絆されることはない
「兄上」
夕食後、多宝丸はおずおずと言った。
「なんだ」
「今夜はここで、私の隣に寝てはくれませぬか」
百鬼丸はきょとんとした顔で少し考えてから、
「わかった」
と答えた。
畳を二枚くっつけて並べ、二人分の寝床を作ってもらった。多宝丸は背を向けて眠ろうとしている兄に囁いた。
「兄上。手を繋いでも」
百鬼丸は身体ごと振り向いて、多宝丸に手を差し出した。
「今日はずいぶん、甘えん坊だ」
「なんだか、淋しくなってしまったのです」
繋いだ手の指をそっと絡める。兄の手はひんやりと冷たく、そして多宝丸の手よりも少し小さかった。
今は兄上をお守りすることは出来ないが、せめて、この手を離さぬように……。そう思いながら、多宝丸は眠りに落ちた。
兄に側で眠ってもらったにも関わらず、何故だか夢見が悪かった。夢の中で、多宝丸はこれは夢だと気づいていた。早く目が覚めればいいのに、と思っているのに目覚めはなかなか訪れてくれない。
早く、早くしないと……。
『若、お目覚めください』
「陸奥っ」
多宝丸は飛び起きた。陸奥の声はいやに生々しく響いた。まるで本当にすぐ耳許で呼ばれたように。肩にだって、今まで多宝丸を揺さぶっていた手の温もりがまだ残っているようだ。
辺りを見回すと、暗闇の中、障子だけが白く明るい。じっと目を凝らすと、障子の骨組みが交差する点のすべてに目玉がついているように見え、多宝丸はぞくりと身震いをした。隣に寝ていたはずの兄はいない。
そうだ、先ほどは夢うつつにどこかで人の争う声を聴いたような気がしたのだ。
「兄上、兄上……」
多宝丸は立ち上がった。ずっと寝ていたせいか眩暈がして、ぐらりと身体が傾き、立っていられなかった。多宝丸は仕方なく、四つん這いで障子に近付いていった。外からは微かに、歌声が聴こえてくる。
ーーあかいはな あかいはな あのひとの かみに……
障子を開けると、歌はぴたりと止んだ。百鬼丸が驚いた様子で振り返った。百鬼丸は縁に座り、月を眺めながら歌っていたのだった。腕にはおかゆの弟虎丸を抱いている。髪を下ろし、赤ん坊を抱いていると、百鬼丸はほんとうに女のように見える。
「起きていたのか」
「つい、今しがた。陸奥に起こされたような気がして、目が覚めたのです。兄上こそ、どうかされましたか」
百鬼丸は微笑み、僅かに首を横に振った。
「けんかをした。少しだけ。旦那様が、契約と違うことを、求めてきたから。でも、虎丸が泣いたおかげで助かった。お互い、頭が冷えた、とおもう」
外気はかなり冷えていた。なのに百鬼丸は裸足を踏み石の上に投げ出している。多宝丸は縁側に這い出て百鬼丸のもとまで行くと、彼の隣に座った。
「何か嫌な事をされたのですか」
「いや。ただ、契約の期限のことで、揉めただけだ。おれは、多宝丸がよくなるまでだと約束した。なのに、旦那様は、春まで居ろという。それで。……おれはだめだな。どろろのようには、上手く交渉ができない。おれはすぐに、頭に血がのぼってしまう」
はぁ、とため息を吐いて百鬼丸は空を見上げた。
「月が、きれいだ」
多宝丸も月を見た。ほんとうに美しい黄金色の満月だった。
「ここで、頭を冷やしながら、みおのことを思い出していた。みおはおれを助けてくれた。おれは怪我をしていて、それに、まだ耳を取り戻したばかりで。聴こえる音、全部が煩くて、それで熱が出た。みおの歌だけが煩くなくて、おれをなだめてくれた。みおは、親のいない子供を何人も養っていた。みおは優しかった」
そこまで聴いて、多宝丸は思い当たった。みおというのは、酒井の間者として処分された少女のことだということに。下の者からの報告によれば、少女は醍醐と酒井の狭間にあった廃寺に、数名の子供達と潜伏していたという。彼女が間者である証拠に、少女は両陣営に娼婦として出入りするのが確認され、しかも廃寺の床下には沢山の武器が隠されていた、と。
その報告を聴いた時、女子供を間者に仕立てるとは、酒井はどれ程外道に堕ちているのかと、多宝丸は胸が悪くなったものだ。
「みおはおれにも、沢山優しくしてくれた。だから、おれはみおにお礼をしたかった。だけど、みおは死んでしまった。おれはもう、みおに何も返せない。何も返せないのに、みおは死んでからも、おれを助けてくれる。おれが頭に血がのぼって、鬼神になりそうになった時に、人の心を思い出させてくれる。おれが、おまえを殺してしまいそうになった時もだ」
百鬼丸は多宝丸に向き合った。そして多宝丸の頬に手をふれ、顔を近づける。多宝丸は思わずびくりと小さく身動ぎしてしまった。
「熱が下がったな。よかった」
母によく似た笑顔で微笑む。そしてゆっくり離れてゆく。ほんの僅かな距離だが、多宝丸はそれを惜しく思った。
「ほんとうは、少し迷っている。旦那様はおれがいないと淋しいんだ。おれが旦那様の大切な人に似ているから。大切な人がいなくなったら淋しいな。おれもみおが死んで淋しい。けれど、どろろならきっと、だめだと言う。"情に流されるな。これは仕事だ"と」
「私も、そのように思います。情に絆されることはない」
「そうか」
多宝丸は両の拳をぎゅっと握りしめ、そして絞り出すように言った。
「あの、兄上。本当に、嫌な事をされてはいないのですか」
「嫌なこと」
首を傾げる兄に間合いを詰め、口づける。ほんの一瞬だけ。
「例えば、こういう事です」
「あぁ……」
そして百鬼丸はくすりと笑った。
「お前にされるのは、嫌じゃないな」
「兄上、私は必ずや雪の降るまでには回復致します。ですから兄上も約束してください。決して無理はしないと。嫌な事をされそうな時は、断ってよいのです」
「わかった。多宝丸、心配するな。おれは大丈夫だ。……さて、冷えすぎたな」
百鬼丸はゆっくりと立ち上り多宝丸に背を向けた。
「そろそろ部屋に戻った方がいい。おれも虎丸を寝かせたら戻る」
そして百鬼丸は赤ん坊を抱え、廊下の暗がりへと去っていった。多宝丸は部屋に戻り、床につくと、もぬけの殻の兄の寝床の方を向いて、目を閉じた。