絆されることはない
じきに雪の季節がくるはずである。多宝丸はとにかく初雪が降らないようにと、寝床で願うばかりだった。
この南向きの部屋には、障子を透して日の光がよく入る。多宝丸は新しい寝間着を着せられ、傷には清潔な晒を巻かれていた。畳の上に寝かされて、上掛けを幾重にも掛けられている。すぐ側には火鉢まで設えられていた。どこの者とも知れぬ流れ者には、勿体無い待遇だ。しかし。
「百鬼丸、おい百鬼丸」
襖の向こうからばたばたと忙しない足音が聞こえてくる。
「何をしている、早くしろと言っておるだろう」
全く、人を使うのが下手くそな男だ、と多宝丸は思った。次から次へと用を言い付けて、あれでは兄上は、座る暇もないではないか、と。
いくら恭しくかしずいてくれるからといって、使用人を粗末に扱うな、というのは父景光の教えである。彼らにも人の心がある。ずさんにあしらえば怨みを懐かれ、いつかこちらに仇なすことを考えるであろう、と。
そう思ってから、多宝丸は自嘲した。今更何を。醍醐はもう滅んだのだ。人の上に立つ者として他者を批判する権利など、自分にはもうない。世話になっている身で、何が言えるだろうか、と。
兄を憐れと思うならば、多宝丸は早急に身体を回復させるしかない。兄は多宝丸の傷が良くなるまでという条件で、あの男にやとわれているのだから。
現在、この家に雇われている使用人は、庭師が一人と飯炊きが一人、そして百鬼丸だけだった。百鬼丸がたどたどしく語ったところによれば、あの男は金だけは持っているが狷介な性格で、これまで雇った使用人は、皆三日ともたずに追い出してしまうか逃げ出されてしまうかのどちらかだったのだそうだ。
そんな男でも家を潰さずにやってこれたのは、ほんの数ヶ月前に亡くなった妻が大層聡明な女で、家事の采配を一手に引き受けていたからだという。そして妻が亡くなると同時に、使用人は次から次へと辞めていってしまったという訳だ。つまり、百鬼丸が雇われたのは、猫の手も借りたいような状況だったから、ということである。
多忙な中でも、百鬼丸は暇をみては多宝丸の部屋を訪れ世話を焼いた。
百鬼丸は冷たい水で絞った手拭いを多宝丸の頬や首筋にあてがった。
「すまない、独りきりにさせて」
そう謝る兄の手は、いつの間にか赤く腫れてぼろぼろだ。指先にぱっくりと開いたあかぎれが、痛々しい。
「私の方こそ、申し訳ございませぬ。面倒をかけしまい……」
多宝丸が言うと、百鬼丸はかぶりを振った。
「いいんだ。多宝丸はゆっくり休め。そして、元気になるんだ」
そしてまた雇い主の怒鳴り声に呼ばれ、百鬼丸は立ち上がる。百鬼丸も今は襤褸ではなく、真新しいうぐいす色の小袖を着せられている。こうしてまともな格好をすると、百鬼丸は本当に母に良く似ている。が、それにしても雇い主は、彼にこんな女人の様な格好をさせて、一体どういうつもりだ、と多宝丸はいぶかしむのだった。
数日の間、多宝丸は昼も夜もなくうつらうつらと眠り続けた。時々、百鬼丸以外にもこの部屋を訪れる者があった。雇い主の娘である。まだほんの四、五歳ほどの幼い女の子だ。名をおかゆという。おかゆははじめは薄く開けた襖から、しばらくじっと室内を覗くだけだったが、やがて勝手に入り込み遊んでいくようになった。
今日もおかゆはパッと襖を開け放して、多宝丸の方へすたすたとやって来た。部屋の中の暖気が逃げ、足の方から冷気がすうっと吹いてきた。
おかゆはとても美しい少女だった。耳の下で切り揃えられた色の薄い髪は、くるりと愛らしく内側に巻き、やはり内巻きの前髪の下には細く短い眉。赤茶色の瞳に青磁のような白目をして、その周りを長い睫毛が縁取っている。眦はすっと涼やかに切れあがっている。つんと上向いた小ぶりの鼻、薄い唇は紅を引いているかのように赤く色づいていた。
彼女はいつも、多宝丸の側に無遠慮に近付いて来ると、座り込んでお手玉やあや取りをして遊ぶか、時には鞠つきを始めることさえあった。見た目は可愛いが、あの親にしてこの子ありだなと、睡眠を邪魔されて多宝丸は思うのだった。
おかゆは今は、あや取りをしている。ひとの枕元でする遊びとしては、鞠つきよりはずっと良い一人遊びだ。
「百鬼丸はととさまの言うことばかりきいて、わたくしのことは全然かまってくれないわ」
大人びた口調でおかゆは言った。多宝丸が聴いていようがいまいが関係ないといった風情だ。
「おかげさまで、わたくしは虎丸のお世話をしなくてよくなったけれど」
おかゆは複雑にかかっていた紐を手から外し、また両の手にかけ直して長方形を形作った。
「でも、百鬼丸はととさまと約束をしたのよ、家のことを全部やるって。死んだかかさまの代わりに。"家のこと"って、わたくしのことも含むのではなくって。だって、かかさまは、わたくしとたくさん、遊んでくれたもの」
「そう言われても、兄上には暇がないでしょう」
掠れた声で、多宝丸はおかゆに言い返した。幼子相手に我ながら大人げないと思いながら。おかゆは大きな目を更に見開いて、多宝丸をじっと見詰めた。
「全然似てないわ、あなたたち兄弟は。わたくしの方が、よく似ているくらい」
確かにおかゆは初めて出会った時の百鬼丸を彷彿させた。人形のように美しい顔立ちも、何もかもを見透せるかのような目でじっと見てくる様も、よく似ている。
「あの子、今まで来た使用人の中で、一番不器用で使えないわ。でも、ととさまはあの子がとてもかかさまに似ているのを気に入って、追い出さずに側に置いているの」
左手の糸を右の中指にかけ、右手の糸を左の中指にかけながら、おかゆは言う。
「ねぇ、わたくしを見ればわかるでしょう。わたくしの方が百鬼丸のきょうだいみたい。わたくしはかかさま似なの」
すいすいと指を抜き、引っかけて、幼い掌に赤い二段梯子がかけられた。
「百鬼丸はかかさまの生き写しだって、ととさまは言うの。でもわたくしは、本当のかかさまの方がいいわ。あーあ、虎丸さえ生まれなければ、かかさまは死ななかったのにな」
「そういうことを言うものではない。ただ一人の弟ではないか」
「弟なんて要らない。もしも虎丸を殺してかかさまが生き返るなら、わたくしはよろこんで虎丸を殺す」
多宝丸はもはや返す言葉がなかった。なぜなら、おかゆの頬を涙がつうっと伝っていたからだ。
遠くでまた雇い主が百鬼丸を呼ぶ声がする。
「百鬼丸、おぉい、百鬼丸や」
最近はあまり怒鳴らなくなったな、と多宝丸は思った。だが猫なで声で呼ぶのは、それはそれで気味が悪い。