第一章 永遠に幸せになる方法

 その日、俺は急いでいた。
 思ったよりも仕事が長引いて帰りが遅くなったせいでもあり、家に一人でいる妹が心配だからでもあった。
 両親は、馬車の事故に巻き込まれてあっさり死んでしまった。だから、家族は俺と妹の二人きり。年はそんなに離れちゃいないのだが、最近は反抗期とかいうのに入ったらしく、あまり口を利いてくれなくなった。少し寂しさを感じるが、いつまでも俺にべったりというわけにもいかない。これも妹の成長だと喜ぶべきなのだろう。
「今日も同じ時間に帰ってくるから」と言って仕事に出てしまったから、もしかすると夕飯を食べていないかもしれない。料理くらいはできるようになっておけ、と口うるさく言ってはいるものの、あまり真面目に取り組む気はないらしく、基本的に俺が作ってばっかりだ。
 せめてなにか買ってくるなりして、食べていればいいが。そんなことを思いながら、普段は避けて通らないようにしている街灯の無い通りを、近道のために曲がる。

 一人の少年が座り込んでいた。

 背中を丸め、熱心になにかを見つめている。背を向けているため顔は見えないが、十歳くらいだろうか。こんな時間に一人でいるなんて危険すぎだ。たまらず声をかける。
「君―」
 俺の声に反応して、少年がこっちを向く。
 真っ先に目を奪われたのは、わずかに届く月の光を浴びてうっすらと輝く赤い瞳と、光を飲み込むほどのほの暗さを湛えた黒い瞳だった。思わず呼吸が止まる。それほど美しかった。柄にもなく緊張してしまい、かけようとしていた言葉を忘れる。

「―なに?」

 そう言いながら少年がゆっくり立ち上がると、そのまままっすぐ俺のほうへと歩いてきた。目の前に来たところで、少年は挑戦的に俺を見上げる。
……驚いた。この少年は半獣人だった。月の光を受けてなめらかな銀色に輝く少年の髪の間から、彼を半獣人たらしめる特徴的な耳が覗いている。人間の耳より感情が出やすいのか、俺を警戒するようにせわしなく動く。
「あー……こんな時間に一人でいるのは危ないぞ」
「ふうん……お兄さん、ボクのこと心配してくれたんだ」
 すると、それまで硬かった表情が不意に緩み、少年が妖艶に微笑む―背筋が、ぞくりとした。
「……と、とにかく! こんな暗い通りに子ども一人でいるのは危険だ。家まで送っていくよ」
 内心の同様を隠すように、早口で少年へと提案する。いや、こんな提案をする俺も危ない奴に見えるんじゃないか……? 自分の行動の危険性にふと気付き、「いや、変な意味じゃないんだ! なんだったら、自警団の場所まででも……」と慌てて取り繕う。ああ、口を開けば開くほど、墓穴を掘っている気がする……。
 そんな俺の様子を見て、少年は再度微笑むと、「心配いらないよ」と一蹴する。
「でも」
「ボクは平気。それより……お兄さん、家で待ってる人がいるんじゃないの?」
 少年の言葉にハッとする。そうだ、妹が。アリスが一人で、俺の帰りを待っている。
 家へ向けて走り出したい衝動に駆られるが、この少年を一人でこんな場所に残していくのも気が引ける。どうしようかと悩んでいると、くすりと楽しげな笑い声が聞こえた。
 驚いて少年を見やれば、おかしいのを堪えるように身体を震わせている。
「そんなにボクのことが心配なんだ」
「だって、そりゃあ……」
「お兄さん、いい人だね……いいよ、大通りまで一緒に行ってあげる。お兄さんの家はこっちだよね」
 そう言うと、少年は俺の案内もなしに迷うことなく暗い通りを進んでいく。ここは裏路地だからガラクタやらごみやらが散乱しているのだが、夜目が利くのか、危なげなくすいすい歩いている。
「あ、ちょっと!」
 慌てて後ろから追いかけて隣へ並んで歩こうとするが、ちっとも追い付けない。俺のほうが足が長いはずなんだが……。
「ところで、さっきは何を見てたんだ?」
「んー? ……ナイショ」


   ◇◇◇

 仕事が長引こうが遅く帰ろうが、仕事の開始時間はいつでも同じだ。少年を大通りまで送り届けた後、家についた俺は、案の定夕飯を食べずに寝ていた妹に飯を食わせ、早々に眠りについた。
 目が覚めてから、昨日の出来事は夢だったんじゃないかとも思ったが、頭は重いし身体はだるいし、自分の身体にお前は睡眠不足だぞと宣言されているようなもんだった。普段通りに寝ていればここまで不調を来すことはないだろうから、やはり昨日のことは現実だったようだ。
 ベッドの魅力には抗いがたいが、疲れの抜けきらない身体を無理矢理起こして、朝食の準備をする。起床時間と出掛ける時間が早いこともあり、朝の担当はもっぱら俺だ。たまに本気で寝坊をして、なんの用意もできずに出発することもあるが、そんなときは朝食を買うのに十分な代金を置いていく。だが、それは本当に稀なことなので、基本的には俺が作っている。
二人分の朝食を作り終え、二階へ上がってアリスの部屋に声をかける。
「朝御飯置いとくからなー。起きたらちゃんと食べろよー」
 まだ眠っているのだろう、返事返ってこないが、この挨拶も日課のようなものだ。たいして気にせず「じゃ、仕事行ってくるから」と一声かけて、一階へ降りる。ダイニングへ戻り、テーブルから仕事に行くときにいつも使っている鞄を手に取り、コートを着て、玄関へと向かう。
 扉を開けると、空はどんよりと曇っていた。まだ雪は降らないだろうが、風が冷たい。コートの前をしっかり合わせて、玄関の鍵をかける。
「……行ってきます」
 ちゃんと鍵がかかっていることを確認し、出掛ける挨拶を小さく呟いて、俺は職場へと向かった。

 俺の仕事は、パン屋の手伝いに始まり、料理店の皿洗い、土木作業の日雇いなど……。つまり、正規の雇用じゃない。ありとあらゆる小さい仕事を、お呼びがかかれば片っ端から受けている状況だ。
 パン屋の店長からは「見込みはあるんだから、うちでしっかり修行すればいいのに」とありがたいお言葉をかけてもらったが、いかんせん俺はまだ成人していないので、仕事を一本に絞る余裕は無い。それに、はたして俺が一人前になるまで、父と母が残してくれた貯金が持つかどうか。申し出自体はとてもありがたいのだが、日々減っていく貯金を見るに、なんとか支出よりも収入を増やさなければという思いが募っていく。
 店長は優しい。申し出を断った俺に対し、「覚えておけばいつか役に立つと思うから」と何かにつけて技術を教えてくれるし、仕事終わりには「僕の作ったパン、とってもおいしいのに捨てちゃうのは心にクる」と残った商品を持ち帰らせてくれる。あげていけばキリがないほど、店長は俺に色々と良くしてくれている。恩を返しても返し足りない。
「妹が成人したら、また改めて俺から申し入れさせてください」
 今はそんな月並みな言葉で、返事を先延ばしにするしかできないのが心苦しい。だから、せめて精一杯尽くそうと思う。俺に優しくしてくれるこの人に、できる限りの恩返しをしたい。そんな気持ちで朝の掃除をしていたとき。
―カラン。
 まだ開店時間ではないはずだが、入り口のベルが鳴った。常連の人が朝のお喋りにでも来たのだろうか? 「お客さんとの会話は、お店をやっていく上で一番大事なことなんだよ」とふにゃふにゃした笑顔で語っていた店長を思い出す。そんな彼の人柄に吸い寄せられて、開店前にやってきては店長との会話を楽しむ人が少なからずいるのだ。今日もそんな人が来たのかと思い、挨拶をしながら入り口のほうを向く。
「おはようございます、店長はまだ後ろで準備をしていまし、て……」
 思いがけない人物の来店に、言葉を失う。
 ダークブラウンの扉を開けて入ってきたのは、昨日の少年だった。まだ寝ぼけているのかとも思ったが、店内に入ってきた少年は俺の事など気にかける様子もなく、あちこちを興味深そうに見回している。店の奥から漂ってくるパンの焼ける匂いに気が付くと、すんすんと鼻を鳴らしながら楽しげにその特徴的な耳を揺らしていた。
「あ、の、君……」
「ん? ああ、お兄さんこんにちは。いいお店だね、ちょっとだけ気に入ったよ」
「あの、まだ開店前で……」
「開店前? ああそうか、君達は時間にならないと店の中に人を入れないんだっけ。面倒くさいね、庶民の慣習って」
 少し考え込むような素振りを見せた後、「ま、いっか別に」とあっけらかんとした笑顔を俺に向けてくる。……どくり、心臓が大きく脈打つのを感じる。
「ボクが今日一番最初のお客サマ。光栄に思いなよ、ボク自らが足を運ぶなんて滅多にないんだから」
 小さな身体を大きく見せようと、これでもかと胸を反らせ、精一杯偉そうにしている。……いや、実際偉いのかもしれない。
 昨日は夜道で暗かったからわからなかったが、少年の着ている服はどれも異国のものばかり。見ただけでわかるほど上等な布には、複雑に絡み合った蔦模様が施されている。どうみても一般市民が買うような布ではない。
 加えて、首や腕に着けている装飾品。こちらも技術の高い職人によって作られたのだろうと伺えるほどに、奥深い煌めきを放っている。貴金属の相場はわからないが、俺の見立てによれば腕輪一個だけでも給料一年分は飛ぶだろう。いや、もしかするとそれ以上の可能性がある。
……なら、昨日、俺が無理に送っていく必要はなかったのか。
 これだけ金持ちなら、護衛の一人や二人付けていてもおかしくない。むしろ、これだけ豪華な物を身に纏っていれば、追い剥ぎやらスリが放っておくわけないんだから、いないほうが危険だ。俺が気付かなかっただけで、案外近くで待機していたのかもしれない。だから「平気だ」って何回も言っていたのか。
 今も、一緒に入ってこないだけで、店の外で待つように言いつけてきたのだろう。いくら身を守るためとは言え、四六時中見張られていては気も詰まるだろうから、店の中でくらい自由でいたいのかもしれない。
 俺がそんなことを考えている間にも、少年は店の中を隅から隅まで物色していた。低い背を精一杯伸ばして、上にある棚を覗こうとしているが、どう頑張っても見れないとわかると、指をパチリと鳴らす。すると。
「え!?」
 突然、少年の身体がふわりと浮き上がった。驚いて目を丸くしていると、少年が呆れたような顔をする。「なに? 店の中で浮いちゃダメだった?」と、まるで浮き上がることが当然だと言わんばかりの態度だ。
 金持ちの半獣人で、おまけに魔法まで使えるのかよ……。もうなんでもアリだな。
 感心しきりで少年の行動を見ていると、ふわふわ漂いながら俺のほうを向いた。そこにはさっきまでの朗らかな表情ではなく、眉間に皺のよった厳しい顔があった。苛立ちを隠そうともせずに、少年が再度指を鳴らす。今度は音もなく着地した。
「……なにも無いじゃないか」
「えっ、あの、これから焼き上がるところでして……」
「…………」
「あの、なにか……?」
 少年がボソリと口の中でなにかを呟く。うまく聞き取れず、なんと言ったのか尋ねた瞬間、少年が火の着いたように叫びだした。
「何のために来たと思ってるんだ!! お前ら下民はボクのために用意しておくことすらできないのか!!」
「もっ、申し訳ありません、すぐに焼き上がりますので……!」
「謝って終わりか!? ああ失敗した、こんな下等生物の生活場所になんか来るんじゃなかった!! すぐ! お前らはいつも”すぐだから”と言い訳する!! ああそうさ、そりゃあ君らの時間からすればすぐだろうさ、無意味に過ごすだけなんだからね!! そりゃあすぐに終わるだろうよ!!」
 あどけなさの残る表情から一変、カッと目を見開き、鬼のような形相で怒りに身を任せている。あまりの豹変っぷりに、俺は思わず言葉を失う。まずは落ち着かせなければ、と声をかけても火に油。どんどんヒートアップしていき、地団駄を踏み出した。厨房にいた店長が何事かと飛んでこようとしたが、出てきたところで少年の怒りがさらに激しくなるだけだろう。奥に戻って出てこないように、そっと合図する。
 しばらく経ってから、疲れてきたのか不意に少年が黙り混む。怒りの籠った目をゆっくり閉じて大きく息を吐き出し、何度か深呼吸を繰り返す。
「あの……お客様……?」
 少年が目を開いたとき、そこには先程までの怒りの感情は消え去っていた。
「…………帰る」
 まるで興味を失ったかのようにボソリと呟くと、無言で店から出ていこうとする。慌てて追いかけようとすると、「ついてくるな!!」と怒鳴られた。
 少年がいなくなってから二、三分ほど経った頃だろうか。店長が「大丈夫かい?」声をかけくれたことで、ようやく動けるようになった。自分でも驚いたが、思ったよりも緊張していたらしい。
「なんだったんだろうね? あのお客さん……」
「さぁ……なんなんでしょうね……」
 店長の質問に、俺は首をかしげるしかできない。一度言葉を交わしたことがあるとは言え、昨夜の一件だけで彼のことをすべて理解できるはずがない。しかも、昨日会話した限りでは、そこまで感情の波が激しいようには見えなかったのだ。人は見かけによらない。
 もう少し待ってもらえれば、出来上がったばかりのパンを一番に買えただろうに。あれほど興味深そうにしていた彼に、試作のパンでも渡せばよかったかもしれない。しかし、こんな事件があったわけだから(それに彼は当事者だ)、もう二度と来ることはないだろうし、昨夜のように偶然出会うこともないのだろう。
 少し寂しい気持ちを抱えながら、その日は朝の一件以外、無事に時間が過ぎていった。

◇◇◇

「こんにちは、お兄さん」
「………………え?」
思いがけない人物の来店に、お釣りを数えていた手が止まる。
 特徴的な赤と黒の瞳、柔らかそうな銀色の髪、ピンと気品よく立っている獣の耳。
 昨日、騒ぎに騒いで帰っていった少年がそこにいた。
 まるで昨日のことなど覚えていないかのようなまばゆい笑顔に、思わず目を惹かれる。花が咲いたよう、と言うべきか。彼に惹かれたのは俺だけではない。
 普段はどんな人物が買いに来ようがさして気にせず買い物を続けるお客さん達の視線が、少年が入ってきた瞬間にすっと引き寄せられたのがわかった。
 ぼんやりとしながら少年を見つめ続けていたが、目の前にいるお客さんの「あの、お会計……」という困った声を聞いてハッとする。そうだ、会計の途中だった。急いでお釣りを数え直してお客さんへ渡して、レジを出て少年に近づく。
「あの、なんで……」
「ボクってばうっかりしてたよ。君たちみたいな愚鈍な生き物に、ボクと同じ時間を生きろだなんて酷なことを言ってしまなんて……地を這う虫に空を飛んで星を打ち落とせと言っているようなものだからね。無茶なことだったのさ」
 突飛な例えをされ返事に困ってしまい、笑いながらやり過ごす。昨日の怒りは成りを潜めて、元の高飛車な性格に戻っている。
「悪いことをしたね」と言いながらも、その目は商品が並べられて華やかになっている棚へと注がれたままだ。パァッと目が輝き、軽やかな足取りで棚へと近寄ると、隅から隅まで吟味するようにじっくりと眺めては、形のいい小鼻をすんすんと動かしている。
 と、空になった棚の前で少年の動きが止まった。まずい、これは焼き上がりまで時間がかかる。もし昨日みたいなことが起きたら……!
 冷や汗を流しながら動向を見守っていると、「これ、もう無いの?」と無邪気な様子で聞いてきた。答え方を間違えたら、二の轍を踏むはめになる。慎重になって「あちらのお客様が最後になりますね、焼き上がりには少々お時間をいただきます」と答えながらラストチャンスをつかんだ女性を指し示すと、少年はその女性のほうを向いて、ふむ、と一つ頷く。
 すっと動き出すと軽い足取りで女性に近づき「ね、おねーさん」と元気よく声をかける。いきなり見ず知らずの少年に話しかけられた女性は、不思議そうな顔をしている。
「そのパン、ボクにくれない?」
 最初こそ驚いたような顔をしていた女性だが、すぐにはにかむような表情に変わると「はい、どうぞ」とトレーごと少年へ渡す。
「えっ!?」
「やった♥」
「あ、待って。買ってあげるわ。他に食べたいものある?」
 おそらく初対面であろう二人が、まるで旧知の仲のように楽しげに会話しているのを見て、頭が混乱する。それに、この女性はなんと言った? パンを譲るだけならまだしも、「買ってあげる」? 商品が売れるのはありがたいが、会ったばかりの他人に対して、いくらなんでも太っ腹すぎだろう。
 困惑している俺を横目に、少年は女性の提案を当たり前のように受け入れて、「うーんと、これと、あーこのチョコのやつもおいしそう……あ、この棚のやつも……うーん! 全部食べたいなぁー?」と、とんでもない注文をしている。
 まさかそんな、全部食べたいだなんて非常識なお願い、さすがに拒否するだろうと思っていたが。
「ええ、もちろんいいわよ」
「わぁい♥」
「お客様!?」
 驚いて大きな声を出してしまう。全部? 全部だぞ? 一種類につき一つと決めても、かなりの数があるのに、それを全部……? 女性は当然のように商品棚の間を練り歩きながら、次から次へとパンをトレーに乗せていく。
少年はというと……目をキラキラさせながら、店内に設置されている飲食用のテーブルへと近づいて、パンの到着を今か今かと待ちわびている。……この二人、本気か? 頭がくらくらしてきた。
まず、少年が店にやってきて、そして赤の他人に「パンを譲ってくれ」とせがんで、そうしたらせがまれたほうが「全部買ってあげる」と言い出して……そこでふと思い付く。昨日、少年は高いところにあるパンを見るためにふわふわ浮き上がっていた。つまり、普通は使えないはずの魔法を使えるということだ。だとしたら、女性のこの親しげな反応も魔法の一種を使った結果なのだろうか。……じゃあ、なんで直接俺にかけようとしないんだ……?
「あの、お代金お願いします」
「……っあ、はい!」
 件の女性に声をかけられてハッとする。どういう仕組みで買ってくれているのかはわからないが、お客さんはお客さんだ。まとまらない思考をいったん放棄して、レジへ駆け寄る。買ってもらえるなら、喜んで売るしかない。
 会計を済ませ、すぐさま少年の元へとパンを運んでいく女性と、待ってましたと言わんばかりに手を擦り合わせて喜んでいる少年。二人を追いかけるようにして、サービスのコーヒーを運ぶ俺。二人分のコーヒーをテーブルへ置いたと同時に、少年がテーブルに備え付けの砂糖瓶へ手を伸ばし、山盛りの砂糖を躊躇なくコーヒーへ突っ込んだ。一杯、二杯、三杯……どんどん突っ込んでいく。甘さで胸焼けしそうだが、ちっとも気にする様子がない。瓶の中身が半分以下に減ったところで、ようやく少年の手が止まる。
 トレーの上に山のように積まれたパンと、砂糖の入れすぎで溢れそうになっているコーヒーカップ。その両方を目の前にしても、少年の嬉しそうな表情は変わらない。
「どうぞ、好きなだけ食べてね」
「わぁ~……!」
 すうっと息を吸い込んで焼き立ての香りを胸いっぱいに取り込むと、目の前の一つに手を伸ばし、大きく一口。味を確かめるように目を閉じながら咀嚼していたが、急に目を開くと「う~~~んっ!」と喜びを噛み締めるような声を出した。
「なかなか美味しいじゃないか! うん、気に入ったよ!」
「あ、ありがとう、ございます……」
 俺が作ったわけではないが、おいしいと誉められて悪い気はしない。店長の代理として礼を言うと、「まっ、ボクがピーンと来た店なんだから、当然だよね」と偉そうな性格がちらりと顔を出している。まあ、誉められたことには違いない。後で店長にも伝えておこう。
 さすがに食べ終わるまでじっくり見ているわけにはいかないので、軽く頭を下げてから自分の仕事へ戻る。
レジの仕事が一段落ついたところで少年の様子を伺うと、あんな細い身体のどこに入ったのか、大量にあったパンを全てたいらげていた。さすがに一つ二つくらいは一緒にいた女性も食べたはずだと思ったが、どこにも女性の姿が見えない。帰ったのだろうか。「あぁ、あのおねーさんなら帰ったよ」と、優雅にコーヒーカップを傾けている少年が教えてくれたが、買い与えるだけ与えてさっさと帰ってしまったのか……。謎の行動に内心首を傾げてると、コーヒーを飲み終えた少年が席を立ち、「ふう……」と満足そうに息を吐く。
「うん、美味しかった。気が乗ったらまた来るよ」
 幸せそうな笑顔とともにそう言われて、思わず心臓が早鐘を打つ。昨日は怒りの感情が全面に出ていたが、どうやら今日は満足していただけたようだ。安心して、ほっと一息つく。店の入り口まで少年に着いていき、「ぜひ、またいらしてください」と見送りの挨拶をすると、すっと目を細めた妖艶な笑みを向けられた。
「じゃ、またね。おにーさん」


 次の日も、また次の日も、その少年はやってきた。
 金を払うことはほとんどない。ほぼ毎日、店の中にいる見知らぬ客に奢らせている。普通なら非常識だと指を指されるところだが、不思議なことに、誰も彼の行動を咎めない。むしろ、選ばれることを喜んでさえいる。
 最初の頃こそ難しい顔をしていた店長も、今ではすっかり顔馴染みとなった少年が来るたび、店の奥からひょこひょこ出てきては嬉しそうに挨拶している。……それもそうか。
 盗んだりしているわけでもなし、正式に金を払って(他人の金だが)ちゃんと買っている。それに、普段うちに来るような客よりも羽振りがいい。店に来るたび全種類買っていく客なんて、そうそういるもんではない。だから、店にとってはとてもとてもありがたーいお客様なのだ。

 そんな風に何度も店を訪れてくれたおかげで、今では俺の仕事が無い日には一緒に出掛けるくらいの仲にはなった。出掛けると言っても、ほとんど少年の思い付きで、普段は入れないような高い店(顔パスだった)や、禁書ばかり取り扱う古めかしくて怪しさの溢れる本屋(「お兄さんにはこの本かな」と渡された本には、死体の防腐処理について詳しく書かれていた)に連れて行かれるくらいだが。
 一度だけ、彼に名前を尋ねたことがあるのだが、「今は内緒」とか「名前なんてただの記号だよ、知らなくたって問題ないし」とか、うまい感じにはぐらかされた。その代わりというか、少年も俺の名前を聞いてこなかった。お互い様のつもりだろうか。最初の頃こそ不便を感じていたものの、時間が経つにつれてそんなことも忘れていった。
 そんな感じで、お俺と少年が偶然知り合ったあの夜からおよそ一ヶ月が過ぎた。
 今日はいよいよ、少年が俺と妹の住む家へやって来る日だ。
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