第三章 リボンの造花

 次に目を覚ましたとき、外はすっかり明るくなっていて、私は初めてマイアよりも遅く起きました。起こしに来たお兄さんには「今日は君のほうがお寝坊さんかな?」と笑われてしまいましたが、恥ずかしいなんて思う余裕はありません。夜の興奮が抜けきらないまま、ぼーっとした頭で一日の準備を始めます。お姉さんが用意してくれた服を着て、髪をとかし、笑顔の練習。……ですが、今日はいまいち練習に身が入りません。なんだかふわふわと、地に足が着いていない感覚。いつもなら美味しくてたまらない、お母さんの作ってくれる朝ご飯も、今日は味がわかりません。朝食が終わっても何もする気が起きず、部屋に戻ってぼんやりと窓の外を眺めるばかり。マイアは珍しく、他の子と一緒に裏庭で遊んでいるのに。これではいつもと立場が逆です。

「……私、どうしちゃったのかしら」

 ヒースも困ったように首を傾げます。こんな調子ではいけないと思いながらも、昨晩のことが忘れられません。あれは夢だったのだと思い込もうとすればするほど、あの不思議な瞳が鮮明に思い出されます。
 おかしなことです、昨日は確かに顔が見えなかったのに、今になってはっきりと脳に浮かんできました。
 赤と黒の瞳。あんなに深くて鮮やかな色は見たことがありません。私は宝石を目にしたことがありませんが、どれだけ高価な宝石も、あの瞳には劣るでしょう。
 宝石はしょせんただの石。生きて光を湛えるあの瞳には敵うはずもありませんから。あの色を思い出すだけで、胸が締めつけられるようです。
 もう一度だけでいいから、あの瞳を見たい。その思いだけがどんどん大きくなっていきます。

「こんなこと、生まれて初めてだわ」

 ヒースにそっと囁いても、やっぱり首を傾げるばかり。

   ◇◇◇

 それから数日の間、私は部屋に籠りきりで、ずっとあの瞳のことを考えていました。考えれば考えるほど苦しくなって、しかしどうしようもなく幸せなのです。
 ぼんやりがすぎる私に、お姉さんにはからかう調子で「まるで恋煩いみたいね」と言われてしまいました。恋煩い。そうなのかもしれません。これが恋なのでしょう。痛くて、辛くて、苦しいはずなのに、それが愛おしいのです。
 突然、お父さんの鳴らす鐘が家中に響き渡りました。お昼にはまだまだ早い時間なのに、なぜか慌てたようにガンガンと鳴らし続けています。いったいどうしたんでしょうか?
 廊下に出ると、勉強したり本を読んでいたりと、同じように部屋で過ごしていた子たちも不思議そうに扉から顔を覗かせています。そこへ、慌てた様子のお兄さんが階段を駆け上がってきました。廊下で戸惑っている私たちを目にすると、ちょっとだけホッとした顔をすると、すぐに表情を引き締めてこう言いました。

「みんな、急いで食堂に向かうんだ。服はそのままでもいいよ、着替えてる暇がないからね。髪型くらいは整えたほうがいいかもしれないけど……まあいいや。とにかく急いで!」

 それだけ告げると、「次は裏庭に行かなくちゃ」と呟きながら階段を転がり落ちるように駆け降りていきます。
 お父さんの鳴らす鐘といい、お兄さんといい、なにが起きているんでしょう? 困惑しながらもお兄さんの言う通りに食堂へ向かうと、緊張した面持ちのお母さんが私たちを待っていました。

「お行儀よくね」

 小さな声でそう言うと、そっと食堂の扉を開いて私たちをそっと押し入れます。何が起きるのかとどきどきしながら、前の子に続いて中へ入り、いつもはお父さんとお母さんが並んで座る席に目を向けます。

―天使様だ。天使様が降りてきたんだ……そう思ってしまうほど美しい人が、その席に深く腰掛けていました。

 まず目に飛び込んでくるのは、見事なまでの銀色の髪です。ゆるくウェーブのかかったそれは、光を浴びて輝いているようにも見えます。次に目がいくのは、抜けるような白さの肌と、美しいお顔です。なだらかな曲線を描く、細く形のよい眉。すっと通った鼻梁からは、掘りの深さが伺えます。色の薄い唇はきゅっと真一文字に結ばれていますが、不思議と険のある表情には見えず、美しさを損なう要素になっていません。
 すべてのパーツが完璧で、一つとして不完全なものはありませんでした。美人と呼ばれる方は大勢いますが、ここまで調和した素晴らしい顔の持ち主は、天使様以外にいるはずがありません。世界一美しい顔だと、私は自信を持って言えます。
 今は気だるげに閉じられている目蓋の下にも、きっと美しい色の瞳があるのでしょう。伏せられた睫毛は長く、滑らかな頬の上に繊細な影を落とし、綺麗なお顔に神秘的な雰囲気を与えています。
 そしてなんといっても驚いたのは、髪の間からぴょこりと覗いている獣の耳。なんてことでしょう、天使様は半獣人の方でした。目を閉じてリラックスされているようですが、小さな音にも反応し、時おり細かく動いているのがわかります。
 なんて素敵な方なのでしょう、お父さんたちが慌てていたのはこの方がいらしたからなのだわ。胸の奥からぐっと熱くなるような感覚に襲われますが、ここで我を忘れてはしゃいでしまってはみっともありません。スキップしたくなるような気持ちを抑えて、いつものように自分の席へと向かいます。
 どんな部分を見られても笑われないよう、おしとやかに。椅子にちょこんと腰掛けて、そっと天使様のほうへ目を向けます。
―すると、まるでタイミングを合わせたかのように天使様がゆっくりと目蓋を持ち上げました。その瞳の色が見えたとき、私ははっとなりました。赤と黒の瞳。
 ずっと頭にこびりついて離れなかった、あの瞳です。ああ、あの日の夜に出会ったのはこの方だったんだ―。
 うっとりとしながら綺麗なお顔を見つめていると、家族たちの顔をゆっくり見回していた天使様と目が合いました。あの晩のように曖昧な感じではありません。今度は、はっきりとです。
 氷のような冷たさを湛える瞳に見つめられ、身体の芯からきゅっと凍るような感覚に襲われ、固まって動けずにいると、天使様の目元がふっと和らぎました。
 柔らかく微笑まれたのです。口元には甘く蕩けるような笑み、それまで底冷えのするような冷たい光を放っていた赤と黒の瞳には慈愛の色が宿り、まるで聖母の絵画のように美しく優しい姿。
 私の目はずっと天使様に釘付けのままですが、食堂にいた家族のみんなが私と同じように心を奪われているのがわかります。ああ、この方に引き取ってもらえたらどんなに幸せでしょう。
 お行儀よくと言われても、私たちはまだまだ子どもです。あの人は誰だろう、なんて美しい人かしら、まるでお伽噺から抜け出してきたみたい。
そんなことを隣の子とひそひそ話し合っていると(もちろん天使様からは丸聞こえでしょうが)、全員集まったのを確認したお父さんが「では、家族の紹介をしましょう」と天使様の側へ近寄っていきました。

「ではまず、こちらの子が年長のアリーシャで……」

「いらないよ」

 それまでずっと笑みを浮かべるだけだった天使様が、唐突に口を開いてお父さんの言葉を遮りました。
 決して大きい声ではありません。威圧的ではない、淡々とした調子です。
それなのに不思議と逆らうことができない、いえ、逆らう気持ちすら吹き消すような……人を、従えることに慣れている声でした。

「どれがどうとか、そんな説明必要ないさ。全部の名前を聞いてたら日が暮れちゃうじゃないか。それとも君たちは、ボクに貴重な時間を浪費させるつもり?」
「いっ、いえ、そんなことは……」
「あっそ。まあ当然だよね。じゃあボクは失礼するよ。中は自由に見て回ってもいいんでしょ? ああ、案内とかもいらないからね」

 お父さんの話を最後まで聞かず一方的に話し終えると、天使様ががたりと椅子を後ろへ引きました。あまりにも急な言葉に、ぽかんと口を開けているだけのお父さん。
 代わりに、、慌ててお姉さんが「あ、あのう、昼食のご用意をしてありますが……」とキッチンから駆け込んできました。

「ボクに、君たちのような下民と、同じものを口にしろと? 本気? 本気でそう言ってるの?」

 ゆっくり、はっきりと、一言ずつ区切るように天使様が言葉を放ちます。怒りを含んだような声色ではありません。明日の天気の話のような、他愛ない世間話をするときの調子のまま。
 なのに、絶対的な威光を纏っているのです。直接話しかけられたわけではない私たちですら思わず息を呑むほどの影響力。
 それを正面から受けたお姉さんは、見ているこちらが辛くなるくらい戸惑い、怯えていました。

「あっ、し、失礼いたしました……!」
「ふぅん。いいよ、べつに。怒るほどのことじゃないし。君らが足りない脳みそで頑張って考えた結果なんだろうからね」

「じゃあね。好きに見させてもらうよ」それだけ言うと、椅子に座るために折り畳んでいた長い手足を伸ばし、真っ黒なコートを翻して颯爽と歩いて出て行ってしまいました。
 もう興味は失ったと言わんばかりのあっさりとした態度に、怯え切っていたお姉さんも拍子抜けの顔です。私たちも戸惑うばかり。
 ようやく気を取り直したお父さんが、「さあ、みんな。少し早いけどお昼にしよう」と告げるまで私たちは動けずにいました。
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