・篠原の恋
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「篠原さんいたァァァ!篠原さん申し訳ございませんんん!」
「え!?な、なん、え?ど、どう……え?」
とある夜、部屋に入ろうとした時、向かいからダッシュで来た内田さんは、そのままスライディング土下座をした。
突然の事に驚いて、脳の処理が追いつかず、単語ともとれない言葉が口から出る。
「篠原さんすみません。私がバカなばっかりにこんな事になってしまって」
「え?何がですか?何があったんですか?ていうか、手の包帯もどうされたんですか?」
その前にしゃがんで、問いかけた。痛々しく右手に巻かれている包帯も気になる。
ゆっくり上がった内田さんの顔は、ここが廊下だという事を差し引いても暗い。
「えっと……」
「篠原さん、私、副長の命令で、1ヶ月屋敷から出られなくなりました。申し訳ございません。私がバカなばっかりに、篠原さんにも負担や迷惑をかける事になってしまいました。本当にすみません。この罪、どう償えばいいですか」
「え?すみません、状況が把握出来ません。なんで屋敷から出られないんですか?」
再び頭を下げた内田さんは、その体勢のまま理由を紡いでいく。
仕事を1日サボったのを申し訳なく思い、仕事をしていた体 を装い、お通ちゃんの恋愛沙汰を報告書にまとめて提出したら、副長に謹慎を食らったらしい。
この人本当にバカなんだなと、逆に面白くなってくる。一緒にいて飽きない人だ。
下がっている頭を撫でたい。頭に伸ばしかけた手を引っ込めた。
「仕事の事は大丈夫ですから、気にしないでください。それより、手の方は大丈夫なんですか?」
「手は、犬に噛まれただけなんで大丈夫です。それよりすみません。ご迷惑おかけします。今度何かお詫びをしますね」
立ち上がると、また深く頭を下げた。
それにしても、土方も土方だ。最低でも反省文レベルで、謹慎にする必要はないと思う。
たった1ヶ月といえど、されど1ヶ月。
内田さんの分も仕事が乗っかってきたこちらの身にもなってほしい。
しかしお詫びか……お詫び、何をしてくれるんだろうか。体でお詫び……想像しかけて罪悪感が募り、ふらふらと柱に額をつける。
俺は、勝手にキスをしただけではなく、勝手に脳内であんな妄想をするなんて、これから内田さんとどんな顔をして会えばいいんだ。
やり場のない思いをどこにやったらいいか分からず、柱に頭を何度も叩き付けた。
「オイオイ、篠原がなんかやってんぞ。どうした?」
「テメーらァァァ!ついに篠原が壊れたぞォォォ!」
俺の奇行に、通りすがりの隊士の笑い声が廊下に響いた。
ちなみに、お詫びとは来月の内田さんの非番を俺にくれるという、たったそれだけ。
非番が増えた所で、彼女も友達もいない俺には嬉しくもなんともない。働いてる方がマシだが、土方も「この際だ、ゆっくり休め」なんて言ってくる始末。
「篠原さんに代わって頑張ります」と胸の前で拳を握る姿が可愛い。
なんでこの人は何しても可愛いんだろう。可愛さの暴力で俺を殺しに来てるんじゃないだろうか。
内田さんが謹慎になって2日目の朝、食堂で珍しく声を荒らげている。
「ちょっとみなさん!言わせてもらいますけど、炊事は当番制なんだから、当番の人がやってください!私が謹慎中だからって丸投げしないでください!」
怒っている内田さんに、ざわつく隊士達。
「え?何言ってんだ?」
「これ内田さんの仕事ですよね?」
「謹慎中、屋敷の事全部美緒がやるって聞いたけど」
「……あの、想像はつくんですけど、誰が言ってたか聞いていいですか?」
「沖田隊長がスピーカーで触れ回ってた」
そういう理由で、内田さんがこの1ヶ月、毎日ご飯を作ってくれる事になったのだ。それを聞いてテンションが上がる。
ナイス土方と沖田さん!
しかし、毎日食べられるのは期限付き。1ヶ月は短すぎる。
今すぐ内田さんと結婚したくなってきた。そしたら、期限なんて言わずとも、365日朝昼晩ずっと食べられるのに。
そんな願いを抱くだけ虚しい。
食べ終えた食器を返却口に持って行こうとしたら、嫌な物が視界に入った。そこには、食器を洗っている内田さんの頭を撫でている山崎さんの姿。
その光景を横目に返却口にトレイを置いて、食堂を後にした。
内田さんはあれから文句も弱音も吐かずに、毎日俺達の身の回りの世話に精を出している。それに加えて、沖田隊長の嫌がらせにも負けずに反撃しているのだから助けたくなるというもの。
俺が助けたところで、内田さんの心には何も響かない。
それは分かっているはずなのに――
「内田さん、手伝いますよ」
道場の床をモップ掛けしている内田さんに声をかけた。
「え?大丈夫ですよ。お気持ちだけ受け取ります」
「俺も非番で何もする事ないので」
「そうですか?じゃあ、お言葉に甘えて……あっちからお願いします」
この広い道場の端と端。何も言葉を交わさず、ただひたすらモップをかけていく。
何か話したかったけれど、何もネタが思い浮かばない。嘘だ。聞きたい事だらけで何から聞いたらいいか、何を聞けば話が盛り上がるのか選別出来ない。
こういう時、内田さんから何か話しかけてくれるのではと期待したのだが、掃除に集中している。
内田さんとの距離が徐々に狭まってきているのを感じ、このまま心の距離も近くなればいいのにと思う。
壁に当たり次の木目に合わせてモップの向きを変えると、内田さんと隣同士になった。
「おっ。なんと偶然にも横並びになりましたね」
それは俺がわざと合わせたんですよと言ったら、どんな反応をするだろう。気持ち悪いって言われたら悲しいからやめとこう。
「今日暑いですね。コレ終わったらちゃんと水分とってくださいね。倒れたら大変なので」
「あっ、ハイ。あの、えっと、これからも予定ないので、何か出来る事手伝いますよ」
「それは本当に申し訳ないので大丈夫です」
勇気を出したのに、あっさりと断られてしまった。
一緒にいる口実がなくなった。つまらない。
モップを倉庫に片付けた後、道場の出入口で「手伝っていただきありがとうございました」と可愛い笑顔を浮かべると、振り返りもせずにさっさと去って行く内田さん。
ほら、やっぱりだ。内田さんの中に何も残らない。俺の中での想いが膨らむだけ。
どんどん苦しくなってきて、どうしたらいいか分からず、山崎さんがいる日の夜に部屋を訪ねた。
「山崎さん助けてください。俺、どうしたらいいか分からなくて……最近、内田さんと結婚したいまで思ってきてしまって……どうしたらいいですか」
「いや、知らねーよ。それ聞いて俺どう言えばいいんだよ」
「こんな事相談出来るの山崎さんしかいなくて……内田さんと別れて俺に――」
「別れねーし、お前にやるわけねーだろ!」
最後まで言う前に、力強く拒否されてしまった。
「じゃあ1回だけやらせてください。本当に1回だけ」
「バカか!いいって言うわけねーだろ!」
「じゃあ先っちょだけでいいんで。なんなら素股とかパイず――」
「待て待て待て!一旦落ち着け!どうしたお前!やべーぞ。相当参ってんなお前。そんなにアイツの事好きなの?」
垂らした顔を片手で覆って、肯定を返す。
「俺、こんなに誰かを好きになったの初めてで……山崎さんに出来る事は、内田さんを俺にくれる事だと思うんです」
「いや、だからやらねーっつってんだろ。じゃあ告白すれば?そんで思いっきり振られてこいよ。そしたら多少なりとも諦めつくでしょ」
「告白したら内田さんとの関係が終わるじゃないですか。それは嫌なんです。でも結婚したいんです。お父さん、内田さんを俺にください」
「誰がお父さんんん?美緒は誰にもやんねーよ。一生俺の女だよ」
そのセリフを聞いて、深くため息をつく。
「山崎さん邪魔だなぁ……」
「それ俺のセリフな。つーか、相談乗ってもらっておいて邪魔ってなんだ。腹立つな。帰れ」
「そうですよね、すみません……」
山崎さんを邪魔だと言っても、内田さんの気持ちが俺に向いてくれないと意味がない。
それに、内田さんの事を相談するのは山崎さんが1番適切。そんな人を邪魔者呼ばわりは、失礼だったと思わないでもない。
暫く沈黙が落ちる部屋の中で、先にその空気を破ったのは山崎さん。
「告白する気ねーなら、自分で納得出来るような妥協点見付けるなり、他に目ェやるなりしねーとずっとそのまんまだぞ」
「はい……」
「今度、吉村か誰かにキャバクラとか合コンとか連れてってもらえよ。美緒ちゃんよりいい女いるだろ」
「連れて行ってもらいました。内田さんと比べてしまってダメでした。総合的評価は内田さんの勝利です」
「いや勝利ですじゃねーよ!アイツよりいい所見つけろよ!何やってんだよ!」
頭を抱える山崎さんに、俺も同じようにしたくなる。
「なんていうか、内田さん、何かにつけて『凄い凄い』って褒めてくれるんで、なんか、一緒にいると自己肯定感が爆上がりするっていうか、俺ってもしかしてすげー人間だったのかって錯覚させられるっていうか……」
「あー……分かる。言われ過ぎて、たまに、俺の事バカにしてんじゃねーの?って思う時あるけど」
「マジですか。でも、内田さん人の事バカにしたりしませんよね。人の悪口も言わないし」
「……まァそうだな」
「泣き言も言わずにひたむきに頑張ってるし、ああいう姿見せられると護りたくなるんですよね。表情がコロコロ変わるのも可愛いし、いや何しても可愛い。喋っても可愛い、動いても可愛い。だから見てて飽きないっていうか……でも俺まだ泣き顔って見てない気がして――」
「なァ、コレなんの時間?お前、美緒ちゃんの話し過ぎじゃね?もういいよその話は。お前どんだけするつもりだよ」
山崎さんに話を遮られて、そんなに話していたかと首を傾げる。
「え、俺そんなに話してます?まだ全然話してないんですけど」
「えぇっ!全然喋ってねーの?アレで?もういいもういい。この話は終わり。俺が照れくさい。これ以上聞きたくねーよ。部屋戻れ」
「最低でもあと5時間は余裕で話せますけど。今度一緒に飲み行きます?内田さんの事もっと色々聞きたいですし」
「なげーよ!なんだよ5時間って!バカだろ。もういいっつってんだよ。飲みにも行かねーし、美緒ちゃんの話もしねーよ。相談も終わっただろ。部屋戻れ」
シッシッと犬猫でも追い払うかのように手首を振って、追い返そうとする山崎さん。
「いいな、名前呼び。俺も内田さんの事名前で呼びたいんですけど、いいですか?」
「知らねーよ!帰れっつってんだから帰れ!」
「でも名前で呼ぶの緊張するな」
「帰れっつってんのが聞こえねーのか!帰れ!」
「そうですね、吐き出したら少し楽になったので戻ります。ありがとうございました。また話聞いてください」
「聞かねーよ。もうお前と話すの嫌」
そう嘆く山崎さんに、失礼しましたと頭を下げて部屋を後にした。
明確なアドバイスなどをもらったワケでも、解決策が見付かったワケでもないけれど、気持ちが幾分か楽になっている。好きを溜めすぎていたらしい。
また、山崎さんに聞いてもらおう。
今日は、久しぶりにぐっすり眠れそうだ。
ある時、食堂に向かっていると山崎さんと内田さんが仲良く前を歩いている。
この2人の後ろを歩くのは妙な嫌悪がある。かといって追い抜かしたり、声を掛けるのも違う。悶々と悩んでいると「しんちゃん」という単語が耳に届いた。思わず聞き耳を立ててる。
「猫耳ねー……」
「猫耳!どう?」
「それうさぎだよ。手でやってもなんも思わねーな」
頭に耳の真似か、両手を付けている姿を後ろからではなく前から見たい。絶対可愛い。
「今度新ちゃんから猫耳借りようかな」
「どうせやるならシッポと首輪もいるだろ」
「え?やだー。退さんのエッチー」
「しずかちゃんみたいに言うな」
この会話を後ろで聞いていた俺は、一気に食欲が失せ、代わりに来たのは山崎さんへの苛立ち。
一目散に部屋に引き返して、枕をサンドバッグ代わりに拳を叩き付ける。
嫉妬しすぎて血を吐きそうだ。
偶然だとしても、あんな会話聞きたくなかった。
クソ山崎!俺の気持ちを知ってて、俺の目の前で堂々と内田さんとイチャイチャしやがって!俺も内田さんの猫耳姿見たい!猫になりきった内田さんが見たい!絶対可愛い!首輪やシッポもつけるなら服装は下着がいい!エロい!絶対可愛いしエロい!
妄想だけで興奮が頂点に達してしまった。
ていうか、"しんちゃん"って誰だ!俺もそう呼ばれたい!猫耳だってなんだって貸す!猫耳持ってないけど!
先程のしんちゃんという声が耳に残って離れない。違う人の事なのに、俺の事を呼ばれた気がしてそれだけでも興奮材料になる程の威力。
**
俺が任務に出ている間に、内田さんが辻斬りに斬られたという話を聞いた。
命に別状はなく、既に退院をしていて、自室で療養中らしい。
そんなに早く退院して大丈夫なのだろうか。
心配なので、様子を見に行こうとした時――
「だから信用ならねーんだって!なァ?原田もそう思うだろ?」
「どう信用ならねーのよ!原田隊長、ガツンと言ったってください!」
「知らねーよ!俺を巻き込むな!」
廊下で、原田隊長の背中に隠れて、山崎さんと言い争っている内田さんがいた。
斬られたという事だが元気そうだ。案外傷は浅いのかもしれない。
そう思った時、内田さんが腹を庇うように手を当てて膝をついた。
「ホラ見ろ。大声出すから」
「内田、大人しく厠連れてってもらえ」
内田さんの声は小さくて、この距離だと何を言っているかは聞こえないけれど、側にしゃがんだ山崎さんの首に腕を回した。なんの躊躇もなく、抱き合うようにその体を立ち上がらせて、頭を撫でる山崎さん。
山崎さんの彼女だと分かっていたのに、目の前で決定的なそれを目にした途端、こちらが刃物で傷付けられたような衝撃を受け、胸が苦しくなる。
見たくないのに、そこに原田隊長もいるのに、まるでそこにスポットライトでも当たっているかのように、抱き合い内田さんの頭を撫でている山崎さんの姿が浮き彫りになっている。
内田さんの顔は、山崎さんの加減で見えないけれど、山崎さんは見た事もない程優しい表情をしているのが窺える。
部屋に戻りたいのに、足が床にくっついているみたいに動かない。目はしっかり、内田さんの肩を担いで厠へと向かう山崎さんの後ろ姿を捉えたまま。
「篠原?」
突然名前を呼ばれ、意識が引き戻された。目の前には、内田さんと一緒にいたはずの原田隊長。
「こんなとこに突っ立って、どうかしたか」
「…………」
何を言ったらいいか思考が上手く巡らず、一礼をした後踵を返して部屋に駆け込んだ。
このショックはなんだ。
山崎さんの彼女なんだから、抱き合うなんて普通にある事だ。なのに、なんで俺はショックを受けているんだろう。
俺は何か期待していたのか?脈もないと分かりきっているのに?
「……バカだろ……」
自嘲した時、頬を流れたものに気付き、乱暴に拭った。
「最悪だ……なんだこれ……」
底知れない絶望感に襲われる。
あの時諦めていれば、この気持ちを捨てていたら、こんな苦しい思いをしなくてすんだのに。
結局、内田さんに怪我の容態は聞けなかった。
あの山崎さんとの姿を見たのに、俺は未だに内田さんを目で追いかける日々。
なんで諦められないのか、いつになったらこの想いがなくなるのか、全く予想も立てられない。
内田さんが挨拶をしてくれるだけでも気分が舞い上がって、好きの想いが募る。なのに、俺には振り向いてくれないと分かってつらくなる。
俺に向けられている笑顔は、俺だけのものじゃない。山崎さんに見せる笑顔の方がもっとキラキラしていて可愛いのを知っているからこそ、その笑顔が自分に向かない事に嫉妬する。そんな感情を抱いたって、なんにもならないのに。
誰か、好きな人の諦め方を教えてほしい。
誰に聞いたら教えてくれるのだろう。
なんで俺は、内田さんを好きになったのだろう。
なんで、山崎さんより出会ったのが後なのだろう。
なんで俺は、こんなにも諦められないのだろう。
もう、何も分からない。
こんな思いをするなら、誰かを好きになる感情なんて知りたくなかった。
**
「篠原くん、罠は張り終わったよ。後は、土方の悪い噂でも適当に流してくれ」
とうとうこの日が来てしまった。
真選組に入って1年。
色々な事があったけれど、9割内田さんとの思い出しかない。
忘れようと、なかった事にしようとしているのに、未だに内田さんに恋焦がれているのだから、罪作りな御女 だ。
しかしながら、そう悠長な事も言っていられなくなった。
伊東先生が、長期出張から戻ってくる報せが入ったのだ。
「伊東さんか……実は挨拶しかした事ないんですよね」
食堂で一緒に朝食を食べながら、テーブルを挟んだ向かいに座っている内田さんに話せば、そう呟いた。
「そうなんですか。とても頭が良くて、尊敬出来る御方ですよ。一度お話されてみるのも一興かと」
「えー……私頭悪いから伊東さんの眼中にないですよ。これだけ会ってなかったら、挨拶しても『誰?』って言われそう」
「そんな事ないですよ。先生は内田さんの事ご存知ですから。それに、内田さんなら、先生と仲良くなれると思いますよ」
内田さんの素直さと愛嬌があれば、先生も内田さんの事を認めてくれるに違いない。
そして仲良くなってもらったら、内田さんと俺はずっと一緒にいられる。
先生が帰陣されて数日が経った頃、なんの流れでそうなったのか、先生が内田さんにミントンを教えてもらっている光景が飛び込んできた。
これはなんとも珍しい。
その様子を縁側で見守る事にした。
今日も内田さんは楽しそうだ。
内田さんもラケットを持ってきて、一緒にミントンの試合をしようと誘われている先生の表情は、とても苦々しい。なのに、押し切られて渋々やっている割には、とても楽しそうに打ち返している。
そんな先生の表情を見るのは、初めてかもしれない。
いつもは、何か企んでいるような、悪そうな笑みばかり見せているから新鮮だ。
その後、人の話を聞かないという先生の指摘から、内田さんへの説教が始まってしまった。
内田さんは、先生の説教を身を縮めて聞いている。そんな姿もまた愛おしい。
「篠原くん、内田さんは思った以上だね」
説教も終わり、内田さんが去って行った部屋で、先生がそうぽつりと漏らした。
思った以上に可愛いと言う事かな?いや、それはないな。
「と、言いますと」
「思った以上に頭が良くない。僕の下につくにはありえない人材だ」
「……そうですか」
「まさか篠原くん、アレを僕の配下にしようと思っていたわけではないだろうね」
先生の見え透いたような指摘に、ぎくりとしたが「そんな事はないです」と否定を返す。
「あの人は、誘いすらしていません。先生のお傍に置くには役不足かと」
先生は、それ以上何も言わなかった。
時折、先生が何を考えているのか分からなくなる。俺とは全く違う次元で物事を考えているので、当然と言えば当然だろう。
土方は、先生の思惑通りに事が運び、悪い噂を流した事で、隊士達からの信用も地に落ちていった。
まさか、沖田さんが伊東派につくとは思っていなかったけれど。
先生の企みにいつから気付いていたのか、山崎さんは残念ながら、鬼兵隊の河上万斉の手によって、その一生を終えた。
内田さんに報せなければ。山崎さんが死んだと。もう君を縛るものはないと――
先生に少しだけ時間をいただき、内田さんの部屋を訪ねた。なのに、俺はあの笑顔を前に何も言えず、無理矢理連れ出す事も出来なかった。
「色々とありがとうございました。内田さんは死なないでくださいね」
「……し、篠原さんもですよ。死なないでくださいね」
俺が死んだところで、山崎さんが怪我をした時のような反応なんてない事を知っている。
内田さんは、俺の事なんてすぐに忘れてしまう。
そんな事は分かっているのに、酷くやるせない。
近藤を連れ出した列車内で、俺は裏切った沖田さんに粛清された。
その時、脳裏を過ぎったのは、先生の顔ではなく内田さんの笑顔。
やっぱりあの時、最後に一言だけでも気持ちを伝えれば良かった。そう後悔してもなんの意味もない。
俺の人生は、あまりに味気なく、無意味に幕を閉じた。
「え!?な、なん、え?ど、どう……え?」
とある夜、部屋に入ろうとした時、向かいからダッシュで来た内田さんは、そのままスライディング土下座をした。
突然の事に驚いて、脳の処理が追いつかず、単語ともとれない言葉が口から出る。
「篠原さんすみません。私がバカなばっかりにこんな事になってしまって」
「え?何がですか?何があったんですか?ていうか、手の包帯もどうされたんですか?」
その前にしゃがんで、問いかけた。痛々しく右手に巻かれている包帯も気になる。
ゆっくり上がった内田さんの顔は、ここが廊下だという事を差し引いても暗い。
「えっと……」
「篠原さん、私、副長の命令で、1ヶ月屋敷から出られなくなりました。申し訳ございません。私がバカなばっかりに、篠原さんにも負担や迷惑をかける事になってしまいました。本当にすみません。この罪、どう償えばいいですか」
「え?すみません、状況が把握出来ません。なんで屋敷から出られないんですか?」
再び頭を下げた内田さんは、その体勢のまま理由を紡いでいく。
仕事を1日サボったのを申し訳なく思い、仕事をしていた
この人本当にバカなんだなと、逆に面白くなってくる。一緒にいて飽きない人だ。
下がっている頭を撫でたい。頭に伸ばしかけた手を引っ込めた。
「仕事の事は大丈夫ですから、気にしないでください。それより、手の方は大丈夫なんですか?」
「手は、犬に噛まれただけなんで大丈夫です。それよりすみません。ご迷惑おかけします。今度何かお詫びをしますね」
立ち上がると、また深く頭を下げた。
それにしても、土方も土方だ。最低でも反省文レベルで、謹慎にする必要はないと思う。
たった1ヶ月といえど、されど1ヶ月。
内田さんの分も仕事が乗っかってきたこちらの身にもなってほしい。
しかしお詫びか……お詫び、何をしてくれるんだろうか。体でお詫び……想像しかけて罪悪感が募り、ふらふらと柱に額をつける。
俺は、勝手にキスをしただけではなく、勝手に脳内であんな妄想をするなんて、これから内田さんとどんな顔をして会えばいいんだ。
やり場のない思いをどこにやったらいいか分からず、柱に頭を何度も叩き付けた。
「オイオイ、篠原がなんかやってんぞ。どうした?」
「テメーらァァァ!ついに篠原が壊れたぞォォォ!」
俺の奇行に、通りすがりの隊士の笑い声が廊下に響いた。
ちなみに、お詫びとは来月の内田さんの非番を俺にくれるという、たったそれだけ。
非番が増えた所で、彼女も友達もいない俺には嬉しくもなんともない。働いてる方がマシだが、土方も「この際だ、ゆっくり休め」なんて言ってくる始末。
「篠原さんに代わって頑張ります」と胸の前で拳を握る姿が可愛い。
なんでこの人は何しても可愛いんだろう。可愛さの暴力で俺を殺しに来てるんじゃないだろうか。
内田さんが謹慎になって2日目の朝、食堂で珍しく声を荒らげている。
「ちょっとみなさん!言わせてもらいますけど、炊事は当番制なんだから、当番の人がやってください!私が謹慎中だからって丸投げしないでください!」
怒っている内田さんに、ざわつく隊士達。
「え?何言ってんだ?」
「これ内田さんの仕事ですよね?」
「謹慎中、屋敷の事全部美緒がやるって聞いたけど」
「……あの、想像はつくんですけど、誰が言ってたか聞いていいですか?」
「沖田隊長がスピーカーで触れ回ってた」
そういう理由で、内田さんがこの1ヶ月、毎日ご飯を作ってくれる事になったのだ。それを聞いてテンションが上がる。
ナイス土方と沖田さん!
しかし、毎日食べられるのは期限付き。1ヶ月は短すぎる。
今すぐ内田さんと結婚したくなってきた。そしたら、期限なんて言わずとも、365日朝昼晩ずっと食べられるのに。
そんな願いを抱くだけ虚しい。
食べ終えた食器を返却口に持って行こうとしたら、嫌な物が視界に入った。そこには、食器を洗っている内田さんの頭を撫でている山崎さんの姿。
その光景を横目に返却口にトレイを置いて、食堂を後にした。
内田さんはあれから文句も弱音も吐かずに、毎日俺達の身の回りの世話に精を出している。それに加えて、沖田隊長の嫌がらせにも負けずに反撃しているのだから助けたくなるというもの。
俺が助けたところで、内田さんの心には何も響かない。
それは分かっているはずなのに――
「内田さん、手伝いますよ」
道場の床をモップ掛けしている内田さんに声をかけた。
「え?大丈夫ですよ。お気持ちだけ受け取ります」
「俺も非番で何もする事ないので」
「そうですか?じゃあ、お言葉に甘えて……あっちからお願いします」
この広い道場の端と端。何も言葉を交わさず、ただひたすらモップをかけていく。
何か話したかったけれど、何もネタが思い浮かばない。嘘だ。聞きたい事だらけで何から聞いたらいいか、何を聞けば話が盛り上がるのか選別出来ない。
こういう時、内田さんから何か話しかけてくれるのではと期待したのだが、掃除に集中している。
内田さんとの距離が徐々に狭まってきているのを感じ、このまま心の距離も近くなればいいのにと思う。
壁に当たり次の木目に合わせてモップの向きを変えると、内田さんと隣同士になった。
「おっ。なんと偶然にも横並びになりましたね」
それは俺がわざと合わせたんですよと言ったら、どんな反応をするだろう。気持ち悪いって言われたら悲しいからやめとこう。
「今日暑いですね。コレ終わったらちゃんと水分とってくださいね。倒れたら大変なので」
「あっ、ハイ。あの、えっと、これからも予定ないので、何か出来る事手伝いますよ」
「それは本当に申し訳ないので大丈夫です」
勇気を出したのに、あっさりと断られてしまった。
一緒にいる口実がなくなった。つまらない。
モップを倉庫に片付けた後、道場の出入口で「手伝っていただきありがとうございました」と可愛い笑顔を浮かべると、振り返りもせずにさっさと去って行く内田さん。
ほら、やっぱりだ。内田さんの中に何も残らない。俺の中での想いが膨らむだけ。
どんどん苦しくなってきて、どうしたらいいか分からず、山崎さんがいる日の夜に部屋を訪ねた。
「山崎さん助けてください。俺、どうしたらいいか分からなくて……最近、内田さんと結婚したいまで思ってきてしまって……どうしたらいいですか」
「いや、知らねーよ。それ聞いて俺どう言えばいいんだよ」
「こんな事相談出来るの山崎さんしかいなくて……内田さんと別れて俺に――」
「別れねーし、お前にやるわけねーだろ!」
最後まで言う前に、力強く拒否されてしまった。
「じゃあ1回だけやらせてください。本当に1回だけ」
「バカか!いいって言うわけねーだろ!」
「じゃあ先っちょだけでいいんで。なんなら素股とかパイず――」
「待て待て待て!一旦落ち着け!どうしたお前!やべーぞ。相当参ってんなお前。そんなにアイツの事好きなの?」
垂らした顔を片手で覆って、肯定を返す。
「俺、こんなに誰かを好きになったの初めてで……山崎さんに出来る事は、内田さんを俺にくれる事だと思うんです」
「いや、だからやらねーっつってんだろ。じゃあ告白すれば?そんで思いっきり振られてこいよ。そしたら多少なりとも諦めつくでしょ」
「告白したら内田さんとの関係が終わるじゃないですか。それは嫌なんです。でも結婚したいんです。お父さん、内田さんを俺にください」
「誰がお父さんんん?美緒は誰にもやんねーよ。一生俺の女だよ」
そのセリフを聞いて、深くため息をつく。
「山崎さん邪魔だなぁ……」
「それ俺のセリフな。つーか、相談乗ってもらっておいて邪魔ってなんだ。腹立つな。帰れ」
「そうですよね、すみません……」
山崎さんを邪魔だと言っても、内田さんの気持ちが俺に向いてくれないと意味がない。
それに、内田さんの事を相談するのは山崎さんが1番適切。そんな人を邪魔者呼ばわりは、失礼だったと思わないでもない。
暫く沈黙が落ちる部屋の中で、先にその空気を破ったのは山崎さん。
「告白する気ねーなら、自分で納得出来るような妥協点見付けるなり、他に目ェやるなりしねーとずっとそのまんまだぞ」
「はい……」
「今度、吉村か誰かにキャバクラとか合コンとか連れてってもらえよ。美緒ちゃんよりいい女いるだろ」
「連れて行ってもらいました。内田さんと比べてしまってダメでした。総合的評価は内田さんの勝利です」
「いや勝利ですじゃねーよ!アイツよりいい所見つけろよ!何やってんだよ!」
頭を抱える山崎さんに、俺も同じようにしたくなる。
「なんていうか、内田さん、何かにつけて『凄い凄い』って褒めてくれるんで、なんか、一緒にいると自己肯定感が爆上がりするっていうか、俺ってもしかしてすげー人間だったのかって錯覚させられるっていうか……」
「あー……分かる。言われ過ぎて、たまに、俺の事バカにしてんじゃねーの?って思う時あるけど」
「マジですか。でも、内田さん人の事バカにしたりしませんよね。人の悪口も言わないし」
「……まァそうだな」
「泣き言も言わずにひたむきに頑張ってるし、ああいう姿見せられると護りたくなるんですよね。表情がコロコロ変わるのも可愛いし、いや何しても可愛い。喋っても可愛い、動いても可愛い。だから見てて飽きないっていうか……でも俺まだ泣き顔って見てない気がして――」
「なァ、コレなんの時間?お前、美緒ちゃんの話し過ぎじゃね?もういいよその話は。お前どんだけするつもりだよ」
山崎さんに話を遮られて、そんなに話していたかと首を傾げる。
「え、俺そんなに話してます?まだ全然話してないんですけど」
「えぇっ!全然喋ってねーの?アレで?もういいもういい。この話は終わり。俺が照れくさい。これ以上聞きたくねーよ。部屋戻れ」
「最低でもあと5時間は余裕で話せますけど。今度一緒に飲み行きます?内田さんの事もっと色々聞きたいですし」
「なげーよ!なんだよ5時間って!バカだろ。もういいっつってんだよ。飲みにも行かねーし、美緒ちゃんの話もしねーよ。相談も終わっただろ。部屋戻れ」
シッシッと犬猫でも追い払うかのように手首を振って、追い返そうとする山崎さん。
「いいな、名前呼び。俺も内田さんの事名前で呼びたいんですけど、いいですか?」
「知らねーよ!帰れっつってんだから帰れ!」
「でも名前で呼ぶの緊張するな」
「帰れっつってんのが聞こえねーのか!帰れ!」
「そうですね、吐き出したら少し楽になったので戻ります。ありがとうございました。また話聞いてください」
「聞かねーよ。もうお前と話すの嫌」
そう嘆く山崎さんに、失礼しましたと頭を下げて部屋を後にした。
明確なアドバイスなどをもらったワケでも、解決策が見付かったワケでもないけれど、気持ちが幾分か楽になっている。好きを溜めすぎていたらしい。
また、山崎さんに聞いてもらおう。
今日は、久しぶりにぐっすり眠れそうだ。
ある時、食堂に向かっていると山崎さんと内田さんが仲良く前を歩いている。
この2人の後ろを歩くのは妙な嫌悪がある。かといって追い抜かしたり、声を掛けるのも違う。悶々と悩んでいると「しんちゃん」という単語が耳に届いた。思わず聞き耳を立ててる。
「猫耳ねー……」
「猫耳!どう?」
「それうさぎだよ。手でやってもなんも思わねーな」
頭に耳の真似か、両手を付けている姿を後ろからではなく前から見たい。絶対可愛い。
「今度新ちゃんから猫耳借りようかな」
「どうせやるならシッポと首輪もいるだろ」
「え?やだー。退さんのエッチー」
「しずかちゃんみたいに言うな」
この会話を後ろで聞いていた俺は、一気に食欲が失せ、代わりに来たのは山崎さんへの苛立ち。
一目散に部屋に引き返して、枕をサンドバッグ代わりに拳を叩き付ける。
嫉妬しすぎて血を吐きそうだ。
偶然だとしても、あんな会話聞きたくなかった。
クソ山崎!俺の気持ちを知ってて、俺の目の前で堂々と内田さんとイチャイチャしやがって!俺も内田さんの猫耳姿見たい!猫になりきった内田さんが見たい!絶対可愛い!首輪やシッポもつけるなら服装は下着がいい!エロい!絶対可愛いしエロい!
妄想だけで興奮が頂点に達してしまった。
ていうか、"しんちゃん"って誰だ!俺もそう呼ばれたい!猫耳だってなんだって貸す!猫耳持ってないけど!
先程のしんちゃんという声が耳に残って離れない。違う人の事なのに、俺の事を呼ばれた気がしてそれだけでも興奮材料になる程の威力。
**
俺が任務に出ている間に、内田さんが辻斬りに斬られたという話を聞いた。
命に別状はなく、既に退院をしていて、自室で療養中らしい。
そんなに早く退院して大丈夫なのだろうか。
心配なので、様子を見に行こうとした時――
「だから信用ならねーんだって!なァ?原田もそう思うだろ?」
「どう信用ならねーのよ!原田隊長、ガツンと言ったってください!」
「知らねーよ!俺を巻き込むな!」
廊下で、原田隊長の背中に隠れて、山崎さんと言い争っている内田さんがいた。
斬られたという事だが元気そうだ。案外傷は浅いのかもしれない。
そう思った時、内田さんが腹を庇うように手を当てて膝をついた。
「ホラ見ろ。大声出すから」
「内田、大人しく厠連れてってもらえ」
内田さんの声は小さくて、この距離だと何を言っているかは聞こえないけれど、側にしゃがんだ山崎さんの首に腕を回した。なんの躊躇もなく、抱き合うようにその体を立ち上がらせて、頭を撫でる山崎さん。
山崎さんの彼女だと分かっていたのに、目の前で決定的なそれを目にした途端、こちらが刃物で傷付けられたような衝撃を受け、胸が苦しくなる。
見たくないのに、そこに原田隊長もいるのに、まるでそこにスポットライトでも当たっているかのように、抱き合い内田さんの頭を撫でている山崎さんの姿が浮き彫りになっている。
内田さんの顔は、山崎さんの加減で見えないけれど、山崎さんは見た事もない程優しい表情をしているのが窺える。
部屋に戻りたいのに、足が床にくっついているみたいに動かない。目はしっかり、内田さんの肩を担いで厠へと向かう山崎さんの後ろ姿を捉えたまま。
「篠原?」
突然名前を呼ばれ、意識が引き戻された。目の前には、内田さんと一緒にいたはずの原田隊長。
「こんなとこに突っ立って、どうかしたか」
「…………」
何を言ったらいいか思考が上手く巡らず、一礼をした後踵を返して部屋に駆け込んだ。
このショックはなんだ。
山崎さんの彼女なんだから、抱き合うなんて普通にある事だ。なのに、なんで俺はショックを受けているんだろう。
俺は何か期待していたのか?脈もないと分かりきっているのに?
「……バカだろ……」
自嘲した時、頬を流れたものに気付き、乱暴に拭った。
「最悪だ……なんだこれ……」
底知れない絶望感に襲われる。
あの時諦めていれば、この気持ちを捨てていたら、こんな苦しい思いをしなくてすんだのに。
結局、内田さんに怪我の容態は聞けなかった。
あの山崎さんとの姿を見たのに、俺は未だに内田さんを目で追いかける日々。
なんで諦められないのか、いつになったらこの想いがなくなるのか、全く予想も立てられない。
内田さんが挨拶をしてくれるだけでも気分が舞い上がって、好きの想いが募る。なのに、俺には振り向いてくれないと分かってつらくなる。
俺に向けられている笑顔は、俺だけのものじゃない。山崎さんに見せる笑顔の方がもっとキラキラしていて可愛いのを知っているからこそ、その笑顔が自分に向かない事に嫉妬する。そんな感情を抱いたって、なんにもならないのに。
誰か、好きな人の諦め方を教えてほしい。
誰に聞いたら教えてくれるのだろう。
なんで俺は、内田さんを好きになったのだろう。
なんで、山崎さんより出会ったのが後なのだろう。
なんで俺は、こんなにも諦められないのだろう。
もう、何も分からない。
こんな思いをするなら、誰かを好きになる感情なんて知りたくなかった。
**
「篠原くん、罠は張り終わったよ。後は、土方の悪い噂でも適当に流してくれ」
とうとうこの日が来てしまった。
真選組に入って1年。
色々な事があったけれど、9割内田さんとの思い出しかない。
忘れようと、なかった事にしようとしているのに、未だに内田さんに恋焦がれているのだから、罪作りな
しかしながら、そう悠長な事も言っていられなくなった。
伊東先生が、長期出張から戻ってくる報せが入ったのだ。
「伊東さんか……実は挨拶しかした事ないんですよね」
食堂で一緒に朝食を食べながら、テーブルを挟んだ向かいに座っている内田さんに話せば、そう呟いた。
「そうなんですか。とても頭が良くて、尊敬出来る御方ですよ。一度お話されてみるのも一興かと」
「えー……私頭悪いから伊東さんの眼中にないですよ。これだけ会ってなかったら、挨拶しても『誰?』って言われそう」
「そんな事ないですよ。先生は内田さんの事ご存知ですから。それに、内田さんなら、先生と仲良くなれると思いますよ」
内田さんの素直さと愛嬌があれば、先生も内田さんの事を認めてくれるに違いない。
そして仲良くなってもらったら、内田さんと俺はずっと一緒にいられる。
先生が帰陣されて数日が経った頃、なんの流れでそうなったのか、先生が内田さんにミントンを教えてもらっている光景が飛び込んできた。
これはなんとも珍しい。
その様子を縁側で見守る事にした。
今日も内田さんは楽しそうだ。
内田さんもラケットを持ってきて、一緒にミントンの試合をしようと誘われている先生の表情は、とても苦々しい。なのに、押し切られて渋々やっている割には、とても楽しそうに打ち返している。
そんな先生の表情を見るのは、初めてかもしれない。
いつもは、何か企んでいるような、悪そうな笑みばかり見せているから新鮮だ。
その後、人の話を聞かないという先生の指摘から、内田さんへの説教が始まってしまった。
内田さんは、先生の説教を身を縮めて聞いている。そんな姿もまた愛おしい。
「篠原くん、内田さんは思った以上だね」
説教も終わり、内田さんが去って行った部屋で、先生がそうぽつりと漏らした。
思った以上に可愛いと言う事かな?いや、それはないな。
「と、言いますと」
「思った以上に頭が良くない。僕の下につくにはありえない人材だ」
「……そうですか」
「まさか篠原くん、アレを僕の配下にしようと思っていたわけではないだろうね」
先生の見え透いたような指摘に、ぎくりとしたが「そんな事はないです」と否定を返す。
「あの人は、誘いすらしていません。先生のお傍に置くには役不足かと」
先生は、それ以上何も言わなかった。
時折、先生が何を考えているのか分からなくなる。俺とは全く違う次元で物事を考えているので、当然と言えば当然だろう。
土方は、先生の思惑通りに事が運び、悪い噂を流した事で、隊士達からの信用も地に落ちていった。
まさか、沖田さんが伊東派につくとは思っていなかったけれど。
先生の企みにいつから気付いていたのか、山崎さんは残念ながら、鬼兵隊の河上万斉の手によって、その一生を終えた。
内田さんに報せなければ。山崎さんが死んだと。もう君を縛るものはないと――
先生に少しだけ時間をいただき、内田さんの部屋を訪ねた。なのに、俺はあの笑顔を前に何も言えず、無理矢理連れ出す事も出来なかった。
「色々とありがとうございました。内田さんは死なないでくださいね」
「……し、篠原さんもですよ。死なないでくださいね」
俺が死んだところで、山崎さんが怪我をした時のような反応なんてない事を知っている。
内田さんは、俺の事なんてすぐに忘れてしまう。
そんな事は分かっているのに、酷くやるせない。
近藤を連れ出した列車内で、俺は裏切った沖田さんに粛清された。
その時、脳裏を過ぎったのは、先生の顔ではなく内田さんの笑顔。
やっぱりあの時、最後に一言だけでも気持ちを伝えれば良かった。そう後悔してもなんの意味もない。
俺の人生は、あまりに味気なく、無意味に幕を閉じた。