二人だけの部屋
目を開けると、つい今しがたまで見ていた夢と同じ景色だったので、飛影はぎょっとし、思わず右手で左の手首を探った。
夢の中とは違い、手には枷は嵌められておらず、彼は自由だった。だが、やっと解放されたばかりのひりつきを感じ、手首をさすりながら、辺りを見回す。
部屋はごく狭い。飛影が座っているのは壁に穿たれた四角い穴に設えられたセミダブルほどの粗末なベッドで、やけに分厚いカーテンによって仕切る事が出来るそこは、まさに「ねぐら」といった感じの、梟の巣の様に暖かく息苦しい場所であった。今はカーテンが開かれており、ベッドにはくすんだ黄色の灯りが射し込んでいる。
ベッドのすぐ横に古ぼけた鏡台がある。そして小さなクローゼット。これらがこの部屋に置かれた家具の全てである。
飛影はガウンの帯を締め直し、ベッドからゆっくりと腰を上げた。
鏡の前に年期の入ったブラシを見つけ、手に取る。平たい楕円形の台底には色硝子で装飾が施されている。色硝子の粒の表面には細かな傷が無数に入っており、とうに輝きを喪っていた。
台底を返すと、柔らかなクッションに金属製のピン達が行儀よく並んでいる。ピンの先の丸い玉を指で弾くと、その根元に貼られた布がぽつ、ぽつとくぐもった音を立てた。
夢の中ではこのブラシは枷に戒められた少女の手にあり、少女は髪を梳りながら、物憂げな眼差しで鏡の中からじっとこちらを見据えていた。夜の海のような深い青色の虹彩が、彼をとらえる。
ギィ、と蝶番が軋んだ。
「よぅ、起きたか」
飛影はブラシを元の場所に戻し、顔を上げた。女が肩で木製の扉を押し、部屋に入って来た。彼女は飛影が着ているのと同じガウンをまとい、片手には白いマグカップを二つ提げ、もう片方にはポットを持っている。
二人は歩み寄り、まるで幼馴染みの犬の様に鼻面を触れ合わせ、そして唇をむさぼり合った。ほんの数時間前に初めて本当の彼女を知ったばかりなのに、何年も何年も繰り返して来た日課のようにごく自然に触れ合うのだった。
彼女の背はほんの少しだけ飛影よりも高く、傷付いた猛禽の右目と夜空の群青をたたえた左目が、彼をやさしく見下ろした。
二人でベッドの縁に腰掛け、彼女がマグカップに注いでくれた飲み物を飲んだ。甘くて微かにほろ苦い。
部屋はガウン一枚でも寒くないほどに暖かく保たれているが、彼女は凍えた指先を温める時のようにマグを両手で包み込んでいる。
空になったマグカップは鏡台の隅に並べ置いた。部屋の灯りは消され、カーテンは閉ざされている。ベッドの上の低い天井で、白熱球ランタンが揺れ、それに合わせて彼女の肌の表面を濃い陰がゆらゆらと這う。
飛影は彼女の手首を掴み、シーツに押し付けた。彼女は無表情に彼を見上げた。その姿に、誰かに組み敷かれ、固く心を閉ざした幼い少女の姿が重なる。
だが今ここは彼ら二人だけの部屋で、飛影は彼女の額にかかる前髪をかき上げ、そっと口づけをおとした。
(おわり)
夢の中とは違い、手には枷は嵌められておらず、彼は自由だった。だが、やっと解放されたばかりのひりつきを感じ、手首をさすりながら、辺りを見回す。
部屋はごく狭い。飛影が座っているのは壁に穿たれた四角い穴に設えられたセミダブルほどの粗末なベッドで、やけに分厚いカーテンによって仕切る事が出来るそこは、まさに「ねぐら」といった感じの、梟の巣の様に暖かく息苦しい場所であった。今はカーテンが開かれており、ベッドにはくすんだ黄色の灯りが射し込んでいる。
ベッドのすぐ横に古ぼけた鏡台がある。そして小さなクローゼット。これらがこの部屋に置かれた家具の全てである。
飛影はガウンの帯を締め直し、ベッドからゆっくりと腰を上げた。
鏡の前に年期の入ったブラシを見つけ、手に取る。平たい楕円形の台底には色硝子で装飾が施されている。色硝子の粒の表面には細かな傷が無数に入っており、とうに輝きを喪っていた。
台底を返すと、柔らかなクッションに金属製のピン達が行儀よく並んでいる。ピンの先の丸い玉を指で弾くと、その根元に貼られた布がぽつ、ぽつとくぐもった音を立てた。
夢の中ではこのブラシは枷に戒められた少女の手にあり、少女は髪を梳りながら、物憂げな眼差しで鏡の中からじっとこちらを見据えていた。夜の海のような深い青色の虹彩が、彼をとらえる。
ギィ、と蝶番が軋んだ。
「よぅ、起きたか」
飛影はブラシを元の場所に戻し、顔を上げた。女が肩で木製の扉を押し、部屋に入って来た。彼女は飛影が着ているのと同じガウンをまとい、片手には白いマグカップを二つ提げ、もう片方にはポットを持っている。
二人は歩み寄り、まるで幼馴染みの犬の様に鼻面を触れ合わせ、そして唇をむさぼり合った。ほんの数時間前に初めて本当の彼女を知ったばかりなのに、何年も何年も繰り返して来た日課のようにごく自然に触れ合うのだった。
彼女の背はほんの少しだけ飛影よりも高く、傷付いた猛禽の右目と夜空の群青をたたえた左目が、彼をやさしく見下ろした。
二人でベッドの縁に腰掛け、彼女がマグカップに注いでくれた飲み物を飲んだ。甘くて微かにほろ苦い。
部屋はガウン一枚でも寒くないほどに暖かく保たれているが、彼女は凍えた指先を温める時のようにマグを両手で包み込んでいる。
空になったマグカップは鏡台の隅に並べ置いた。部屋の灯りは消され、カーテンは閉ざされている。ベッドの上の低い天井で、白熱球ランタンが揺れ、それに合わせて彼女の肌の表面を濃い陰がゆらゆらと這う。
飛影は彼女の手首を掴み、シーツに押し付けた。彼女は無表情に彼を見上げた。その姿に、誰かに組み敷かれ、固く心を閉ざした幼い少女の姿が重なる。
だが今ここは彼ら二人だけの部屋で、飛影は彼女の額にかかる前髪をかき上げ、そっと口づけをおとした。
(おわり)
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