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病気の様で病気ではないもの



寝間着を寝床に放り、着なれた道着を纏い帯を締める。

シュッ、シュッと小気味よく布が鳴った。

寝不足で頭にかかったもやも煩悩も振り払う、よい音である。

時雨はそうして身支度を済ませると、愛刀を肩に担いで自室からまだ静まりかえっている廊下へ出た。

彼の朝はいつも早いが、今朝は一段と早かった。まだ夜明け前である。

日課の朝稽古に行く前に、主の間へと赴くつもりである。

昨日の夕方に、時雨は主に用事があってそこへ行く筈であった。というか、行くには行って、主に会うには会ったが、ちょっとしたアクシデントによって、肝腎の用を果たさぬままにトンボ返りする羽目になってしまったのであった。

主の間の扉前で、躯が今にも倒れんとしている場面に出くわしたのである。

咄嗟に助け起こそうとした。

「触るなっ!」

彼女はか細い叫び声を上げ、器用に時雨の腕をすり抜けた。

「如何なされた?」

躯の顔を見て時雨はぎょっとした。今まで見たことのない表情、まるで幼く頼り無い少女の様に怯えた顔をしていたからである。

躯は常から魅力的な容貌を備えた女ではあるものの、普段は支配者としての表情を決して崩さない。

その為時雨はここで初めて主を女として見た。そして彼女のズボンの股を無惨に染めている血にふと気付いた時、思わずその赤色から目を逸らしてしまったのだった。

彼は戦士であり、また、本職は医者である。血など見慣れたものの筈であるにも拘わらず……。

躯は尻餅をついたまま、今にも泣き出しそうな目で彼を見上げていたが、ふと俯いてぼそっと言った。

「ただの生理痛……いつもの事だから、放って置いてくれ。病気じゃない」

その自己申告は医学的に妥当な物であるのか。一瞬思ったが直ぐ様時雨は考えるのを止めた。求めていない者には医療を施さないというのが彼のポリシーである。

彼はただ、通りすがりに具合の悪い婦人に行き合ったただの男として当たり前の行動のみをした。つまり、蹲った彼女を助け起こし部屋まで送り届けてやった。

主の間の重い扉を開けると、躯が専用に召し使っている者共が主を介抱するためにわらわらと寄って来たので、時雨は「宜しく頼む」とだけ言い、彼女を置き捨てる様にして廊下へ引き返した。

そして自分の部屋に戻り、さっさと着替えて寝床に潜り込んでしまったが、いつものお休み三秒は何処へやら、睡魔は一向に訪れなかった。

彼は自分は正しい行いをしたという確信を持ってはいたものの、ただ偶然に行き合ってしまった事によって、あの表情をあの赤い血を見てしまった事によって、大切な主を図らずも侮辱してしまった様な罪悪感に見舞われていた。

それで居ても立っても居られなくなり、朝稽古の序でや昨日すべきだった報告にかこつけて、彼女の元をおとなう事にしたのである。

普通の御婦人を訪ねるには非常識な時間帯であるが、彼女はパトロール隊長なのであり、部下の訪問は基本的に何時であっても拒まない。それは国王時代からの彼女の習慣だった。

本当に誰にも会いたくないならば、彼女は主の間には居らず、この要塞の何処かにある彼女の私室に籠っている筈であった。

ただ、顔色が元に戻っているのを確認出来ればそれでよいのである。

主の間の大扉を前にして、時雨は一度深呼吸をした。

意を決してコンコンと扉を叩く。返事が無いが、そっと扉を押した。鍵が掛かっていなければ入ってもよいことになっていた。

正面に見える玉座兼寝台の所にだけ、明かりが灯っている。

彼女は何時もの様にそこに腰掛けていたが、意外な事に一人ではなかった。

「病気じゃあないんなら何なのかはわからんが、」

彼女の隣に腰掛けているのは、時雨のかつての弟子であった。

「具合が悪いんだったら大人しく寝てればいいんだ」

「……うん、わかった」

ゆっくりと頷いた躯の頭を、飛影がまるで幼児にする様にわしわしと撫でた。

時雨はそっと扉を閉めると、がっくりと肩を落として闘技場の方へと歩いていった。

(終わり)

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