耳を掻く
呼ばれたような、気がした。
「おい、呼んでんだろっ」
急に肩を掴まれ振り向かされる。飛影は不快感に顔をしかめたが、目の前の軀はそれ以上に不機嫌そうだった。
「飛影テメェ。この耳は何だ、飾りか?」
耳朶をぎゅうと引っ張られる。
「痛っ、何しやがる」
「何が『何しやがる』、だ。呼ばれたら返事くらいしろ」
「呼ばれた?いつ、誰にだ?」
飛影は素で気付かなかったのだ。
「もちろん、今、オレに、だろ。お前最近、ほんっとひとの話聴いてないよな」
いや、お前の声が小さかったのでは?飛影は思った。ちょうど今は雑誌を読むのに集中していたのだし、ちゃんとはっきり大きな声で言ってくれないとわからない。
「オレは普通の声で三回、大声で五回呼んだ」
「……は?」
信じられないというのではなく、聞き取れなかったので、飛影は問い返した。
「よく聴こえん」
軀は大きな目を更に大きく見開いた。
「マジか?」
そして、飛影の襟首を掴むとコテンと引き倒した。飛影の頭は軀の太股に当たった。生憎義足側だったので、こめかみが金属に当たり、ゴツンと鳴る。
「ちょっと見せてみな……あーあ!出口の縁までぎっちり詰まってるじゃねえか。お前、まさか生まれて一度もしたことがねえのか?」
「何!?」
軀の声が「あーあ!」しか聞き取れなかった飛影は、自然、問い返す声が大きくなった。
「みーみーかーきっ!!」
今度は聴こえた。
「するか、そんなもんっ!!」
怒鳴ったのに、軀は怒るどころか憐れむような顔をした。だがすぐに口角を上げ、ニヤリと悪戯っぽく笑う。
「じゃあオレがしてやるよ」
「フツーは耳掻きなんぞしなくても、耳糞は勝手に出てくるもんだっていうんだけどな」
軀は耳掻きと綿棒とティッシュペーパーを用意しながら言うが、飛影には殆んど聞き取れなかった。飛影は訳がわからないまま、大人しくベッドに横たわって待っている。いつもは月明かり程度の照明が今は真昼のように明度を上げられていて、瞑っていても目が痛いほどの明るさだ。
「オレは気持ちいいから詰まる前にやっちゃうんで知らなかったが、やっぱほじらなきゃ詰まるんじゃねえか」
飛影は目を開けた。逆光の中、軀は悪い顔をして笑っている。果たして、コイツに大事な聴覚器官を委ねて大丈夫なのだろうか?だが、今更嫌だと抵抗しても無駄という気がしたので、飛影はされるがままになる覚悟を決めた。
「さあやるぜ」
近っ!
軀は横向きに寝た飛影の太股の辺りに跨がり、そしてほとんど密着状態で耳を覗き込んだのだ。身体のあちこちに、軀の柔らかい部分が当たり、飛影はどぎまぎする。しかし、すぐに耳殻を痛いほど引っ張られて、軀の柔い感触を楽しむどころではなくなった。
「いざ……」
「んがっ!」
ガリッ、ゴリッ、ガリガリガリガリ、めりっ、バキッ。
耳の中で物凄く不穏な音がする。飛影は目をぎゅっと閉じ、歯を食い縛った。
「いたたたたたた」
不快音はゴリゴリと続く。ひょっとしたら耳垢どころか脳味噌までほじくり出されようとしているのかもしれない。耳の中に突っ込まれた棒が動く度に、耳奥の何かが引っ張られ破かれそうな感じがした。
「まるでコルク栓だな。大丈夫かな、引っこ抜いても。ははっ、脳味噌まで引っこ抜けちまったりしてな」
飛影には聴こえないと思って、恐ろしい事を笑いながら言う軀であったが、実際飛影には全然聴こえていなかった。飛影はただ固く目を瞑り、手足をピンと伸ばし、手足の指をぎゅっと握り込んでいた。掌と脇の下に嫌な汗が滲む。
バキッ、メリメリメリッ、ガッ、バリッ。
「おい、軀!本当に大丈夫なんだろうな」
「大丈夫、大丈夫」
相変わらず聴こえないが、密着した軀の胸から伝わって来た小刻みな振動は、彼女がヘラヘラ笑っていることを示していた。
ゴリッ、ボサァ!
突然の解放感。耳の中にざあっと新鮮な空気と音が流れ込んできた。
「おー、やったぞ飛影!大漁だっ」
そう言う軀の声が今までになくクリアに響いた。コイツ、こんな声だったのか。まるで初めて聞いたかのように、飛影は感嘆した。
「見ろ」
軀は飛影の目の前に、耳掻きの先を突き出して見せた。小さなスプーンの上には大きなコルク状の黒っぽくて汚い塊が載っていた。目を凝らして見ると、髪の毛やら埃玉やら虫やらが絡んでいる。我ながらよくこんなになるまで放置したもんだと、飛影は辟易した。
飛影の目と鼻の先に敷かれたティッシュの上に、耳垢の塊は転がされた。軀は指先で塊をつついた後、耳掻きの先で突き崩して遊んだ。
「すっげーな。こんなの見たことないぜ。これくらい溜まってたら、取れた時すっげー気持ち良かったろ?」
「よくわからんが、うるさい」
自分の声が頭蓋の中に響かなくなったのは良いが、軀の声がよく通り過ぎて、頭が痛くなってきた。
「悪ぃな。さて、まだまだ沢山詰まってるからな」
軀は再び飛影に密着して耳掻きを持ち直した。
しばらく、またバキバキと耳の中に枯れ草の茎を折るような音が響いていた。飛影はごくりと生唾を飲んだ。すると軀もやはり生唾を飲む。彼女の細い首の中で小さな喉仏が上下し、唾液が飲み下される音が、いやに鮮明に艶かしく聴こえるのだった。
「なんか、耳掃除するときって、こう、生唾飲んじゃうんだよなぁ、不思議と、する方もされる方も」
枝を折るような音はやがてしなくなり、かさかさと踏みしめた枯れ葉の立てる音に代わり、そしてサッサッと掃く音に変わった。
「ふあっ!」
急に変な声が出た。同時に身体がビクッと痙攣し、握り込んでいた手足の指がパッと開いた。不可抗力だった。
「んっ、くっ……ふあっ」
「お、飛影お前、ここがいいのか?おい」
先程のポイントを耳掻きの先が容赦なく擽る。
「ここか?ここか?ほれほれほれ」
「んふっ、んああ!ふわぁっ!」
情けない声が止められない。覚えていろよ軀!飛影は彼女のびくともしない身体の下でもがきながら思った。
しかし、そんな怒りは先程とはうってかわって優しい耳掻きのストロークを堪能しているうちに融かされてしまったのだった。
なんだかよくわからないが、ひどく気持ちがいい。耳の中がすうすうする感じも良いし、軀の柔らかな肉が身体にかけてくる圧の絶妙さも堪らない。
うとうとと心地よい眠気がしてきた頃、軀は急に身体を起こし、飛影をごろりと転がした。
「今度はこっち側だ」
と、反対側の耳たぶ掴まれた。またさっきの不快なバキバキ感を耐えなければならないが、その先にあるのは目眩く耳掃除の快感である、はずが、
「うぎゃー!!」
飛影は絶叫した。幸い鼓膜に穴は空かなかったものの、うっかり押し込まれてしまった耳垢がもたらした激痛は、トラウマを植え付けるには十分だった。
翌日、飛影は耳鼻科を受診した。
(おわり)
「おい、呼んでんだろっ」
急に肩を掴まれ振り向かされる。飛影は不快感に顔をしかめたが、目の前の軀はそれ以上に不機嫌そうだった。
「飛影テメェ。この耳は何だ、飾りか?」
耳朶をぎゅうと引っ張られる。
「痛っ、何しやがる」
「何が『何しやがる』、だ。呼ばれたら返事くらいしろ」
「呼ばれた?いつ、誰にだ?」
飛影は素で気付かなかったのだ。
「もちろん、今、オレに、だろ。お前最近、ほんっとひとの話聴いてないよな」
いや、お前の声が小さかったのでは?飛影は思った。ちょうど今は雑誌を読むのに集中していたのだし、ちゃんとはっきり大きな声で言ってくれないとわからない。
「オレは普通の声で三回、大声で五回呼んだ」
「……は?」
信じられないというのではなく、聞き取れなかったので、飛影は問い返した。
「よく聴こえん」
軀は大きな目を更に大きく見開いた。
「マジか?」
そして、飛影の襟首を掴むとコテンと引き倒した。飛影の頭は軀の太股に当たった。生憎義足側だったので、こめかみが金属に当たり、ゴツンと鳴る。
「ちょっと見せてみな……あーあ!出口の縁までぎっちり詰まってるじゃねえか。お前、まさか生まれて一度もしたことがねえのか?」
「何!?」
軀の声が「あーあ!」しか聞き取れなかった飛影は、自然、問い返す声が大きくなった。
「みーみーかーきっ!!」
今度は聴こえた。
「するか、そんなもんっ!!」
怒鳴ったのに、軀は怒るどころか憐れむような顔をした。だがすぐに口角を上げ、ニヤリと悪戯っぽく笑う。
「じゃあオレがしてやるよ」
「フツーは耳掻きなんぞしなくても、耳糞は勝手に出てくるもんだっていうんだけどな」
軀は耳掻きと綿棒とティッシュペーパーを用意しながら言うが、飛影には殆んど聞き取れなかった。飛影は訳がわからないまま、大人しくベッドに横たわって待っている。いつもは月明かり程度の照明が今は真昼のように明度を上げられていて、瞑っていても目が痛いほどの明るさだ。
「オレは気持ちいいから詰まる前にやっちゃうんで知らなかったが、やっぱほじらなきゃ詰まるんじゃねえか」
飛影は目を開けた。逆光の中、軀は悪い顔をして笑っている。果たして、コイツに大事な聴覚器官を委ねて大丈夫なのだろうか?だが、今更嫌だと抵抗しても無駄という気がしたので、飛影はされるがままになる覚悟を決めた。
「さあやるぜ」
近っ!
軀は横向きに寝た飛影の太股の辺りに跨がり、そしてほとんど密着状態で耳を覗き込んだのだ。身体のあちこちに、軀の柔らかい部分が当たり、飛影はどぎまぎする。しかし、すぐに耳殻を痛いほど引っ張られて、軀の柔い感触を楽しむどころではなくなった。
「いざ……」
「んがっ!」
ガリッ、ゴリッ、ガリガリガリガリ、めりっ、バキッ。
耳の中で物凄く不穏な音がする。飛影は目をぎゅっと閉じ、歯を食い縛った。
「いたたたたたた」
不快音はゴリゴリと続く。ひょっとしたら耳垢どころか脳味噌までほじくり出されようとしているのかもしれない。耳の中に突っ込まれた棒が動く度に、耳奥の何かが引っ張られ破かれそうな感じがした。
「まるでコルク栓だな。大丈夫かな、引っこ抜いても。ははっ、脳味噌まで引っこ抜けちまったりしてな」
飛影には聴こえないと思って、恐ろしい事を笑いながら言う軀であったが、実際飛影には全然聴こえていなかった。飛影はただ固く目を瞑り、手足をピンと伸ばし、手足の指をぎゅっと握り込んでいた。掌と脇の下に嫌な汗が滲む。
バキッ、メリメリメリッ、ガッ、バリッ。
「おい、軀!本当に大丈夫なんだろうな」
「大丈夫、大丈夫」
相変わらず聴こえないが、密着した軀の胸から伝わって来た小刻みな振動は、彼女がヘラヘラ笑っていることを示していた。
ゴリッ、ボサァ!
突然の解放感。耳の中にざあっと新鮮な空気と音が流れ込んできた。
「おー、やったぞ飛影!大漁だっ」
そう言う軀の声が今までになくクリアに響いた。コイツ、こんな声だったのか。まるで初めて聞いたかのように、飛影は感嘆した。
「見ろ」
軀は飛影の目の前に、耳掻きの先を突き出して見せた。小さなスプーンの上には大きなコルク状の黒っぽくて汚い塊が載っていた。目を凝らして見ると、髪の毛やら埃玉やら虫やらが絡んでいる。我ながらよくこんなになるまで放置したもんだと、飛影は辟易した。
飛影の目と鼻の先に敷かれたティッシュの上に、耳垢の塊は転がされた。軀は指先で塊をつついた後、耳掻きの先で突き崩して遊んだ。
「すっげーな。こんなの見たことないぜ。これくらい溜まってたら、取れた時すっげー気持ち良かったろ?」
「よくわからんが、うるさい」
自分の声が頭蓋の中に響かなくなったのは良いが、軀の声がよく通り過ぎて、頭が痛くなってきた。
「悪ぃな。さて、まだまだ沢山詰まってるからな」
軀は再び飛影に密着して耳掻きを持ち直した。
しばらく、またバキバキと耳の中に枯れ草の茎を折るような音が響いていた。飛影はごくりと生唾を飲んだ。すると軀もやはり生唾を飲む。彼女の細い首の中で小さな喉仏が上下し、唾液が飲み下される音が、いやに鮮明に艶かしく聴こえるのだった。
「なんか、耳掃除するときって、こう、生唾飲んじゃうんだよなぁ、不思議と、する方もされる方も」
枝を折るような音はやがてしなくなり、かさかさと踏みしめた枯れ葉の立てる音に代わり、そしてサッサッと掃く音に変わった。
「ふあっ!」
急に変な声が出た。同時に身体がビクッと痙攣し、握り込んでいた手足の指がパッと開いた。不可抗力だった。
「んっ、くっ……ふあっ」
「お、飛影お前、ここがいいのか?おい」
先程のポイントを耳掻きの先が容赦なく擽る。
「ここか?ここか?ほれほれほれ」
「んふっ、んああ!ふわぁっ!」
情けない声が止められない。覚えていろよ軀!飛影は彼女のびくともしない身体の下でもがきながら思った。
しかし、そんな怒りは先程とはうってかわって優しい耳掻きのストロークを堪能しているうちに融かされてしまったのだった。
なんだかよくわからないが、ひどく気持ちがいい。耳の中がすうすうする感じも良いし、軀の柔らかな肉が身体にかけてくる圧の絶妙さも堪らない。
うとうとと心地よい眠気がしてきた頃、軀は急に身体を起こし、飛影をごろりと転がした。
「今度はこっち側だ」
と、反対側の耳たぶ掴まれた。またさっきの不快なバキバキ感を耐えなければならないが、その先にあるのは目眩く耳掃除の快感である、はずが、
「うぎゃー!!」
飛影は絶叫した。幸い鼓膜に穴は空かなかったものの、うっかり押し込まれてしまった耳垢がもたらした激痛は、トラウマを植え付けるには十分だった。
翌日、飛影は耳鼻科を受診した。
(おわり)
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