を揃えて言うんだよ』
店長、生き物なんて可愛いものじゃないよ……
その男の右腕はメキメキと膨張し、まるで一体化しているように見える。
見付かる前に逃げようと思ったが、遅かった。
男の目は、確実に私を射抜いているように見えた。
辻斬りの目は笠の下にあるはずなのだから、こちらを見ていると認識出来ないはずなのに、しっかりと目が合っている感覚に恐怖する。
私の目を捉えて離してくれない不気味さ。足が竦んで動けない。
しかし、辻斬りは浪人ばかりを狙っているという噂。私なんか眼中にないだろう。そう思っていたのに――
「やぁ。こんな時間にお嬢さんが何をやっているのかな?」
一瞬で距離を縮められた。
男は、橋向かいにいたはずだ。なのに、速すぎる。
男の放つ空気が只者じゃないと知らせる。
視界の隅に入った右腕は、刀と同化し、まるで心臓のように鼓動を刻んでいる。
気圧されそうになるのをどうにか堪え、男を見据える。
制服で、帯刀していれば少しは違っただろうか。
今の私の格好は、風呂上がりのせいもあり、寝る気満々だったので甚平だ。帯刀もしていない。
いや、それは言い訳だ。
例え、帯刀していたとしても、刀を抜けなかっただろう。格が違う。経験が違う。斬ってきた人数も違う。この男に勝てる力も技術もない。
「おや?お嬢さん。ただの町娘ではない匂いがするねェ」
「…………」
私が何も言えずにいると、男はおもむろに笠をはずした。露にされた顔に瞠目する。
「人斬り……似蔵……」
盲目の身でありながら、居合いを駆使し、どんな獲物も一撃必殺で仕留める殺しの達人、岡田似蔵。また、人斬り似蔵とも恐れられている男だ。
橋田屋の事件以来、身を潜ませていると聞いていたが、辻斬りになっているなんて初耳だ。
局長や副長はこの事を知っているのだろうか。
私の所に情報が回ってきていないだけという可能性もある。
似蔵は、鼻に洗浄薬をさすと、顔を近付けてきた。
逃げる間もなく、首筋に這う生暖かいぬるりとした感触。
「ひぃっ……!?」
あまりの気持ち悪さに、舐められた首に手を当てて睨みつける。
その拍子に、持っていたアイスとペットボトルが入ったレジ袋が手から離れ、コンクリートに鈍い音を立てて落ちた。
「やはり幕府の犬か」
何故、舐めただけで分かるのだろう。色々な意味でぞわりと肌が粟立つ。
敵前逃亡は士道不覚悟で切腹だと、副長に言われた事がある。戦いたいが無理だ。
後で切腹しようと覚悟し、急いで踵を返して逃げ出そうとしたが、手首を掴まれた事により叶わなかった。
手首を引かれた反動で、再び似蔵と対峙する。同時に、左腹に入ってくる薄くて長いもの。
「生きて帰れるなんて思わない事さね」
「あっ、あああ……ぅぐっ……ぁぁ……」
目の前が赤く染まった。
刀が抜かれた時に、腹から出た大量の赤がコンクリートを染める。抑えた腹から、手を伝って生ぬるい液体が流れ落ちていく。
腹を抱えて、膝から崩れ落ちた。
今までに感じた事のない程の燃えるような熱さに、その場に蹲り横たわる。
「こんな弱い奴を送りつけてくるなんざ、鬼兵隊もなめられたもんよ」
鬼兵隊……
「ひっ……っ……!っ!」
遅れてやってきた痛み。
それを逃がすように、眉根を寄せ、荒く呼吸をするが声も出ない。体中から滲み出る脂汗。
髪を引っ張られて、顔が無理矢理上げさせられ、頭部と腹部に走る痛みに顔が歪む。
「ロリコンのアイツに手土産するでも良かったかね。弱い者は死ぬのも早い」
髪を離され、重力に逆らう事なく、コンクリートの上に顔が落ちた。
閉じようとする瞼に抗うだけで精一杯で、似蔵の方を見れない。去っていく足音が、コンクリートを伝って鼓膜に届く。
朦朧としていく意識。
それを手放した時、全てが終わるだろう。意識だけは、どうにか繋ぎとめておきたい。
退以外に殺されるのは嫌だ。
「ごほっ……はぁっ、はぁっ……ぅぅ……」
血を吐き出した衝動で、更に痛みが走る腹。
落ちてくる瞼に逆らう間隔が、開いてきたのが分かる。息を吸うより吐く方が楽だ。
最後に、退に好きって言いたかった……
好きだけじゃない。色々言いたい事があったのに、動かす事もままならない唇では、何も伝えられそうにない。
脳裏に浮かぶ退の顔。
一緒にいて楽しかった日。喧嘩をした日。初めておにぎりをもらった日。初めて想いを伝えた日。初めてキスをした日。初めて体を重ねた日。
走馬灯のように、今までの退との思い出が蘇ってきて、死を覚悟する。
その時、ポケットの中の携帯電話が震えた。
ゆっくりと目を開け、力が入りにくくなっている腕を動かそうとするが、なかなか動かない。
腹を抱えている為に、曲げている腕を伸ばすのでさえ至難の業。
腹からハーフパンツのポケットというたった数十センチ……いや、膝も曲がっているのでたった十センチもないかもしれない。なのに、ポケットまでが遠すぎる。
早く出ろと急かすように振動する電話。
切れたのか、ピタッと止まった振動。
それでも、かけてきたのが誰か気になり、ゆっくりゆっくりと携帯を求めて、腕を懸命に動かす。
退かな。退だったらいいな……
会いたいな……退に会いたい……
退の声が聞きたい……
退に触れたい……触れられたい……
死ぬなら退の腕の中で死にたい。
殺されるなら退がいい。
ていうか、退以外の奴に殺されるとかありえないんだけど、ふざけんなよ。あー、なんかすごいムカついてきた。なんだこの状況、意味分かんねーわ。
辻斬り?人斬り?そんなしょーもない奴が、私を殺せるわけないだろ。私を殺せるのは退だけだ。
グッと手に力を入れて、上体をゆっくり起こしていく。
「んんっ……ぐぅ……あっ、はぁっ、はぁっはぁっ……」
手に力を入れた事によって、腹部から更に血が流れる。血がたりなくて頭がふらふらし、寒気までしてきた。
座りながら、どうにかポケットから携帯電話を取り出して、それを開ける。
着信ありにカーソルを合わせて、決定ボタンを押した。
表示された着信履歴の1番上に『退』の1文字。
その画面に、涙が出そうになる。
退が電話をくれた。その事実だけで、生きる力が湧いてくる。
退……
右手首にしているリストバンドに手を置こうとして、ない事に気が付いた。そういえば、さっき風呂で洗ってから、部屋に干したまま身につけていない。
最悪だ。心の拠り所を1つ失ってしまった。
部屋に帰ればあるので、それを希望にする。
メールも来ているので読みたいけれど、今は止血を優先させてもらう事にした。
痛みを堪えてレジ袋を引き寄せ、中からペットボトルを取り出して蓋を開ける。
勿論手に力が入りにくい為、格闘しながらではあったが、どうにか開けられた。
さすがに布を歯で千切る力はない為、甚平の上着を脱ぐ。下にタンクトップを着ておいて正解だった。そのタンクトップも甚平も、すっかり赤に染まってしまい、捨てるしかない。
「ヒッ……!……っ、っ!」
ペットボトルの水を患部に流す。
焼けるような裂けるような痛みに、意識が持っていかれそうになる。腹に心臓が移植されたのではないかと思う程、脈を打っている感覚。
甚平を包帯代わりにして腹に巻く。
包帯代わりとは言うが、包帯の役割を微塵も果たしていないだろうけれど、何も巻いていないよりはマシという程度。
開けて確かめてはいないけれど、アイスはすっかり溶けてしまい、液状と化しているのが想像出来る。
こんな事になるなら、場所に拘っていないで、さっさと食べてしまえば良かった。
それにしても、岡田似蔵が辻斬りだったとは。
メールを見れば、やはり心配の文面。
迎えに行くと、場所を教えるように書いてあるそれに、震える指先にどうにか力を入れて、1文字1文字打っていく。ボタンが固すぎる。
かつて『大丈夫すぐ帰る』という短文に、これだけ時間をかけた事があっただろうか。いや、ない。
ようやく返し終え、携帯を閉じた。
携帯にも、手についていた血が付着してドロドロ。
副長に、この事を伝えるべきだろう。その前に1つ確認しておきたい事があった。
似蔵に顔を近付けられた時、血の匂いに混ざって、微かに潮の匂いがした気がしたのだ。
もしかしたら、気のせいかもしれない。ただ海に寄ってきただけなのかもしれないが、直感を信じてふらふらする足をどうにか踏ん張り、欄干の柱に捕まるようにして体を立たせる。
おのれ、高杉……この私が、なんか、こう……
血を流しすぎたか、いつも以上に頭の回転が悪い。
レジ袋片手に、左腹を抑え1歩1歩確実に、港へと足を進める。途中で杖みたいなのを拾えればいいのだが、そう都合よく落ちていない。
額から滲み出る汗。背中を伝う冷や汗。
どの汗も、歩いた為に出たのとはまた違う、発汗作用が働いている事が分かる。
顎を伝い流れ落ちる汗。切れる息。産まれたての小鹿のように震える足。歩く振動で激痛が走る腹。歩いているのに寒い。一向に暖かくならない体。
「え?……定春……?なんでこんな所に」
港へ向かっていると、向かいからやってきた大きな犬。ここに1匹で来たのだろうか。
定春は、嬉しそうに尻尾を振って、私の周りを歩いている。
その体をもふもふと撫で回したいが、生憎血だらけの手では触れない。この綺麗な毛並みを私の汚い血で汚したくない。
私の周りを歩くのをやめた定春を見れば、何か紙を咥えている。
「定春……もしかして、港に神楽ちゃんとか新ちゃんがいるの?高杉も来てたりする?」
声を出す度に、腹が痛む。
残念ながら、紙も赤で染まってしまいそうで見られないが、定春は頷いた後、来た道へと顔を向けた。
ならば、助けにも行きたい。なのに、体がそれをさせてくれない。
「ごめんね、何も出来なくて……ごめん……」
定春は、紙を地面に置くとタンクトップを噛んだ。
もしかしたら、背中に乗せてくれようとしてくれているのかと思って、慌てて「大丈夫」と口にする。
「大丈夫だから、私まだ動けるから、だから、頼まれてる事優先して。私電話もあるから、迎えに来てもらえるから」
定春は、噛んでいたそれを離し、それでも心配そうにくぅーんと鳴いた。
「大丈夫。心配してくれてありがとう。定春も気を付けてね」
答えるように「わん」と吠えて、私の頬をペロリと舐めると、紙を咥えて去って行く。
何度か立ち止まってはこちらを見てくれていたけれど、引き返してくる様子もない事に安堵した。
定春とは、初対面でこそ噛まれてあまりいい印象ではなかったけれど、とても優しい犬だ。
あの心優しい神楽ちゃんが育てているので、優しい犬に育つのは当然かもしれない。
神楽ちゃんか新ちゃんか、誰がいるのか分からないけれど、高杉の元に誰かが向かっているのは確かだ。
先程、定春との会話で体力が少し減ってしまい、痛みが増した。それでも、そのダメージ分癒されもしたのでプラマイゼロ。
港に向かおうとしたが、定春のおかげで高杉が来ている事も分かった。定春には感謝しかない。
双眼鏡も所持していないので、船の中を覗けない。
港に行っても、これ以上情報を掴むのは厳しいだろう。
手負いの今、見付かるわけにはいかない。見付かったら最後、確実に殺されるのは目に見えている。
死んだり捕まったりなどしたら、真選組に情報を流すどころの話ではなくなる。
高杉が来ている事が確認出来たのだから、後は私より確実に強い他の隊士に任せた方が良いだろう。深追いはやめて、さっさと退散する事にした。
屯所への道のりが遠い。
道すがら何度コンクリートを抱きしめ、何度意識を失いそうになっただろう。冬でもないのに、寒気がおさまらない。
裸で雪が降る中に放り出されたかのように、凍えそうな程寒くて、痛くて、でも腹だけは熱い。体の感覚もマヒしている気がする。
視界もどこかよどんでいて、よく見えるようにしたいのに、目を擦ったり、瞬きをするような、視界をクリアにする動作に使う力など残っていない。
瞬きでさえ、1度目を閉じようものなら、開けるのに時間がかかる程だ。
塀に片手をついて歩いていると、漸く屯所が見えてきた。門の前にある影。
屯所の門前だから、門番の隊士だろう。
あ、いや、違う……
「美緒ちゃん!?」
やっぱりそうだ。
「……さ、……さが……っ!ごほっ……はぁっ」
「え!?何、何があったの?どこが大丈夫なんだよ。全然大丈夫じゃないんだけど。アイス食べてきたんじゃなかったの?」
肩を貸してくれて、先程より楽に立てる。
持っていたレジ袋が退の手に渡り、退に体重をほぼ全て預けた状態。
あー、退だ。退がいる。会いたかった退がいる。
「さが……っ、つじ、ぎりの……」
「喋んなくていいから。今副長呼んでくるから待っててよ。死なないでよ!」
私を上がり框に座らせて、壁に肩を預けてから、副長ォォ!と叫びながら、廊下を走っていく音がする。
大袈裟だな。私が死ぬわけないのに、退以外に殺されるわけがないのに……
「オイオイ、エライ事になってんな。辻斬りにやられたのか?辻斬りは見たのか?」
「美緒ちゃん、救急車呼んでもらったから。すぐ来るから」
体が限界を訴えている。今にも意識を手放しそうだ。でも、伝えないといけない事がある。
「……つじぎり……いぞう……だった」
「え?何?聞こえない」
「山崎、あんま喋らせんな。死ぬぞ」
だから死なないって……
「副長!聞き出せって言ったり喋らせんなって言ったりどっちなんすか!俺への遺言かもしれないじゃないですか!」
「テメーへの遺言なんざどーでもいいんだよ。オイ美緒。辻斬りにやられたのか、勝手にドジったのかどっちだ」
退の匂いが鼻腔を擽る。とても優しくて暖かいものに包まれている体。恐らく、退に抱きしめられているのだろう。
瞼を開ける力も残っていなくて、確認出来ないのが残念だ。
「つじ……いぞ……たか、ぎ……ふね……きて……」
情報を伝えたいのに、単語的な事を話すので精一杯だ。退に伝わっただろうか。伝わっていてほしい。
「美緒ちゃん!美緒ちゃん!」
ずっと私の名前を呼んでくれている退の声が、段々遠くなっていく。
そんなに何回も呼ばなくても聞こえてるよ。
ただ、疲れたから寝るだけ。
少し寝たら、ちゃんと起きるから。
元気になってるからね。
心配しないで……
最近巷を脅かしている辻斬り。
その話は勿論、私たち真選組の耳にも入ってきて、厳重に警備し、町の人にも警告を行っている。
「見た連中は、その辻斬りが持っていたものは、刀じゃなくて生き物だって口を揃えて言うんだよ」
「生き物……顔は?誰か顔見たって人いたりします?」
「笠被ってたっつーからよォ、それに遠目からだと顔は分かんねェよ」
「ですよねー……」
ただ今、行きつけのスーパーの店長に話を聞いているが、噂の範疇を出ない。
スーパーは、井戸端会議をするおばちゃん連中の集まりやすい場所でもあるので、何か情報は得られないかと思っていたのだが、なかなか厳しい。
「美緒ちゃん気を付けなよ。女の子だからさー、おっちゃん心配でなァ……美緒ちゃんに何かあった日にゃ、おっちゃん泣いちゃう」
くぅっと目元を腕で覆って泣き真似をする店長に、思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。店長も気をつけてくださいね。夜は絶対外に出ないでくださいって、店員さんやお客さんにも伝えてください」
「勿論さね。美緒ちゃんも絶対無茶はしちゃいけないよ」
「ありがとうございます。何か分かったら連絡ください」
お忙しい中ありがとうございました、と頭を下げてスーパーを後にした。
他に隊士が行っていなさそうな場所や人を探し当て、情報を聞き出そうとするが示し合わせたかのように、店長と同じセリフを口にする。
「ダメだ……辻斬りの情報が全然ない……」
湯船に浸かって、そうぼやきながら天井を仰ぐ。
死人に口なしとはこの事だろうか。
見た者はみな遠目から。近付いた人はみな斬られているのだから、情報が少なくて当然だ。
まるで尻尾を出さない辻斬りに辟易する。
「あー!また私のアイス食べられてる!」
お風呂上がりにと、楽しみにとっておいたアイスがなくなっているのだ。犯人は分かっている。
ちゃんと名前も書いてあるのに、食べる神経が理解出来ない。
文句を言ったところで、アイスが戻ってくるわけでもないので、仕方なくアイスを求めてコンビニへと向かう事にした。
ミニ冷蔵庫だけでなく、ミニ冷凍庫も買うべきだろうか。
しかし、通帳が退の手中にある為、すぐに購入許可はおりないだろう。通帳を退に預けてからというもの、出費が格段に減り、退にお金を借りる事もなくなった。
それは喜ばしい事なのだが、特に大きな買い物をする時は、必ず退に購入理由を言って、許可をもらわないといけないのが面倒臭い。
そうは言うものの、退と話せる機会が増えた上に、緩く束縛されているのだと思うと、たまらない気持ちになってくるのも確かだ。言い争いになったりもするけれど。
「沖田の野郎。マジで今日から呼び捨てにしてやる。絶対呼び捨てにしてやる。アイス食われてんのに、沖田に日和ってる奴いる?いねーよなぁ?呼び捨てにすっぞコラァ」
ぶつぶつ文句を吐き出しながら、決意を固める。
コンビニまでの道のりを歩いていると、ふと月明かりが夜道を照らしている事に気が付いた。
見上げれば、紺色の空に浮かぶ綺麗な満月。
沖田隊長への怒りで気付かなかったけれど、体を吹き抜ける心地よい風。風呂上がりの火照った体には丁度いい。
コンビニでアイスと水を買ってから、満月が綺麗に見える場所を探す。どうせなら、満月を見ながらアイスを食べようと考えたからだ。
この判断が、私の身に危険を及ぼす事になるなど知らずに――
いつの間にか、だいぶ屯所から離れている場所まで来ていた。あまり遅くなったら退が心配してしまう。
心配の連絡が来る前に、外でお月見しながらアイスを食べると文面に起こし、送信した。
辻斬りを警戒している人が多いのか、辺りに人はほとんど見当たらない。
静まり返る町に突然怖くなり、踵を返そうとした時、橋を挟んだ向かい側の道を、誰かが歩いているのが見えた。
夜道は危険だと声をかけた方がいいだろう。
橋を渡ろうとしたその時、我が目を疑った。
突然、人が血を噴いて倒れたのだ。
その背後には、笠を被り着流しを身に纏っている人。手には刀――のはずだ。
――『刀じゃなくて生き物だって口を揃えて言うんだよ』
店長、生き物なんて可愛いものじゃないよ……
その男の右腕はメキメキと膨張し、まるで一体化しているように見える。
見付かる前に逃げようと思ったが、遅かった。
男の目は、確実に私を射抜いているように見えた。
辻斬りの目は笠の下にあるはずなのだから、こちらを見ていると認識出来ないはずなのに、しっかりと目が合っている感覚に恐怖する。
私の目を捉えて離してくれない不気味さ。足が竦んで動けない。
しかし、辻斬りは浪人ばかりを狙っているという噂。私なんか眼中にないだろう。そう思っていたのに――
「やぁ。こんな時間にお嬢さんが何をやっているのかな?」
一瞬で距離を縮められた。
男は、橋向かいにいたはずだ。なのに、速すぎる。
男の放つ空気が只者じゃないと知らせる。
視界の隅に入った右腕は、刀と同化し、まるで心臓のように鼓動を刻んでいる。
気圧されそうになるのをどうにか堪え、男を見据える。
制服で、帯刀していれば少しは違っただろうか。
今の私の格好は、風呂上がりのせいもあり、寝る気満々だったので甚平だ。帯刀もしていない。
いや、それは言い訳だ。
例え、帯刀していたとしても、刀を抜けなかっただろう。格が違う。経験が違う。斬ってきた人数も違う。この男に勝てる力も技術もない。
「おや?お嬢さん。ただの町娘ではない匂いがするねェ」
「…………」
私が何も言えずにいると、男はおもむろに笠をはずした。露にされた顔に瞠目する。
「人斬り……似蔵……」
盲目の身でありながら、居合いを駆使し、どんな獲物も一撃必殺で仕留める殺しの達人、岡田似蔵。また、人斬り似蔵とも恐れられている男だ。
橋田屋の事件以来、身を潜ませていると聞いていたが、辻斬りになっているなんて初耳だ。
局長や副長はこの事を知っているのだろうか。
私の所に情報が回ってきていないだけという可能性もある。
似蔵は、鼻に洗浄薬をさすと、顔を近付けてきた。
逃げる間もなく、首筋に這う生暖かいぬるりとした感触。
「ひぃっ……!?」
あまりの気持ち悪さに、舐められた首に手を当てて睨みつける。
その拍子に、持っていたアイスとペットボトルが入ったレジ袋が手から離れ、コンクリートに鈍い音を立てて落ちた。
「やはり幕府の犬か」
何故、舐めただけで分かるのだろう。色々な意味でぞわりと肌が粟立つ。
敵前逃亡は士道不覚悟で切腹だと、副長に言われた事がある。戦いたいが無理だ。
後で切腹しようと覚悟し、急いで踵を返して逃げ出そうとしたが、手首を掴まれた事により叶わなかった。
手首を引かれた反動で、再び似蔵と対峙する。同時に、左腹に入ってくる薄くて長いもの。
「生きて帰れるなんて思わない事さね」
「あっ、あああ……ぅぐっ……ぁぁ……」
目の前が赤く染まった。
刀が抜かれた時に、腹から出た大量の赤がコンクリートを染める。抑えた腹から、手を伝って生ぬるい液体が流れ落ちていく。
腹を抱えて、膝から崩れ落ちた。
今までに感じた事のない程の燃えるような熱さに、その場に蹲り横たわる。
「こんな弱い奴を送りつけてくるなんざ、鬼兵隊もなめられたもんよ」
鬼兵隊……
「ひっ……っ……!っ!」
遅れてやってきた痛み。
それを逃がすように、眉根を寄せ、荒く呼吸をするが声も出ない。体中から滲み出る脂汗。
髪を引っ張られて、顔が無理矢理上げさせられ、頭部と腹部に走る痛みに顔が歪む。
「ロリコンのアイツに手土産するでも良かったかね。弱い者は死ぬのも早い」
髪を離され、重力に逆らう事なく、コンクリートの上に顔が落ちた。
閉じようとする瞼に抗うだけで精一杯で、似蔵の方を見れない。去っていく足音が、コンクリートを伝って鼓膜に届く。
朦朧としていく意識。
それを手放した時、全てが終わるだろう。意識だけは、どうにか繋ぎとめておきたい。
退以外に殺されるのは嫌だ。
「ごほっ……はぁっ、はぁっ……ぅぅ……」
血を吐き出した衝動で、更に痛みが走る腹。
落ちてくる瞼に逆らう間隔が、開いてきたのが分かる。息を吸うより吐く方が楽だ。
最後に、退に好きって言いたかった……
好きだけじゃない。色々言いたい事があったのに、動かす事もままならない唇では、何も伝えられそうにない。
脳裏に浮かぶ退の顔。
一緒にいて楽しかった日。喧嘩をした日。初めておにぎりをもらった日。初めて想いを伝えた日。初めてキスをした日。初めて体を重ねた日。
走馬灯のように、今までの退との思い出が蘇ってきて、死を覚悟する。
その時、ポケットの中の携帯電話が震えた。
ゆっくりと目を開け、力が入りにくくなっている腕を動かそうとするが、なかなか動かない。
腹を抱えている為に、曲げている腕を伸ばすのでさえ至難の業。
腹からハーフパンツのポケットというたった数十センチ……いや、膝も曲がっているのでたった十センチもないかもしれない。なのに、ポケットまでが遠すぎる。
早く出ろと急かすように振動する電話。
切れたのか、ピタッと止まった振動。
それでも、かけてきたのが誰か気になり、ゆっくりゆっくりと携帯を求めて、腕を懸命に動かす。
退かな。退だったらいいな……
会いたいな……退に会いたい……
退の声が聞きたい……
退に触れたい……触れられたい……
死ぬなら退の腕の中で死にたい。
殺されるなら退がいい。
ていうか、退以外の奴に殺されるとかありえないんだけど、ふざけんなよ。あー、なんかすごいムカついてきた。なんだこの状況、意味分かんねーわ。
辻斬り?人斬り?そんなしょーもない奴が、私を殺せるわけないだろ。私を殺せるのは退だけだ。
グッと手に力を入れて、上体をゆっくり起こしていく。
「んんっ……ぐぅ……あっ、はぁっ、はぁっはぁっ……」
手に力を入れた事によって、腹部から更に血が流れる。血がたりなくて頭がふらふらし、寒気までしてきた。
座りながら、どうにかポケットから携帯電話を取り出して、それを開ける。
着信ありにカーソルを合わせて、決定ボタンを押した。
表示された着信履歴の1番上に『退』の1文字。
その画面に、涙が出そうになる。
退が電話をくれた。その事実だけで、生きる力が湧いてくる。
退……
右手首にしているリストバンドに手を置こうとして、ない事に気が付いた。そういえば、さっき風呂で洗ってから、部屋に干したまま身につけていない。
最悪だ。心の拠り所を1つ失ってしまった。
部屋に帰ればあるので、それを希望にする。
メールも来ているので読みたいけれど、今は止血を優先させてもらう事にした。
痛みを堪えてレジ袋を引き寄せ、中からペットボトルを取り出して蓋を開ける。
勿論手に力が入りにくい為、格闘しながらではあったが、どうにか開けられた。
さすがに布を歯で千切る力はない為、甚平の上着を脱ぐ。下にタンクトップを着ておいて正解だった。そのタンクトップも甚平も、すっかり赤に染まってしまい、捨てるしかない。
「ヒッ……!……っ、っ!」
ペットボトルの水を患部に流す。
焼けるような裂けるような痛みに、意識が持っていかれそうになる。腹に心臓が移植されたのではないかと思う程、脈を打っている感覚。
甚平を包帯代わりにして腹に巻く。
包帯代わりとは言うが、包帯の役割を微塵も果たしていないだろうけれど、何も巻いていないよりはマシという程度。
開けて確かめてはいないけれど、アイスはすっかり溶けてしまい、液状と化しているのが想像出来る。
こんな事になるなら、場所に拘っていないで、さっさと食べてしまえば良かった。
それにしても、岡田似蔵が辻斬りだったとは。
メールを見れば、やはり心配の文面。
迎えに行くと、場所を教えるように書いてあるそれに、震える指先にどうにか力を入れて、1文字1文字打っていく。ボタンが固すぎる。
かつて『大丈夫すぐ帰る』という短文に、これだけ時間をかけた事があっただろうか。いや、ない。
ようやく返し終え、携帯を閉じた。
携帯にも、手についていた血が付着してドロドロ。
副長に、この事を伝えるべきだろう。その前に1つ確認しておきたい事があった。
似蔵に顔を近付けられた時、血の匂いに混ざって、微かに潮の匂いがした気がしたのだ。
もしかしたら、気のせいかもしれない。ただ海に寄ってきただけなのかもしれないが、直感を信じてふらふらする足をどうにか踏ん張り、欄干の柱に捕まるようにして体を立たせる。
おのれ、高杉……この私が、なんか、こう……
血を流しすぎたか、いつも以上に頭の回転が悪い。
レジ袋片手に、左腹を抑え1歩1歩確実に、港へと足を進める。途中で杖みたいなのを拾えればいいのだが、そう都合よく落ちていない。
額から滲み出る汗。背中を伝う冷や汗。
どの汗も、歩いた為に出たのとはまた違う、発汗作用が働いている事が分かる。
顎を伝い流れ落ちる汗。切れる息。産まれたての小鹿のように震える足。歩く振動で激痛が走る腹。歩いているのに寒い。一向に暖かくならない体。
「え?……定春……?なんでこんな所に」
港へ向かっていると、向かいからやってきた大きな犬。ここに1匹で来たのだろうか。
定春は、嬉しそうに尻尾を振って、私の周りを歩いている。
その体をもふもふと撫で回したいが、生憎血だらけの手では触れない。この綺麗な毛並みを私の汚い血で汚したくない。
私の周りを歩くのをやめた定春を見れば、何か紙を咥えている。
「定春……もしかして、港に神楽ちゃんとか新ちゃんがいるの?高杉も来てたりする?」
声を出す度に、腹が痛む。
残念ながら、紙も赤で染まってしまいそうで見られないが、定春は頷いた後、来た道へと顔を向けた。
ならば、助けにも行きたい。なのに、体がそれをさせてくれない。
「ごめんね、何も出来なくて……ごめん……」
定春は、紙を地面に置くとタンクトップを噛んだ。
もしかしたら、背中に乗せてくれようとしてくれているのかと思って、慌てて「大丈夫」と口にする。
「大丈夫だから、私まだ動けるから、だから、頼まれてる事優先して。私電話もあるから、迎えに来てもらえるから」
定春は、噛んでいたそれを離し、それでも心配そうにくぅーんと鳴いた。
「大丈夫。心配してくれてありがとう。定春も気を付けてね」
答えるように「わん」と吠えて、私の頬をペロリと舐めると、紙を咥えて去って行く。
何度か立ち止まってはこちらを見てくれていたけれど、引き返してくる様子もない事に安堵した。
定春とは、初対面でこそ噛まれてあまりいい印象ではなかったけれど、とても優しい犬だ。
あの心優しい神楽ちゃんが育てているので、優しい犬に育つのは当然かもしれない。
神楽ちゃんか新ちゃんか、誰がいるのか分からないけれど、高杉の元に誰かが向かっているのは確かだ。
先程、定春との会話で体力が少し減ってしまい、痛みが増した。それでも、そのダメージ分癒されもしたのでプラマイゼロ。
港に向かおうとしたが、定春のおかげで高杉が来ている事も分かった。定春には感謝しかない。
双眼鏡も所持していないので、船の中を覗けない。
港に行っても、これ以上情報を掴むのは厳しいだろう。
手負いの今、見付かるわけにはいかない。見付かったら最後、確実に殺されるのは目に見えている。
死んだり捕まったりなどしたら、真選組に情報を流すどころの話ではなくなる。
高杉が来ている事が確認出来たのだから、後は私より確実に強い他の隊士に任せた方が良いだろう。深追いはやめて、さっさと退散する事にした。
屯所への道のりが遠い。
道すがら何度コンクリートを抱きしめ、何度意識を失いそうになっただろう。冬でもないのに、寒気がおさまらない。
裸で雪が降る中に放り出されたかのように、凍えそうな程寒くて、痛くて、でも腹だけは熱い。体の感覚もマヒしている気がする。
視界もどこかよどんでいて、よく見えるようにしたいのに、目を擦ったり、瞬きをするような、視界をクリアにする動作に使う力など残っていない。
瞬きでさえ、1度目を閉じようものなら、開けるのに時間がかかる程だ。
塀に片手をついて歩いていると、漸く屯所が見えてきた。門の前にある影。
屯所の門前だから、門番の隊士だろう。
あ、いや、違う……
「美緒ちゃん!?」
やっぱりそうだ。
「……さ、……さが……っ!ごほっ……はぁっ」
「え!?何、何があったの?どこが大丈夫なんだよ。全然大丈夫じゃないんだけど。アイス食べてきたんじゃなかったの?」
肩を貸してくれて、先程より楽に立てる。
持っていたレジ袋が退の手に渡り、退に体重をほぼ全て預けた状態。
あー、退だ。退がいる。会いたかった退がいる。
「さが……っ、つじ、ぎりの……」
「喋んなくていいから。今副長呼んでくるから待っててよ。死なないでよ!」
私を上がり框に座らせて、壁に肩を預けてから、副長ォォ!と叫びながら、廊下を走っていく音がする。
大袈裟だな。私が死ぬわけないのに、退以外に殺されるわけがないのに……
「オイオイ、エライ事になってんな。辻斬りにやられたのか?辻斬りは見たのか?」
「美緒ちゃん、救急車呼んでもらったから。すぐ来るから」
体が限界を訴えている。今にも意識を手放しそうだ。でも、伝えないといけない事がある。
「……つじぎり……いぞう……だった」
「え?何?聞こえない」
「山崎、あんま喋らせんな。死ぬぞ」
だから死なないって……
「副長!聞き出せって言ったり喋らせんなって言ったりどっちなんすか!俺への遺言かもしれないじゃないですか!」
「テメーへの遺言なんざどーでもいいんだよ。オイ美緒。辻斬りにやられたのか、勝手にドジったのかどっちだ」
退の匂いが鼻腔を擽る。とても優しくて暖かいものに包まれている体。恐らく、退に抱きしめられているのだろう。
瞼を開ける力も残っていなくて、確認出来ないのが残念だ。
「つじ……いぞ……たか、ぎ……ふね……きて……」
情報を伝えたいのに、単語的な事を話すので精一杯だ。退に伝わっただろうか。伝わっていてほしい。
「美緒ちゃん!美緒ちゃん!」
ずっと私の名前を呼んでくれている退の声が、段々遠くなっていく。
そんなに何回も呼ばなくても聞こえてるよ。
ただ、疲れたから寝るだけ。
少し寝たら、ちゃんと起きるから。
元気になってるからね。
心配しないで……