第三章 リボンの造花
「本当に、素晴らしき家族愛だ。素晴らしすぎて反吐が出るほどにね。キミたちは、見事お涙頂戴の三文芝居を演じきったわけだ。誉めてあげるよ」
不意に、お父さんとお母さんと私の三人だけだった世界に侵入者が現れました。
退屈そうな顔をして、手持ちぶさたにくたびれたウサギのぬいぐるみをいじりながら、影のようにそこに立っていました。……影だと勘違いしたのは、その侵入者が真っ黒で長いコートを着ていたせいでした。髪は見事な銀色で、獣の耳が付いています。肌は大理石のように白く滑らかで、彫刻のように掘りの深い顔立ち。
そしてなにより……瞳の色が左右で違うのでした。全てを焼き尽くしてしまいそうな赤と、全てを飲み込んでしまいそうな黒。……私は、この瞳を知っています。知っているはずなのです。確かに、どこかで……。
私がその瞳の持ち主のことを思い出そうとしていると、おにいちゃん、おねえちゃん。帰りたい、返してよぅ……そんな言葉がはっきりと、前よりも大きく耳に届きました。
今のは誰の声でしょうか。この声は、私にしか聞こえていないのかしら? 私が起きる前からずっと聞こえているのに、誰も気にしている様子がありません。
声の主はどこにいるのか周りを見回そうとしますが、この緊張状態のせいでしょうか。身体が思うように動いてくれず、かちこちに固まったままです。
そうこうしている間にも、お父さんが震えながら侵入者へと向き直ります。一瞬だけちらと見えたお父さんの顔は、可哀そうなほどに真っ青です。こんな表情をしたお父さん、今まで一度も見たことがありません。
「貴方は―」
絞り出すような声でお父さんが話しかけますが、それを意に介した様子もなく、謎の人物は淡々と独り言のように言葉を紡ぎます。
「嗚呼素晴らしきかな、美しい愛情だ。子どもの命を全力で助けようとする両親に、自らの過ちを素直に認めて謝罪する娘。どんなにつまらない演劇だって、ここまでくだらないものは無いだろうさ」
「どう、やって……ここに……?」
「……“どう”? “どう”って? なにか特別なことあったっけ?」
ずっと退屈そうに目を細めていた侵入者が、初めて人間らしい表情を見せました。きょとんとした顔で「ボク、特別なことしたっけ?」と手にしたウサギに質問をするその様子は、まるで子どものように純粋です。
「この部屋に来るまでの間、私たちしか通れないように術をかけておいたはずだ。それを……どうやって解除したのかと、聞いている」
「術? ああ……あったね、そういえば。まるで……ふふっ……あははははっ!」
急にその人が笑いだしました。お腹を抱えて、苦しそうに大笑いしています。なにがおかしいのでしょうか? いきなり破裂したように笑いだしたその人を、お父さんもお母さんも不気味なものを見るような目で見つめています。
「あー……ははっ! ごめんごめん、全然気が付かなかったよ! 蝋燭の炎にも劣るような、いや、マッチの火にすら届かないあんな弱々しい魔法!! あんなものを使うぐらいなら、いっそ狩猟用の罠でも置いておくほうがマシだね!!」
「…………!?」
影の人の言葉に、お父さんが絶句します。お母さんも声を出せずにいますが、その表情は「そんなのあり得ない」と雄弁に語っています。
「ああ、勘違いしているようだから教えてあげるけどね? 君たちの術が今まで通用していたのは、相手が魔法を使えない奴か、使えても弱い奴ばっかりだったからさ。ある程度強ければあんな見え見えの罠にかかるようなバカはいないよ」
「そんなこと……あるわけが……!」
「私たちが何重にもかけたのよ!? 通れる人間なんて……!」
「ああ、少し訂正しよう。ボクはさっき、君たちの魔法を“マッチにも劣る”って言ったけど……確かに、あれぐらい強力ならまあ大抵の奴はひっかかるさ。独学でよくここまで学んだものだね、褒めてあげるよ。もっと訓練すれば、さらに強化もできると思うよ。でもね……」
つと言葉を切り、お父さんの顔を見つめるその人は、とても、とても楽しそうでした。
薄い唇を三日月に歪めた、買ったばかりのオモチャで遊ぶような、あと少しで完成の積み木を突き崩すような、そんな破滅的で楽しげな表情を浮かべて、その人が語りだします。
「君たちがどれだけ強かろうと、ボクには勝てないんだよ。どれだけ時間をかけて強力な術を施そうが、訓練を重ねて技を磨こうが、どうやったってボクには勝てない。なんでかって?―ボクが、誰よりも強いからさ」
太陽が東から昇って西へ沈むように、花が咲いたら枯れるように、そのくらい当たり前で覆しようがない事実なのだと、その人は笑いながらそう宣言しました。
不思議と大それたことを言っているようには思えず、「ああ、この人がそう言うんだから“そう”なんだろう」という、妙な納得感が広がります。この人がそう仰るのなら、それが事実であり、それが当たり前のことなのです。
「あれ、まだ理解できない? しょうがないなぁ、優しいボクが丁寧に思い知らせてあげよう……あの若い二人、いたでしょ?」
「…………それが?」
「ボクがちょっと声をかけただけで、ここの秘密をなーんでも喋ったよ。わざわざ魅了の魔法を使うまでもなかった……あ、これは僕の美しさにひれ伏したって言う方が正しいのかな? うぅん、無知な相手に教えるのって難しいな……ね、キミもそう思うでしょう?」
ウサギのぬいぐるみへ笑いかけながら、「やっぱりボクの素晴らしさに敵うものは存在するはずがないんだよねぇ」とくすくすしています。若い二人、とはお兄さんとお姉さんのことでしょうか。二人はいったい何を話したのでしょう。この家に秘密なんてものはありません。なのに。
お父さんとお母さんはすっかり血の気を失った顔をして、驚きと恐怖の入り混じった眼差しを影の方へと向けています。「それ以上喋るな、それ以上口を開くな」という思いが、何も知らない私にも伝わってきました。そんな視線をものともせず、影の方はにこにこと言葉を続けます。
「ま、あの二人にも一応魔法の適正はあったみたいだけどさ? ボクほどの力の持ち主にもなると、対峙しただけで相手の戦意を奪っちゃうとか? そういうこともできちゃうんだよねぇ……こんな風にさ」
すっと表情を消し、長い脚を颯爽と動かして音も無くお母さんの傍へ寄ると、耳元で二、三言なにかを囁きます。その人の言葉を聞いたとたん、お母さんの様子が一変しました。
目を見開き、拒絶するように頭を振り乱し、ふらふらと後ろへ数歩下がるのが見えました。しかし、「逃げても無駄だよ」という声とともに、さらになにかを囁かれると、救いを求めるように影の方へと手を伸ばし―その手は邪魔な虫でも払うかのように軽くあしらわれてしまいましたが―そのままぱたりと倒れて、私の視界から消えてしまいました。
「な……おい! どうしたんだ!? しっかりしろ!」
何が起きたのか、すぐには理解できませんでした。お父さんが慌てて駆け寄って声をかけるのが聞こえますが、私の場所からはなにも見えません。あの方の言葉によってお母さんが倒れてしまった、のでしょうか。
影の方はつまらなそうな表情に戻っていて、お母さんのことを気にしている様子など微塵もありません。「ふん、ちょっとは歯ごたえのあるヤツかと思ったのにさ……とんだ無能だよ、まったく」と独り言を言いながら……いえ、ウサギに話しかけながら、コツコツと部屋の中を歩き回っています。
「でも、まあ……魔術の腕は最悪だけど、それをどうにか活かそうっていう気概だけは褒めてあげてもいいかな。キミはどう思う?」
またウサギに話しかけているのかと思いましたが、今度は違うようです。その人の瞳は、まっすぐに私の方を向いていました。どう、どうと聞かれても……魔法のことなどなにも知らないのですから、答えようがありません。それより、お母さんは無事なのでしょうか。お父さんの何度も何度も呼びかける声だけは聞こえますが、お母さんからの返事が全く聞こえてきません。まさか……。
「別に死んじゃあいないよ。ちょっとだけきつーいお仕置きをしただけだもの」
「お仕置き!? お仕置きって……お前、なにをした!?」
「なにって……あーあ、これだから世界を知らない鼠に物を教えるのは嫌なんだ。世の中全部のことが自分の手に収まると思ってるんだもの。少しは謙虚に生きなよ?」
「ふざけたことを……っ!!」
「ふざけているのはキミたちのほうだ」
それまでつまらなそうにお父さんを見つめるだけだったその人の瞳が、急に怒りで燃え上がりました。退屈そうに細められていた目は吊り上がり、口には牙が見え隠れし、髪の毛はふわりと逆立って、まるで本に出てきたライオンのようです。私に向けられた怒りの感情ではないのに、恐ろしくてたまりません。かたかたと、身体が震えだします。目を逸らしたくてたまらないのに、それを許さない強さと圧力がこの部屋を満たしています。この場から逃げ出したい、いいえ、逃げても無駄。この方からは逃げることなんて不可能なのです。お父さんの身体も震えてはいますが、私と違い気をしっかり持っていて、目を逸らさずに睨み返しています。
「別にここでなにをしてようが、ボクはどうでもよかったんだよ。その辺に転がってる野良の子どもを使って小銭稼ぎをしてるだけなら、止める義務もないしね……あのお優しい救世主サマなら、止めようとするだろうけどさ」
ほんの一瞬だけ……怒りの方向が私たちではなく、ここにはいない誰かへと向けられました。苛立ちと嫌悪の混じった表情で、吐き捨てるように「アイツならそうするだろうよ」と呟いています。
「あいつ」とは誰のことを言っているのでしょうか? お父さんも私と同じ疑問を持ったようで、「誰のことを言っている……?」といぶかしんでいます。
「……誰のことだろうがキミには関係無いよ。今しているのは……お前の話だ」
ぞくりとするほど冷たい眼差しが、お父さんを貫きました。
ナイフのような鋭さと、氷のような冷たさを持った赤と黒の瞳が、揺らぐことなくお父さんだけを見つめています。息が詰まるほどの重い雰囲気の中で、女の子のすすり泣く声だけが、この部屋の中で唯一聞こえる音です。帰りたい、帰りたい。おうちに帰して、返してよぅ。
―誰なの、あなたは誰。どうしてそんなに泣いているの。
「身寄りのない子どもを集めるっていうのはいい案だと思うよ。一人二人減ったところで、誰も気にしないからねぇ。それに、孤児院の子どももいいね! あそこはいつだって、増えすぎたお荷物を減らしたいと思っているんだからピッタリだ!」
「なんの、話だ……」
「ホント、そこまではよかったんだよ。ボクもどうでもよかったし、子どもの誘拐や失踪なんて日常茶飯事だ。ただねぇ……お前は、狙ってはいけない子どもを選んだ」
「……わ、たし……私、は……」
追い詰めた獲物をどうやって食べようか、どう調理してやろうか。
そんな笑顔を浮かべながら、お父さんへ一歩ずつ近づいていく影の人と、連動するみたいに後ろへ下がっていくお父さん。それから、どうしようもできずにおろおろとしているばかりの私。二人の会話は難しく、ついて行くことができません。なにが起きているんでしょうか。
泣き声はずっと聞こえています。帰して、帰して、返して!! そんな悲痛な叫びが耳に届いたのか、影の人がちらりと私の方へ目をやりました。私? 私は、泣いていないのに……どうしてこっちを見るのでしょう?
「……そこにいる子はさ、アイツが面倒見てた孤児院の子どもなんだよ。別にボクに関わりの無いことだから、消えたところでなんとも思いはしなかったんだけど……悲しむんだ、アイミィが」
「アイミィ」という名前が影の人の口から出た瞬間、それまで聞こえていた誰かの泣いている声が、ぴたりと止みました。
「し、知らない、そんな名前、聞いたことも……」
「……そう、お前は知る必要のないことさ。それじゃあ」
影の人の身体が、さあっと霧のように姿がぼやけだし、一瞬で消えてしまいました。少し遅れてお父さんが、ハッと正気を取り戻して周囲を見回します。「どこだ!? どこにいる!?」と叫びながら、壁際に備え付けてあった棚の中からなにかを取りだして、胸の前で構えています。目を凝らしてよく見ると、お父さんの手に握られていたのは―鋭く銀色に光る、細身のナイフでした。それをめちゃくちゃに振り回しながら、何度も何度も気が狂ったように、獣のように叫んでいます。出てこい、どこだ、どこにいる、隠れても無駄だ―。でも、そんなお父さんを嘲笑うかのように何もないところから笑い声が響いてきました。
―アッハハハ! そんなオモチャでボクをどうにかできるとでも?―
「っこの……!!」
「―無駄だよ」
不意に、歌うような調子の軽やかな声が私の背後から聞こえてきました。血走った目をしたお父さんがこちらを振り返りますが―。
「ほら、おしまい」
「……!?」
どこからともなく声が響いた次の瞬間、ぐるりと目を回して倒れてしまいました。
―お、お父さん! お父さん! どうしたのお父さん、しっかりして!
必死に呼びかけますが、起き上がる気配はありません。力の抜けた腕を投げ出して、まるで死んでいるみたいにぐったりとしています。
そしてまた聞こえてくる、悲し気に泣く声。ぐすん、ぐすん。おねえちゃん、おねえちゃん。
―どうしよう、お父さんまで倒れちゃった……! お母さん、お母さんは……!? 誰か、お兄さん、お姉さん……!!
「だぁから、死んじゃいないってば。ボクの話聞いてた?」
ふっと目の前が暗くなったと思ったら、影の人が姿を現しました。風もないのにコートの裾をはためかせて、悠然と立っています。
―次は私の番……!? 誰か、助けて!
「別にキミをどうこうしようなんて思っちゃいないよ。さて、と。邪魔者はいなくなったし……お家に、帰ろうか」
影の人がくるりと私の方へ向き直ると、手を伸ばしてきました。お家、帰るお家……? 私の家は、ここなのに。お父さんとお母さんのいる場所が、家族みんなのいる場所が、私の家なのに。でも……。
優しく差し出された手はとても温かそうで。その人の顔に浮かんでいる笑みは、なにもかも包み込んでくれそうな聖母のようで。瞳に灯された柔らかな光は、絶対的な安心感を与えてくれるようです。
私の家族はここにいるみんなで、みんな私を大事に思ってくれている。もちろん、私もみんなが大事。だけど―この人と、一緒に行きたい。そう結論が出たら、思わず私も腕を差し出していました。
「さあ、帰ろう」
慈愛のこもった眼差しで、愛情の詰まった声で、その人に呼びかけられます。ああ、この手を取って、私も一緒に…………。
「“我が家”でアイミィが待ってるよ」
その手を掴もうとした瞬間。私へ差し出されていたはずの手は、すっと頭上を通り過ぎて、後ろへと伸ばされていきました。
―えっ……どうして……?
突然のことに混乱していると、ぽとりとなにかが目の前に落ちてきました。
これは……ウサギの、ぬいぐるみです。さっきまで弄ばれていた、汚れてボロボロのウサギ。
目の部分に縫い込まれたガラスのビーズが、無機質に私の姿を反射しています。
「よいしょ……さ、忘れ物はないね? ああ、キミがアイミィから貰ったのはここにあるよ」
呆然としている私なんか視界に映っていないみたいに、その人は“なにか”を抱きかかえて部屋の中心に戻ってきました。そして、コートのポケットからごそごそと……ところどころ繕われている、パッチワークのようなウサギのぬいぐるみを取り出し、“なにか”へと手渡しました。ぬいぐるみを渡された「なにか」は、真っ白なレースに包まれていて、まるで花嫁のドレスのよう。「さあこんな陰気臭い場所とはおさらばだ」と楽しげな声を出して、影の人が歩き出したとき、腕の中にいた“なにか”がはっきりと見えました。真っ白なドレスを着て、丁寧に髪を結われて、お姫様のように大切に抱きかかえられていたのは―あれは、泣き虫のマイアです。
そうだ、そうです。私は彼女を追って、お父さんの部屋へ入って、それで……。この部屋でずっと泣き声が聞こえていたのは、彼女がいたからなのです。
まるでお人形みたいにぴくりとも動かず、されるがままでおとなしく腕の中に納まっているマイアと、そんな彼女を支えながら優雅に歩き出す影の人、いいえ、天使様。二人は仲良く連れ立って、この部屋から出て行こうとしています。
―待って、待ってください! 私も連れて行って!! お願い!
ぐっと腕を伸ばし、何度も懇願しますが、天使様は振り向いてすらくれません。どうして、お願い、私も。
「悪いけど、キミは連れていけないよ」
こっちを見向きもせずに、天使様が冷たい声で仰います。どうして? マイアは連れて行くのに、どうして私はダメなの? 私のほうがマイアより綺麗で、私のほうがマイアより頭がよくて、私のほうが運動ができて、私のほうが……。連れて行ってくれるようにと、私がどれだけいい子で、マイアより優れているかを必死になって説明しますが、その間も天使様は一度だって私を見てはくれませんでした。お願い、どうか私も。
私の願いが通じたのでしょうか。天使様が少しだけこちらを振り返り、憐れみのこもった視線をくれました。そして、ゆっくりと口を開きます。
私も、連れて行ってもらえるんだ……!!
「―だって、キミには足がないもの。だから無理さ」
―え? なにを、そんな、冗談みたいなこと……。
天使様はご冗談がお好きなようです。そんなに真剣な顔で言われてしまったら、私も騙されたフリをするしか……。
「冗談なもんか。キミ、自分の姿をちゃんと見なよ」
天使様の表情が憐れみから呆れへと変わります。「ここまでしてやる義理はないんだけどなぁ。ま、いっか」ぼそりと呟いた天使様が指をぱちんと鳴らすと、どこからともなく大きな鏡が現れて私の姿を映し出しました。お父さんとお母さんが必死になって治してくれた私の身体が、いいえ、どうして―どうして、首から下が無いの!?
「あーあ、可哀想に。不完全に術にかかったから、首から下を離すしかなかったんだねぇ。腕の悪いやつだとよくあることだから、犬に噛まれたようなモノだと思って諦めなよ」
―いや! どうして、私の身体……!! 私の身体を返して!!
「“返して”って、キミの両親に言いなよ。こうなったのはキミがだぁーいすきで堪らない、お父さんとおかあさんのせい。……でも、大好きな二人にされたことだもん、笑って許せるよねぇ?」
口を三日月型に歪めて、目には愉悦の色を湛えながら、天使様が―いいえ、人の形をした悪魔が言い放ちます。
抱え上げたマイアの髪を撫でる手つきはとても優しいのに、私を見るその眼差しには優しさなど微塵も含まれておらず、「次はどんなことをして楽しませてくれるの?」とでも言うようにほの暗い欲望で瞳を輝かせています。
―なんで、どうして私が、こんな目に……!
「良かったじゃないか。キミ、口喧しいから引き取り手が見つからなかったんでしょう? でもこれでたくさんの人がキミを求めて大金を払うよ。おめでとう、オヒメサマ」
―こんなの、こんなの望んでない!! 返して、返してよぅ!!
「だからそれは両親に言ってよ。ま、中身の方は今頃どこぞで売りさばかれているだろうから、それは無理な願いじゃないかなぁ」
くすくす、くすくすと。私の不幸を楽しむように、嘲るように。
黒い悪魔が嗤います。
悪魔に抱かれた真っ白な人形はなにも言いません。
誰か、誰か―。
「キミの友達はそこにいるじゃあないか」
そこ、と指し示された場所には……ボロボロで、くたびれたウサギのぬいぐるみ。違う、こんなの友達じゃない。こんなもの知らない。
「おやおや、大切な友達を“こんなもの”呼ばわりか。かわいそうなヒース」
ヒース……ヒース? この部屋のどこにもヒースはいないのに、なんでそんなことを……。
汚れてはいるけれど、本来はきっと真っ白でふわふわとしていたであろう毛糸の身体に、今は濁っているけれど、本当はお日様の光を浴びてきらきら輝いていたはずの赤いガラスビーズの目玉。
これ、この目、は……。
不意にヒースとの思い出が脳裏に蘇ってきました。あの子は一度も口を開かなかった。私以外の人間と遊ばなかった。絶対に食事をせず、お風呂にも入らず、それでいて不便そうな顔もしなかった。なにより―私以外、誰もヒースの名を口にしたことが、なかった。
「それじゃあさよなら。二度と会うことはないよ」
軽やかな足取りで、黒い悪魔が花嫁衣裳のマイアを抱えて部屋から出て行きます。残されたのは首だけの私と、物言わぬぬいぐるみに戻ってしまったヒースだけ。ヒース、ヒース、お願い、助けて、誰か、助けて―。
不意に、お父さんとお母さんと私の三人だけだった世界に侵入者が現れました。
退屈そうな顔をして、手持ちぶさたにくたびれたウサギのぬいぐるみをいじりながら、影のようにそこに立っていました。……影だと勘違いしたのは、その侵入者が真っ黒で長いコートを着ていたせいでした。髪は見事な銀色で、獣の耳が付いています。肌は大理石のように白く滑らかで、彫刻のように掘りの深い顔立ち。
そしてなにより……瞳の色が左右で違うのでした。全てを焼き尽くしてしまいそうな赤と、全てを飲み込んでしまいそうな黒。……私は、この瞳を知っています。知っているはずなのです。確かに、どこかで……。
私がその瞳の持ち主のことを思い出そうとしていると、おにいちゃん、おねえちゃん。帰りたい、返してよぅ……そんな言葉がはっきりと、前よりも大きく耳に届きました。
今のは誰の声でしょうか。この声は、私にしか聞こえていないのかしら? 私が起きる前からずっと聞こえているのに、誰も気にしている様子がありません。
声の主はどこにいるのか周りを見回そうとしますが、この緊張状態のせいでしょうか。身体が思うように動いてくれず、かちこちに固まったままです。
そうこうしている間にも、お父さんが震えながら侵入者へと向き直ります。一瞬だけちらと見えたお父さんの顔は、可哀そうなほどに真っ青です。こんな表情をしたお父さん、今まで一度も見たことがありません。
「貴方は―」
絞り出すような声でお父さんが話しかけますが、それを意に介した様子もなく、謎の人物は淡々と独り言のように言葉を紡ぎます。
「嗚呼素晴らしきかな、美しい愛情だ。子どもの命を全力で助けようとする両親に、自らの過ちを素直に認めて謝罪する娘。どんなにつまらない演劇だって、ここまでくだらないものは無いだろうさ」
「どう、やって……ここに……?」
「……“どう”? “どう”って? なにか特別なことあったっけ?」
ずっと退屈そうに目を細めていた侵入者が、初めて人間らしい表情を見せました。きょとんとした顔で「ボク、特別なことしたっけ?」と手にしたウサギに質問をするその様子は、まるで子どものように純粋です。
「この部屋に来るまでの間、私たちしか通れないように術をかけておいたはずだ。それを……どうやって解除したのかと、聞いている」
「術? ああ……あったね、そういえば。まるで……ふふっ……あははははっ!」
急にその人が笑いだしました。お腹を抱えて、苦しそうに大笑いしています。なにがおかしいのでしょうか? いきなり破裂したように笑いだしたその人を、お父さんもお母さんも不気味なものを見るような目で見つめています。
「あー……ははっ! ごめんごめん、全然気が付かなかったよ! 蝋燭の炎にも劣るような、いや、マッチの火にすら届かないあんな弱々しい魔法!! あんなものを使うぐらいなら、いっそ狩猟用の罠でも置いておくほうがマシだね!!」
「…………!?」
影の人の言葉に、お父さんが絶句します。お母さんも声を出せずにいますが、その表情は「そんなのあり得ない」と雄弁に語っています。
「ああ、勘違いしているようだから教えてあげるけどね? 君たちの術が今まで通用していたのは、相手が魔法を使えない奴か、使えても弱い奴ばっかりだったからさ。ある程度強ければあんな見え見えの罠にかかるようなバカはいないよ」
「そんなこと……あるわけが……!」
「私たちが何重にもかけたのよ!? 通れる人間なんて……!」
「ああ、少し訂正しよう。ボクはさっき、君たちの魔法を“マッチにも劣る”って言ったけど……確かに、あれぐらい強力ならまあ大抵の奴はひっかかるさ。独学でよくここまで学んだものだね、褒めてあげるよ。もっと訓練すれば、さらに強化もできると思うよ。でもね……」
つと言葉を切り、お父さんの顔を見つめるその人は、とても、とても楽しそうでした。
薄い唇を三日月に歪めた、買ったばかりのオモチャで遊ぶような、あと少しで完成の積み木を突き崩すような、そんな破滅的で楽しげな表情を浮かべて、その人が語りだします。
「君たちがどれだけ強かろうと、ボクには勝てないんだよ。どれだけ時間をかけて強力な術を施そうが、訓練を重ねて技を磨こうが、どうやったってボクには勝てない。なんでかって?―ボクが、誰よりも強いからさ」
太陽が東から昇って西へ沈むように、花が咲いたら枯れるように、そのくらい当たり前で覆しようがない事実なのだと、その人は笑いながらそう宣言しました。
不思議と大それたことを言っているようには思えず、「ああ、この人がそう言うんだから“そう”なんだろう」という、妙な納得感が広がります。この人がそう仰るのなら、それが事実であり、それが当たり前のことなのです。
「あれ、まだ理解できない? しょうがないなぁ、優しいボクが丁寧に思い知らせてあげよう……あの若い二人、いたでしょ?」
「…………それが?」
「ボクがちょっと声をかけただけで、ここの秘密をなーんでも喋ったよ。わざわざ魅了の魔法を使うまでもなかった……あ、これは僕の美しさにひれ伏したって言う方が正しいのかな? うぅん、無知な相手に教えるのって難しいな……ね、キミもそう思うでしょう?」
ウサギのぬいぐるみへ笑いかけながら、「やっぱりボクの素晴らしさに敵うものは存在するはずがないんだよねぇ」とくすくすしています。若い二人、とはお兄さんとお姉さんのことでしょうか。二人はいったい何を話したのでしょう。この家に秘密なんてものはありません。なのに。
お父さんとお母さんはすっかり血の気を失った顔をして、驚きと恐怖の入り混じった眼差しを影の方へと向けています。「それ以上喋るな、それ以上口を開くな」という思いが、何も知らない私にも伝わってきました。そんな視線をものともせず、影の方はにこにこと言葉を続けます。
「ま、あの二人にも一応魔法の適正はあったみたいだけどさ? ボクほどの力の持ち主にもなると、対峙しただけで相手の戦意を奪っちゃうとか? そういうこともできちゃうんだよねぇ……こんな風にさ」
すっと表情を消し、長い脚を颯爽と動かして音も無くお母さんの傍へ寄ると、耳元で二、三言なにかを囁きます。その人の言葉を聞いたとたん、お母さんの様子が一変しました。
目を見開き、拒絶するように頭を振り乱し、ふらふらと後ろへ数歩下がるのが見えました。しかし、「逃げても無駄だよ」という声とともに、さらになにかを囁かれると、救いを求めるように影の方へと手を伸ばし―その手は邪魔な虫でも払うかのように軽くあしらわれてしまいましたが―そのままぱたりと倒れて、私の視界から消えてしまいました。
「な……おい! どうしたんだ!? しっかりしろ!」
何が起きたのか、すぐには理解できませんでした。お父さんが慌てて駆け寄って声をかけるのが聞こえますが、私の場所からはなにも見えません。あの方の言葉によってお母さんが倒れてしまった、のでしょうか。
影の方はつまらなそうな表情に戻っていて、お母さんのことを気にしている様子など微塵もありません。「ふん、ちょっとは歯ごたえのあるヤツかと思ったのにさ……とんだ無能だよ、まったく」と独り言を言いながら……いえ、ウサギに話しかけながら、コツコツと部屋の中を歩き回っています。
「でも、まあ……魔術の腕は最悪だけど、それをどうにか活かそうっていう気概だけは褒めてあげてもいいかな。キミはどう思う?」
またウサギに話しかけているのかと思いましたが、今度は違うようです。その人の瞳は、まっすぐに私の方を向いていました。どう、どうと聞かれても……魔法のことなどなにも知らないのですから、答えようがありません。それより、お母さんは無事なのでしょうか。お父さんの何度も何度も呼びかける声だけは聞こえますが、お母さんからの返事が全く聞こえてきません。まさか……。
「別に死んじゃあいないよ。ちょっとだけきつーいお仕置きをしただけだもの」
「お仕置き!? お仕置きって……お前、なにをした!?」
「なにって……あーあ、これだから世界を知らない鼠に物を教えるのは嫌なんだ。世の中全部のことが自分の手に収まると思ってるんだもの。少しは謙虚に生きなよ?」
「ふざけたことを……っ!!」
「ふざけているのはキミたちのほうだ」
それまでつまらなそうにお父さんを見つめるだけだったその人の瞳が、急に怒りで燃え上がりました。退屈そうに細められていた目は吊り上がり、口には牙が見え隠れし、髪の毛はふわりと逆立って、まるで本に出てきたライオンのようです。私に向けられた怒りの感情ではないのに、恐ろしくてたまりません。かたかたと、身体が震えだします。目を逸らしたくてたまらないのに、それを許さない強さと圧力がこの部屋を満たしています。この場から逃げ出したい、いいえ、逃げても無駄。この方からは逃げることなんて不可能なのです。お父さんの身体も震えてはいますが、私と違い気をしっかり持っていて、目を逸らさずに睨み返しています。
「別にここでなにをしてようが、ボクはどうでもよかったんだよ。その辺に転がってる野良の子どもを使って小銭稼ぎをしてるだけなら、止める義務もないしね……あのお優しい救世主サマなら、止めようとするだろうけどさ」
ほんの一瞬だけ……怒りの方向が私たちではなく、ここにはいない誰かへと向けられました。苛立ちと嫌悪の混じった表情で、吐き捨てるように「アイツならそうするだろうよ」と呟いています。
「あいつ」とは誰のことを言っているのでしょうか? お父さんも私と同じ疑問を持ったようで、「誰のことを言っている……?」といぶかしんでいます。
「……誰のことだろうがキミには関係無いよ。今しているのは……お前の話だ」
ぞくりとするほど冷たい眼差しが、お父さんを貫きました。
ナイフのような鋭さと、氷のような冷たさを持った赤と黒の瞳が、揺らぐことなくお父さんだけを見つめています。息が詰まるほどの重い雰囲気の中で、女の子のすすり泣く声だけが、この部屋の中で唯一聞こえる音です。帰りたい、帰りたい。おうちに帰して、返してよぅ。
―誰なの、あなたは誰。どうしてそんなに泣いているの。
「身寄りのない子どもを集めるっていうのはいい案だと思うよ。一人二人減ったところで、誰も気にしないからねぇ。それに、孤児院の子どももいいね! あそこはいつだって、増えすぎたお荷物を減らしたいと思っているんだからピッタリだ!」
「なんの、話だ……」
「ホント、そこまではよかったんだよ。ボクもどうでもよかったし、子どもの誘拐や失踪なんて日常茶飯事だ。ただねぇ……お前は、狙ってはいけない子どもを選んだ」
「……わ、たし……私、は……」
追い詰めた獲物をどうやって食べようか、どう調理してやろうか。
そんな笑顔を浮かべながら、お父さんへ一歩ずつ近づいていく影の人と、連動するみたいに後ろへ下がっていくお父さん。それから、どうしようもできずにおろおろとしているばかりの私。二人の会話は難しく、ついて行くことができません。なにが起きているんでしょうか。
泣き声はずっと聞こえています。帰して、帰して、返して!! そんな悲痛な叫びが耳に届いたのか、影の人がちらりと私の方へ目をやりました。私? 私は、泣いていないのに……どうしてこっちを見るのでしょう?
「……そこにいる子はさ、アイツが面倒見てた孤児院の子どもなんだよ。別にボクに関わりの無いことだから、消えたところでなんとも思いはしなかったんだけど……悲しむんだ、アイミィが」
「アイミィ」という名前が影の人の口から出た瞬間、それまで聞こえていた誰かの泣いている声が、ぴたりと止みました。
「し、知らない、そんな名前、聞いたことも……」
「……そう、お前は知る必要のないことさ。それじゃあ」
影の人の身体が、さあっと霧のように姿がぼやけだし、一瞬で消えてしまいました。少し遅れてお父さんが、ハッと正気を取り戻して周囲を見回します。「どこだ!? どこにいる!?」と叫びながら、壁際に備え付けてあった棚の中からなにかを取りだして、胸の前で構えています。目を凝らしてよく見ると、お父さんの手に握られていたのは―鋭く銀色に光る、細身のナイフでした。それをめちゃくちゃに振り回しながら、何度も何度も気が狂ったように、獣のように叫んでいます。出てこい、どこだ、どこにいる、隠れても無駄だ―。でも、そんなお父さんを嘲笑うかのように何もないところから笑い声が響いてきました。
―アッハハハ! そんなオモチャでボクをどうにかできるとでも?―
「っこの……!!」
「―無駄だよ」
不意に、歌うような調子の軽やかな声が私の背後から聞こえてきました。血走った目をしたお父さんがこちらを振り返りますが―。
「ほら、おしまい」
「……!?」
どこからともなく声が響いた次の瞬間、ぐるりと目を回して倒れてしまいました。
―お、お父さん! お父さん! どうしたのお父さん、しっかりして!
必死に呼びかけますが、起き上がる気配はありません。力の抜けた腕を投げ出して、まるで死んでいるみたいにぐったりとしています。
そしてまた聞こえてくる、悲し気に泣く声。ぐすん、ぐすん。おねえちゃん、おねえちゃん。
―どうしよう、お父さんまで倒れちゃった……! お母さん、お母さんは……!? 誰か、お兄さん、お姉さん……!!
「だぁから、死んじゃいないってば。ボクの話聞いてた?」
ふっと目の前が暗くなったと思ったら、影の人が姿を現しました。風もないのにコートの裾をはためかせて、悠然と立っています。
―次は私の番……!? 誰か、助けて!
「別にキミをどうこうしようなんて思っちゃいないよ。さて、と。邪魔者はいなくなったし……お家に、帰ろうか」
影の人がくるりと私の方へ向き直ると、手を伸ばしてきました。お家、帰るお家……? 私の家は、ここなのに。お父さんとお母さんのいる場所が、家族みんなのいる場所が、私の家なのに。でも……。
優しく差し出された手はとても温かそうで。その人の顔に浮かんでいる笑みは、なにもかも包み込んでくれそうな聖母のようで。瞳に灯された柔らかな光は、絶対的な安心感を与えてくれるようです。
私の家族はここにいるみんなで、みんな私を大事に思ってくれている。もちろん、私もみんなが大事。だけど―この人と、一緒に行きたい。そう結論が出たら、思わず私も腕を差し出していました。
「さあ、帰ろう」
慈愛のこもった眼差しで、愛情の詰まった声で、その人に呼びかけられます。ああ、この手を取って、私も一緒に…………。
「“我が家”でアイミィが待ってるよ」
その手を掴もうとした瞬間。私へ差し出されていたはずの手は、すっと頭上を通り過ぎて、後ろへと伸ばされていきました。
―えっ……どうして……?
突然のことに混乱していると、ぽとりとなにかが目の前に落ちてきました。
これは……ウサギの、ぬいぐるみです。さっきまで弄ばれていた、汚れてボロボロのウサギ。
目の部分に縫い込まれたガラスのビーズが、無機質に私の姿を反射しています。
「よいしょ……さ、忘れ物はないね? ああ、キミがアイミィから貰ったのはここにあるよ」
呆然としている私なんか視界に映っていないみたいに、その人は“なにか”を抱きかかえて部屋の中心に戻ってきました。そして、コートのポケットからごそごそと……ところどころ繕われている、パッチワークのようなウサギのぬいぐるみを取り出し、“なにか”へと手渡しました。ぬいぐるみを渡された「なにか」は、真っ白なレースに包まれていて、まるで花嫁のドレスのよう。「さあこんな陰気臭い場所とはおさらばだ」と楽しげな声を出して、影の人が歩き出したとき、腕の中にいた“なにか”がはっきりと見えました。真っ白なドレスを着て、丁寧に髪を結われて、お姫様のように大切に抱きかかえられていたのは―あれは、泣き虫のマイアです。
そうだ、そうです。私は彼女を追って、お父さんの部屋へ入って、それで……。この部屋でずっと泣き声が聞こえていたのは、彼女がいたからなのです。
まるでお人形みたいにぴくりとも動かず、されるがままでおとなしく腕の中に納まっているマイアと、そんな彼女を支えながら優雅に歩き出す影の人、いいえ、天使様。二人は仲良く連れ立って、この部屋から出て行こうとしています。
―待って、待ってください! 私も連れて行って!! お願い!
ぐっと腕を伸ばし、何度も懇願しますが、天使様は振り向いてすらくれません。どうして、お願い、私も。
「悪いけど、キミは連れていけないよ」
こっちを見向きもせずに、天使様が冷たい声で仰います。どうして? マイアは連れて行くのに、どうして私はダメなの? 私のほうがマイアより綺麗で、私のほうがマイアより頭がよくて、私のほうが運動ができて、私のほうが……。連れて行ってくれるようにと、私がどれだけいい子で、マイアより優れているかを必死になって説明しますが、その間も天使様は一度だって私を見てはくれませんでした。お願い、どうか私も。
私の願いが通じたのでしょうか。天使様が少しだけこちらを振り返り、憐れみのこもった視線をくれました。そして、ゆっくりと口を開きます。
私も、連れて行ってもらえるんだ……!!
「―だって、キミには足がないもの。だから無理さ」
―え? なにを、そんな、冗談みたいなこと……。
天使様はご冗談がお好きなようです。そんなに真剣な顔で言われてしまったら、私も騙されたフリをするしか……。
「冗談なもんか。キミ、自分の姿をちゃんと見なよ」
天使様の表情が憐れみから呆れへと変わります。「ここまでしてやる義理はないんだけどなぁ。ま、いっか」ぼそりと呟いた天使様が指をぱちんと鳴らすと、どこからともなく大きな鏡が現れて私の姿を映し出しました。お父さんとお母さんが必死になって治してくれた私の身体が、いいえ、どうして―どうして、首から下が無いの!?
「あーあ、可哀想に。不完全に術にかかったから、首から下を離すしかなかったんだねぇ。腕の悪いやつだとよくあることだから、犬に噛まれたようなモノだと思って諦めなよ」
―いや! どうして、私の身体……!! 私の身体を返して!!
「“返して”って、キミの両親に言いなよ。こうなったのはキミがだぁーいすきで堪らない、お父さんとおかあさんのせい。……でも、大好きな二人にされたことだもん、笑って許せるよねぇ?」
口を三日月型に歪めて、目には愉悦の色を湛えながら、天使様が―いいえ、人の形をした悪魔が言い放ちます。
抱え上げたマイアの髪を撫でる手つきはとても優しいのに、私を見るその眼差しには優しさなど微塵も含まれておらず、「次はどんなことをして楽しませてくれるの?」とでも言うようにほの暗い欲望で瞳を輝かせています。
―なんで、どうして私が、こんな目に……!
「良かったじゃないか。キミ、口喧しいから引き取り手が見つからなかったんでしょう? でもこれでたくさんの人がキミを求めて大金を払うよ。おめでとう、オヒメサマ」
―こんなの、こんなの望んでない!! 返して、返してよぅ!!
「だからそれは両親に言ってよ。ま、中身の方は今頃どこぞで売りさばかれているだろうから、それは無理な願いじゃないかなぁ」
くすくす、くすくすと。私の不幸を楽しむように、嘲るように。
黒い悪魔が嗤います。
悪魔に抱かれた真っ白な人形はなにも言いません。
誰か、誰か―。
「キミの友達はそこにいるじゃあないか」
そこ、と指し示された場所には……ボロボロで、くたびれたウサギのぬいぐるみ。違う、こんなの友達じゃない。こんなもの知らない。
「おやおや、大切な友達を“こんなもの”呼ばわりか。かわいそうなヒース」
ヒース……ヒース? この部屋のどこにもヒースはいないのに、なんでそんなことを……。
汚れてはいるけれど、本来はきっと真っ白でふわふわとしていたであろう毛糸の身体に、今は濁っているけれど、本当はお日様の光を浴びてきらきら輝いていたはずの赤いガラスビーズの目玉。
これ、この目、は……。
不意にヒースとの思い出が脳裏に蘇ってきました。あの子は一度も口を開かなかった。私以外の人間と遊ばなかった。絶対に食事をせず、お風呂にも入らず、それでいて不便そうな顔もしなかった。なにより―私以外、誰もヒースの名を口にしたことが、なかった。
「それじゃあさよなら。二度と会うことはないよ」
軽やかな足取りで、黒い悪魔が花嫁衣裳のマイアを抱えて部屋から出て行きます。残されたのは首だけの私と、物言わぬぬいぐるみに戻ってしまったヒースだけ。ヒース、ヒース、お願い、助けて、誰か、助けて―。