第三章 リボンの造花
いつもとは違ったお昼を終えて、私たちは浮足立った気分のまま部屋に帰されました。両親に「部屋の外に出てはいけない」とは言われていないので、庭で遊んだって咎められることはないのですが……。
「好きに見させてもらうよ」
天使様は確かにそう仰っていました。つまり、今の家のどこかに天使様がいらっしゃるのです。そう考えると、子どもっぽい姿をお見せしたくないという気持ちが湧き上がり、部屋から出て行くのが躊躇われます。
でも、どうしてもお会いしたい、一目でいいからお目にかかりたいという気持ちもむくむくと膨らんできて、矛盾した二つの想いに胸が苦しくなってきました。
外へ出るべきか、中でおとなしくしているべきか。窓の外に目をやっても、誰も裏庭で遊んではいません。やっぱり、みんなも私と同じように緊張し、考えあぐねているのでしょう。ヒースだけは普段通りで、「これは愉快なことが起きるようだ」と瞳をきらきらさせて楽しそうにしています。
苦しさを吐き出そうとして深くため息をつくと、いつものようにベッドの上で膝を抱えていたマイアが、「……あの人……誰、なのかな」と珍しく話しかけてきました。
「マイアも気になるの? 素敵な方よね。あんなに綺麗な方、見たことないわ。どこかの国の王子様だったりして! あの身のこなし方は普通の生活じゃあ身につかないもの」
天使様はいったいどこの国のお生まれなんだろうか、どんな場所で生活をしてきたんだろうか。そんなことを考えながら胸をときめかせていると。
「あの人……似てる……」
「…………え?」
「……おにいちゃんに、似てる」
いつもは怯えたように周りを伺い、誰とも目を合わせないように生きているマイアが。どうしてか今だけは強い意志を宿らせた瞳で私を見つめ、水色のぬいぐるみを抱きしめて肩を震わせながらも、はっきりとそう言いました。
―似ているのだそうです……似ている? 誰が、誰に?
「……あははっ! マイアったら冗談ばっかり!」
わけがわからなくなって、思わず笑いだしてしまいました。天使様が、マイアのいう「おにいちゃん」に似ているだなんて。そんなことあるはずがありません。
だって、マイアと天使様は似ても似つかないんですから。マイアの「おにいちゃん」なら、どこかしらはマイアに似ているはずです。でも天使様とマイアには共通点がありません。
髪の色から瞳の色、肌の色だって何もかもが違うんですから。これのどこを見たら「おにいちゃん」だと思えるんでしょうか?
思い上がりも甚だしい。兄妹なわけがない。こんな子が、あんなに素敵な天使様の家族なわけがない。絶対に違う。ありえない。
そんなこと、あってはならないのです。
「嘘は駄目よ、マイア。冗談もほどほどにしないと、ベッドの下に引きずり込まれちゃうってお母さんに教わったでしょう?」
「ちが……嘘なんか言ってない……!」
「いいえ嘘よ。マイアったら悪い子」
マイアは嘘つきで悪い子。こんな見え見えの嘘を信じてもらえると思ったんでしょうか。
お父さんとお母さんに言いつけなくっちゃ。こんな悪い子はお仕置きされて当然です。ベッドに腰掛けたままのヒースも、私に同意するように頷いています。
「さあ、お父さんとお母さんのところへ行きましょう」
「わ、わたし、本当に……!!」
嫌がるマイアの腕を引いて、ヒースにも手伝ってもらいながら廊下へと連れ出します。「大丈夫よ、ちょっとお仕置きされるだけ」そうなだめても嫌だ嫌だと首を振って逃げ出そうとするばかり。どうしましょう。お父さんもお母さんも、聞き分けの悪い子が嫌いなのに。
「なにしてるの?」
不意に、耳慣れない声が響きました。
ハッとなってマイアの顔を見ますが、彼女も何がなんだかといった様子で、怯えた眼差しを声のした方へと向けています。
―影が。廊下の奥に、人の形をした影がひっそりと佇んでいました。ずっと前から、そこにいるのが自然なことみたいに。驚いて声も出せずにいると、音も立てずに影がこちらへ向かって進んできます。
「なにしてるのって、聞いたんだけど。聞こえなかった?」
するすると近づいてきた影に、ようやく光が当たります。柔らかな太陽の光が輪郭を照らし出し、その正体が人であることを示します。
影のように見えたのは、その人が真っ黒なコートを着ていたからでした―天使様、です。
無感情な目で、私たちを見つめていました。慌ててマイアから離れようとするのですが、手も足も思うように動かせません。まるで凍ってしまったみたい。
そうこうしている間に、天使様がぐっと傍へ近付いてきます。高い位置から私たちを見下ろし、つまらなそうに口を開きます。
「……ふん。人形遊び、ねぇ。大して面白くもない……」
天使様はぼそりと呟き、興味が失せたかのように私達から視線を外します。天使様が歩き出そうと大きく一歩を踏み出したところで、怯えて固まっていたマイアが大きな声をあげました。
「お、にい……ちゃん……!!」
緊張のあまりひっくり返った裏声で、目には涙を浮かべながら、遠ざかっていく天使様の背中へ必死の形相で呼びかけます。
「おにいちゃん」なんて。マイアのついた嘘で、本当のことであるはずがないのに……そのまま、振り返らずに行ってしまうかと思われた天使様は。
「……この顔を知ってるんだ?」
私の予想に反して歩みを止め、ゆっくりと振り向くと、楽しそうにマイアへと目をやりました。
「えっ、あ……お、おにいちゃん……?」
「……うん、そうだよ。君の“おにいちゃん”だとも。ボクの言葉が信じられない?」
「……! ううん、おにい、ちゃん……!」
ぽろぽろと涙をこぼして、ぼろぼろのぬいぐるみをしわくちゃになるまで抱きしめながら―それでも嬉しそうに、安心したように、マイアが笑いました。
この家に来た日から一度も笑顔を見せたことのないマイアが。私たち家族には、一度だってそんな顔を見せたことがないのに。
天使様も、その笑顔に応じるかのように、慈愛に満ちた微笑みを口元に浮かべて、マイアの肩を抱いて傍へと引き寄せます。
「さあ、家に帰ろうか」
「……う、うん!」
なにが起きているのでしょう。目の前のことは現実なのでしょうか。良い子にしていた私ではなく、お父さんとお母さんの言いつけを破ってばかりのマイアが……どうして?
私の混乱をよそに、二人は仲良く廊下を歩いていきます。おそらく、お父さんと話をしにいくのでしょう。そして数日後、いえ、明日にでもあの方のお家へと招き入れられて、新しい生活を送るに違いありません。
「よかったよ、キミを見つけられて」
その天使様の言葉で、胸の奥がざわりと波立つのがわかりました。
こんなことありえません。あって良いはずがないのです。良い子には幸せな結末が、悪い子には惨めな結末が待っていると、そう言い聞かされてきたのに。どうして。どうしてマイアが。
呆然とする私の姿など目に入らないのか、天使様の出す質問にマイアは笑顔で答えています。本当に幸せそうな、本物の家族同然の二人のその後ろ姿に、急に身体が震えだし、隣にいたヒースへふらふらと寄りかかります。私を落ち着かせようとヒースが手を握ってくれますが、震えは治まりそうにありません。
どうして、どうして。
どうして私は選ばれないの?
◇◇◇
その日の夕食の時間、お父さんがみんなへ向けてマイアが新しい家族に貰われていくことを知らせました。……だから、いつもなら私の隣にいるはずのマイアはここにはいません。貰われていくために必要な最後の支度をしているのでしょう。
どうしてあの子が、なにかの間違いじゃないかしら、いいえきっと美しい物には見飽きているから選ばれたんだわ、もしかしたらお客様は新しいオモチャが欲しいのかも……なんて。
誰も彼もが妙に浮ついた顔をして、「不思議なお客様に選ばれた女の子」のことをひそひそと楽しそうに話しているのが耳に入ってきます。
「ねえ、聞いてる?」
「……え。ああ、もちろん聞いてるわ。本当に不思議ね」
「そうじゃなくて、お父さんたち、なんだか変じゃない?」
そう言われて初めてお父さんやお母さんに注意が向きました。いつも通り、中央の席に座って私たちを見守ってくれていますが、その表情はどこか強張っていて、なんだかピリピリとした空気をまとっています。
相手があの天使様だから、普段以上に気を張っているのでしょうか。そわそわしている私たちと、ピリピリしているお父さんたち。そして、隣で暗い顔をしていたはずなのに、新しい家族の元へと向かう準備をしているマイア。
―こんなのおかしい。なにもかもが間違い。全部、嘘ならいいのに。
◇◇◇
お風呂からあがって部屋に戻っても、どこにもマイアはいません。ふらふらとベッドに腰掛けて、ヒースにも隣に来るよう促しながら、ぼんやりと壁の模様を眺めます。
ヒースだけが、私と一緒にいてくれる。おとなしく隣に座ったヒースがそっと頬を寄せ、鼻を鳴らしながらじっと私の目を見つめ、眉根を寄せた心配そうな表情をします。
それからどのくらい時間が経ったのでしょうか。不意に口からぽろりと、言葉が漏れました。
「……どうして」
どうして私じゃないの。堪えきれなくなった思いをぽつりと吐き出すと、次から次へ、自分でも止められないほどの言葉が溢れてきました。
―どうしてあの子が。私は良い子にしてたのに。あの子は一度だって感謝をしなかった。私がどれだけ優しくしても、口だけのお礼すら言わず、ただただ黙っているだけだった。私がどれだけ笑いかけても、泣いているだけで何もしなかったあんな子が。可愛くもなければ綺麗でもない、どこにでもいるようなつまらない顔。いつだってみすぼらしい格好をして、こっちがどれだけ身綺麗にするよう忠告しても聞こうとしなかった。お姉さんが「将来は美人さんね」と褒めてくれた私じゃなくて、あんなどうでもいい子が。お父さんもお母さんもお兄さんもお姉さんも他の家族も、みんなみんな鬱陶しがっていたあの子が。
天使様、どうして私じゃなくてあの子を選んだのですか。
喉の奥から、悲しさと悔しさでいっぱいになった声が漏れだします。こんなの間違っている。こんなの間違いに決まっている。
「間違いは正されなくてはならないんだよ」
……そう、お父さんが言っていたのを思い出しました。間違えることは誰にでもある、どんなことにでも起きる。けど、それを正すことがとても大事。間違いを正すことは、私達一人一人に与えられた義務であり責任なのだと。
そうです。私には間違いを正す責任と義務がある。いかに天使様と言っても、間違えることは一度くらいあるはず。私が正さなくてはいけないのです。みんなが不幸になる前に。マイアが、不幸になる前に。
「……私には、その役目を果たす義務があるわ。だって私は、マイアの面倒を見るように言われていたんだもの」
決意を込めてそう呟くと、同意するようにヒースが頷きます。そうと決まれば善は急げです。
本当はお風呂の後は基本的に部屋から出てはいけないのですが、朝になるまでゆっくりしてはいられません。むくむくと胸の中に湧き上がってきた勇気に励まされながら、私はお父さんたちがいる部屋へ向かおうと足を踏み出します。もちろん、ヒースも一緒です。
緊張のせいでしょうか、音を立てないように扉を開けようとすると、昼間の何倍も重く、固く感じられました。部屋のランプの光が、細く廊下に漏れ出します。
ちょっとだけ躊躇する気持ちが膨らんできますが、それを上回る責任感が私の前進に「進め」と命令してきます。ぐっと力を込めて扉を押し開き、するりと外へ抜け出して、他の子に気付かれないよう足音を忍ばせながら廊下を進んでいきます。
見慣れた廊下のはずなのに、歩き慣れた我が家の廊下のはずなのに……お父さんたちの部屋までの道のりが、果てしないものに感じられます。
でも決して歩みは止めません。私は、みんなを不幸から救い出さなくては。
「好きに見させてもらうよ」
天使様は確かにそう仰っていました。つまり、今の家のどこかに天使様がいらっしゃるのです。そう考えると、子どもっぽい姿をお見せしたくないという気持ちが湧き上がり、部屋から出て行くのが躊躇われます。
でも、どうしてもお会いしたい、一目でいいからお目にかかりたいという気持ちもむくむくと膨らんできて、矛盾した二つの想いに胸が苦しくなってきました。
外へ出るべきか、中でおとなしくしているべきか。窓の外に目をやっても、誰も裏庭で遊んではいません。やっぱり、みんなも私と同じように緊張し、考えあぐねているのでしょう。ヒースだけは普段通りで、「これは愉快なことが起きるようだ」と瞳をきらきらさせて楽しそうにしています。
苦しさを吐き出そうとして深くため息をつくと、いつものようにベッドの上で膝を抱えていたマイアが、「……あの人……誰、なのかな」と珍しく話しかけてきました。
「マイアも気になるの? 素敵な方よね。あんなに綺麗な方、見たことないわ。どこかの国の王子様だったりして! あの身のこなし方は普通の生活じゃあ身につかないもの」
天使様はいったいどこの国のお生まれなんだろうか、どんな場所で生活をしてきたんだろうか。そんなことを考えながら胸をときめかせていると。
「あの人……似てる……」
「…………え?」
「……おにいちゃんに、似てる」
いつもは怯えたように周りを伺い、誰とも目を合わせないように生きているマイアが。どうしてか今だけは強い意志を宿らせた瞳で私を見つめ、水色のぬいぐるみを抱きしめて肩を震わせながらも、はっきりとそう言いました。
―似ているのだそうです……似ている? 誰が、誰に?
「……あははっ! マイアったら冗談ばっかり!」
わけがわからなくなって、思わず笑いだしてしまいました。天使様が、マイアのいう「おにいちゃん」に似ているだなんて。そんなことあるはずがありません。
だって、マイアと天使様は似ても似つかないんですから。マイアの「おにいちゃん」なら、どこかしらはマイアに似ているはずです。でも天使様とマイアには共通点がありません。
髪の色から瞳の色、肌の色だって何もかもが違うんですから。これのどこを見たら「おにいちゃん」だと思えるんでしょうか?
思い上がりも甚だしい。兄妹なわけがない。こんな子が、あんなに素敵な天使様の家族なわけがない。絶対に違う。ありえない。
そんなこと、あってはならないのです。
「嘘は駄目よ、マイア。冗談もほどほどにしないと、ベッドの下に引きずり込まれちゃうってお母さんに教わったでしょう?」
「ちが……嘘なんか言ってない……!」
「いいえ嘘よ。マイアったら悪い子」
マイアは嘘つきで悪い子。こんな見え見えの嘘を信じてもらえると思ったんでしょうか。
お父さんとお母さんに言いつけなくっちゃ。こんな悪い子はお仕置きされて当然です。ベッドに腰掛けたままのヒースも、私に同意するように頷いています。
「さあ、お父さんとお母さんのところへ行きましょう」
「わ、わたし、本当に……!!」
嫌がるマイアの腕を引いて、ヒースにも手伝ってもらいながら廊下へと連れ出します。「大丈夫よ、ちょっとお仕置きされるだけ」そうなだめても嫌だ嫌だと首を振って逃げ出そうとするばかり。どうしましょう。お父さんもお母さんも、聞き分けの悪い子が嫌いなのに。
「なにしてるの?」
不意に、耳慣れない声が響きました。
ハッとなってマイアの顔を見ますが、彼女も何がなんだかといった様子で、怯えた眼差しを声のした方へと向けています。
―影が。廊下の奥に、人の形をした影がひっそりと佇んでいました。ずっと前から、そこにいるのが自然なことみたいに。驚いて声も出せずにいると、音も立てずに影がこちらへ向かって進んできます。
「なにしてるのって、聞いたんだけど。聞こえなかった?」
するすると近づいてきた影に、ようやく光が当たります。柔らかな太陽の光が輪郭を照らし出し、その正体が人であることを示します。
影のように見えたのは、その人が真っ黒なコートを着ていたからでした―天使様、です。
無感情な目で、私たちを見つめていました。慌ててマイアから離れようとするのですが、手も足も思うように動かせません。まるで凍ってしまったみたい。
そうこうしている間に、天使様がぐっと傍へ近付いてきます。高い位置から私たちを見下ろし、つまらなそうに口を開きます。
「……ふん。人形遊び、ねぇ。大して面白くもない……」
天使様はぼそりと呟き、興味が失せたかのように私達から視線を外します。天使様が歩き出そうと大きく一歩を踏み出したところで、怯えて固まっていたマイアが大きな声をあげました。
「お、にい……ちゃん……!!」
緊張のあまりひっくり返った裏声で、目には涙を浮かべながら、遠ざかっていく天使様の背中へ必死の形相で呼びかけます。
「おにいちゃん」なんて。マイアのついた嘘で、本当のことであるはずがないのに……そのまま、振り返らずに行ってしまうかと思われた天使様は。
「……この顔を知ってるんだ?」
私の予想に反して歩みを止め、ゆっくりと振り向くと、楽しそうにマイアへと目をやりました。
「えっ、あ……お、おにいちゃん……?」
「……うん、そうだよ。君の“おにいちゃん”だとも。ボクの言葉が信じられない?」
「……! ううん、おにい、ちゃん……!」
ぽろぽろと涙をこぼして、ぼろぼろのぬいぐるみをしわくちゃになるまで抱きしめながら―それでも嬉しそうに、安心したように、マイアが笑いました。
この家に来た日から一度も笑顔を見せたことのないマイアが。私たち家族には、一度だってそんな顔を見せたことがないのに。
天使様も、その笑顔に応じるかのように、慈愛に満ちた微笑みを口元に浮かべて、マイアの肩を抱いて傍へと引き寄せます。
「さあ、家に帰ろうか」
「……う、うん!」
なにが起きているのでしょう。目の前のことは現実なのでしょうか。良い子にしていた私ではなく、お父さんとお母さんの言いつけを破ってばかりのマイアが……どうして?
私の混乱をよそに、二人は仲良く廊下を歩いていきます。おそらく、お父さんと話をしにいくのでしょう。そして数日後、いえ、明日にでもあの方のお家へと招き入れられて、新しい生活を送るに違いありません。
「よかったよ、キミを見つけられて」
その天使様の言葉で、胸の奥がざわりと波立つのがわかりました。
こんなことありえません。あって良いはずがないのです。良い子には幸せな結末が、悪い子には惨めな結末が待っていると、そう言い聞かされてきたのに。どうして。どうしてマイアが。
呆然とする私の姿など目に入らないのか、天使様の出す質問にマイアは笑顔で答えています。本当に幸せそうな、本物の家族同然の二人のその後ろ姿に、急に身体が震えだし、隣にいたヒースへふらふらと寄りかかります。私を落ち着かせようとヒースが手を握ってくれますが、震えは治まりそうにありません。
どうして、どうして。
どうして私は選ばれないの?
◇◇◇
その日の夕食の時間、お父さんがみんなへ向けてマイアが新しい家族に貰われていくことを知らせました。……だから、いつもなら私の隣にいるはずのマイアはここにはいません。貰われていくために必要な最後の支度をしているのでしょう。
どうしてあの子が、なにかの間違いじゃないかしら、いいえきっと美しい物には見飽きているから選ばれたんだわ、もしかしたらお客様は新しいオモチャが欲しいのかも……なんて。
誰も彼もが妙に浮ついた顔をして、「不思議なお客様に選ばれた女の子」のことをひそひそと楽しそうに話しているのが耳に入ってきます。
「ねえ、聞いてる?」
「……え。ああ、もちろん聞いてるわ。本当に不思議ね」
「そうじゃなくて、お父さんたち、なんだか変じゃない?」
そう言われて初めてお父さんやお母さんに注意が向きました。いつも通り、中央の席に座って私たちを見守ってくれていますが、その表情はどこか強張っていて、なんだかピリピリとした空気をまとっています。
相手があの天使様だから、普段以上に気を張っているのでしょうか。そわそわしている私たちと、ピリピリしているお父さんたち。そして、隣で暗い顔をしていたはずなのに、新しい家族の元へと向かう準備をしているマイア。
―こんなのおかしい。なにもかもが間違い。全部、嘘ならいいのに。
◇◇◇
お風呂からあがって部屋に戻っても、どこにもマイアはいません。ふらふらとベッドに腰掛けて、ヒースにも隣に来るよう促しながら、ぼんやりと壁の模様を眺めます。
ヒースだけが、私と一緒にいてくれる。おとなしく隣に座ったヒースがそっと頬を寄せ、鼻を鳴らしながらじっと私の目を見つめ、眉根を寄せた心配そうな表情をします。
それからどのくらい時間が経ったのでしょうか。不意に口からぽろりと、言葉が漏れました。
「……どうして」
どうして私じゃないの。堪えきれなくなった思いをぽつりと吐き出すと、次から次へ、自分でも止められないほどの言葉が溢れてきました。
―どうしてあの子が。私は良い子にしてたのに。あの子は一度だって感謝をしなかった。私がどれだけ優しくしても、口だけのお礼すら言わず、ただただ黙っているだけだった。私がどれだけ笑いかけても、泣いているだけで何もしなかったあんな子が。可愛くもなければ綺麗でもない、どこにでもいるようなつまらない顔。いつだってみすぼらしい格好をして、こっちがどれだけ身綺麗にするよう忠告しても聞こうとしなかった。お姉さんが「将来は美人さんね」と褒めてくれた私じゃなくて、あんなどうでもいい子が。お父さんもお母さんもお兄さんもお姉さんも他の家族も、みんなみんな鬱陶しがっていたあの子が。
天使様、どうして私じゃなくてあの子を選んだのですか。
喉の奥から、悲しさと悔しさでいっぱいになった声が漏れだします。こんなの間違っている。こんなの間違いに決まっている。
「間違いは正されなくてはならないんだよ」
……そう、お父さんが言っていたのを思い出しました。間違えることは誰にでもある、どんなことにでも起きる。けど、それを正すことがとても大事。間違いを正すことは、私達一人一人に与えられた義務であり責任なのだと。
そうです。私には間違いを正す責任と義務がある。いかに天使様と言っても、間違えることは一度くらいあるはず。私が正さなくてはいけないのです。みんなが不幸になる前に。マイアが、不幸になる前に。
「……私には、その役目を果たす義務があるわ。だって私は、マイアの面倒を見るように言われていたんだもの」
決意を込めてそう呟くと、同意するようにヒースが頷きます。そうと決まれば善は急げです。
本当はお風呂の後は基本的に部屋から出てはいけないのですが、朝になるまでゆっくりしてはいられません。むくむくと胸の中に湧き上がってきた勇気に励まされながら、私はお父さんたちがいる部屋へ向かおうと足を踏み出します。もちろん、ヒースも一緒です。
緊張のせいでしょうか、音を立てないように扉を開けようとすると、昼間の何倍も重く、固く感じられました。部屋のランプの光が、細く廊下に漏れ出します。
ちょっとだけ躊躇する気持ちが膨らんできますが、それを上回る責任感が私の前進に「進め」と命令してきます。ぐっと力を込めて扉を押し開き、するりと外へ抜け出して、他の子に気付かれないよう足音を忍ばせながら廊下を進んでいきます。
見慣れた廊下のはずなのに、歩き慣れた我が家の廊下のはずなのに……お父さんたちの部屋までの道のりが、果てしないものに感じられます。
でも決して歩みは止めません。私は、みんなを不幸から救い出さなくては。