緑の黒髪
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「オレぇ、小エビちゃんの髪好きだなあ」
好きな人に、そう髪を撫でられて喜ばぬ女がいるだろうか。
ぐちゃぐちゃと、然し柔らかで繊細な果物を触るような優しい手つきで頭を撫で、スっと腰まで流れる髪に指を通すその仕草。まるで髪の1本1本から腰まで神経で繋がったかのような甘い痺れが流れる。
だめよ、ユウ。勘違いしそうになってる。
気まぐれで、毎秒思考が変わるような自由なお人だ。きっとこの言葉も特に深い思いもなく、ぱっと感じた思いを口にしただけ。他意はない。
気分屋なものの、才能に溢れ眉目秀麗で竹を割ったようなその性格の彼が、地味で目立った取り柄のない私を好きになるはずなんてない。冷静に考えれば流せる言葉であったのに、私は彼から向けられた“好き”という、初めての直接的な好意に有頂天になっていたのだ。真っ赤な顔で、声が出ず呼吸が出来ない魚のようにパクパクと口を開閉させてしまう姿を見られたくなくて急いで身を縮こませて俯いた。
そんな私を先輩はケラケラと楽しそうに見て笑う。先輩の触る髪が手からサラリとこぼれ落ちた。
私はフロイド先輩に好意を寄せている。
◢◣
頭、絶対汗かいてたよなあ。
それに、褒めてもらったのにお礼の一言も言えなかった。陰気な女の子って思われてないかなあ……。
ナイトレイブンカレッジオンボロ寮所属。華のJK1年生。ついでに恋する乙女ピカピカの1年生の監督生ユウは、自室でもう何度目ともつかない数の、対フロイド恋愛反省会を1人行っていた。
今日もフロイド先輩は素敵だった…。から始まり、最後には酷い自己嫌悪に終わるのが反省会のルーティンであることから彼女の難儀な性格が伺える。しかし、その日は一段と目に見て分かるように鬱ぎ、落ち込んでいた。その塞ぎ込みようといえば、普段グリムが1人反省会で悶々としている彼女は放置一択であるにも関わらず、今回のあまりの様子に夕食の際には食べかけのツナ缶を分け、今日は隣で寝るんだゾと気を使って1人にしてくれるほどであった。
まあ、悩みの種の原因と言えば、フロイドによるものしかありえないのだが、より詳しく言うならば、フロイドが褒めた彼女自身の髪についてであった。
監督生はひと房、髪を手に取るとため息を着く。
こんなことならば。もっと手入れしておけばよかった。
お世辞にも最高に美しい髪とは言えないそれに、過去を思い出し後悔した。
自分で言うのもどうかと思うが、私の髪は人並み以上に綺麗であった。
臍まで伸びた、重力にそったストンと流れる様な緑の黒髪。はね毛や癖などひとつも見られない。縮毛矯正もストレートパーマも一切かけていない天然の絹のようなバージンヘアの黒髪ロングストレート。月から差し込んだ様な僅かな光でも天使の輪ができるほど艶と腰のある髪。皆一様に触りたがり、見た目に違わず、サラ、と絡むことなく滑る髪に感嘆のため息が溢れる者もいた。少し都会を歩けば、必ずヘアモデルに声をかけられた。
処女黒髪のロングストレートなど、きょうび見られぬ髪型であった為、周囲は日本人形のような見た目と、物静かな性格というだけで私を「これぞ古き良き大和撫子」と褒めそやした。
まあ、今となってはこれは過去の栄光のようなものだ。
もうすぐ高校に進学、という時期にいきなり迷い込んだ異世界。親という後ろ盾がないここでは、金も衣食住もまともにありはしない状況でまともな手入れなどできはしない。同居人の猫ちゃんことグリムはものは壊すわ大食らいだわ節制の心はないわの三重苦であった為、学園長からお小遣いも僅かなもので明日食べる食事にも頭を悩ませていた。本当に、私が猫好きであったことにグリムは感謝をしろ。
そんなわけで、日用品の購入にも戸惑いがある懐具合いでは、髪の手入れ用品など嗜好品の域だ。
かつてのお小遣いを貯めて買ったヘアケア用品。オーガニック原料のノンシリコンシャンプー&トリートメント。3日に1度のトリートメントとジルのヘアパック。温風と冷風を使い分け出来るドライヤー。就寝時にはミルボンのエンジェーダ。摩擦と香りを閉じこめる愛らしいピンクリボンのヘアキャップ。月に1回の美容院。外出前には纏まりと濡れ感のN・。特別な日は名前の通り、チャンスを掴むCHANELのヘアミスト。ダメージが最小限で済むヘアアイロンも、暇さえあれば髪を梳かした祖母から貰った梳き櫛とつげ櫛はここには無い。
それどころか櫛も調達出来ない日々が続き毎日手ぐしで寝癖をなだめ、体育がある時は、エースから貰ったウーリーゴムで一纏めにする程度の身支度になってしまった。これ以上は道具がなければ出来ないためしょうがない。もとよりズボラな性格のため気にせずそう言い訳してきたが、これは女としてどころか人として身なりがやばい気もしなくもない。特に、身なりに厳しく、一等私の髪を気に入っていた祖母が今の私を見たら発狂して腰を抜かすに違いない。
最初の数週間は昔取った杵柄のおかげか、まだ見窄らしくない程度の黒髪は保たれてはいたが、NRCに入学してはや数ヶ月。かつての美しさは目減りしていった。
なんにでも美しさを保つのには金がかかるなあと思いつつ、金も有限であるためこの際髪を切るのもいいなと思い始めていた。短ければシャンプー量も減るし節約になる。
どうせ自分の為に伸ばした髪ではないのだから。
執着など殆ど持ち合わせていなかった。
そんな時だった。
フロイド先輩が、私の髪を褒めたのは。
とても自慢の黒髪です、と言えるものでは無い、はね毛もアホ毛もあった。ストンと落ちるようなものではなく、少しクセが残りウェーブがかっていた。ただ長いだけの、触り心地などあの時とは天と地ほどの差。彼に会う時はせめてもと、いつもケチって使うジャミル先輩からのオイルを多めに着けた。けれど、悲しいことにその日は雨の湿気でまとまった髪とはとても言えなかった。
けれども、フロイド先輩は綺麗だと言った。
監督生は悔しく、そして恥ずかしかったのだ。勿論、嬉しさで脳内麻薬が滝のように溢れ出したが、それでもと。愛しい人の一言に、乙女の淡い恋心は今まで持ちえなかった髪への執着に火をつけたのだった。
(私の髪、もっと綺麗なのに。こんなものじゃないのに、)
私の綺麗だった髪を先輩に見てもらいたい。
思うはそればかりであった。
実際の話。ユウはフロイドに淡い片思いを抱いていたが、男女の仲になりたいだとか、まずはお友達から発展してゆくゆくは交際を…だとか。そんな下心ありきの関係は、誓ってないのだ。
それは、自信と魅力に溢れる相手と自分の格差による諦めであり、尊敬であり、劣等感であった。
きっと素敵で魅力的な彼は、美しく華麗な女性と交際するんだろうと、恋をしながら嫉妬もせず、ただ、嫌われなければいいやと、何処か他人事のように思い土俵にすら立っていなかったのだ。
けれど、彼女は思い付いてしまったのだ。唯一と言っていい自分の価値を。数少ない自分が他人よりもはるかに秀でていたものを。今は劣化しているが、人から羨望の眼差しで見られていたこの髪。自身の身嗜みに対する興味のなさで今まで考えもしなかったが、私にもチャンスがあるのではないかと欲が出た。
正しく鶴の一声である。
もしかしたら、前みたいに手入れして、髪を美しくすれば、フロイド先輩は私のことを好きになったりしないかな。
そんなおこがましいこと、あるわけないけど。でも、…うん。髪は綺麗で損なことは無いし。なんて予防線。
そうと決まれば行動は早い。
恋は盲目、視野狭窄。走り出したら進路なんて変えられない。
監督生はうつ伏せで臥せった体を勢いよくバッと起こし、駆け足で浴室に向かう。
いつもなら水道代が勿体ないからとシャワーですました入浴も、湯船に熱いお湯を溜め肩まで使った。5分肩まで浸かり3分湯船から出る。その間に洗顔を済ませるなどしまた湯船に5分浸かる。これを数度繰り返し汗腺を広げ思いっきり汗をかく。勿論お風呂に浸かっている間は髪をとかしておく。髪の絡まりやホコリを櫛で落としたら人肌の温度のお湯でしっかりと汚れを落とす。あまり流しすぎては髪に悪いためある程度で泡立てたシャンプーで頭皮を揉むように洗う。頭皮のマッサージも済ませたら髪に逆らわないように、泡をしっかり洗い流す。本当ならここでトリートメントやヘアパックをしたいところだが無いものは仕方が無い。水気をきった髪にコンディショナーを揉み込むようにし、ここでまた馴染むように櫛でとかす。数分置いたら洗い流す。ここでまた櫛を通しタオルで十分に水気を切ったらヘアオイルをつける。バイパー先輩から貰ったオイルは精巧で美しい入れ物でいかにも高級ですと言わんばかりのため、躊躇しながら使用していたがここでけちっては元も子もない。長い髪相応にふんだんにオイルを塗り、櫛でまた更に馴染ませる。ドライヤーで頭皮を十分に乾かしたら冷風で髪をブロー。ダメ押しでもう一度櫛で通す。就寝時には摩擦を防ぐためヘアゴムで緩くお下げにして体に敷かないように眠る。
なんだか不思議な元気が湧いた。
今日頑張った少しの分で、明日の私が可愛くなった気がして。
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