記憶の食い違い

「君の脳がどうなっているのか見てみたい」
「えぇ……」
 間宮まみやはなんの気なしに呟いたのだが、佐田さだはたちまち表情を引きつらせ、寝椅子にだらしなく伸ばしていた身体を起こし、姿勢を正した。
「また解剖する気?」
「そうとは言っていない」
 なら何なのだと言いたげに、佐田は間宮を警戒心丸出しの目で見た。どう説明したらいいものかと間宮は考えあぐねたが、いい言葉が思い浮かばなかったので、「今の言葉は忘れてくれ」と短く言ってから沈黙した。
 佐田と昔のことを語っていると、時々話が噛み合わない事がある。学校行事や名物教師の話題や、間宮でも知っているほど目立っていた生徒のことなどならばすんなり話が通じるのに、間宮自身のこととなると佐田は多くの事を記憶していなかった。それは、残念ながら間宮が思っていたよりもずっと、佐田にとって間宮の存在は軽かったのだという事を意味するのかもしれないが、ちょっと病的に思えるほど記憶のあちこちが虫食いに遭ったように抜けているとも思えるのだった。
 たとえば昔、佐田は間宮に「どうして猫を殺したのか」と訊いてきたことがあったのだが、彼はそれを全く覚えておらず、十数年を経た最近になっていきなり同じ事を訊いてきた。学校に住み着いていた老猫が斃死しているところに行きあった間宮に、同級生たちが猫殺しの疑いをかけた。そんな衝撃的な話題を、普通、きれいさっぱり忘れたりするのだろうか?
『心肺停止から脳が酸素なしで生きられる時間は、わずか数分……』
 間宮は考えた。五分を過ぎれば生存率は二十五パーセント以下になるばかりか、蘇生できても脳に障害の残る可能性が高いはず。だが、佐田に投与したゾンビ化細胞のEⅡ-B3細胞は完全に死んだものに投与しないと効き目がないものなのであり、しかも佐田の場合は死亡後約六時間、投与してから効果が出るまでにも四時間ほどのブランクがあった。したがって、佐田の脳は一度すっかり壊死してしまってから菌の働きによって復活したのであり、蘇生中のエラーで記憶がどうにかなってしまった可能性が無いとはいえなかった。
 EⅡ-B3細胞による蘇生実験において、マウスやサルが被験体の場合は蘇生後に脳の機能不全と見られる症状はなかった。だがヒトの場合はどうだろうか。間宮自身、佐田が目を覚ますまで、ヒトの高度な脳機能はEⅡ-B3細胞による治癒力をもってしても完全には復元されないのではないか、と思っていた。
 佐田は間宮が自分に危害を加えようと考えているのではないと知るや、また気を緩めて寝椅子に寝転んで、本の続きを読みはじめた。本のタイトルは『ふりむけばチワワ』あの時、間宮が佐田にあらすじを教えてくれとせがんだ推理小説だ。

「それ、どんな本?」
 前の席で黙々と本を読み耽る佐田に、間宮は問いかけた。それは放課後のことで、教室には間宮と佐田の他には誰もいなかった。開いた窓からの風に黄ばんだカーテンがそよいでいた。
「うん?」
「えっと、どんな話?」
 実のところ、彼は小説の内容になんかまるで興味がなかったのだが、佐田が用もない癖にこちらの方へ椅子を向けたまま本を読み続けるのが不思議で、話しかけてみたのだった。無駄に対面状態が続くのが鬱陶しいだけなら、ストレートに「何でこっち向いてるの?」と訊けばいいだけなのだが、その時は何故かそう言うのは躊躇われた。それに、間宮は間宮でそれまで佐田には構いもせずに数学の問題集を解いていたのだから、お相子といえばお相子だ。
 佐田は読書を妨害されたにも関わらず、微笑んで本を閉じ、間宮の正面を向くように椅子を動かした。
「この本、サスペンスなんだけど、興味あるの? あと少しだから、よかったら読み終わったら貸すよ」
 間宮は首を横に振った。
「僕は小説の類は読まない。でも……あらすじは知りたい。あー……えっと、その、話、話を……話の……人に話すときの……」
「話のネタ……話題作りのために?」
「……まあ、そんなところかな」
 言っていて頬が熱くなった。話題作りって。一体自分は何を言っているのだろう。普段、クラスの誰とも口を利かない癖に。だが佐田は別に何も気にしていない様子で「そっか」と納得した。
「そういう訳だから、あらすじ……全部話してもらって構わない。僕は一生読む気はないから……えっと、その小説が嫌いなわけじゃなくて、ただ論文以外の本を読むのは本当に苦手なだけだから……ネタバレとかは気にならない、から、す、好きなだけ話して」
 どもりながら言うのを、佐田はうん、うんと相槌を打ちながら聴いていた。そんな風に聴かれると余計にこっちが馬鹿みたいだと、つい話しかけてしまったことに後悔一入ひとしおだった。
「じゃあ、遠慮なくネタバレも交えて話すよ。これ、ストーリーも勿論いいんだけど、何気ない日常の描写がシュールで面白くてさ。そういうところが俺は好きで。えーと、舞台は1980年代後半の……」
 佐田が楽しそうに話すのを、間宮は相槌も打たないでただじっと聴いていた。

 思い返せば、あの頃の自分は良い聞き手とは言えなかっただろう、と間宮は回想した。しかし、あの時の流れは先日、間宮が何となく佐田に『くらやみにポメラニアン』のあらすじを訊いたときと全く同じだ。つまり、佐田は昔も間宮から本のあらすじを訊かれたことなど忘れているのだ。今とあの時の違いといえば、今の佐田は間宮がそんな事を訊けば面倒くさがるが、あの時の佐田は間宮を歓迎しているように見えたという事だろう。
 それはそうだろうと間宮は思った。当時、佐田はよその公立中学から編入してきたばかりで寄る辺のない身の上だったから、どんな奴とでも取り敢えず仲良くしたかったのだ。その点では佐田は太田おおたと大した違いがない。太田は中等部時代には間宮の唯一の友人と言ってもいい存在だった。彼は入学するなり孤立して間宮に縋ってきた。休憩時間毎に間宮の側にやってきては、訊いてもいないのに漫画やアニメなどの話を一方的にしてくる、下らない奴だった。高等部になって、間宮をダシに中橋木なかはしきらと結束できると知るや、そそくさと間宮から離れていった。

『けど、佐田くんの話を訊くのは、太田の下らない話を聞かされるときみたいに嫌じゃないんだ』

 それにしても彼は淀みなく話す。間宮は問題集の上に頬杖をついて聴き入っていた。ところがそんな悪い気のしない時間は長くは続かない。廊下から佐田を呼ぶ声がして、佐田はぴたりと話すのを止めると、
「ごめん、呼ばれたから行ってくる。またね」
 拝む形に片手を上げるとさっさと教室を出て行ってしまった。またね、という約束とはとても言えない言葉が果たされることはもちろんなく、やがて佐田はクラスに溶け込んでたちまち皆の人気者になってしまった。

「ねえ、沢尻さわじりくんって、佐田くんといつも何話してるの?」
 そうクラスの女子から訊かれるようになった頃はすでに、間宮はほとんど佐田とは無駄に会話をすることなどなくなっていた。たまに変な噂を流されて気味悪がられる時以外は空気扱いされていた間宮だったが、佐田のせいで変な目のつけられ方をされてしまった。別に何も話してないけど、と言うのもだるく、間宮は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
 放課後に間宮の前の席で佐田がただ本を読んでいることももはやなく、彼が教室にいる事も稀だった。おそらく、仲間と一緒になって体育館でボール遊びでもしていたのだろう。
 佐田が留守がちになると、入れ替わりのように女子の小集団が教室に入り浸るようになった。女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、いくら問題集を解くのに集中しようとしても、彼女達の甲高い声は耳に入ってきた。下らない恋愛話ばかり。佐田の名前が話題によく上がっていた。時にはしゃぎ、時に涙声、憐れみを込めた声で、彼女達は話した。彼女達は佐田に恋をしていた。そして間宮もまた彼に恋をしていたので……彼の名が聴こえる度に、注意がそこに向く。そんな自覚を当時は持っていなかったけれど、今なら確かにそれは恋だと言える。

 『ふりむけばチワワ』を佐田は貪るように読んでいる。再読だか再々読だかしらないが、よくも飽きもせずに読むなと間宮は感心しつつ、長椅子の佐田の足元の空いた部分に腰掛けた。
「はぁー……」
 佐田は本を閉じると両手を上げてうーんと伸びをした。そして間宮の存在にやっと気づいて「うん?」 と首を傾げた。
「読み終わったのか」
「うん。再読だけど細かいとこの描写に注目して読んだから、時間がかかった」
「あらすじを聴きたい」
「また? 絶対、自分で読む方が面白いよ」
「前にも言ったが、僕は小説は読まない」
「はいはい、わかってるって」
 と言うと、佐田は寝転がったまま間宮の方へ両手を差し伸べた。
「こっち来る?」
 間宮はちょっとだけ逡巡したが頷いて彼の方へと身体を倒した。佐田は間宮を胸で抱きとめ、よしよしと間宮の背中を擦った。
「じゃあ……。舞台は1980年代の後半で」
 あの時に聴いたのと全く同じ話に耳を傾ける。佐田の低くて柔らかい声は空気を伝わってくるだけでなく、彼の胸から間宮の頬へ心地よい振動となって伝わった。
 彼の読んだ本を僕も読んでみてもいいと間宮は思った。間宮にとって小説を読むことはさして楽しい事ではない。楽しみというよりも、佐田の認知能力をテストしたいのだ。彼の語る物語は果たしてもとの小説と食い違いがないか、どうか。これも、研究のうちだ。


(おわり)
1/1ページ
スキ