患い無し
みおの柔らかく温かい掌が、百鬼丸の額に押し当てられる。
「熱、下がったわね。ごはんもいっぱい食べられるようになったし」
よかったね、と言いつつもどこか名残惜しそうに離れていった指先を、百鬼丸の造り物の指先が追い、そして微かに触れる。みおがくつくつと笑う。百鬼丸も、自然と笑顔になる。
「そうだ、川へ行きましょう。身体と髪を洗ってあげる。拭いただけじゃ気持ちよくないもんね」
百鬼丸はみおに手を引かれて、長い石段を降りていく。一歩一歩降りる度に、みおが片手に抱えた桶の中で何かがカラカラと音を立てる。
長く寝て過ごしたせいか、ちょっと足許が覚束ない。そんな彼の為に、みおはゆっくりと歩いてくれる。躓かないように導きながら。
やがて、草葉のざわめきや水のせせらぎ、石を踏む足裏の感触で、みおと初めて出会った場所まで来た事を知る。
するりと帯が解かれ、着物を脱がされる。火の側に近付いた時のように、肩や胸がちりちりと熱くなる。みおの手が優しく背中を押し、小川の中程まで歩く。そして座り、腰程の深さの流れに浸かり、みおが着物を洗ってくれるのを待つ。
「さてと、お待たせ。洗ってあげるからね」
ざぶざぶと水飛沫をさせて、みおがやって来た。そして水の中で何やら揉み洗いをしているようだ。
「百鬼丸、これ」
みおが何かを百鬼丸に差し出す。百鬼丸は両手にその小袋を受ける。それは見たことのない輝きを放っているように、彼の盲いた目には見える。みおは首を傾げる彼の手を取ると、彼の頬に当てる。初めての感触だ。すべすべで柔らかくて細かい何か。
「無患子 よ。この間、森で沢山拾ったの。こうして水に浸してよく揉むと、泡が出るのよ」
みおは無患子を入れた小袋を手拭いに挟んで、よく泡立ててから百鬼丸の身体を擦る。結構強い力で擦られているのだが、無患子のお陰で布がよく滑るので、肌は痛くならない。心地よさに百鬼丸は目を細める。
上半身をすっかり洗い上げると、立つように促される。みおは百鬼丸の腰に軽く手を添え、まずは生身の右脚を洗い、次に造り物の左脚を洗う。みおはふぅ、とため息を吐いて、額をぬぐう。そして、
「これ、自分で外せる?」
下帯を軽く引っ張り、彼女は言う。百鬼丸は頷き、解く。脚の間もみおは丁寧に洗ってくれる。
ざぶざぶ音がし、みおは百鬼丸の背後に回る。両肩を手でそっと押されたので、また水に身体を沈める。
みおは桶で何度か百鬼丸に頭から水をかける。無患子の泡が肌の上を滑り落ち、水に溶けてゆく。すっかり濡れそぼった髪に、みおは泡をまぶして揉み込み、丹念に洗ってゆく。髪の間に指を通し、頭皮を掻いたり圧したりする。そしてまた桶に水を汲み、髪をよく洗い流す。
まだ少し乾き切らない衣を着て、陽当たりのよい所に腰を下ろしている。みおは百鬼丸の髪に櫛を通している。
「百鬼丸はきれいね」
みおは呟く。
"きれい"という言葉。百鬼丸はその言葉がよく使われる場面を思い浮かべる。
どろろが床の拭き掃除をしたとき。拭き上げられたばかりの床に寝転がると、板のひんやりして滑らかな感触が心地よい。それが"きれい"だということ。それから、さっきみたいに身体をよく洗ってもらったとき。汚れをすっかり落とした身体は"きれい"。
"きれい"とは、誰かに汚れを落としてもらうこと。床が"きれい"なのはどろろが拭いてくれたからで、おれが"きれい"なのはみおが洗ってくれたから。……だが、今みおが言う"きれい"は何か違うようだ。百鬼丸は首をひねる。
「ちゃんと前向いててね」
顔の向きを戻される。みおは、
「男の子がそんな事言われたって、嬉しくないか」
と言う。
嬉しくない?そんなことない。だっておれを”きれい”にしてくれたのは、みおだから。
こんなときに言うべき言葉は”ありがとう”。だが思いを言葉に紡ぐには、彼はまだ臆病すぎる。口は”あ”の形にはなれども、それ以上は動かない。
みおは櫛を器用に使って百鬼丸の髪をひとつに束ね、頭の高い位置に結い上げた。
「さ、出来上がり」
***
「おい、あにき!いい加減起きろっ」
どろろに身体を揺さぶられ、百鬼丸は目覚めた。自分がどこにいるのかよくわからない。頭の下でカサカサと音がした。どうやらかき集めた落ち葉の上に眠っていたらしい。百鬼丸はがばっと身体を起こした。
「うわっ!」
どろろは弾き飛ばされ、仰向けにひっくり返った。
「みお……、みおは!?」
「いってててて、まだ寝惚けてんのかよ。もうお天道様が真上にあるぜ。さっさと起きろって」
山の中に打ち捨てられた小屋の中だった。百鬼丸はやっと、昨晩の事を思い出した。何日もろくに眠らず食べもせずに、怪退治ばかりして歩き続け、とうとう疲れ果てて動けなくなった。そしてどろろが見つけてくれた、この屋根と壁しかない掘っ建て小屋に入ると、どろろが作ってくれた寝床に崩れ落ちるように倒れ込んだのだ。
百鬼丸はゆっくりと立ち上がった。よく寝たせいか、昨日までの倦怠感が嘘のように消え、身体が軽かった。背中や脚もすっかり痛まなくなっていた。
「おいら腹減って死にそうだよぉ。あにき、川まで行って魚でも捕って食おうぜ」
百鬼丸は頷いた。
外へ出ると、強い日差しが肌をあぶった。外はあちこちに生き物の気配がし、様々な音と匂いに充ちていた。百鬼丸はどろろに手を引かれ、澤に続く坂道を下った。
(おわり)
「熱、下がったわね。ごはんもいっぱい食べられるようになったし」
よかったね、と言いつつもどこか名残惜しそうに離れていった指先を、百鬼丸の造り物の指先が追い、そして微かに触れる。みおがくつくつと笑う。百鬼丸も、自然と笑顔になる。
「そうだ、川へ行きましょう。身体と髪を洗ってあげる。拭いただけじゃ気持ちよくないもんね」
百鬼丸はみおに手を引かれて、長い石段を降りていく。一歩一歩降りる度に、みおが片手に抱えた桶の中で何かがカラカラと音を立てる。
長く寝て過ごしたせいか、ちょっと足許が覚束ない。そんな彼の為に、みおはゆっくりと歩いてくれる。躓かないように導きながら。
やがて、草葉のざわめきや水のせせらぎ、石を踏む足裏の感触で、みおと初めて出会った場所まで来た事を知る。
するりと帯が解かれ、着物を脱がされる。火の側に近付いた時のように、肩や胸がちりちりと熱くなる。みおの手が優しく背中を押し、小川の中程まで歩く。そして座り、腰程の深さの流れに浸かり、みおが着物を洗ってくれるのを待つ。
「さてと、お待たせ。洗ってあげるからね」
ざぶざぶと水飛沫をさせて、みおがやって来た。そして水の中で何やら揉み洗いをしているようだ。
「百鬼丸、これ」
みおが何かを百鬼丸に差し出す。百鬼丸は両手にその小袋を受ける。それは見たことのない輝きを放っているように、彼の盲いた目には見える。みおは首を傾げる彼の手を取ると、彼の頬に当てる。初めての感触だ。すべすべで柔らかくて細かい何か。
「
みおは無患子を入れた小袋を手拭いに挟んで、よく泡立ててから百鬼丸の身体を擦る。結構強い力で擦られているのだが、無患子のお陰で布がよく滑るので、肌は痛くならない。心地よさに百鬼丸は目を細める。
上半身をすっかり洗い上げると、立つように促される。みおは百鬼丸の腰に軽く手を添え、まずは生身の右脚を洗い、次に造り物の左脚を洗う。みおはふぅ、とため息を吐いて、額をぬぐう。そして、
「これ、自分で外せる?」
下帯を軽く引っ張り、彼女は言う。百鬼丸は頷き、解く。脚の間もみおは丁寧に洗ってくれる。
ざぶざぶ音がし、みおは百鬼丸の背後に回る。両肩を手でそっと押されたので、また水に身体を沈める。
みおは桶で何度か百鬼丸に頭から水をかける。無患子の泡が肌の上を滑り落ち、水に溶けてゆく。すっかり濡れそぼった髪に、みおは泡をまぶして揉み込み、丹念に洗ってゆく。髪の間に指を通し、頭皮を掻いたり圧したりする。そしてまた桶に水を汲み、髪をよく洗い流す。
まだ少し乾き切らない衣を着て、陽当たりのよい所に腰を下ろしている。みおは百鬼丸の髪に櫛を通している。
「百鬼丸はきれいね」
みおは呟く。
"きれい"という言葉。百鬼丸はその言葉がよく使われる場面を思い浮かべる。
どろろが床の拭き掃除をしたとき。拭き上げられたばかりの床に寝転がると、板のひんやりして滑らかな感触が心地よい。それが"きれい"だということ。それから、さっきみたいに身体をよく洗ってもらったとき。汚れをすっかり落とした身体は"きれい"。
"きれい"とは、誰かに汚れを落としてもらうこと。床が"きれい"なのはどろろが拭いてくれたからで、おれが"きれい"なのはみおが洗ってくれたから。……だが、今みおが言う"きれい"は何か違うようだ。百鬼丸は首をひねる。
「ちゃんと前向いててね」
顔の向きを戻される。みおは、
「男の子がそんな事言われたって、嬉しくないか」
と言う。
嬉しくない?そんなことない。だっておれを”きれい”にしてくれたのは、みおだから。
こんなときに言うべき言葉は”ありがとう”。だが思いを言葉に紡ぐには、彼はまだ臆病すぎる。口は”あ”の形にはなれども、それ以上は動かない。
みおは櫛を器用に使って百鬼丸の髪をひとつに束ね、頭の高い位置に結い上げた。
「さ、出来上がり」
***
「おい、あにき!いい加減起きろっ」
どろろに身体を揺さぶられ、百鬼丸は目覚めた。自分がどこにいるのかよくわからない。頭の下でカサカサと音がした。どうやらかき集めた落ち葉の上に眠っていたらしい。百鬼丸はがばっと身体を起こした。
「うわっ!」
どろろは弾き飛ばされ、仰向けにひっくり返った。
「みお……、みおは!?」
「いってててて、まだ寝惚けてんのかよ。もうお天道様が真上にあるぜ。さっさと起きろって」
山の中に打ち捨てられた小屋の中だった。百鬼丸はやっと、昨晩の事を思い出した。何日もろくに眠らず食べもせずに、怪退治ばかりして歩き続け、とうとう疲れ果てて動けなくなった。そしてどろろが見つけてくれた、この屋根と壁しかない掘っ建て小屋に入ると、どろろが作ってくれた寝床に崩れ落ちるように倒れ込んだのだ。
百鬼丸はゆっくりと立ち上がった。よく寝たせいか、昨日までの倦怠感が嘘のように消え、身体が軽かった。背中や脚もすっかり痛まなくなっていた。
「おいら腹減って死にそうだよぉ。あにき、川まで行って魚でも捕って食おうぜ」
百鬼丸は頷いた。
外へ出ると、強い日差しが肌をあぶった。外はあちこちに生き物の気配がし、様々な音と匂いに充ちていた。百鬼丸はどろろに手を引かれ、澤に続く坂道を下った。
(おわり)
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