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送り狼は喋らない②

昔々、彼は鬼と取引をした。声と引き換えに……。


あれ?どういう取引だったっけ。

その時にはすでに、彼は自分が喋らなくなった理由を忘れていた。

弟を近所の子供達のところへ残したまま、彼はひと足先に家に帰った。

リビングのテーブルには「れいぞうこにヨーグルトがあります」というメモがあった。

彼は首を傾げると台所に行き、冷蔵庫を開けた。庫内には本当にヨーグルトが入っていた。三個で一パックになっているやつだ。自分と弟とそして母さんのぶん。スプーンを探してカトラリーの仕舞ってある引き出しを漁った。そしてリビングに戻る。

テーブルに、弟分のぶんと自分のぶんのヨーグルトを置き、スプーン置いた。母親のぶんは冷蔵庫の中に仕舞っておいた。

母さんは……。

彼はカーテンレールに下がり、ゆらゆら揺れている影を見た。

次の記憶は、黒い服を着た人達が沢山出入りしている場面。弟が大きな目で彼を睨んで言った。

「兄さんのせいだ」




***


ピピピッ、ピピピッ、ピピ……。

百鬼丸は掌を目覚まし時計に叩きつけた。朝6時5分をまわったところ。彼は飛び起き、大急ぎで身支度を整えて階下に駆け降りて洗面所に直行した。

台所に入ると、

「おはよう、百鬼丸」

炒め物をしていた父が振り返って言った。

『おはよう』

百鬼丸は唇の動きだけで応えた。彼はいまだに言葉を全く話さないばかりか声一つ漏らさない。鬼との約定がいつまで続くのか知らないまま、彼はそれを愚直に守っている。

いつも通りの焼肉弁当。父が詰めてくれたそれがまだ冷めないうちに、百鬼丸は弁当箱に蓋をして布で包んで巾着に入れ、デイパックに突っ込んだ。

朝食は握り飯を麦茶で流し込み、デイパックを背負い、自由画帳を小脇に抱える。台所を出る前に彼は父のもとに近寄った。

「行ってらっしゃい。気を付けてな」

父のクマみたいに大きく毛深い手が、百鬼丸の頭を撫でる。幼い頃この養父(ちち)のもとに引き取られてきたばかりの時から続く習慣である。

『行ってきます』

彼は玄関を飛び出し、ガレージに停めてある愛車のマウンテンバイクにまたがった。そして駅まで全速力。電車が発車するまであと10分しかない。
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