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送り狼は喋らない①

醍醐百鬼丸は、未央と同じ文系進学クラスの生徒だ。同じクラスなのに、未央は4月から今日まで、彼との接点が全く無かった。だが、高校生活初日、ホームルームでの彼の自己紹介が特異なものだったので、それを未央はよく覚えていた。

彼は教壇に立つと、子供が使うようなA3の自由画帳を取り出し、ペンで大きく『醍醐 百鬼丸』と書いた。すると男子生徒の一人がすかさず言った。

「画数多いなー!」

百鬼丸はピクリとも表情を変えずにサムズアップした。それだけで彼はクラスの中に居場所を確保したように見えた。

彼は何故か一言も発しようとせず、他人とコミュニケーションを取るときには例の自由画帳に文字や絵を書いて意思表示をする。ちょっと変わった男の子だったが、それで人からとやかく言われる事はなさそうなのだ。入学以来ずっと何となく浮いている未央には、彼のことがちょっと羨ましく感じられたのだった。



未央が昇降口で待っていると、百鬼丸は軽い足取りで階段を降りてきた。未央の鞄を取ってきてくれたのだ。

「ごめんね、重かったでしょ?」

言ってから、こういう時は”ありがとう”かな、と未央は思った。百鬼丸は”全然”というように首を振った。全然なわけはない。未央はいまだに中学の指定鞄を使用していた。本皮製で非常に重いのである。しかも律儀に教科書とノートを置き勉しないで詰め込んであるのだ。一方、百鬼丸の荷物は筆記用具くらいしか入っていなさそうなデイパックと例の自由画帳だけである。

未央が鞄を受け取ろうとすると、百鬼丸は首を振り、鞄を持ったままさっさと上履きを下駄箱に仕舞い、靴を履いた。



帰宅部の下校時刻にしては遅く、部活帰りにしては早すぎる。そんな時間である。校門のすぐ側にある電話ボックスには、いつもはポケベルを使う女子生徒が列をなしているが、今は誰もいなかった。

未央と百鬼丸は人影のない通学路を並んで歩いた。未央は、手ぶらなのが何とも居心地悪く感じられた。頭一つぶん背の高い百鬼丸を見上げると、彼は未央の視線に気付き微笑んだ。彼は未央の鞄を背に担ぐようにして持っている。この時初めて、未央は彼が右の手首に包帯を巻いている事に気付いた。

「あっ、ごめんね!醍醐君怪我してたの、気付かなかった。なのに荷物持たせちゃって……」

すると百鬼丸は重い鞄を地面と水平になるように持ちかえ、その上に自由画帳を開いた。

『ただのけびょう』

彼はさらさらと書いて未央に見せた。

「そうなの?」

『部活サボるため』

「そうなんだ」

未央が笑うと、百鬼丸もにっこりとした。無表情という印象が強かった彼だが、意外とよく笑う。彼の人形のように端整な顔立ちは、笑うと一層魅力的だった。

「醍醐君って何部なんだっけ?」

百鬼丸は今度は鞄と自由画帳を左脇に抱えた。脚を前後に開き、そして右腕を振り上げ、一方前に踏み出すと同時に腕を振り下ろした。

「わかった、剣道部でしょ」

彼はこくこくと頷いて、手で長い前髪を払った。

なるほど、運動部に所属しているから、同じ電車通なのに登下校中に見かけた事がなかったのだ。

「そっか、剣道部なんだ。なんかカッコいいね」

特に他意はなかった未央だったが、百鬼丸は頬を赤らめて、顔を逸らした。

また、暫しの無言。

街中を通る細い道路を真っ直ぐ行くと、左右が急に開けて見晴らしがよくなる。少し幅のある橋に出るのだ。橋はコンクリートとアスファルトと鉄で出来ているが、欄干は時代劇に出てくる橋のような形に作られており、濃い焦げ茶色に塗られている。広めの歩道には欄干と同色の街灯とベンチがあった。

百鬼丸はベンチを指差した。どうやらここで次の電車が来るまでの時間潰しをしようという事らしい。この時間帯、電車は一時間に一本しか来ない。

未央は歩道の端に立つ時計台を見上げた。まだ4時15分である。次の電車まであと30分あった。未央がベンチに腰掛けると、百鬼丸は彼女の隣に鞄を置いたが、自分は座らずに欄干の方に歩いて行った。

「ここ、いい眺めだよね」

未央が声をかけると、百鬼丸は振り返って頷き、また川の方を見た。川の両サイドは遊歩道になっており、その脇に沿って古い家並みが続いている。昔、宿場町だった頃の面影を今もよく残しているのだった。右手には川のカーブのところに瀟洒なホテルが一軒あり、前方には街を一望出来る山がある。川の流れは山に吸い込まれるように、北へと向かっていた。

「私、あの山に登ったことがあるよ。小学校の時、遠足で。醍醐君は?」

百鬼丸は頷き、未央の方へ歩いてきた。自由画帳を開き、さらさらと書き込んで未央にみせた。

『まんじゅしゃげがたくさん咲くよ』

「まんじゅ……、あぁ、曼殊沙華。彼岸花のことね」

彼は”まんじゅしゃげ”の下に蒲鉾のようなものを書いた。その形の上に、くねった線を三本。立ち上る湯気に見える。そして矢印を引き、

『まんじゅ』

どうやら未央が”曼殊沙華”を言いそこなったのが面白かったらしい。

『商店街においしいまんじゅう屋さんあるよ』

「知ってる」

商店街にある、田舎饅頭専門のお店。そこの饅頭はこの町の銘菓なのである。

『冷凍まんじゅう』

「えっ、それは知らない」

今度は百鬼丸は地図を書き始めた。駅、駅前ロータリー、大通り。商店街を北上し、神社を通りすぎて二ブロックほど行ったところに矢印を引き『冷凍まんじゅう』と彼は書いた。未央の知っている名産品の饅頭屋は、更にその先だった。

「ここ?全然知らなかった」

『神社の先だから』

電車通学の学生は神社の所で大通りを渡るので、冷凍饅頭の和菓子屋のある界隈までは行かない、ということ。

「やだー、私ったらほんと、ただ駅と学校を往復してるだけ」

駅からというより家から、脇目もふらずに学校との間を往復しているだけの未央だった。電車の中だって、本や参考書から目を上げずに三十分の間をやり過ごしているのである。

普通の高校生は、もっと色んなことに興味を持つものなのかな。

と、未央は思った。今隣にいる「普通の高校生代表」がかなり変わった男の子なのがおかしいが。

彼はまた、何かを紙に書き込んだ。

『この間 歌ってたでしょ ここで』

「えっ」

その通りだった。数週間前、未央は帰り際に貧血を起こしたのだった。そしてここまで歩いたところで気分の悪さが限界に達し、このベンチに座り込んだ。沢山の生徒が通りすぎて行ったが、誰も未央のことをかえりみることはなかった。

確か、今頃の時刻だ。誰も通らなくなったので、未央は気をまぎらわすために小さな声で歌をうたった。ところが、未央が気づいていなかっただけで、近くを男子生徒の一団が通りすぎようとしていたのだ。

「田中さーん、さようならー!」

一人の男子がそう言って手を振ってきたので、死ぬほど恥ずかしくなったのだった。

「いたの?」

『いたよ』

「私ってほんと視野が狭いね。全然気付かなかった。あのね、貧血で元気が出ない時に歌うの。歌うと、息を吸うときに酸素をいっぱい取り入れるから、気分が良くなるんだと思う。身体中に酸素が行き渡って」

なるほど、という風に百鬼丸は深く頷いた。

「そういえば、何であの時醍醐君もいたの?あの時も部活サボり?」

百鬼丸はまた頷いた。

「へぇ……」

訊いてはみたものの、リアクション下手の自覚がある未央は、どう反応をしたらいいのかよくわからない。彼がサボり魔なことを気安くからかったらいいのか。さっき彼が未央を『まんじゅ』でからかったみたいに。すると百鬼丸はまた自由画帳に書いた。

『部活もうやめる』

「どうして?」

彼が道着姿で竹刀を振るっているところを一度見てみたいな、と思った未央だった。見目麗しい彼である。きっとキマッているにちがいない。

『眠いし、理不尽』

「理不尽……」

百鬼丸は自由画帳とデイパックをベンチに置くと、指を組んで手首を回しながら歩道の真ん中に出た。そして竹刀を構えるふりをすると『見てて』と未央に目配せした。

彼は見えない敵に向かって狙いを定めるように前後に動き、

ダンッ!

強く踏み込み、

『面!!』

声には出さないが気合いを発し、面を打ち込んで走り抜けると、くるっと踵を反して残心した。

未央がパチパチと拍手をすると、百鬼丸はピッと旗を上げる動作をした。

「一本入ったってことね」

百鬼丸はにこっと笑った。そしてまた元の位置に戻り、構える。

見えない敵を目の前にしている、というのは雰囲気でわかるが、今度は前後に動く事なく、じっと正眼に構えて正面を見据えているだけだ。と、

ひゅっ

と、未央の目の前を風が吹き抜けた。気付くと百鬼丸はもうさっきのように残心をしている。無音で、見えないほどの素早さで、面を打ち込んだのだ。未央は思わず立ち上がって拍手をした。

「すごーい」

だが百鬼丸はサッと旗を降ろす仕草をし、首を横に振った。

「それは一本にならないっていうこと?」

『うん』

未央は顎に手を当てて少し考えた。

「そうか、音と、声」

『ご明察』

「それが理不尽ってことことなのね」

『そういう事』

彼はデイパックを背負い、自由画帳を取り上げた。

『でも早く帰れるのはいいこと』

「そうだね」

『みおと歩ける』

「えっ」

知らないうちに、名前まで覚えられていたとは。入学以来、極力目立たないように、自分は空気だと言い聞かせて学校生活を送っていたというのに、一体どういう事か。思えば、うたっているのを聴かれたときだって、クラスメートとおぼしき男子はちゃんとみおを苗字で読んだではないか。未央の方は、クラスメートの名前をいまだに殆ど覚えていないのに。

『みおは面白い名前だよね』

「なんで?普通だと思うけど」

百鬼丸は続けて縦書きで書いた。

『田中未央』

矢印を引いて、

『ぜんぶ、左右対称』


そう言われてみれば。そんなの十六年生きてきて、一度も気にした事がなかった。


百鬼丸は自由画帳を閉じ、未央の鞄を持って歩き出した。そして数歩歩いたところで立ち止まり、行こう、と未央を促した。
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