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ひつじ雲




丸々と太った羊の様な雲の群れが、青い空をむくむくと横切っていく。

美という文字は羊が大きいと書く。昔の人は随分と食い意地が張っていたんだね。

などという、人間界に人間のふりをして住む旧友がある時言った冗談を思い出しつつ、飛影は痴呆老人の様な顔付きで、ぼんやりと空を見上げていた。

良い具合な斜めと平さ加減で昼寝にうってつけだろうと登った岩は本当に寝心地がよく。日光に程よく暖められてぽかぽかしており、思考の纏まりを奪うのだった。

まるで人間界の様に平和な空である。否あそこ以上に平和だ。あちらの空には、時折キィンと切り裂くような物騒な音を立てて、戦闘機が横切る。そういった僅かながらの緊張感ですら、この空には無かった。

こんな気の抜けた空の下が魔界か。

幼い頃にまさに必死で生き抜いた殺伐とした世界とはまるで別物である。あの頃は生と死が隣り合わせなのが世界の当然の理だと思っていたのに、どうだ?

勿論、なぜこんなにも世界が違って見えるのか、理由は分かっている。自分が強くなり、また、強い奴等しか周りに居ないからである。

似たような長閑な空間を幼い頃に一度だけ経験した事があって、それは時雨の住まいに居候していた時の事だった。鬱蒼とした森の奥に時雨の住処はあったのだが、奴の強さを怖れて並大抵の妖怪は近付かず、虫や植物さえも、奴を逆撫でしない様に慎ましく行儀よく、ただの虫、ただの草然として大人しくしていたのである。

強い妖怪が一匹居るだけでも、その様に変わるのが魔界なのだった。

飛影が昼寝している丘のすぐ側には屈強の戦士達をわんさか乗せた移動要塞百足が鎮座しているのである。

そりゃ、誰も寄って来ない。

恐るべき武力によってもたらされた仮初めの平和。否、ここ魔界に於いては平和とは強者のみが享受することを許されるものなのである。

糞みたいに忙しい子供時代を過ごしていたのは、所詮自分が弱小妖怪だったからであって、あの頃に自分が見ていたのは魔界のほんの一面に過ぎなかったのだ。

「躯様!!」

響き渡る奇淋の怒声が、長閑な昼下がりを掻き乱した。

飛影は伸びきっていた身体を45度転がして片肘をついた。眼下には百足が横たわり、その脇を大荷物を抱えた躯がスタスタと歩き、その大分後方から奇淋が走って彼女を追い掛けている。

「何をしていらっしゃるんですか!」

「なにって、」

広場に数本立っている木の側までやって来て重そうな荷物を地面に降ろし、躯は腰に両手を当てて奇淋を見た。

「見りゃ分かるだろ。洗濯だ」

「そんな」


奇淋も立ち止まりげんなりした様子で絶句した。

木々の幹にはロープが渡してある。そこに持ってきた洗濯物を干そうという訳である。ロープ張りをさせられたのは飛影だった。

「洗濯ならば洗濯室に出しておけば全自動で仕上がって来るでしょうに。何で態々自ら好き好んで奴隷みたいな真似をなさるのか」

『奴隷みたいな』とは、かつての躯の前で口走っていたなら瞬時にミンチにされていた事だろう。奇淋もまた、以前ならそんな不用意発言はしなかったのでは。

否、もしかすると奇淋は長く躯の下に仕えていながら案外、彼女の出自を知らないのかもしれない。

飛影は欠伸をしながら二人の様子を眺めた。

「奴隷仕事?ただ自分の身の回りの事をするのが?」

躯が言い返した。ムッとして口を尖らせている様子が、子供みたいで可愛らしかった。

飛影は奇淋の奴に同感だった。暇は暇なりに過ごせば良いものを、彼女は最近家事掃除に凝っていて、暇さえあればあくせくと何かをしているのだった。

小綺麗になるかと思えば却って余計な物が増えている。彼女の部屋には、お便利掃除用品やら、瓶詰めのジャムやら、書類を小分けする為のクリアファイルやらが、整然と並び埃一つ被っていないものの、確実に場所を取っており、しかも日々着々とその版図を広げているのだった。

あの女は生活をを複雑化する天才だな。

そう思って飛影はフンと鼻を鳴らした。

奴隷みたいなという奇淋の喩えはあながち間違っていない。何かに駆られていないと落ち着かないのが、きっと彼女の性分なのだ。

躯は飛影の張ったロープに洗濯物をを干し始め、奇淋はそれを手伝うべく洗濯物の山に手を伸ばした。

「馬鹿が。」

だが可愛いから許す。

飛影はうーんと背伸びをすると、再び岩肌に寝転がってうつらうつらし始めた。

(おわり)

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