送り狼は喋らない②
***
早朝の道場には新鮮な空気と活気が満ちている。しかし百鬼丸の気分は重い。
かかり稽古。自分よりも上手の元立ちに、下手が隙を見つけてどんどん打ち込んでいく稽古である。稽古の中で最もしんどいメニューだ。それを、しかも今は顧問と組んで行っている。
「醍醐!気合いを出せ気合いをっ」
なんてしつこいんだと百鬼丸は思う。自分が一言だって発しないのをいい加減諦めてくれないだろうか。額を汗が伝い、利き目に入った。面と小手を脱ぎ去って拭いたい。そんな事を思いながら打ち掛かっていくと、鍔元で腕を払われた勢いで顧問の拳が百鬼丸の胸に当たった。彼の両足は床を離れ、そして背中を強かに床に打った。一瞬、息が詰まる。
『……!』
百鬼丸は肘をついて体を起こした。なんとか竹刀は左手に持っていた。
「立てッ」
他の生徒達はちらちらと百鬼丸の方を窺いながらも稽古を続けている。
彼はさっと立ち上がり、竹刀を構えるとすぐに踏み込み、掛かっていった。
目敏く隙をとらえ、面、小手、面、引き胴、と打ち込んでいく。払われたらすかさず切っ先を戻し、退かれれば追い、突飛ばされそうなら離脱。
「気合いはどうしたァ!?」
ごちゃごちゃ煩い、そんなもんが何になるのだ。百鬼丸はハッと息を吐き、脚を止めて正眼に構え狙いを定める。
「どんどん打って来いッ、醍醐!」
次で仕留めてやる!
百鬼丸は音もなく踏み込むと、顧問の首元目掛けて竹刀を突き出した。
「やめーーーッ!」
マネージャーのよく通る声が終了を知らせた。百鬼丸は切っ先を狙いから逸らし、顧問の脇を駆け抜け、残心した。
稽古の後、百鬼丸が面を外していると、顧問が彼の元へやって来た。
「醍醐」
百鬼丸はいつものように無言で顔を上げた。
「まーったく、お前は頑なに何も言わないな。まぁいい。お前さんにちょっと話があるから、放課後職員室に来なさい」
面倒な事になった。百鬼丸はムッとした顔で頷いた。
***
端っから廃除された方がよほどましではないかと、百鬼丸は思う。彼は空き教室に連れて行かれ、窓際の席の一つに座らされた。顧問は正面の机を逆向きにして百鬼丸の机にくっつけ、彼と向かい合って座った。
顧問は百鬼丸に何故なにも言おうとしないのか、聞こうとした。いつから、何がきっかけでそうなったのか。もしかして喉に障害があるのか、それとも何かトラウマがあるのか。
百鬼丸は自由画帳も膝の上に置いたまま開かず、唇を引き結んで首を横に振るだけだった。俯く彼を覗き込む顧問の表情は、心から彼を心配しているようで、そしてとても善良そうに見える。だが善良さでもって気安くこちらの領分に踏み込んでこられるのが、百鬼丸は苦手だ。
「どうしても話してくれないか、そうか」
顧問はため息を吐くと、百鬼丸の頭を掌でぐりぐりと撫でた。父がするのと同じやり方だ。
「もう無理強いはしない。何か心配事とか悩みとかがあったら俺が聴いてやるから、いつでも来なさい」
そう言ってゆっくりと立ち上がろうとした顧問を、百鬼丸は片手を上げて引き留めた。そして自由画帳を開き、書き込む。
『部活、辞めたいです』
昇降口を出ると、同じクラスの仲間が数人いた。中学時代からの友人達だ。百鬼丸は彼らに合流した。気のおけない旧友達。百鬼丸は文字で彼らと話し、彼らはまるで百鬼丸が普通に喋っているかのように共に会話を楽しむのだった。
学校と駅の中間地点辺りに川があって、橋が掛かっている。橋の上には中央に二車線道路が通り、その左右に歩道がある。北側の歩道は広く造られており、川沿いの古い宿場町の景色を見渡せるようになっていた。
百鬼丸を含む男子生徒の一団は、南の狭い方の歩道を通ろうとしていた。中途半端な時間で、辺りには他の学生の姿はないし、車も通らない。
橋の丁度真ん中に来た時、百鬼丸はふと足を止めた。歌声が聴こえたのである。
見れば、反対側の歩道に据えられたベンチに、一人の女子生徒がこちらに背を向けて腰掛けていた。長い黒髪がセーラーカラーの上で風にそよいでいる。
微かに聴こえてくる歌声に、百鬼丸は歩道と車道を隔てる欄干から身を乗り出して、聞き耳を立てる。
「あれ田中さんじゃね?」
仲間の一人が囁いた。
”泣かないことを 誓ったまま 時は過ぎ
痛む心に 気が付かずに 僕は一人になった
記憶の中で ずっと二人は 生きていける”
心の奥底に優しく染み入るような歌声だった。友人達がひそひそ囁き合っているのをよそに、百鬼丸は両手を欄干にかけたまま、聴き入った。なんだか昔どこかで聴いたことのあるような、懐かしく切ない声色。
”君は少し泣いた?あの時 見えなかった”
「田中さーーーん、ブラボーーー!!」
彼の友人の一人が叫んだので、女子学生は驚いた様子で振り向いた。一陣の風がさあっと吹き抜ける。風は彼女の髪を乱し、前髪に隠されていた彼女の顔を露にした。大きな目をパチパチとしばたたかせて、口に手を当てている。友人達が拍手をしたり指笛を鳴らしたりしたので、彼女は頬を赤く染めた。友人達は拍手喝采で騒いだものの、彼女が当惑していると見るや、
「田中さーん、さようならーーー!」
わざと悠々とした足取りで歩き始めたのだった。そして棒立ちになっていた百鬼丸は友人の一人にヘッドロックをかけられ、そのまま引摺られて行った。
しばらく歩いて橋が見えなくなると、友人達はゲラゲラと笑い出した。
「もー醍醐君ったらぁ、田中さんを穴が空くほど見すぎ!あぁ恥ずかしっ」
早朝の道場には新鮮な空気と活気が満ちている。しかし百鬼丸の気分は重い。
かかり稽古。自分よりも上手の元立ちに、下手が隙を見つけてどんどん打ち込んでいく稽古である。稽古の中で最もしんどいメニューだ。それを、しかも今は顧問と組んで行っている。
「醍醐!気合いを出せ気合いをっ」
なんてしつこいんだと百鬼丸は思う。自分が一言だって発しないのをいい加減諦めてくれないだろうか。額を汗が伝い、利き目に入った。面と小手を脱ぎ去って拭いたい。そんな事を思いながら打ち掛かっていくと、鍔元で腕を払われた勢いで顧問の拳が百鬼丸の胸に当たった。彼の両足は床を離れ、そして背中を強かに床に打った。一瞬、息が詰まる。
『……!』
百鬼丸は肘をついて体を起こした。なんとか竹刀は左手に持っていた。
「立てッ」
他の生徒達はちらちらと百鬼丸の方を窺いながらも稽古を続けている。
彼はさっと立ち上がり、竹刀を構えるとすぐに踏み込み、掛かっていった。
目敏く隙をとらえ、面、小手、面、引き胴、と打ち込んでいく。払われたらすかさず切っ先を戻し、退かれれば追い、突飛ばされそうなら離脱。
「気合いはどうしたァ!?」
ごちゃごちゃ煩い、そんなもんが何になるのだ。百鬼丸はハッと息を吐き、脚を止めて正眼に構え狙いを定める。
「どんどん打って来いッ、醍醐!」
次で仕留めてやる!
百鬼丸は音もなく踏み込むと、顧問の首元目掛けて竹刀を突き出した。
「やめーーーッ!」
マネージャーのよく通る声が終了を知らせた。百鬼丸は切っ先を狙いから逸らし、顧問の脇を駆け抜け、残心した。
稽古の後、百鬼丸が面を外していると、顧問が彼の元へやって来た。
「醍醐」
百鬼丸はいつものように無言で顔を上げた。
「まーったく、お前は頑なに何も言わないな。まぁいい。お前さんにちょっと話があるから、放課後職員室に来なさい」
面倒な事になった。百鬼丸はムッとした顔で頷いた。
***
端っから廃除された方がよほどましではないかと、百鬼丸は思う。彼は空き教室に連れて行かれ、窓際の席の一つに座らされた。顧問は正面の机を逆向きにして百鬼丸の机にくっつけ、彼と向かい合って座った。
顧問は百鬼丸に何故なにも言おうとしないのか、聞こうとした。いつから、何がきっかけでそうなったのか。もしかして喉に障害があるのか、それとも何かトラウマがあるのか。
百鬼丸は自由画帳も膝の上に置いたまま開かず、唇を引き結んで首を横に振るだけだった。俯く彼を覗き込む顧問の表情は、心から彼を心配しているようで、そしてとても善良そうに見える。だが善良さでもって気安くこちらの領分に踏み込んでこられるのが、百鬼丸は苦手だ。
「どうしても話してくれないか、そうか」
顧問はため息を吐くと、百鬼丸の頭を掌でぐりぐりと撫でた。父がするのと同じやり方だ。
「もう無理強いはしない。何か心配事とか悩みとかがあったら俺が聴いてやるから、いつでも来なさい」
そう言ってゆっくりと立ち上がろうとした顧問を、百鬼丸は片手を上げて引き留めた。そして自由画帳を開き、書き込む。
『部活、辞めたいです』
昇降口を出ると、同じクラスの仲間が数人いた。中学時代からの友人達だ。百鬼丸は彼らに合流した。気のおけない旧友達。百鬼丸は文字で彼らと話し、彼らはまるで百鬼丸が普通に喋っているかのように共に会話を楽しむのだった。
学校と駅の中間地点辺りに川があって、橋が掛かっている。橋の上には中央に二車線道路が通り、その左右に歩道がある。北側の歩道は広く造られており、川沿いの古い宿場町の景色を見渡せるようになっていた。
百鬼丸を含む男子生徒の一団は、南の狭い方の歩道を通ろうとしていた。中途半端な時間で、辺りには他の学生の姿はないし、車も通らない。
橋の丁度真ん中に来た時、百鬼丸はふと足を止めた。歌声が聴こえたのである。
見れば、反対側の歩道に据えられたベンチに、一人の女子生徒がこちらに背を向けて腰掛けていた。長い黒髪がセーラーカラーの上で風にそよいでいる。
微かに聴こえてくる歌声に、百鬼丸は歩道と車道を隔てる欄干から身を乗り出して、聞き耳を立てる。
「あれ田中さんじゃね?」
仲間の一人が囁いた。
”泣かないことを 誓ったまま 時は過ぎ
痛む心に 気が付かずに 僕は一人になった
記憶の中で ずっと二人は 生きていける”
心の奥底に優しく染み入るような歌声だった。友人達がひそひそ囁き合っているのをよそに、百鬼丸は両手を欄干にかけたまま、聴き入った。なんだか昔どこかで聴いたことのあるような、懐かしく切ない声色。
”君は少し泣いた?あの時 見えなかった”
「田中さーーーん、ブラボーーー!!」
彼の友人の一人が叫んだので、女子学生は驚いた様子で振り向いた。一陣の風がさあっと吹き抜ける。風は彼女の髪を乱し、前髪に隠されていた彼女の顔を露にした。大きな目をパチパチとしばたたかせて、口に手を当てている。友人達が拍手をしたり指笛を鳴らしたりしたので、彼女は頬を赤く染めた。友人達は拍手喝采で騒いだものの、彼女が当惑していると見るや、
「田中さーん、さようならーーー!」
わざと悠々とした足取りで歩き始めたのだった。そして棒立ちになっていた百鬼丸は友人の一人にヘッドロックをかけられ、そのまま引摺られて行った。
しばらく歩いて橋が見えなくなると、友人達はゲラゲラと笑い出した。
「もー醍醐君ったらぁ、田中さんを穴が空くほど見すぎ!あぁ恥ずかしっ」