病気の様で病気ではないもの
そういえば最近あの女の顔を見ていなかった。
と、ふと思ったので、飛影は読みさしの本をシーツの上に放り、自室を出た。
同じフロアといっても、ここは無駄に広い移動要塞百足の中なのであって、まるで迷路の様な廊下をとぼとぼと歩く。
日勤と夜勤の交替したばかりの時間帯である。
仕事の者は持ち場に就いたし、上がりの者は遊びに出るか寝たかしたので、廊下は静まりかえっていた。
彼女の部屋まであと二つの曲がり角を曲がるという所で時雨に出会ってしまった。
「ん。」
「ん。」
挨拶とも言えない挨拶だけ交わす。一応師弟関係とも言うべき間柄ではあっても、お互い相手にさして思い入れがあるわけではない。目的地が別ならばそれで素通りするだけなのだが生憎、どうやら同じ場所を目指している様である。
時雨の方がずっと背丈が高く従って歩幅も広いので、飛影は自然、彼の後を着けている格好になってしまった。時雨は片手に書類を掴んで歩いている。昼間の仕事の報告当番か何かなのだろう。
廊下にはただ、二人分の足音だけが響いている。
二人とも剣士である為、息遣いには抑制が利いていた。
主の間への最後の曲がり角へ。
時雨の姿が消えるや否や、バサリと紙がばら撒かれる音と共に、駆ける足音。
飛影も走った。
角を曲がって真正面が主の間である。
廊下の左壁際に、それまで壁づたいにやっと歩いて来たらしい躯が、あわや床に倒れる、寸での所を時雨の逞しい腕が彼女の脇を支えた。
彼女はその腕をすり抜け、ぺたんと座り込み、えずきそうになる。背中を擦ろうとする時雨を払い除けようとしたが、そのまま体勢を崩して結局床に伸びてしまった。
それを時雨が半ば無理矢理起こし立たせたのを、飛影がやきもきしながらも離れた所から見守るしかなかったのは、彼らが飛影に聴かせたくなさそうに小声で何やら短いやり取りを交わしたからでもあり、また、彼女のズボンを汚し踝の辺りまでに及ぶ赤い滴りに気を取られたからでもある。
躯は時雨の脇に抱えられ、引き摺られる様に歩いていった。
主の間の扉が重々しい音を立てて開いて、閉まる。
直ぐに時雨は部屋から出てきた。本当にただ彼女を送ったというか、置いてきただけの様である。飛影がまだ廊下に立ち尽くしているのをみとめると、
「心配するな、病気ではない」
とだけ言って、落とした書類を拾って帰って行った。
扉の向こうに慌ただしく人の行き交う気配がした。
飛影は暫くの間扉の前をぐるぐる回っていたが、向こう側が静まった頃を見計らって扉を薄く開けると、中へ滑り込んだ。
部屋の奥に据えられた、玉座を兼ねた寝台周りにだけ、明かりが灯っていた。
壁際のカーテンが一部揺れている。使用人が奥の控えに下がったところらしかった。
躯はベッドで毛布に埋もれていた。
白い足が毛布からはみ出ている。
飛影は大股で歩み寄り、靴を脱ぎ散らかしてベッドに上がった。
彼女の剥き出しの足首を掴んで少し引っ張ってみる。まるで氷の様に冷たい足だ。踝を濡らしていた赤はすっかり拭い去られていた。
「怪我をしたのか?」
足はひゅっと彼の手を払い、毛布の中に引っ込む。
それが否、という答えであり、飛影もそうだろうと小さく頷く。この要塞の中に、彼女に血の流れる様な傷を負わせる事の出来る者など、居やしないのだ。
彼女の隣に腹這いになって、頭まですっぽり被っている毛布をずり下げた。
出てきた顔は蒼白で、傷痕の色にも血の気がなかった。何か悪い病気にかかっている様にしか見えないが、病気ではないとはどういう事なのか。
顔にかかる前髪を、手櫛でそっと梳きあげてやった。
今まで何処も見ていない様にたゆたっていた剥き出しの右目が此方を向き、それに続いて美しい左の眼が薄く開いて見上げた。
「よぅ」
「ん。」
彼女の手が毛布の下から伸び、その指が飛影の眉間に深く刻まれた皺をなぞる。機械で出来た方の指である。
「調子が悪い、から、手合わせは……」
そう言うだけで精一杯なのか、ふぅ、と大きな溜め息を吐いた。
「そんなんじゃない」
飛影は彼女の額に顔を近付けた。まだ微かに時雨のにおいがした。
「あいつは遊びに出る時にしか風呂に入らん。医者の癖に、不潔な野郎だ」
鼻にも目一杯皺を寄せた顔が面白かったのか、躯はくつくつと笑った。
飛影は腹這いのまま、足をゆらゆら揺らす。
「不潔野郎の癖に。」
心配するな、などと、何やら訳知り顔だった時雨に、飛影はムカついていただけなのである。
(おわり)
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