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あにうえ

全てを取り戻せば、何もかもがまるくおさまると思っていた。

まるくおさまるって何だ。
何をまるくおさめたかったんだ。

取り戻した目に映った、あれは誰だ。
目から赤い涙を流して笑った、あれは誰だ。
哀しい歌声で荒ぶる心をしずめてくれた、あれは誰だ。
ずっとそばにいて何くれと世話を焼いてくれた、あれは誰だ。

わからない………。

おれは全てを取り戻し、全てを喪った。鼓動を止めた心臓の代わりに、胸の内にぽぅっと赤い炎がともった。それはおれの新しい魂の炎だった。



身体を全て取り戻せば完全な人になれるのかと思ったら、完全な鬼神になってしまった。けれど、鬼神になるということは思っていたよりも悪くはなかった。

おれが鬼神としての新たな命を得たとき、土地には恵みの雨が降り、外敵は退けられ、沢山の実りがもたらされた。まるでおれの誕生を、世界が祝福してくれているみたいだった。

"生まれ損ない"

かつてはその様に呼ばれ蔑まれた身であったのに、今や誰もがおれに感謝をする。

だけど心は鬼神の炎でいっぱいに充たされた筈なのに、どうしてだろう、胸にはまだ、ぽっかり穴が空いているようだ……。



***

あぐっ、もぐもぐもぐ。

百鬼丸はお供えものを置くための台座に腰をかけ、まんじゅうを口いっぱいに頬張る。

今日も鎮守の森の中は静かだ。

まんじゅうは皮も餡もみっしりと詰まっていて、おやつというよりはそれ一つだけで充分な食事になった。だから百鬼丸は、残りの一つを包み紙にふたたび包み直し、懐に大切に仕舞った。

立ち上り、歩き出す。森の外れまで。今日はそこに、約束がある。



森の外れ、里との境い目は竹やぶになっている。近頃は筍を取りに入る人の姿もめっきり見かけなくなった。辺りにはまだ新しくぴかぴかの若竹が、古いのにまじってちらほら立っている。

ちゅんちゅん、ちゅちゅん。

竹やぶに住まうスズメ達はひどく恥ずかしがり屋で、竹の陰から陰へと飛んでいく。飛びながら、

"たほうまる、たほうまる"

とスズメ達は啼いた。

はたして、多宝丸はやぶの一番外れの竹にもたれて百鬼丸を待っていた。多宝丸は百鬼丸に気づくとぱっと目を輝かせた。

「あにうえ!」

仔犬のようにころころと、懸命に駆けて胸へ飛び込んできた幼子を、百鬼丸はしっかり受け止めると、高い高いをしながらくるくる回った。幼子はきゃっきゃと声を上げる。

「たほうまる」

百鬼丸は多宝丸をぎゅうっと抱き締めた。

「あにうえ!」

笹の積もった柔らかな地面に、そっと多宝丸を下ろしてやる。と、多宝丸は百鬼丸の手を取り引っぱった。

「あにうえ!きょうはなにしてあそびましょう?」

「たほうまるが好きな遊びを」

そうして二人は里への道を下っていった。



***


多宝丸は木登りが大好きだ。ただでさえ高いところが好きなのに、母の気を引こうとするならば、より高く高く登らない手はない。

「ははうえ、ごらんください、ははうえ!」

ところが母は離れの一室に籠ったきり出てこない。見下ろす地上では乳母や侍女達が右往左往していた。

「多宝丸様、どうかおやめ下さい!」

「多宝丸様、降りてください!誰か、多宝丸様を!」

騒ぎを聞いた母親が、ようやく部屋から顔を出した。

「ははうえ!」

多宝丸は赤い衣の袖をぶんぶんと振った。ところが、

「多宝丸っ、何をしているのです。今すぐそこから降りなさい!」

思っていたよりも母の声は厳しく冷たく、そして何より、母の腕には赤子がしっかりと抱かれている。つい先日生まれたばかりの、多宝丸の妹。それを見た途端に多宝丸はぐらりと体勢を崩し、

「きゃあっ、多宝丸様っ!」

「誰か、多宝丸様が!」

女達が悲鳴を上げた。多宝丸はやっと片手で木の枝に掴まっているのだ。

「うわぁああん、たすけてーっ」

そして遂に、小さな手は枝を離れた。多宝丸の身体は頭から地面へ向かって落ちていく。

ところが。

多宝丸は気がつくと、真っ白い衣を纏った腕に抱かれていたのだった。顔を上げれば、真紅の瞳が多宝丸をじっと見下ろしていた。

「きれい」

赤は多宝丸が一番好きな色だ。

「だれ?」

多宝丸は訊いた。

「百鬼丸」

その者は答えた。

「おまえは?」

「わたくしは、たほうまる」

「たほうまる、たほうまる……」

百鬼丸は呟いて、多宝丸を抱え直した。ぴょんっと多宝丸の身体が飛び上がり抱きとめられ、今度は百鬼丸の顔を見下ろすことになる。一つに纏められた艶のある黒髪、白い端整なおもて、そしてあの赤い目は、優しそうに細められていた。その面差しにはどこか多宝丸の父親に似たものがある。

もしかしたらこのひとは、かみさまかほとけさまがわたくしのねがいをききいれて、つかわしてくれたのではないか?

多宝丸はそう思った。

「あにうえ」

だから、多宝丸は百鬼丸にそう呼び掛けた。

「あなたは、わたくしのあにうえなのでしょう?」

多宝丸はずっと、妹なんかより兄が欲しかったのだ。



その晩、多宝丸は両親からこっ酷く叱られた。しかし、母が寝室へと下がるや、父は眉間に寄せた皺をほどいて、眉尻をさげた。

「まったく、しょうもない子だ。だがここだけの話、この父もそれにお前の母上も、幼き頃は木登りが大好きだったのだ」

そういう父の片目をつぶった表情は、気のいい悪童のそれである。

「それにしても、あんな高い所から落ちて、よくぞ無事であったな」

「はい!助けていただきました」

「誰に?」

「みんなにはないしょですよ」

「どれ、父に聞かせてみよ」

多宝丸は周囲をきょろきょろ見回してから、父のもとへいざり寄り、そっと父の耳許とじぶんの口を小さな手で隠して囁いた。

「あにうえです」



***

深夜、彼は一人鎮守の森を駆けていた。彼はここ数日、息子が遊ぶ様子を物陰から見守っていた。息子は一人で楽しそうに虚空に話しかけていた。その様を見て彼は確信したのだ。息子が「兄上」と呼ぶ者の正体を。



森の最奥にある開けた空間。そこに醍醐家の氏神を祀る祠がある。

彼は祠の前に膝を着くと、深々と頭を下げた。

「兄上、そこにおられるのでしょう」

応えはない。祠はしんとして、月明かりの下に在る。

「私には本来、兄上にあわせる顔などありませぬ。あなたを生贄にして栄える、この国の領主たる私には」

応えはないが、彼は眼前に確かに兄が佇んでいる気配を感じた。

「しかしながら、今夜ばかりはどうかお許しください……」



「我が愚息の命をお助けいただき、まことにありがとうございました」

『顔を上げよ、多宝丸』

おれが言うと、多宝丸はおずおずと面を上げた。しかし、弟にはおれの言葉が聴こえたわけではない。

声が聴こえないだけじゃない。大人になった多宝丸の目に、おれの姿は見えない。

「兄上」

そうおれを呼ぶ、多宝丸の目は虚空を見ている。

お前達はみんなそうだ。あんなに沢山遊んだって、大きくなればいつしかおれの姿が見えなくなって、離れていってしまうのだ。

『多宝丸』

おれは弟の頬に触れる。

「兄上、どうしてわたくしには、あなたのお姿が見えないのでしょうか」

『それが、さだめだからだ』



「いまいちど、あなたに……」

お逢いしたい、と訴える多宝丸の頬に、百鬼丸はそっと唇を寄せた。



(おわり)

***


坂本真綾の『木登りと赤いスカート』のイメージで書きました。
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