増田くんと堀越くん


そういえばネクタイの結び方を知らないんだった。今朝はエミさんの部屋から登校するつもりで昨日のうちに制服一式を持ち込んでいた堀越くんだったが、それに気づいたのは着替えて姿見に向かったときだった。

エミさんはそんな堀越くんの後ろに立つと背中を抱える様にしてネクタイの結び方を懇切丁寧に教えてくれた。そして玄関を出るときには向かい合って最後の身だしなみチェックをし、ネクタイの結び目の位置を微調整すると、大きな手で顔を挟み込み、ほっぺたに分厚い唇を寄せた。堀越くんはくすぐったそうに目を細め、いってらっしゃいのキスを受けた。

まだ車通りの少ない朝の街を、堀越くんは自転車を颯爽と漕いでいく。増田くんと同じ電車に乗るため七時前に駅に着いたが、その時には既に結構な人数の学生が集まっていた。だが堀越くんの着ているのと同じモスグリーンのジャケットの学生は多くなかった。それが、電車が出発して各駅に停まる度に増えていき、増田くんの乗車駅の一つ手前に着く頃には車内はすっかり深緑色がひしめいていた。

左右を森に挟まれた、緩やかなカーブの途中の、駅舎のない無人駅に、電車はゆっくりと停車した。堀越くんは、人と人との隙間から車窓の外を見た。ホームで待っていた人々の間に、増田くんの小さな影が見えたような気がした。約束通り、堀越くんは一両目の先頭の辺りで増田くんを待った。この駅では降りる人が誰もおらず、乗車する人の為に場所を空ける人もいない。堀越くんは辛抱強く待った。

ドアが閉まりますというアナウンスが流れたときにやっと、ドア付近に立つ人々をかき分けて増田くんがにゅっと顔を出した。もみくちゃにされて眼鏡がずり落ちそうになっている。堀越くんは吊り革から手を離し、「おいで」と両手を増田くんの方へと差し出した。すると増田くんはようやく引っこ抜けた大きなカブみたいにスポンと人々の間から抜け、たたらを踏みつつ前進し、堀越くんの腕の中にしっかりと収まった。

「いや、酷い目に遭った」

増田くんはふぅとため息を吐き、背負っていたリュックを足下に置いた。そんな増田くんに、堀越くんは眉尻を下げて彼のふわふわな癖っ毛を撫でた。

「おはよう増田くん」

「あ、おはよう。そしてありがとう。さっきは危うく転ぶところだった」

ずり落ちた眼鏡の位置を直すと、増田くんは改めて堀越くんの腕の中に顔をうずめた。

増田くんはちびっちゃい。顔の高さがちょうど堀越くんの胸の辺りだ。ほうっと安心した様子でため息をついた増田くんだが、はっと顔を上げると「ごめん」と消え入りそうな声で呟いて、堀越くんの胸から顔を離してそっぽを向いた。ほっぺたがりんごみたいに真っ赤だ。

田んぼばかりの長閑な風景の中を電車はことんことんと進んで行く。車内はにぎやかなおしゃべりで満ちている。新学期と新生活への期待と興奮をかかえた学生たちは、電車の揺れに身を任せてゆらりゆらりとしながらも口は絶え間なく動かしている。増田くんは、最初は自分の足でしっかり立とうしていたが、こっちにぶつかりあっちにぶつかりで謝りに謝ったあとでようやく諦め、堀越くんの胸にぽふんと顔を押し付けた。堀越くんは増田くんを両手でしっかりと抱え、身体を揺りかごみたいに揺すりながら器用にバランスを取った。

やがて電車は低い山々の間に入り、そして終着駅に着いた。同じ制服を着た集団に押し出されるように駅舎を出て、流れに任せてロータリーから公道へ出た。高校生の群れは大通りを渡り、神社の脇の細い路地へと入って行く。高校はその奥の道を何回か曲がって橋を渡り、山沿いをしばらく歩いた所にある。一人だったら道に迷ってしまいそうだが、人混みの流れに大人しく従えば、自然と着いてしまうだろう。

神社の境内からソメイヨシノ桜が頭上へと太い枝を伸ばしていた。その下を通る高校生たちは小さな子どものように歓声を上げ、舞い上がる花びらを掴み取ろうとした。小さな増田くんは人波にのまれないよう必死で、上を見上げる余裕もない。それに気づいた堀越くんは、左手で増田くんを庇いながら右手をたわわに花房をつけた枝へ伸ばした。堀越くんの掌の内に花びらたちが吸い込まれてゆく。それらを潰さないよう気を付けながら、堀越くんは握り拳を増田くんの目の前にもっていった。

「見て」

ゆっくりと開かれた掌の上で小さなつむじ風が起こり、白い花びらたちが螺旋を描きながらよく晴れた青空を昇っていく。塵よりも小さくなって空に溶け込んでゆく。そこに横風がさっと吹き、一陣の花吹雪が余韻をかき消した。

「なにはともあれ、僕たちの入学式は桜運にだけは恵まれているね」

増田くんは空を仰ぎ見ながら言った。そう言われてみればそうだ。

堀越くんは、幼稚園の入園式でも桜を見たことを思い出した。園庭の桜の大木が花盛りで、しかし新入生たちは自由に動き回るのを禁じられ、大人しく列に並んで辛抱していた。堀越くんは、それまでの母親と兄のコウちゃんとの三人だけの小さな世界から出て、初めて大きな集団の一員となった。新しい生活への期待よりも不安の方が上回り、少し離れた所に立っていた母親からずっと目を離せなかった。その時はまだ増田くんと知り合う前だった。

高校に着くと、昇降口の前にクラス別けの書かれた大きな紙が掲示されていた。堀越くんは三組だった。同じクラスのメンバーに増田くんの名前はなかった。増田くんは、校門を入るなり逆方向にパーッと走って行ってしまった。けれど、堀越くんがクラスを確認したあと掲示板のところで待っていると、増田くんは背負ったリュックの肩紐をしっかり握りしめながら真剣な面持ちで堀越くんのもとへ駆け寄ってきた。

「何組だった?」

「三組」

「僕は七組だった。階が別れちゃったね」

三組の教室は一階だが、七組と八組は進学クラスなので、一年生でも上級生の進学クラスと一緒の四階に教室がある。

昇降口を入って靴を上履きに履き替えて上がるとすぐに階段があった。そこでしばしのお別れだ。

「じゃあ、僕はここで」

増田くんはきりっと表情を引き締めて言った。

「うん、帰りはここで待ち合わせしよう」

堀越くんがそう言うと、増田くんはうるんだ目で堀越くんをじっと見つめたが、すぐに覚悟が決まった様子で口を一文字に結んで回れ右をして走り出した。軽快な足取りで一段とばしで階段を駆け上がる。その背中で大きなリュックが揺れる。初日なのに謎に重量がありそうなゆっさゆっさとした揺れ方だった。それをものともしない増田くんだったが、踊り場まであと二段というところでよろめた。

「あっ―—」

「増田くん!」

咄嗟に堀越くんはダッシュし膝からスライディングした。派手な音を立てて転げ落ちて来た増田くんは堀越くんの膝の上にするっと軟着陸した。

通りすがりの新入生たちは、一人が大した感興もなさそうな声色で「すっげー」と言ったくらいで、何ごともなかったかのようにそれぞれの教室へと入っていった。


(おわり)
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